これが聖職者としてあるべき姿かと問われれば、間違いなくノーだ。母校での教育実習の最終日前夜、担当教諭の鮫原先生のマンションを訪れ、シャワーを浴びる。
 壁の時計は午前零時をさしている。母親の世代で流行った小さな水玉模様をあしらった上品な紺色のワンピースに着替え、慣れない化粧をして、先生の着せ替え人形になる。憂いを帯びた美しい瞳と見つめ合うだけで世界が無音になる。
「鮫原先生……」
 ふたりきりの空間で呼ぶその響きは背徳的だった。
「センセイ……」
 学校では見せない表情の鮫原先生に呼ばれ、立ったまま抱きしめ合う。布団の中で抱きしめ合う。この夜が永遠に続いてほしいと願う。

 鮫原先生は生徒にはすこぶる優しいが、教育実習生には毎年厳しい。これを恩師の錦先生から事前に聞いていなければきっと心が折れていた。
「犬宮先生は教師に向いていませんね」
 初対面でそう言い放った人間に恋をするだなんてどうかしている。それでも好きになってしまったのだから仕方がない。鮫原先生の生徒を見守る眼差しがあまりに美しかったから。
 一流国立大学卒で父親は数年前に上場した鳥取のベンチャー企業サメハラ電機の若き創業者。授業は分かりやすく、生徒からの人望は厚い。丁寧な口調と真摯な態度から、保護者からの信頼も絶大なものだ。大して偏差値の高くない自称進学校にはもったいないほどのカリスマ教師だ。
 人として、教師としての尊敬心と、淡い恋心の境界線は非常に曖昧だが、とにかく鮫原先生の全てに心を奪われた。
「なぜ教師になりたいのですか?」
 全てを見透かすような冷たい目で見つめられて質問をされた。
「学校が楽しかったからです」
 いつもこう答えてきた。学校にしか居場所がなかったことをオブラートに包んで伝えるとこうなる。
 なまじ実家が裕福だと、多少家庭環境が複雑でも弱音を吐けば甘えだと言われてしまうのが怖かった。物心つく前に両親は離婚した。実母にそっくりらしい顔立ちのせいで父の後妻に良く思われていない。七歳年下の異母弟には実母に捨てられた子だと見下されている。実母は離婚後しばらくして亡くなったと随分経ってから聞かされた。
 別れた女の子供より跡取りの弟の方が大事なようで、父からも邪険にされた。しかし、中高大と私立に通わせてもらい、大学院まで入れてもらえたのだから贅沢は言えなかった。世間から見れば“自由にさせてくれるいい親御さん”なのだから。

 愛されなくてもせめて嫌われないように人の顔色をうかがうことは生きていくうえでの必須スキルだった。お気楽キャラを演じていれば、のびのびした校風の中では何とかやってこられた。
 学部の頃に就活も考えたが、面接はことごとく失敗した。親との関係もまともに築けないのに、知らない大人とうまくいくわけがなかった。途方に暮れて中高の恩師である錦先生に相談しようと思ったところで、母校にならば居場所があると気付き、大学院に進学した後に教師になる道を選んだ。
「教師という職業を舐めていませんか?」
 もしかしたら、こうして誰かに叱ってほしかったのかもしれない。
「はっきり言ってくれてありがとうございます」

 全てのきっかけは、今日の昼休みに在学中から続いているミスコンのクラス代表とその友達が衣装を吟味している現場に居合わせたことだった。
「犬っち可愛いし、これ似合うっしょ」
 深夜アニメのコスプレ衣装を突き付けられた。精神年齢が体に追い付いていないと言われればそれまでだが、生徒たちからは犬っちという愛称をもらい、友達のように慕われていた。悪く言えばなめられていたため、生徒たちの悪ノリに巻き込まれてしまった。在学中もこうして半ば無理やり祭り上げられてミスコンに出場させられたことを思い出した。
「いやいや、さすがにきついって!」
「またまたー、謙遜するなって! 錦先生から聞いたぞー、犬っちが元準ミスだって!」
「それ、七年前の話! 今はもう無理だって!」
 押しに弱いのはいつものことで、結局ピンク色のロングヘアのウィッグを被され、犯罪急に短いスカートのセーラー服を着せられた。
「アリよりのアリ! よっ、元準ミス犬宮光!」
 ガラガラと教室のドアが開いて、鮫原先生が入って来た。よりにもよって一番見られたくない相手と目が合ってしまった。顔から火が出るとはまさにこのことだ。
「鮫ちゃん、犬っち可愛くない?」
「違うんです、鮫原先生!」
 何も違わないのだが、いい年をして恥ずかしくないんですかと軽蔑されるのが怖くて弁解を試みた。鮫原先生はポーカーフェイスを崩して心底驚いたような顔をしていた。しかし、直後に言われたのはあまりにも意外な言葉だった。
「あまり犬宮先生を困らせてはいけませんよ。それと、いいんじゃないですか、似合っていると思いますよ」
 初めて褒められ放心した。生徒たちの沸き立つ声が遠く聞こえた。

 放課後、鮫原先生は最後まで職員室に残っていた。教育実習のレポートを提出しようとすると、ほかには誰もいなかった。
「犬宮先生、元準ミスだったんですね」
 コスプレの話を蒸し返され激しく動揺した。
「お見苦しくてすみませんでした!」
「どうして謝るんですか? 似合っていたのに」
 鮫原先生は厳しいが、生徒の前で実習生を叱ることはしない。だから誉め言葉もリップサービスだと思っていた。二人きりでそんなことを言われれば、心臓が高鳴る。
「そういうこと言われると、勘違いしちゃいますよ」
 赤面したまま、ろくに鮫原先生の顔も見られずに言う。鮫原先生は、困惑も幼い恋心も全部見透かしたように唐突に耳元で囁いた。
「光」
 下の名前を呼ばれた。脳をわしづかみにされ、心臓をゆさぶられるような感覚が襲った。
「うちに来ませんか」
 あまりに刺激的な誘いだった。
 鮫原先生は家までの道のりで、初めて自分の話をしてくれた。教師になろうと思った理由は小中学校の時の恩師が素晴らしい人だったからだそうだ。

 勇気を出して先生の部屋まで来た。しかし、着替える前は光と呼んでくれたのに、着替えた後はセンセイとしか呼んでくれない。
「センセイ」
 生徒に対する慈愛とも、他の教師たちに対してどこか壁を作ったような態度とも違う口調。こうしているときが一番素の鮫原先生なのではないかと勝手に思った。
 先生に恋愛感情があるのかはわからない。寝る前に抱きしめられると安心してよく眠れる。それだけの理由で今日部屋に呼ばれた。先生の望む格好をして、先生を抱きしめる。この関係が一夜限りで終わってしまうことがとても寂しい。どうしてもそれ以上を望んでしまう。
「あの……どうしたらもっとよく眠れますかね?」
 口をついたのはあまりに間抜けで情けない言葉だった。初を通り越して幼稚な振る舞いを笑われるかと思ったが、先生ははにかんだ様子で答えた。
「子守唄、歌ってほしい」
 教壇に立つ凛とした姿とのギャップにまた胸がときめいた。
「いくらでも歌うんですけど、その代わりに、下の名前で呼んでもいいですか」
「うん。呼んで、何度でも」
 どさくさにまぎれて提示した交換条件を飲んでもらえたのは奇跡のようなものだった。舞い上がりそうになりながらも、緊張をおさえて「きらきら星」のメロディにのせて子守唄を歌う。
「羊が二匹 並んで眠る
柵を飛び越え 疲れて眠る
羊が二匹 おやすみなさい」
 インターネットで検索しても出てこないし、小学校の友達にも変だと言われた子守唄だが、これしか知らないので仕方がない。先生の頭を撫でながら心をこめて歌う。
 その声に呼応するように腕の中で先生が震えた。胸に顔を押し付けられ、腰に回された手に力が入っている。歌い終わった瞬間、先生は震える声で呟いた。
「もう一回、お願い」
 その声に、理性の糸が切れた。
「唯華さん……!」
 僕はカツラを脱ぎ捨てた。起き上がって先生に覆いかぶさり、キスをしようとして、顔を近づける。言おう、好きだと。恋人としてこれからもずっと一緒にいたいと。

 バチン、と突然鋭い音がして頬に痛みが走った。ビンタをされたことに気づく。
「離れてよ、気持ち悪い」
 あっけにとられている間に、思いきり突き飛ばされた。先生はかつてないほどに冷たい目で、尻餅をついた僕を睨んでいる。
「男性の貴方に用はありません。出ていきなさい」
 氷水を浴びせられたような気分だった。ほんの数秒前まで告白をしようとしていたのに、口をパクパクすることしかできなかった。
「あの、ごめんなさい……」
「出ていきなさいと言ったのが聞こえませんでしたか? 警察を呼びますよ」
 言い訳一つ許されなかった。女装姿のまま転がるように逃げ出した。マンションの廊下にへたりこんで、壁にもたれかかる。僕だけが浮かれていたのだろうか。