楓人にプロポーズしたとき、わたしは確かに「姉のことが好きなままのあなたでいい。わたしのことを好きじゃなくていい」と言った。

 雨音が嗚咽すらもかき消すような、寒い夜のことだった。
 
 数時間前に姉から送られてきた「結婚することになりました」というメッセージが、容赦なく彼の柔い心を抉る。楓人は全身を羽毛布団の中に隠しながら、その痛みと闘っていた。羽毛布団の中心が小さく揺れ動くのを見て、わたしも堪らなく切なくなったことを覚えている。

「楓人」
 ただ名前を呼ぶだけで、その次の言葉が出てこない。いま自分が彼に何を伝えればいいのかが、こうやって彼の部屋に上がりこんでもなお、わからなかった。

 彼が大丈夫ではないことを、わたしは誰よりも理解していた。「大丈夫?」だなんて聞けるはずもない。

 彼の抱えるものとわたしが抱いてしまったものは、残酷なまでに同じだった。決して実ることのない恋心。わたしは姉に心を奪われ続ける楓人に恋をし、彼もまた恋人がいる姉に想いを寄せ続けていた。

 だから、という接続詞が通用するのかはわからない。ただ、だからわたしは楓人にそう告げたのだと思う。

「ねえ、楓人。わたしと結婚しよう」

 わたしたちは仲は良かったけれど、付き合ってはいなかった。それでも、その言葉こそがいま自分が伝えるべき唯一の言葉だと、そのときのわたしははっきり感じたのだ。

 羽毛布団の小さな振動が止まる。楓人の姿は見えなかったけれど、彼の全神経がわたしに向けられているということはわかった。

「楓人がどれだけお姉ちゃんのことを好きなのかはわかってる。あなたがいま、どれだけの絶望を抱えて、死にたいと思っているかも全部わかる」
 もし楓人の恋が実ってしまったら、わたしもそう感じるだろうから。

 アパートの横の大通りをトラックが通過した。バシャっと盛大に水がばら撒かれる音が部屋を襲う。大方、トラックが水溜りの上を通ったのだろう。

「わたしは楓人のことが好き。だから、あなたに壊れてほしくない。あなたがどれほど苦しんでいるかを理解してる上でこんなことを言うのは本当に残酷だと思うけど、それでも生きててほしい」
 カサっと、ベッドの上で何かが動く音がした。 

 わたしが楓人にきちんと自分の感情を伝えたのは、このときが初めてだった。いつだって姉の姿を追っていた彼は、わたしの寄せる想いになんて気づいてもいなかったのだろう。さっきの音は、恐らく彼の動揺の表れだった。

 わたしはベッドに近づき、その布団を剥いだ。楓人が赤くなった目をまん丸く見開いて、わたしを見つめる。涙と汗でぐちゃぐちゃになった顔に、髪の毛が張りついていた。

「わたしとお姉ちゃんって、本当によく似てるんだよ。年子だったから身長もそんなに変わらないし、昔は二人とも髪が長かったから、しょっちゅう双子に間違われたくらい」
 高校でテニス部に入って以降、姉の髪型はショートに落ち着いてしまったのだけれど。

「いまだって髪型が違うだけで、そこさえ変えてしまえばわたしとお姉ちゃんに外見上の違いなんてない」
 わたしはずっと右手に握っていたハサミを、彼の前に掲げた。楓人の顔に滲む戸惑いの気配が、一段と深くなる。

 左手で髪を適当に掴み、そこにハサミの刃を添えた。握りしめるように右手に力を入れる。ザクッと音がして、切られた髪がバラバラと床に散らばった。

 呆然と、楓人は黒く染められた床を見つめている。彼の視線がゆっくりと上がり、わたしの視線と交わる。彼の瞳から幾分か死の匂いが消えているのに気づき、なぜだか涙が込み上げた。

 わたしは三回に分けて、残っていた髪にも同じようにハサミを入れた。もちろん長さは均等にはならない。仕上がりはなんとも不恰好だった。それでも、そこに立つわたしは限りなく姉に近い外見をしていただろう。

 ベッドに右膝をついた。わたしから視線を逸らすだけで、楓人は動かなかった。きっと彼はこの瞬間に、この後に起こりうることに気づいていた。それでも抵抗しないことが、何よりの答えだった。

 わたしはじりじりと膝立ちで彼に詰め寄った。楓人はどれだけわたしが近づいてきてもその場から動かず、すぐにわたしたちの間にある距離はゼロになった。膝と膝がぶつかり、わたしはそこに腰を下ろした。

「お姉ちゃんのことが好きなままのあなたでいい。わたしのことを好きじゃなくていい」
 楓人の吐息を肌で感じる。
「わたしをお姉ちゃんだと思って」
 わたしたち姉妹は、本当によく似てるんだから。

「わたしのこと、好きにしていいよ」

 楓人の震える指先が伸びて、私の頬に触れた。氷みたいなその冷たさに小さく肩が上がる。目の前にいるわたしの存在を確かめるように、楓人は指でわたしの頬骨を、顎を、首筋をなぞった。そうして彼の手が後頭部に行きついて、わたしは彼のキスを受け止めた。

 彼の指先がわたしの身体の線を辿る。
 わたしは泣いた。こうやって肌で触れ合っていても、彼の中にいるのは姉だけで、わたしの姿なんて一ミリも入っていない。その事実が、身体で彼の指先の冷たさを感じるたびに胸を刺した。

 それなのに、いまこうして彼と触れ合えている現実にどうしようもなく喜んでしまっている自分がいる。わたしはこれから先、永遠にこんな薄汚れた幸せだけを感じながら生きていくのだろうか。
 でも、そう思っても、彼を好きだと思う気持ちを止めることはできなかった。

 わたしは泣いた。泣いているわたしを押し倒す楓人もまた泣いていた。わたしたちの抱える痛みは、きっと同じだった。