――とんとん。
「いつまでそうしてるの」
ノックされたきみは、瞼をひらいておおきな瞳をしばたかせる。そのさきにはなにひとつない、まっさらな闇。歩道橋のてっぺんを照らす蛍光灯はほとんど切れていて、わたしはきみの従順な横顔をいつもよりまっすぐ見つめられる。
「だって、新月だから」
きみはためらいがちに言った。
「いつもそうやって言うけど、願い事って弱い人間がすることだよ」
わたしはそう言っておおきく伸びをして、肩や背中をぱきぱき鳴らした。月が高い。
たっぷり日に焼けた互いの肌はほとんど闇に溶けていて、距離がよくつかめない。頭上でほどいた手をぶらんと無責任に下げると、きみの手に触れた。熱がまわる。
きみは欄干に寄りかかって、深くうつむいた。夜風が横切る。顎下で揃えられたきみの髪がさらり揺れて、シトラスのデオドラントが四方に散った。
「……そっちはないの? 願いたくなるような、そういうこと」
すこし不機嫌そうに訊いたきみに、わたしは
「願ったって、どうしようもないよ」
低い声でつぶやいた。
そう、これはどうしようもない。
もうすぐ何千キロと離れた地で暮らすのも、きみと最後の大会に出られないのも、どうしようもない。親の庇護のもとに生きるわたしは、どうしようもなく無力だ。
みるみる萎んでいく気持ちを蹴飛ばしたくて、わたしはきみに訊いた。
「そっちこそ、いつもそんなになにを願ってるの?」
「それは……」
「おしえてよ」
「やっ、やだよ……」
「いいじゃない。こういうのって、ひとに話したほうが実現するんだよ」
「えっ、そうなの? 逆じゃないの?」
焦って顔をあげた無垢なきみに、
「そうだよ」
わたしはにっこり嘘をつく。
きみは引き結んだ唇をぐすぐずさせて、歩道橋を何歩か歩いた。最初はちいさく、だんだんおおきく。
そしてくるりと身を翻し、スカートの裾が闇に完璧な弧を描いて、わたしは絶望した。
きみの新月から、わたしは消える。
わたしはもう、きみからいなくなる。
心臓が抜け落ちたように、からだが停止した。濡れた眼球を夜気が撫でる。
「どうかした?」
「……ううん。なんでもない。で、願いごとは?」
きみは下弦の月の目をして、たっぷりほほ笑んだ。これまでに見たことのない、とびきりの笑顔。
だけどそれは、わたしの知らないおんなのこの顔だった。
「アメリカに行くのなんか中止になっちゃえって、なんどもなんどもなんども呪いみたいに願ったよ」
あまりにも清々しく言われ、面食らう。なんて爽快な呪いだろう。
「でもね、いまは違うんだよ」
「違うって……。じゃあ、なに?」
「いまは、ぼくがすごーい陸上選手になって、海外の大会なんかにもでちゃって。そういう姿が何千キロさきまで届きますように、すこしでも近いところに行けますようにって願ってるよ。ライバルはたくさんいるし、簡単なことじゃないのはわかってるけど。ねえ、笑わないで聞いてね……。願うって、誓うことなんだよ。がんばろうって、じぶんにゆびきりするために願うんだよ」
地を蹴り、風をきり、魂を削るようにグラウンドを走るきみの姿を思い起こす。胸を刺す痛みは棘のように鋭く、哀しいほどあたたかくて。
返す言葉に詰まっていると、きみは蛇口をひねったみたいにぼろぼろぼろぼろ泣きだした。全身で泣いていた。わたしはそれを両手いっぱいに抱きしめた。
子どもみたいだね。きみが笑う。赤ちゃんだよ。わたしが笑う。
やがて夏を纏ったきみの腕が、わたしの背中をつつんだ。
――わたしたち、いま、満月のなかにいるね。
きみがつくった満月にわたしが、わたしがつくった満月にきみが。
答え合わせのように目を合わせ、ふたりでふふっと笑みをこぼした。
そうして嗚咽の止んだきみは、涙で濡れた頬をむき出しにしたまま、わたしに言った。
「むこうで……。すきなひととか、彼氏とか。そういうひとができたら、いちばんにおしえて。だれよりも、さきに」
「わかった。いちばんに、おしえる。そっちも、なにかあったらおしえて。わたしに、いちばんに」
「うん。そうする。彼氏なんて、できる気しないけど」
「……そんなことない。できるよ、きっと」
きみは陽だまりみたいにはにかんだ。
かすかな痛みを感じながら、わたしたちの関係はなんだったのだろうと自問する。
この形容しきれない関係は、これからさきどうなるだろう。きみはだれとこうして新月をむかえるだろう。
「なんだか元気ないけど、どうしたの?」
そう言って顔を覗き込んでくるきみは残酷に無邪気で、だからわたしは
「なんでもない」
ときみを守る。そうやって今夜もきみに嘘をつく。
満ちたり、欠けたりを繰り返しながら、いつかわたしたちはまったくべつのものになってしまうのかもしれない。さきのことは、わからない。
それでも願わずにはいられない。
だって、新月だから。
――いってらっしゃい。
新月よりもつよく、シトラスが薫った。
――了――
「いつまでそうしてるの」
ノックされたきみは、瞼をひらいておおきな瞳をしばたかせる。そのさきにはなにひとつない、まっさらな闇。歩道橋のてっぺんを照らす蛍光灯はほとんど切れていて、わたしはきみの従順な横顔をいつもよりまっすぐ見つめられる。
「だって、新月だから」
きみはためらいがちに言った。
「いつもそうやって言うけど、願い事って弱い人間がすることだよ」
わたしはそう言っておおきく伸びをして、肩や背中をぱきぱき鳴らした。月が高い。
たっぷり日に焼けた互いの肌はほとんど闇に溶けていて、距離がよくつかめない。頭上でほどいた手をぶらんと無責任に下げると、きみの手に触れた。熱がまわる。
きみは欄干に寄りかかって、深くうつむいた。夜風が横切る。顎下で揃えられたきみの髪がさらり揺れて、シトラスのデオドラントが四方に散った。
「……そっちはないの? 願いたくなるような、そういうこと」
すこし不機嫌そうに訊いたきみに、わたしは
「願ったって、どうしようもないよ」
低い声でつぶやいた。
そう、これはどうしようもない。
もうすぐ何千キロと離れた地で暮らすのも、きみと最後の大会に出られないのも、どうしようもない。親の庇護のもとに生きるわたしは、どうしようもなく無力だ。
みるみる萎んでいく気持ちを蹴飛ばしたくて、わたしはきみに訊いた。
「そっちこそ、いつもそんなになにを願ってるの?」
「それは……」
「おしえてよ」
「やっ、やだよ……」
「いいじゃない。こういうのって、ひとに話したほうが実現するんだよ」
「えっ、そうなの? 逆じゃないの?」
焦って顔をあげた無垢なきみに、
「そうだよ」
わたしはにっこり嘘をつく。
きみは引き結んだ唇をぐすぐずさせて、歩道橋を何歩か歩いた。最初はちいさく、だんだんおおきく。
そしてくるりと身を翻し、スカートの裾が闇に完璧な弧を描いて、わたしは絶望した。
きみの新月から、わたしは消える。
わたしはもう、きみからいなくなる。
心臓が抜け落ちたように、からだが停止した。濡れた眼球を夜気が撫でる。
「どうかした?」
「……ううん。なんでもない。で、願いごとは?」
きみは下弦の月の目をして、たっぷりほほ笑んだ。これまでに見たことのない、とびきりの笑顔。
だけどそれは、わたしの知らないおんなのこの顔だった。
「アメリカに行くのなんか中止になっちゃえって、なんどもなんどもなんども呪いみたいに願ったよ」
あまりにも清々しく言われ、面食らう。なんて爽快な呪いだろう。
「でもね、いまは違うんだよ」
「違うって……。じゃあ、なに?」
「いまは、ぼくがすごーい陸上選手になって、海外の大会なんかにもでちゃって。そういう姿が何千キロさきまで届きますように、すこしでも近いところに行けますようにって願ってるよ。ライバルはたくさんいるし、簡単なことじゃないのはわかってるけど。ねえ、笑わないで聞いてね……。願うって、誓うことなんだよ。がんばろうって、じぶんにゆびきりするために願うんだよ」
地を蹴り、風をきり、魂を削るようにグラウンドを走るきみの姿を思い起こす。胸を刺す痛みは棘のように鋭く、哀しいほどあたたかくて。
返す言葉に詰まっていると、きみは蛇口をひねったみたいにぼろぼろぼろぼろ泣きだした。全身で泣いていた。わたしはそれを両手いっぱいに抱きしめた。
子どもみたいだね。きみが笑う。赤ちゃんだよ。わたしが笑う。
やがて夏を纏ったきみの腕が、わたしの背中をつつんだ。
――わたしたち、いま、満月のなかにいるね。
きみがつくった満月にわたしが、わたしがつくった満月にきみが。
答え合わせのように目を合わせ、ふたりでふふっと笑みをこぼした。
そうして嗚咽の止んだきみは、涙で濡れた頬をむき出しにしたまま、わたしに言った。
「むこうで……。すきなひととか、彼氏とか。そういうひとができたら、いちばんにおしえて。だれよりも、さきに」
「わかった。いちばんに、おしえる。そっちも、なにかあったらおしえて。わたしに、いちばんに」
「うん。そうする。彼氏なんて、できる気しないけど」
「……そんなことない。できるよ、きっと」
きみは陽だまりみたいにはにかんだ。
かすかな痛みを感じながら、わたしたちの関係はなんだったのだろうと自問する。
この形容しきれない関係は、これからさきどうなるだろう。きみはだれとこうして新月をむかえるだろう。
「なんだか元気ないけど、どうしたの?」
そう言って顔を覗き込んでくるきみは残酷に無邪気で、だからわたしは
「なんでもない」
ときみを守る。そうやって今夜もきみに嘘をつく。
満ちたり、欠けたりを繰り返しながら、いつかわたしたちはまったくべつのものになってしまうのかもしれない。さきのことは、わからない。
それでも願わずにはいられない。
だって、新月だから。
――いってらっしゃい。
新月よりもつよく、シトラスが薫った。
――了――