俺の脳内天秤よ、頑張れ。
理性対欲求のワンナイト葛藤バトルに負けてはダメだ。
仕事終わりに憧れの先輩と居酒屋に入ってから、早くも数時間だ。
俺に残された理性ポイントは現在60といったところかな。
この数値が0になり脳内天秤が欲求に完全に傾いたとしたら、明日からの世界は一変するだろう。
それが良い方向か、それとも悪い方向か。
そんなことは24年間の人生経験上、もう分かっている。
そう、碌なことにはならない。もつれて気まずい関係になる確率が極めて高いだろう。
中指でメガネをかけ直し、俺は
「先輩、俺たちは飲み過ぎかもしれませんね。そろそろ帰りましょうか?」
理性的に先輩へ、そう提案した。
我ながら、紳士的な振る舞いだったと思う。
「えぇ〜。帰るの? 私をどこに帰しちゃうつもりなのかな?」
「どこにって……。え?」
「どこに、帰したいのかな?」
理性ポイント、マイナス5。
欲求ポイントは45にまで上がってきた。
俺の前の席へ座る先輩が、まっすぐ潤んだ瞳を向けてくる。まるで試すかのように。
え、今のってさ……。
やっぱり、俺のこと誘ってるのかな?
お持ち帰り、望んでるような発言だったよね?
いや、待て。落ち着け。
先輩に好きと言われたわけでもない。交際してるわけでもない。俺から交際してくださいと言ったわけでもない。
仕事終わり、たまたま二人で飲もうかという話になった。まだ、それだけの関係だ。
このまま酔った勢いでワンナイトを持ち掛けてしまえば、明日から社内で先輩と気まずくなるかもしれない。
そうだ、頑張れ俺の理性。
偉大なる哲学者、マルクス・アウレリウス先生は仰った。
幸福というテーマの中で、欲求を追い求めるように設計された人間だが、欲を満たしたところで、幸福になれるとは限らないのだ、と。
脳内の天秤を理性で傾けろ。
俺の目指す幸福は、どこにある?
10代の快楽に脳を支配された子供じゃないんだ。
社会での立ち位置や関係性、失うものだって多い。
俺たちはアルコールだって入っている。冷静になったとき、不同意だったという罠もあるかもしれない。
そうだ。ここまで文明を発展させてきた人間は、社会的動物だ。リスクとリターン、先々の関係性まで考えて行動しろ!
理想を思い描け、現実的な思考回路を全力で駆け巡らせろ!
「……俺は、先輩と明日からも笑って過ごせる日々を目指したいです」
「ん? 私を帰さないぞ〜ってこと?」
「こ、ここで俺が短絡的な行動をして、先輩に信用されなくなるのが怖いって話ですよ!」
「……ふぅ〜ん」
少しだけ目を見開き、先輩はジョッキに入ったお酒をマドラーでカラカラ音を立て回し始めた。
これは、どういうことを考えてる態度だ⁉︎
意気地なしと思われたのか、誠実と思われたのか……。
分からない。男女の脳の違いは、脳科学で学んではいた。それでも、男の俺には理解ができない!
目の前にあったチャンスを逃したのか。それとも、正解を手繰り寄せたのか。
いや、未来は偉大なる哲学者たちですら詠めないと明言していた。
俺の行動が正解かどうかなんて、明日以降にならなければ分からないんだ。
今は、俺の理性を褒めてやろう。
「私、ちょっとトイレ行ってくるね」
席を立った先輩の背を見送り、一気に理性ポイントが上がる。
天秤が理性的紳士寄りに傾くのを感じた。
「ふぅ……。さようなら、動物的欲求。現在の俺の理性ポイントは、70ポイントぐらいだな。いいんだ、これで……」
憧れの先輩と、やっとお酒を飲む機会がもらえたんだ。
入社したときから、ずっと気が付けば目で追ってしまっていた。
わずか数年早く産まれただけの先輩が、俺よりビシッと仕事をこなす姿が格好良くて、そして美しくて……。
そんな先輩から、お酒を飲もうと言ってもらえただけで急接近なんだ。
自分の気持ちすら、俺は分からない。
それなのに、俗物的な考えで憧れの先輩を汚すような考え……。ダメだろう。
「お互いに本当に好きなら、関係を急いで気不味くなるリスクを抱える必要はない。まして、ワンナイトのお持ち帰りなんて……。もっての外だ」
偉大なる哲学者、プラトン先生は仰った。
自分に打ち勝つことが、もっとも偉大な勝利である……と。
考えろ。この場における、俺の勝利とはなんだ? 俺は、この果てに何を望む?
俺は……。先輩とワンナイトラブなんかで、今まで積み上げてきた関係を壊したくない。
もっと互いの気持ちを確かめ合いながら、しっかりと後悔しない恋愛相手になりたいんだ。
だったら今日は、暴走のような欲望に身を委ねちゃダメだろう。
「……そう、だよな。明日以降にゆっくり距離と気持ちを育めばーー」
「ーー何を育むのかな? それ、私とだよね?」
「せ、先輩⁉︎ いつの間に⁉︎」
いつの間にか、先輩がトイレから戻ってきていた。
居酒屋の酔っぱらいたちの喧騒がしていたとはいえ、近づく気配に気づかないとは不覚だ。
というか、だ。
「な、何で俺の横に座るんですか⁉︎」
「ん〜何となくかなぁ。なんかさ、疲れたときに感じる人肌の温もりっていいよね?」
「分かります」
凄い分かるけど、分かっちゃダメなんだよ……。
俺たち、どういう関係なんですか?
先輩は、俺のことを一夜の遊び相手としてしか見てないんですか?
こんな、あやふやな関係のままで……分からせないでくださいよ。
無自覚、なのだろうか。この先輩は、実は小悪魔なのかもしれない。
仕事中のキチっとした姿とのギャップ、吐く息や肌の温もりが伝わる距離感が……魅力的すぎる。いや、これは本当に魅力的と感じてるのか。これは一時の欲求が魅力的に見せてる幻想じゃないと断言できるのか。できないだろう⁉︎
ヤバい、脳内葛藤の天秤が一気に欲求へ傾いてる。残り理性ポイントは35ぐらいといったところか……。
耐えろ。踏ん張れ。負けるな理性!
風呂上がりの母さんを思い出せ!
よし、天秤は均等になった。
ありがとうな、母さん。
「すいません、今度は俺がトイレ行ってきます。荷物、見ててもらってもいいですか?」
「あ、うん。ごめんね。私が座ってたら前を通れないよね」
「あ、いえ。先輩を立たせてしまって、すいません」
先輩は立つだけで、席を離れようとはしない。
一旦俺が通路へ出やすいように道を開けるとかは、ないようだ。
半身になれば、ギリギリ通路へ行けるぐらいの隙間が先輩と机の間にはある。
ここを、通れと?
何という狭さだ。別に普段なら、机にぶつかっても人にぶつかっても構わない。
しかし今だけは、先輩にはぶつかれない。もっといえば、空いたグラスで溢れかえる机にも触れるわけにはいかない。
断崖の上に架けられた一本の綱のように狭く感じてしまう。
追い詰められた人間の心理とは、こうも現実を捻じ曲げて映すものなのか。
いや、恐るな。恐れは相手を強大に見せる。ただ真っ直ぐ進めばいいだけだ。
俺もアルコールが回っていて、正直足元がふらつく。それでも、今だけーーアルコールに打ち勝て! 先輩に触れたい欲望に、打ち克て!
「それでは、ちょっと行ってきます」
先輩が立ち上がる前を、半身になって抜けていく。いける、いけるぞ。このまま、真っ直ぐ通り抜ければいい。
そう思った瞬間、呼吸が止まった。
俺の背中にーーほんの少し、たったコンマ数秒。真っ直ぐな道を阻む柔らかな、胸部から突出した塊の感触を認識してしまった。
全神経が、呼吸すら忘れて触れた部位に集約されていく。
これは、もはや理性だ脳内だの話じゃない。
脊髄反射レベルで、自動的に全神経がそこへ集まってしまった。
トイレまで早足で進むと、洗面台に手を付いて俯いてしまう。
「理性ポイント……。残り、5。あのコンマ数秒以下の時間で、一気に45ポイントは持っていかれた。マジで、ヤバいって……」
心の準備を整えてから、思い切って触れたなら、まだ耐えられたかもしれない。
でも、これはダメだよ。
不意打ちで、明らかに自分にはない肉体の感触。一瞬で離れた温もりに、名残惜しくなる柔らかき山の感触。
男とは、冒険家であり挑戦者だ。
この一瞬だけ感じた先に何があるのか探究したくなるのは、もはや欲求などという俗物ではない。知への渇望だ。究極の理性にして知性だ。
偉大なる登山家も、こう仰っていた。
できるか、できないかではなく、やりたいか、やりたくないか。不可能は自分が作った錯覚にすぎない、と。
いや、待て。落ち着け落ち着け落ち着け。
それは言葉の意図を捻じ曲げ過ぎだ。
「クソ……。心臓の鼓動がうるさい。これは欲求か、アルコールのせいか。それとも……恋心からなのか?」
ギュッと胸を押さえつけ、鏡の中の自分へ問う。答えは返ってこなかった。
いつまでも先輩を一人で待たせておくのは、紳士にあるまじき行いだ。
深呼吸をしてから、席へと戻る。
脳内葛藤の天秤は、トイレで自問自答をしたおかげでわずかに理性ポイントを加算されている。
互いの気持ちを確かめるまでは、欲望に流されない。
そう強い決意を固めて席へと戻るとーー。
「ーー先輩、何か薄着になってません?」
「うん、お酒飲んで身体が熱くなってきちゃってさ。変かな?」
変なのは、上着という布が一枚減っただけで動揺してる俺の欲の強さだ。
先ほどより、先輩の身体のラインが見えてしまってる。
入店したときとは逆の位置。先輩の前の席へ座ったのはいいけど……。
目線を上げられない。
戦いにもならないぐらい、俺の顔が熱っている。
「ん? 顔を背けちゃって、どうかしたのかな?」
揶揄うように、先輩が身を乗り出してきた。
美人で、それでいて酔ったプライベートの姿は可愛いとか……。強すぎますよ。
いつから、脳内天秤が俺の自由にできると錯覚していた?
俺の脳内は、この先輩の掌の上だ。
矮小なる俺がどんなに抗ったとしても、人間は天災には勝てない。
偉大なる哲学者の先生たちよ……。すみません。俺たちは欲求に流されるんじゃないんです。天地鳴動を引き起こす存在が、飲み込んでくるんです。
負けを認め、ゴクリと唾を飲み込んだときーー
「ーーすいません。ラストオーダーの時間なんですが、何かご注文はありますか?」
店員さんが、戦闘終了のホイッスルを鳴らした。
俺は勝ったのか負けたのか分からない。結局、勝敗は有耶無耶。今日の葛藤の行く末が、どのような結果を招くかなど、未来にならなければ分からない。
惜しいことをしたような、もしかしたら先輩に恥をかかせてしまったんじゃないかと後悔するような……。
だが、試合時間終了のホイッスルに救われた。この感情があるのは事実だ。
端から正解が用意されてない勝負だったとしたら、時間切れこそが唯一の賢い選択だったのかもしれない。
店員さん、そしてここまで耐え忍んだ俺の理性……。ナイスファイトだよ。
激しいワンナイトバトルだった……。
「……そっか。残念。お腹パンパンだし、私はいいかな。君は何か飲む?」
「いえ、俺も胸焼けしたかのような感じなので、平気です」
「お酒飲んで胸焼け、早すぎるでしょう。それじゃ、仕方ないから帰りますか。すいません、お会計はカードで」
先輩は、微笑みながらいつものテキパキ仕事をこなすような手早さで店員さんへカードを渡した。
「あの、先輩! 俺も……いや、俺が払いますから!」
「いいから。お財布しまいなさい。誘った先輩に、恥をかかせないの」
誘った先輩に恥をかかせる。
その言葉が、果たしてお会計のことだけを指しているのか。それとも、もっと大人な意味を孕んでいるのか。
迷った末に、俺は小さく「すいません」と呟いていた。
お会計を終えて店を出ると、俺たちは何も喋ることなく駅の改札を抜ける。
「それじゃ、私は地下鉄だから。ここでお別れだね」
「はい。あの、今夜は……すごく夢のようでして……。その、とても楽しかったです。できれば、また明日からも……」
口ごもるような俺の言葉を聞いていた先輩だが、駅構内のアナウンスが列車の到着を告げた。
良くない時間切れのホイッスルだ。
「ごめん、電車きちゃった! また明日ね!」
「あ……」
俺がハッキリしない、情けない男なばかりに……。何も言えず、確かめることもできなかったーー。
自宅への最寄駅まで着くと、もはや酔っていても勝手に足が目的地目指して歩く習慣になった道を行く。
まるで先程までの賑やかさが夢だったかのように、静かな夜で……。
「……一人になった夜の帰り道ってのは、何でこんなにも切なく寂しいんだろうな」
いや、違うな。
温もりを感じるほどに近付いてくれた先輩と離れてしまった、今夜が特別なのかーー。
翌朝。
アルコールが抜けて、重だるい身体を引きずって出社する。
道すがら、昨夜の俺がどっちつかずの言動ばかりを繰り返していたことを後悔ばかりしていた。
まだ朝も早く、社内にはほとんど人もいない。掃除や物品整理でもするかと思い、席へ向かうと。
「おはよう。昨日は楽しかったね」
後ろから、先輩の声が耳に届いた。
続いて感じたのは、スーツ越しに肩へポンと触れる細く滑らかな指の感触だ。
たったこれだけで、俺は動揺してしまうようになった。昨日の一夜で、結局は関係性が変化してしまったんだ。
「お、おはようございます。あのーー」
「ーーまた行こうね。君と行くの、楽しみにしてるから」
小さく耳元で囁くような先輩の声音が鼓膜を揺らしたかと思うと、全身が火照った。
「は、はい。俺も、です」
一瞬だけ微笑んだ先輩は、自分のデスクへツカツカと向かい仕事の準備をしている。
その姿は、間違いなく俺が憧れ目で追ってしまう憧れの先輩だ。
だけど、昨日の夕方までとは……少しだけ違って映る。
昨夜は分からなかった胸の鼓動が早まる原因。
アルコールも抜けた。欲求も落ち着いた。
そんな今ならば、だ。
この胸が高鳴っている理由が、良く分かるーー。
理性対欲求のワンナイト葛藤バトルに負けてはダメだ。
仕事終わりに憧れの先輩と居酒屋に入ってから、早くも数時間だ。
俺に残された理性ポイントは現在60といったところかな。
この数値が0になり脳内天秤が欲求に完全に傾いたとしたら、明日からの世界は一変するだろう。
それが良い方向か、それとも悪い方向か。
そんなことは24年間の人生経験上、もう分かっている。
そう、碌なことにはならない。もつれて気まずい関係になる確率が極めて高いだろう。
中指でメガネをかけ直し、俺は
「先輩、俺たちは飲み過ぎかもしれませんね。そろそろ帰りましょうか?」
理性的に先輩へ、そう提案した。
我ながら、紳士的な振る舞いだったと思う。
「えぇ〜。帰るの? 私をどこに帰しちゃうつもりなのかな?」
「どこにって……。え?」
「どこに、帰したいのかな?」
理性ポイント、マイナス5。
欲求ポイントは45にまで上がってきた。
俺の前の席へ座る先輩が、まっすぐ潤んだ瞳を向けてくる。まるで試すかのように。
え、今のってさ……。
やっぱり、俺のこと誘ってるのかな?
お持ち帰り、望んでるような発言だったよね?
いや、待て。落ち着け。
先輩に好きと言われたわけでもない。交際してるわけでもない。俺から交際してくださいと言ったわけでもない。
仕事終わり、たまたま二人で飲もうかという話になった。まだ、それだけの関係だ。
このまま酔った勢いでワンナイトを持ち掛けてしまえば、明日から社内で先輩と気まずくなるかもしれない。
そうだ、頑張れ俺の理性。
偉大なる哲学者、マルクス・アウレリウス先生は仰った。
幸福というテーマの中で、欲求を追い求めるように設計された人間だが、欲を満たしたところで、幸福になれるとは限らないのだ、と。
脳内の天秤を理性で傾けろ。
俺の目指す幸福は、どこにある?
10代の快楽に脳を支配された子供じゃないんだ。
社会での立ち位置や関係性、失うものだって多い。
俺たちはアルコールだって入っている。冷静になったとき、不同意だったという罠もあるかもしれない。
そうだ。ここまで文明を発展させてきた人間は、社会的動物だ。リスクとリターン、先々の関係性まで考えて行動しろ!
理想を思い描け、現実的な思考回路を全力で駆け巡らせろ!
「……俺は、先輩と明日からも笑って過ごせる日々を目指したいです」
「ん? 私を帰さないぞ〜ってこと?」
「こ、ここで俺が短絡的な行動をして、先輩に信用されなくなるのが怖いって話ですよ!」
「……ふぅ〜ん」
少しだけ目を見開き、先輩はジョッキに入ったお酒をマドラーでカラカラ音を立て回し始めた。
これは、どういうことを考えてる態度だ⁉︎
意気地なしと思われたのか、誠実と思われたのか……。
分からない。男女の脳の違いは、脳科学で学んではいた。それでも、男の俺には理解ができない!
目の前にあったチャンスを逃したのか。それとも、正解を手繰り寄せたのか。
いや、未来は偉大なる哲学者たちですら詠めないと明言していた。
俺の行動が正解かどうかなんて、明日以降にならなければ分からないんだ。
今は、俺の理性を褒めてやろう。
「私、ちょっとトイレ行ってくるね」
席を立った先輩の背を見送り、一気に理性ポイントが上がる。
天秤が理性的紳士寄りに傾くのを感じた。
「ふぅ……。さようなら、動物的欲求。現在の俺の理性ポイントは、70ポイントぐらいだな。いいんだ、これで……」
憧れの先輩と、やっとお酒を飲む機会がもらえたんだ。
入社したときから、ずっと気が付けば目で追ってしまっていた。
わずか数年早く産まれただけの先輩が、俺よりビシッと仕事をこなす姿が格好良くて、そして美しくて……。
そんな先輩から、お酒を飲もうと言ってもらえただけで急接近なんだ。
自分の気持ちすら、俺は分からない。
それなのに、俗物的な考えで憧れの先輩を汚すような考え……。ダメだろう。
「お互いに本当に好きなら、関係を急いで気不味くなるリスクを抱える必要はない。まして、ワンナイトのお持ち帰りなんて……。もっての外だ」
偉大なる哲学者、プラトン先生は仰った。
自分に打ち勝つことが、もっとも偉大な勝利である……と。
考えろ。この場における、俺の勝利とはなんだ? 俺は、この果てに何を望む?
俺は……。先輩とワンナイトラブなんかで、今まで積み上げてきた関係を壊したくない。
もっと互いの気持ちを確かめ合いながら、しっかりと後悔しない恋愛相手になりたいんだ。
だったら今日は、暴走のような欲望に身を委ねちゃダメだろう。
「……そう、だよな。明日以降にゆっくり距離と気持ちを育めばーー」
「ーー何を育むのかな? それ、私とだよね?」
「せ、先輩⁉︎ いつの間に⁉︎」
いつの間にか、先輩がトイレから戻ってきていた。
居酒屋の酔っぱらいたちの喧騒がしていたとはいえ、近づく気配に気づかないとは不覚だ。
というか、だ。
「な、何で俺の横に座るんですか⁉︎」
「ん〜何となくかなぁ。なんかさ、疲れたときに感じる人肌の温もりっていいよね?」
「分かります」
凄い分かるけど、分かっちゃダメなんだよ……。
俺たち、どういう関係なんですか?
先輩は、俺のことを一夜の遊び相手としてしか見てないんですか?
こんな、あやふやな関係のままで……分からせないでくださいよ。
無自覚、なのだろうか。この先輩は、実は小悪魔なのかもしれない。
仕事中のキチっとした姿とのギャップ、吐く息や肌の温もりが伝わる距離感が……魅力的すぎる。いや、これは本当に魅力的と感じてるのか。これは一時の欲求が魅力的に見せてる幻想じゃないと断言できるのか。できないだろう⁉︎
ヤバい、脳内葛藤の天秤が一気に欲求へ傾いてる。残り理性ポイントは35ぐらいといったところか……。
耐えろ。踏ん張れ。負けるな理性!
風呂上がりの母さんを思い出せ!
よし、天秤は均等になった。
ありがとうな、母さん。
「すいません、今度は俺がトイレ行ってきます。荷物、見ててもらってもいいですか?」
「あ、うん。ごめんね。私が座ってたら前を通れないよね」
「あ、いえ。先輩を立たせてしまって、すいません」
先輩は立つだけで、席を離れようとはしない。
一旦俺が通路へ出やすいように道を開けるとかは、ないようだ。
半身になれば、ギリギリ通路へ行けるぐらいの隙間が先輩と机の間にはある。
ここを、通れと?
何という狭さだ。別に普段なら、机にぶつかっても人にぶつかっても構わない。
しかし今だけは、先輩にはぶつかれない。もっといえば、空いたグラスで溢れかえる机にも触れるわけにはいかない。
断崖の上に架けられた一本の綱のように狭く感じてしまう。
追い詰められた人間の心理とは、こうも現実を捻じ曲げて映すものなのか。
いや、恐るな。恐れは相手を強大に見せる。ただ真っ直ぐ進めばいいだけだ。
俺もアルコールが回っていて、正直足元がふらつく。それでも、今だけーーアルコールに打ち勝て! 先輩に触れたい欲望に、打ち克て!
「それでは、ちょっと行ってきます」
先輩が立ち上がる前を、半身になって抜けていく。いける、いけるぞ。このまま、真っ直ぐ通り抜ければいい。
そう思った瞬間、呼吸が止まった。
俺の背中にーーほんの少し、たったコンマ数秒。真っ直ぐな道を阻む柔らかな、胸部から突出した塊の感触を認識してしまった。
全神経が、呼吸すら忘れて触れた部位に集約されていく。
これは、もはや理性だ脳内だの話じゃない。
脊髄反射レベルで、自動的に全神経がそこへ集まってしまった。
トイレまで早足で進むと、洗面台に手を付いて俯いてしまう。
「理性ポイント……。残り、5。あのコンマ数秒以下の時間で、一気に45ポイントは持っていかれた。マジで、ヤバいって……」
心の準備を整えてから、思い切って触れたなら、まだ耐えられたかもしれない。
でも、これはダメだよ。
不意打ちで、明らかに自分にはない肉体の感触。一瞬で離れた温もりに、名残惜しくなる柔らかき山の感触。
男とは、冒険家であり挑戦者だ。
この一瞬だけ感じた先に何があるのか探究したくなるのは、もはや欲求などという俗物ではない。知への渇望だ。究極の理性にして知性だ。
偉大なる登山家も、こう仰っていた。
できるか、できないかではなく、やりたいか、やりたくないか。不可能は自分が作った錯覚にすぎない、と。
いや、待て。落ち着け落ち着け落ち着け。
それは言葉の意図を捻じ曲げ過ぎだ。
「クソ……。心臓の鼓動がうるさい。これは欲求か、アルコールのせいか。それとも……恋心からなのか?」
ギュッと胸を押さえつけ、鏡の中の自分へ問う。答えは返ってこなかった。
いつまでも先輩を一人で待たせておくのは、紳士にあるまじき行いだ。
深呼吸をしてから、席へと戻る。
脳内葛藤の天秤は、トイレで自問自答をしたおかげでわずかに理性ポイントを加算されている。
互いの気持ちを確かめるまでは、欲望に流されない。
そう強い決意を固めて席へと戻るとーー。
「ーー先輩、何か薄着になってません?」
「うん、お酒飲んで身体が熱くなってきちゃってさ。変かな?」
変なのは、上着という布が一枚減っただけで動揺してる俺の欲の強さだ。
先ほどより、先輩の身体のラインが見えてしまってる。
入店したときとは逆の位置。先輩の前の席へ座ったのはいいけど……。
目線を上げられない。
戦いにもならないぐらい、俺の顔が熱っている。
「ん? 顔を背けちゃって、どうかしたのかな?」
揶揄うように、先輩が身を乗り出してきた。
美人で、それでいて酔ったプライベートの姿は可愛いとか……。強すぎますよ。
いつから、脳内天秤が俺の自由にできると錯覚していた?
俺の脳内は、この先輩の掌の上だ。
矮小なる俺がどんなに抗ったとしても、人間は天災には勝てない。
偉大なる哲学者の先生たちよ……。すみません。俺たちは欲求に流されるんじゃないんです。天地鳴動を引き起こす存在が、飲み込んでくるんです。
負けを認め、ゴクリと唾を飲み込んだときーー
「ーーすいません。ラストオーダーの時間なんですが、何かご注文はありますか?」
店員さんが、戦闘終了のホイッスルを鳴らした。
俺は勝ったのか負けたのか分からない。結局、勝敗は有耶無耶。今日の葛藤の行く末が、どのような結果を招くかなど、未来にならなければ分からない。
惜しいことをしたような、もしかしたら先輩に恥をかかせてしまったんじゃないかと後悔するような……。
だが、試合時間終了のホイッスルに救われた。この感情があるのは事実だ。
端から正解が用意されてない勝負だったとしたら、時間切れこそが唯一の賢い選択だったのかもしれない。
店員さん、そしてここまで耐え忍んだ俺の理性……。ナイスファイトだよ。
激しいワンナイトバトルだった……。
「……そっか。残念。お腹パンパンだし、私はいいかな。君は何か飲む?」
「いえ、俺も胸焼けしたかのような感じなので、平気です」
「お酒飲んで胸焼け、早すぎるでしょう。それじゃ、仕方ないから帰りますか。すいません、お会計はカードで」
先輩は、微笑みながらいつものテキパキ仕事をこなすような手早さで店員さんへカードを渡した。
「あの、先輩! 俺も……いや、俺が払いますから!」
「いいから。お財布しまいなさい。誘った先輩に、恥をかかせないの」
誘った先輩に恥をかかせる。
その言葉が、果たしてお会計のことだけを指しているのか。それとも、もっと大人な意味を孕んでいるのか。
迷った末に、俺は小さく「すいません」と呟いていた。
お会計を終えて店を出ると、俺たちは何も喋ることなく駅の改札を抜ける。
「それじゃ、私は地下鉄だから。ここでお別れだね」
「はい。あの、今夜は……すごく夢のようでして……。その、とても楽しかったです。できれば、また明日からも……」
口ごもるような俺の言葉を聞いていた先輩だが、駅構内のアナウンスが列車の到着を告げた。
良くない時間切れのホイッスルだ。
「ごめん、電車きちゃった! また明日ね!」
「あ……」
俺がハッキリしない、情けない男なばかりに……。何も言えず、確かめることもできなかったーー。
自宅への最寄駅まで着くと、もはや酔っていても勝手に足が目的地目指して歩く習慣になった道を行く。
まるで先程までの賑やかさが夢だったかのように、静かな夜で……。
「……一人になった夜の帰り道ってのは、何でこんなにも切なく寂しいんだろうな」
いや、違うな。
温もりを感じるほどに近付いてくれた先輩と離れてしまった、今夜が特別なのかーー。
翌朝。
アルコールが抜けて、重だるい身体を引きずって出社する。
道すがら、昨夜の俺がどっちつかずの言動ばかりを繰り返していたことを後悔ばかりしていた。
まだ朝も早く、社内にはほとんど人もいない。掃除や物品整理でもするかと思い、席へ向かうと。
「おはよう。昨日は楽しかったね」
後ろから、先輩の声が耳に届いた。
続いて感じたのは、スーツ越しに肩へポンと触れる細く滑らかな指の感触だ。
たったこれだけで、俺は動揺してしまうようになった。昨日の一夜で、結局は関係性が変化してしまったんだ。
「お、おはようございます。あのーー」
「ーーまた行こうね。君と行くの、楽しみにしてるから」
小さく耳元で囁くような先輩の声音が鼓膜を揺らしたかと思うと、全身が火照った。
「は、はい。俺も、です」
一瞬だけ微笑んだ先輩は、自分のデスクへツカツカと向かい仕事の準備をしている。
その姿は、間違いなく俺が憧れ目で追ってしまう憧れの先輩だ。
だけど、昨日の夕方までとは……少しだけ違って映る。
昨夜は分からなかった胸の鼓動が早まる原因。
アルコールも抜けた。欲求も落ち着いた。
そんな今ならば、だ。
この胸が高鳴っている理由が、良く分かるーー。