社屋を出るとたちどころに、うだるような八月の夜気が全身に纏わりつきました。
 毛穴という毛穴から噴き出してくる汗を拭いながら、私は家路を辿っていました。その道中、ふと思い立って進路を繁華街の方向に変更しました。相変わらず一片の雲もない空を眺めながら歩いていると、糸川さんのお店で冷たいビールを飲みたいなあ、という欲求が猛然と湧き上がってきたのです。黄金色の液体を浮上する無数の気泡をひとたび想像してしまうと、もはや理性の介入する余地などどこにもありません。
 週末の二十一時過ぎだというのに、繁華街のアーケードはとても閑散としていました。普段はもっと栄えた往来なのですが、今日に限ってはこの光景も一概に異様とは言えないのかもしれません。
 大通りから細い路地に曲がって少し歩くと、目的地である蕎麦酒房「糸川」が道沿いに見えてきます。シックな雰囲気の外装はいかにも大人の憩いの場という様相を呈しており、まるで隠れ家のような佇まいが世俗からの一時的な解放を感じさせてくれます。暖簾をくぐって引き戸を開けると、カウンターの向こうに店主の姿がありました。
「お久しぶりです、糸川さん」
「おお、菅良(すがら)ちゃん。いらっしゃい」
 満月のように丸いお顔に濃い髭を携えた口元を綻ばせて、店主の糸川さんは私をカウンター席に促しました。
 初めてここを訪れたのは、春に初任給をもらった日の夜でした。幼少期より「行きつけの居酒屋」という響きにただならぬ魅力を感じていた私は、社会人になったことで満を持して「行きつけの居酒屋」探しに乗り出したのです。仕事の帰りにいそいそと夜の街を練り歩き、数々の葛藤や紆余曲折を経て巡り合ったのがこの糸川さんでした。
 夫婦で営まれている個人居酒屋で、京都の蕎麦屋で長年研鑽を重ねてきたという糸川さんの手打ちそばがとても絶品なのです。奥様は大学で経営学を専攻されていたそうで、裏方全般の業務を担いながら店に立って糸川さんのお手伝いもされています。その献身的な働きぶりに、同じ女性として私は深く敬意を抱いていました。
 ただ今日は、その奥様の姿がどこにも見えません。
「今日はおひとりですか?」私は尋ねました。
「かみさんなら近所の連中と『緊急雨乞い祭り』に行ってるよ。街の奴らもそうだろうなあ、おかげで店はすっからかんだ」
 店内を見回すと、仕事帰りらしき男性二人組がテーブル席にいるだけであとは空席だらけです。私は糸川さんに向き直りました。
「やはり安田原(やすだはら)さんの影響でしょうか」
「まあ、だろうな」
「糸川さんは行かれないのですか」
「食指が微塵も動かないな。最近の歌手にはどうにも疎くてね。そんなにすごい奴なのか、安田原ってのは?」
「ええ、それはもう。現代音楽のアイコン的存在といっても過言ではないビッグミュージシャンです」
 糸川さんは不思議そうに唸りました。
「しかし謎だなあ。そんな著名人がどういう風の吹き回しで、こんな辺鄙な地方の祭りに出演する気になったのかね」
「ご出身がこのあたりだからじゃないでしょうか」
「へえ、そいつは初耳だ」
「私が通っていた高校の一つ下の学年に在籍していたそうです」
「えっ。じゃあ菅良ちゃん、もしかして面識があるのか?」
「いえいえ、まさか。そのことを知ったのも、彼がメジャーデビューして有名になってからですし。高校時代のチャットグループで話題になっていたので」
 お手拭きで手を拭きながら、私は職場で先輩方から仄聞した話をしました。
「今回の出演に関しても、運営委員会の方から依頼したわけではなく、彼の方から申し入れがあったという話を耳にしました。仕事ではなくボランティアとして、故郷の危機に何か力になれないかと」
「人情の厚い良い奴じゃないか。まだ若いのに人間ができている」
「ええ、本当にすごい方です。自分のことでてんやわんやな私とは大違いです」
 苦笑する私に、いやいや、と糸川さん。
「新卒一年目なんてそんなもんさ。こんな遅くまで働いて、菅良ちゃんはよくやってるよ」
 その言葉に私は嬉しくなりました。人情の厚さでは糸川さんも負けず劣りません。
 それから糸川さんはこちらに背を向けてお通しの準備に取りかかりました。銀鍋ののったコンロに火が点けられると、だし汁の甘い香りが漂ってきました。私は生ビールを注文してメニュー表を眺めていました。今日はたくさん汗をかいたのでさっぱりとスダチ蕎麦をいただきたいところですが、まずはお刺身からにしようと本日の魚をじっくり吟味していた時です。
「君は祭りに行かないのかい?」
 突然聞こえたその声に、私は反射的に顔を向けました。
 カウンター席の端の方に座った一人の女性がこちらを見返しています。目が合って、一瞬胸が高鳴りました。とにかく綺麗な方だったからです。端正な容姿に艶やかなブロンズの長髪がとてもよく似合っており、気品のある居住まいはどこか遠い国の貴族めいた優雅さを帯びていました。
 入店してから今の今まで、彼女の存在に全く気づきませんでした。いつからそこにいたのかも判然としません。私は内心驚きながら尋ねました。
「私、ですか?」
「そう、君。だって酷い話だとは思わないかい」
「と言いますと?」
「君のメンターは自分の仕事を君に押しつけて、早々に退社して祭りに向かっただろう。今頃は悠々と露店でも回りながら、安田原氏が登場する『男衆祈雨踊り』が始まるのを待っているに違いない。その怠惰の皺寄せを受けた君が、一人寂しく晩酌に興じようとしていることなんて想像もせずにさ」
「いえ、別に仕事を押しつけられたわけではありません」私は断固として否定しました。「先輩は少しでも早く私が一人前のキャリアウーマンになれるよう、あえて任せることにしたのだとおっしゃっていました」
「ふうん。まあ捉え方は人それぞれだけどね」
 少し遅れて、あれ、と私は首を傾げました。
「どうしてそのことを知っているのですか?」
「職業柄ね、他人のそういうことに敏感なのさ」
 占い師でもやられているのでしょうか。私はそのたぐいまれなる慧眼にいたく感服しました。きっと彼女のお店には託宣を求めた客人が連日ひきもきらずに押し寄せ、同業者たちの間でも広く名の通った高名なお方に違いありません。
「君は祭りに行くべきだと思うなあ」彼女の口振りには惜しむような響きがありました。「特に、祈雨踊りはぜひとも見物した方がいいのではないかな」
 その言葉に、私は自然と体を彼女の方に向けていました。
「差し支えなければ、そう思われる理由を教えていただけないでしょうか」
「かつて君が熱を上げていた『食堂の彼』が、男衆の踊り子として参加するそうだよ」
「……食堂の彼?」
 私は記憶を遡ってみましたが、いかんせん一見ちっぽけなこの頭にも二十二年余り分のライフログが蓄蔵されているのです。そう簡単に該当するものを引き出すことはできません。
「ほら。高校時代の一つ上の先輩で、恰幅の良い男子生徒がいただろう。君は一時期、昼休みになると彼の姿を見るために、いじらしくも一人で食堂に通っていたはずだ」
 あっ、と思わず声が漏れました。
 そうでした。一言一句、彼女の言う通りです。
 高校二年生だったある日、私は友人の付き添いで食堂を訪れました。その時、偶然にも視界に飛び込んできたのです。多幸感に満ちた面差しでオムライスを頬張る「食堂の彼」の姿が。
 とある人類学者の一説によると、人間は自分の母親に似た異性に恋愛感情を発芽しやすい傾向にあるそうですが、なるほど、それは実に言い得て妙な着眼であると思います。思い返せば、彼の美味しそうに食事をする姿には、どこか母に似たものがあったようにも感じます。
 それから私はしばらく、昼休みを食堂で過ごすようになりました。友人は人混みがあまり得意でないとのことでしたので、私は単身窓際の席を陣取ってお弁当を食べながら、時折彼の方に目を向けました。七福神の一角を担えそうなふくよかな体躯と柔和な表情を眺めていると、とても温かい気持ちになったのです。
 だから、少し後になってから彼に恋人がいることが判明した時には、相当なショックを受けたものです。
 ただしあの悲しみは断じて、失恋ではないのです。全国津々浦々の恋する乙女たちの前で胸を張ってあれを失恋だったと主張できるほど、私は恥知らずではありません。声の一つもかける勇気さえ奮い立たせず、むしろいつか彼の方から声をかけてくれるのではないかと夢想していた愚かな身でありながら、どうして日々懸命に戦っている彼女らと肩を並べられたと言えましょうか。言っていいはずがありません。
 そうして結局彼の名前も知らぬまま、私の恋愛でない何かはあえなく霧散したのでした。
「ほろ苦い青春の思い出を払拭する、またとない機会なのではないかな」
 その声に私は我に返りました。
 改めて彼女を見ると、底知れぬ謎に満ちた双眸が真っすぐこちらを見返しています。一体全体あの美しい眼は、どこまで私を見透しているのでしょう。
「でも今さらお会いして、私は何をすればいいのでしょうか」
「行動する前にあれこれ考えるのは野暮というものだよ。なに、なるようになるさ」
「おいおい真城さん、またうちの客に変なこと吹き込まないでくれよ」
 私の前にビールと小皿を置きながら糸川さんが口を挟みました。今日のお通しはタコと大根の煮物です。
「人聞きが悪いね、店主さん。私は彼女が知るべき可能性を示しているだけだよ。勤勉な人間には、然るべき幸福が訪れてほしいとは思わないかい」
「相変わらずわけのわからないことを言うな、あんたは」
 私は黙々とタコ足を頬張りながら、壁掛け時計に目をやりました。時刻は二十一時半を回ったあたりです。
 祭りのメイン会場である神社はここからかなりの距離があり、「男衆祈雨踊り」の開始は二十二時ちょうど。歩いて行くには果てしなく遠く、運行数の少ない電車とバスを乗り継いでも到着する頃には、きっと踊りは終わっていることでしょう。
 そんな私の心中を察したように、真城さんは鍵を差し出してきました。
「ほら、これを貸してあげよう」
 深く考えずに私がそれを受け取ると、「代わりにそれをもらうよ。これは今しがた、君にとっての猛毒になったからね」と真城さんは私のビールジョッキを掴んで豪快に煽りました。そのまま一気呵成に飲み干すと、まるで何事もなかったように平然と言うのです。
「日付が変わるまでには帰ってきた方がいい、とだけ言っておくよ」