私の今のカレはいわゆる優良物件というやつらしい。
『ゼッタイ離さないほうがいーよ、唯花ちゃん』
なんて。まわりからは何度も釘を刺された。
カレは大手の総合商社に勤めて7年目。私よりも3つ上の29歳。有名な私立大学を出ていて、生家は東京の白金台にある高級住宅地。背も高くて見た目もモデルみたいに整っている。
『海外赴任から帰ってきたんでしょ? 貯金もたまってるだろうし……あんなハイスペック男が恋愛市場に出回ること自体が奇跡なのに、それが唯花ちゃんのことを気にいるなんてねー』
唯花。私の名前だ。ただひとつの花。なんて。聞こえはいいけれど。だけど、私に本当にふさわしいのは。鈴木唯花。なんていう。ありきたりな苗字のほうだと思う。
地味な見た目。特に趣味もない、ぱっとしない性格の私。は。地方から東京の女子大に進学。
卒業後は小さな広告会社で働いている。任されるのは泥臭い仕事ばかりで。睡眠も削って馬車馬みたいに働いて。入社前に抱いていたマスコミ業界のきらきらとしたイメージとは程遠い。
「……はあ」
私が抱いていた希望、とか、大志、とか、きらきらとした輝きみたいなものは――とっくに失われて。仕事に追われて。恋愛模様だってしばらくしてなくって。小さな頃に憧れていたおとぎ話にあるような。王子様にとっての〝唯ひとつの花〟なんてものにも。なれるわけもなく。キーボードを叩く指先のネイルだって剥がれかけたままだ。
* * *
カレとは社内の先輩に連れていかれた合コンで出会った。別の先輩が行けなくなって、いわゆる数合わせで私は呼ばれた。のだけれど。それはカレのほうも同じだったみたいで。
先輩たちが『かっこいいですねえ』『本当に彼女さんとかいないんですかあ』とかとか。会社では聞いたことないような甘ったるい声を出していたけれど。
カレは『はい』とか『いえ』とか『ども』とかひとつの興味もなさそうに2文字で返答をしていた。クール、というか、飾らない、というか――機嫌が悪いことを一切隠さないタイプの男の人だった。口数も少なくて、表情の変化もあまりないから、正直、何を考えてるのか分からなくて。なんだか怖そうなひとだなあってのが。私の第一印象。
そのあとも幹事の人が盛り上げてくれていたけれど、カレは終始仏頂面で、そのまま合コンは終わった。家に帰るとラインが入っていた。ひとつは今日のグループライン。もうひとつは例のカレからの個別の連絡だった。『こんどふたりであえない?』なんて。本心がどこにあるか分からないひらがなの文面。私はカレのことを友達に登録して、『私でよければ』なんて送って。それから私たちは何度か逢瀬を重ねて。いつの間にか身体も重ねて。そういうことになった。
しばらくしてから先輩たちに報告をしたところ、『信じられない』『誰にも……っていうか、女って生き物にキョーミなさそーな感じだったのに!』『いいなー、イケメンハイスペ商社マン、羨ましー』とかとか。合コンの時とは違う素の声のトーンで言われて冒頭に戻る。『ゼッタイ離さないほうがいーよ、唯花ちゃん!』
* * *
報告。と言ってはみたものの。私はひとつだけ、先輩たちに隠したことがある。私とカレは、言葉を重ねて。逢瀬を重ねて。幾度か身体を重ねてはいるけれど。
そういえばカレの口から、告白の台詞なんていうものを一度も聞いたことがない。告白。どころか。好き。なんて言葉も。一度だって。
聞かないまま、私はカレとの時間を重ねている。
* * *
「ねえ。どうして私なの?」って。私はカレに聞いてみたことがある。
『ん……べつに。らくだから』
「楽?」
カレはうなずいて、『女ってめんどくさいし』
「……」私は咄嗟に言葉に詰まってしまう。
『いままでのやつら、ぜんいんめんどくさかったから』ってカレは視線も合わさずに言った。『もっとあいたいとか。返信ほしいとか。いろいろ粘着するし。無駄なものばっかに金かけるし。少女漫画とか、ドラマとかに出てくるきらきらした女みたいなやつ、きらいなんだよね』そう言って、カレは私の爪先を撫でた。私ははっとして、背中に手を隠す。カレと合コンではじめて会った日、急な誘いだったせいで私のネイルは剥がれかけたままだった。
『らくなんだよね』ってカレは私の目を見て繰り返した。暗くて何も映っていない瞳だった。『おまえからなにか求めてくることもないし。ほどよい距離感だし。地味っていうか、着飾らないかんじも――俺たち、相性いいとおもうよ』
――ゼッタイ離さないほうがいーよ、唯花ちゃん!
そんなまわりの言葉が頭によぎった。
「……そっか」って私は口角をあげて、「うん。私もそう思う」
今日こそは聞こうと思っていた『私たちって付き合ってるの?』なんていうめんどくさい質問を、心の内側にひっこめる。
* * *
――『きょういけなくなった』
カレからそんな連絡があった。一瞬、頭が真っ白になる。だって。今日は。
「……私の、誕生日だったのに」
予定はいつもカレに合わせていた。仕事が忙しいからって納得はしていたけれど、今日くらいは。なんて思って。カレに誕生日のことを伝えて。『調整してみる』って。はじめて私の予定に合わせてくれた。って。思ってたのに。
――『きょういけなくなった』
って。絵文字もスタンプもなにもついていない、たった10文字の言葉だけが。
既読だけついてスルーされていた私の『今夜、楽しみにしてるね』って。ひとことの下に。カレの、本心かどうかも分からないひらがなの文字列だけが。送られてきた。
『仕事?』『待っててもだめかな?』『遅くなってもいいよ』『せっかくなんだし』『一瞬だけでも』『私』『ずっと』『待ってるから』
『ねえ』――
なんて言葉たちを打ちつけて。
送信ボタンを押す前に――指先を止めて。
×ボタンに移動。長押しして文面をぜんぶ消したあとに。
『うん、わかった』って。
それだけ打って。カレに送った。
すこししたあとにもう二言を添える。
『気にしないでね』『お仕事がんばって』――
既読はそのあともつかなかった。
* * *
駅近にある広場のベンチに座って、私は途方に暮れていた。
「…………」
周囲をぼうっと眺める。
私と同じように、誰かを待っていた人たちは。
私とは違って、きちんと巡りあって。嬉しそうに笑いあって。手を繋いで。夜の東京の街へと消えていく。
「あ――」
スマホが震えた。反射的に手を伸ばす。しばらく行けていないネイルサロンのメルマガだった。画面でちょうど20時45分から46分に切り替わる。
「もう、2時間以上この場所にいるんだ」
すこし窪んだ広場の中心には小さな噴水があった。その水面に丸い大きな月が反射したような気がして空を見上げたけれど。空のどこにも月は見当たらなかった。
「……冷えてきちゃった」
今年は例年よりも梅雨入りが遅れているらしい。6月の半ばだというのに、昼間は真夏日ばりの直射日光がアスファルトを焼いている。そのくせ夜は肌寒くなるせいで、服装にも困る初夏の入り口だ。
私はシンプルな淡色のカーディガンを鞄から取り出して羽織る。今日は白いブラウスにクロップドパンツ――いつも会社に行くときと変わり映えのないシックな服装。本当は誕生日くらい、もうすこしひらひらとした女の子らしい服を着てみたかったけれど。カレの好みに合わせて、私は私の中のお姫様を殺した。
「……っ」
顔の奥からこみあげてくるものがあった。温かくて、冷たい、相反するふたつの感情が交じり合った、どす黒い、歪んだ――やっぱりお姫様からはかけ離れた感情の源泉だ。
「何してるんだろ、私……」
まわりを通り過ぎていくカップルたちは笑顔で。『待った?』なんて。『今きたとこ』なんて。テンプレートだけど温もりに満ちた幸福な会話をして、お互いの手のひらをすり合わせている。ああ。最後に。あんなふうに。手をつないだのは。いつのことだっただろう。すくなくとも今のカレとは――ううん。本当は。彼氏でもなんでもないのかもしれないけれど。じゃあ。私たちの関係ってなに? すくなくとも。お姫様と王子様との関係とは程遠い。
スマホの上で21時になった。
* * *
スマホの上で21時になった。のと。私が階段から落ちたのは同時だった。
――あっ。
全身にぞくりと悪寒が走った。
なんてことはない。駅へと戻る途中の歩道橋の階段で足をすべらせた。
「……っ」
手に持っていたスマホが宙に放り出される。待ち受け画像はシンデレラのガラスの靴だ。視界の動きがやけにスロウに感じられて。地面に打ちつけられる覚悟を決めた瞬間――
「あっ!」
私の身体は、誰かによって抱きとめられた。
遅れてスマホや鞄とその中身が地面に転がってどたばたと音を立てる。
「~っぶない……!」その抱きとめた人が心配そうに言う。「だ、大丈夫でしたか?」
とっさに声が出てこなかった。心臓がばくばくと音をたてている。遅れて滲んできた冷や汗が、じっとりとインナーに染みこんでいく。
「大丈夫、ですか」ってその人は繰り返した。
男の人みたいだ。一瞬視線を上に向けたけれど、街灯と逆光で影になってその顔ははっきりとは見えなかった。
「……あ、は、はい……っ」
私はこくこくとうなずいて。
喉から絞り出した声は震えていた。
「あ、ありがとう、ございました」
その人は「よかった」と安堵の息を吐いたあと、私のことをゆっくりと地面に降ろして、散らばった鞄の中身やらなんやらを拾い集めてくれる。
「あ、す、すみません……っ」
手伝おうとしたところを制されて、「大丈夫です。しばらく安静にしていてください。靴は……これでいいですか」
その人は階段の下に転がっていた白色のパンプスを拾って足元に置いてくれた。おろしたてだったエナメルの側面には傷ができて黒く汚れていた。私はその凹凸を指先でなぞってから、慌てて履く。
「ありがとうございます。助かりました。そちらは大丈夫でしたか……?」
「はい。おれの方はぜんぜん。頑丈なんで」
と。そこでようやく夜の明かりの中で。
私はその人の顔をはっきりと認めて。
――え?
なんて。小さな驚きの声を漏らしたんだった。
だって。その人は。
誕生日に。付き合ってるかどうかも分からないカレから。予定をすっぽかされて。呆然として。階段で転んだ私の。みじめな私の。お姫様からは程遠い場所にいた私の。目の前に。現れて。私を。救って。くれたのは。
――私の〝初恋の人〟だったんだから。
* * *
初恋の人。っていっても。それは小学生の頃の話なのだけれど。
それでも初恋。私にとって初めて恋した。男の子。なわけで。
その頃の私は。森の中で囚われているお姫様のもとに、白馬に乗った王子様が颯爽と現れて。そのままお姫様を連れ出してくれる――おとぎ話の中みたいな恋愛に憧れていて。
そんなことをまわりの子たちに話したら。みんなは『そんなのあるわけないじゃん』『現実みろよ』『ガキだなあ』って。小学生なんて子供でしかないのに。言われて。私も子供ながらに。
――ああ。そっか。現実の世界にはおとぎ話なんてないんだ。
なんてことを。思いはじめていたら。
『おれは、いいと思うぜ』
なんて。
『いつか王子様が迎えに来てくれる――いいじゃん! いつかゼッタイに叶うって!』
なんて。
きらきらした瞳でその子は言ってくれたから。
「……ばかにしないの?」って。きいたら。
『するわけないし。ってか、おれも』
「え?」
『おれだって信じてるから』キミは胸の前でこぶしを振って、強く、言った。『いつか、おれの前に、空から女の子が落ちてくるんだっ』
「空から……?」
こくり。キミは、やっぱりどうしようもなくきらきらとした瞳でうなずいた。
「お姫様が落ちてきて。ふたりは出会って。それで――お互いにハジメテの恋をするんだっ」
そう語るキミのことを。
お互いにバカみたいな子供っぽいことを。信じているキミのことを。
私は必然的に――好きになっていた。キミこそが王子様だと思っていた。
だけど。
その想いは結局、最後までキミに打ち明けることはできずに。
お互い別々の中学に進んで以来、すっかり疎遠になってしまった。
* * *
「どうか、しました……?」って。十数年ぶりに再会したキミが言った。
「あ、……ええと……」
「? おれの顔、なにかついてます?」
「い、いえ」
どうやらキミのほうは、私のことに気づいていないようだった。
「あの……これ、スマホ」
「ありがとうございます……あ」
「画面、割れちゃったみたいで。なんだか申し訳ないです」
「そんな! 謝らないでください。私が悪いので……痛っ」
手すりを使って立ち上がると、左足に痛みが走った。パンツの下に履いていたストッキングが破れて、足首の部分に擦り傷ができている。うっすらと血もにじんでいた。
「――馬鹿したなあ」なんて。ため息を吐いていると。
「やっぱり、大丈夫じゃないじゃないですかっ……!」
キミが心配そうに足元に駆けつけてきた。
「あ、あのっ! 良かったら、近くなんで、その……手当、とか」
「……え?」
「足、怪我してるみたいなんで」
「…………」
「あ、怪しい、ですよねっ!? でも、ほんとに心配で。うち、すぐそばなんで。怪我の消毒だけでも……その……」
キミは身振り手振りを大きくさせて、なんだか動揺をしているようだった。
私もどうしていいか分からず、ひび割れたスマホの画面に視線を落としていると――
「あー! やっぱりだめだっ!」キミはゆるくパーマのかかった頭を両手で大げさに掻いたあと、白状した。「……すみません! 実はあなたのこと、つけてましたっ」
「え?」
「広場にいたときから、可愛いなって思って。声かけたいなって思って。でも、ナンパとかしたことないんで。勇気が出なくて――いつの間にか駅の方に歩き出したんで、慌てて後ろについていったら、そしたら――空から落ちてきて」
「空から?」
「空から」
「私が」
「あなたが」
「――あはは。階段から落ちただけです」
「それでもっ」キミは振り絞るように言う。「あなたはきっと――おれの運命の人なんですっ」
『いつか、おれの前に、空からお姫様が落ちてくるんだっ』
そう言ったいつかのキミと。目の前の現実のキミがオーバーラップした。
空からじゃなくて。間抜けに階段で足を滑らせただけだけど。
お姫様からは程遠い扱いを受けているけれど。
「あなたはきっと――おれの運命の人なんですっ」
なんていうふうに。
いつかと同じ、どこまでもきらきらとした瞳で言われてしまったら。
心臓が懐かしい音をたてて動き始めたんだった。
「……名前は?」って。私は。いたずらに聞いてみた。
「りょ、凌太っ……です」
凌太。泉凌太。やっぱり間違いない。私の初恋のキミだ。
名前を聞かなくたって。その瞳が放つ無邪気な輝きを。小さな頃に私の世界を救ってくれたキミの輝きを。私が間違えるわけなんてない。
「あの……お名前は」
私はすこし迷ってから。なにかを試すように。言った。
「……ユウカ」
キミは私の名前のその三音を。
自分の中に染みこませるように何度か仄かに繰り返したあと。言った。
「良い名前、ですね」
「……そうですか?」
「はいっ! ユウカ――優しい花。あなたに、ぴったりの名前です」
名前を伝えてはみたけれど。やっぱり。
キミは私のことに気づいていないみたいだった。
* * *
「痛っ」
「すみませんっ、染みますよね……」
「だ、大丈夫です」
私は凌太の部屋にあがって、ベッドに腰かけて。
例の傷の手当を受けていた。
「ひとまず、ですけど」
擦り傷の面積は意外と広範囲で、バンドエイドじゃ足りなくて。キミはガーゼと包帯とテープとで左の足首からふくらはぎを覆うようにしてくれた。
「……なんだか、大げさじゃないですか?」って私は笑った。
「そんなことないですっ! 化膿とかしちゃったら、大変なんで。こんなに綺麗な足なのに」
「……」
「あ、すみませんっ。また、へんなこと言っちゃいましたよね」キミは恥ずかしそうに首筋を掻く。「昔からなんです。思ったことをそのまま口に出しちゃって」
知ってる。どうしようもなく単純なキミのこと。
「それでよく、親とか先生に怒られてました」
知ってる。どうしようもなく素直なキミのこと。
「社会人になってすこしはましになったと思ったんですけど……うまくいかないですね。特に、あなたの……ユウカさんの前だと、なんだかうまく話せなくて」
そんなどうしようもなく純粋なキミのことを――私は好きになったんだった。
白馬に乗った王子様のことを笑わないでいてくれて。
空からお姫様が落ちてくるなんてことを無邪気に信じて。
私と同じで――ううん。きっとそれ以上に。
おとぎ話を信じているキミのきらきらとした瞳に。
十年以上が経っても、私は飲み込まれたままみたいだ。
「……すみません。狭くて」
なんだかキミと目を合わせるのが恥ずかしくって。
誤魔化すように部屋の中を見回していたら、床に座ったままのキミが言った。
凌太の部屋はいわゆる1Rの間取りで、確かに手狭な感じはあった。
「いえ、そんなこと。とても片付いていますね」
「! ありがとうございます。掃除は毎日ちゃんとしてるんです。いつ、お姫様が来てもいいように」
「…………」
「あ゛っ! そういう意味じゃないですよ!? 女の人をこの部屋に入れたの、今日がはじめてですし。あんなふうに声をかけたのも、ユウカさんだけで……。ただ、その……大切な人が来た時に、すこしでもふさわしい場所にしておきたくて。あ、や、だったらもっと広くて良い部屋に住めよって話なんですけど。あんまり金もなくって。せめてもの綺麗にだけはしておこうと思って……あー、だめだ。やっぱりへんなこと言ってますよね」
「そんなことありません」私は微笑んで首を振った。「素敵な考えだと思います。……あと。敬語じゃなくてもいいですよ」
「え、でも……あ。おれ、今26っす」
「じゃあ、同い年ですね」って。私は分わかりきっていたのに言ってやる。
「ほんとですか!? 嬉しいです――へへ。こういう偶然の一致も、運命、みたいですね」
私はふふと笑って、「ぜんぜん敬語のままじゃないですか」
「え? あ、いえっ……じゃなくて。ううん。じゃあ。徐々に」
「はい。徐々に」
ようやく凌太の顔をまともに見れた気がした。年を重ねても。やっぱり瞳の奥の輝きは変わっていない。
ろうそくの炎に見とれるようにその目の光を眺めていたら、ベッドの上で私のスマホが震えた。だれかからのラインだったけれど、ひび割れた画面で差出人のところは見えなかった。
「あ……あーっ!」
凌太が唐突に叫んだ。
「彼氏さん、ですよね……?」
「え?」
「そりゃそうですよね。こんなに可愛いユウカさんに、彼氏さんがいないわけないですし」
「か、可愛くなんてないですけど」
「いえ! とっっっても、可愛いですっ」
男の人にそんなことをまっすぐ言われたことなんて。今までなくて。
私は無性に恥ずかしくなって、ふたたびキミから目を背けてしまう。
身体の中の血液が熱く滾っているのを感じる。心臓の鼓動はほとんど私の知らない音色を響かせている。
「あ、そうだ」凌太は手を打って、「確かに古くて狭い部屋ですけど……ひとつだけ、自慢できるところがあるんです。よかったら、帰る前にそれだけでも見ていきませんか?」
* * *
「わあ――きれい」
私は凌太とふたりでベランダに並んでいた。
キミが自慢と言っていただけあって、見渡せる夜景は幻想的な絵画みたいに美しかった。
「他にロマンチックの欠片もないようなワンルームなんで。せめてここからの景色だけは、現実世界を忘れられるように。――おとぎ話の世界の中に浸れるように」
「きれいです――本当に」
小さな頃。キミと出会ったその時からは、きっと想像もつかなかった場所に今、私たちはいる。
初恋の人と並んで。手すりに腕をかけて。まだ湿気のない初夏の夜の風を受けながら。都会の営みが創りだした夜の情景を眺めている。
「さっき、お姫様って言ってましたよね」
「あ……はいっ」凌太はすこし恥ずかしそうにして、語ってくれる。私の知っているキミの夢を、話してくれる。「小さい頃からずっと憧れてたんです。アニメとか漫画の影響だったと思うんですけど。いつかおれの目の前に、空からお姫様が落ちてくるって」
「階段から落ちただけですよ」って私はもう一度笑った。
「それでもっ! きっと運命の人なんです。おれが小さな頃からずっと待ち望んでいた、憧れていた――お姫様なんです」
「……っ」
「おれ、決めてたんです。そうやって出会った人と、結婚するって。あ、小学生の頃の話ですよ? でも……おれ、未だにそれを信じつづけてるんです。バカだって思いますよね。それでも、おれはこの出会いを、逃したくなくて。だから、」
キミは私の方に体を向き直って。
夜の空気を吸って。吐いて。
「ユウカさんは、運命の出会いを果たした、おれのお姫様なんですっ……!」
なんて。現実の世界にすっかり染まっていた私を。もう一度。
おとぎ話の中に連れて行ってくれたんだった。
「ごめんなさい……彼氏さんに、悪いですよね」
「……彼氏かどうか、分からないんです」
「え?」
私はすこし迷ってから。言った。
「……告白とかも。されてなくて。好きだって言われたことも……一度だって」
ふしぎと。キミの前だと。
私も話さなくていいことまで話してしまう。
「じゃあ、その……正確にお付き合いとかは、してないってことですか……?」
私はあいまいな笑顔のまま、うなずいた。
「……っ。そう、ですか」
キミは唇を噛んで。こくりと喉を鳴らして。私のことを見つめて。
「おれなら。はっきりと、言います! おれと付き合ってくださいっ……好きですっ!」
「――っ」
「あなたは、おれの、運命のひとなんです……」
って。キミは繰り返して。瞳からきらきらとした輝きを届けてくれる。
それが今の私にはまぶしすぎて、ふと視線を夜景のすみっこにずらした。そこには。
「……あ」
階下の中央を斜めに走る黒い川。
その土手の一角が、街灯の下で黄色く染まっていた。
「月見草……」
の。花だった。夕方頃から花を咲かせて。その次の日の朝にはしぼんでしまう夜の一日花の群生が。上層階からも分かるくらいに川辺に咲き誇っていた。
まるで地面に浮かぶ月みたいだなって。私は思った。
「――『無言の愛情』」ってキミがつぶやいた。
「え?」
「月見草の花言葉だそうです。一夜だけつつましげに咲いて、見る人にその光を届けるどこまでも優しい花――あなたと名前と同じです」
私はそこでもう一度迷って。
言わなくてよかったことを。
言った。
「……もうひとつありますよ」
「え?」
「月見草の花言葉――『打ち明けられない恋』」
キミの瞳に黄色い月が映った気がした。
その月は。現実の世界のものなのか。夢の中のものなのか――分からない。
「~~~っ……! やっぱり、運命だ。こんな日におれたちは出会えた」
虚実の分からない月の光が輝くキミの瞳には。
こんな私のことが、はっきりとお姫様として映っているのだろうか。
「あ……そうだ。お姫様のお話」
「え?」
「凌太さんは……お姫様と一緒に、この景色を見たかったんですよね」
キミはどこか虚を突かれたようにうなずいた。
「それで――どうするつもりだったんですか?」
「え?」
「この素晴らしい夜景を見て。それで、キミは――」
やっぱり。今夜は言わなくてもいいことが口をついて出てくる。
私は懐かしい心臓の鼓動を全身で感じながら。
都会の夜が発するどこか艶やかな光を浴びながら。
悪戯好きなお姫様みたいに口角をあげて――キミをそそのかす。
「――どうするつもりだったんですか?」
「あ、えっと……」
キミは頬を赤くして視線を泳がせていたれど。
やがてなにかを察して。ごくりと喉を鳴らして。非現実的な月あかりに照らされながら。
――手すりの上に置いていた私の手を、取った。
「…………」
夜の音が一瞬途切れた。その刹那を逃さないようにして。
キミは。きゅうと。私の身体を。自分の胸元に。抱き寄せた。
「「……っ!」」
どくん。どくん。キミの心臓の音だけが私の鼓膜を揺らしている。
もうすぐ24時になる。シンデレラの魔法が解ける時間だ。だけど。今日くらいは。もうすこし。もうすこしだけ。
――私をお姫様のままでいさせてほしかった。
「………………」
たくさんの時間が流れた。それは十秒にも満たなかったかもしれないし。十分は経っていたかもしれない。
そんなおとぎの国に出てくる時計みたいにちぐはぐになった時間の果てで。
「ユウカ、さんっ……」
キミは。
私に向かって。
ゆっくりと。ゆっくりと。
顔を寄せてきた。
そして。キミのきらきらと輝く瞳に。
(……あ)
私の姿が。
映った。
* * *
「――ねえ」
キミの唇が私に触れるその寸前で。私は声を出した。
びくり。キミの身体が震える。瞳が怯えたみたいに揺らぐ。
「……」
私は何を言うかすこしだけ迷ったあと。数回だけ瞬きをして。
なるべく自然に聞こえるように。言った。
「電気。消さないんですか?」
「……あ」
キミは横を向いた。
部屋の中は天井の白熱灯によって白々しく現実的に照らされていた。
「ご、ごめん」キミはなぜか謝ってから部屋へと入り、壁際のスイッチで照明を切ると、ベランダへとまた戻ってきた。
「ごめん」ってキミは繰り返す。
「どうして謝るんですか」って私は口元に手をやって笑った。その手を。キミはもう一度とって。
「きれいな爪ですね」
って。褒めてくれて。
「……ありがとうございます」
そのあとは。まるでお姫様をエスコートするみたいに。私のことを、部屋の中の。ベッドの上まで。キミは連れていった。
「……」「……」
お互いベッドの上で向かい合って。キミは。手汗でびしょびしょに濡れた手を私から少しだけ離して。ずらして。動かして。
どこか暖かい闇に満ちた部屋の中で、天井からぶらさがる蜘蛛の繊細な糸をたぐるみたいにして。私の頬に。たどりついた。
「凌太さん? ……どうして泣いているんですか」
キミは私の頬に手を触れさせたまま。
その瞳から。ぽろぽろと涙を流していた。
「あ……う……だって。こんなことあるんだって。思ったら、止まらなくて。夢が叶ったんです。ようやく、運命の人と巡りあえた。……あ」
その瞬間。窓から勢いよく夜の風が吹いてきた。ぱたぱたとカーテンが部屋の中で揺れる。風は断続的に続いて、部屋の中の空気をかき乱す。
「はは……タイミング悪いですね」
申し訳なさそうに言うキミに対して。
私は口元に微笑みをたたえたまま、無言で首を横に振った。
「すこし待っていてください。閉めてきます」
キミは私の頬から名残惜しそうに手を離して。
窓際へと近寄ると、何かに気づいたように空を見上げた。
「……あれ? さっきまで、月が出ていませんでしたか?」
キミは不思議そうに首をかしげて空を探しているけれど。お目当ての月はどこにも見当たらないみたいだった。
「……気のせいか」
やがて諦めて。キミは、梅雨入り前の夜の冷ややかな風が吹き込む窓を。
ゆっくりと。ゆっくりと。閉めた。
「…………」
部屋の中に静寂が満ちる。
かちり。壁にかかっていた時計の長身と短針が、その時計盤の頂点で重なった。窓の外の世界で、小さく鐘の音が鳴った気がした。
「……お待たせ、しました」
なんていうキミの。
最後まで敬語だったキミの言葉を背中で聴きながら。
「あれ? ユウカ、さん?」
私は後ろ手で、玄関のドアを閉めた。
* * *
「……っ」
私はエレベーターには乗らずに、横のらせん階段を14階分くだっている。
キミの部屋は1406号室。覚えてる。運命というのはどこまでも皮肉で。その4つの数字は、6月14日――私の誕生日と同じだった。
――『ユウカさんは運命の出会いを果たした、おれのお姫様なんですっ』
なんて言って。キミは私のことをもう一度おとぎ話の世界に引き入れてくれたけれど。私の小さな頃からの夢だった、叶うことをいつの間にか諦めていた――白馬の王子様になってくれたけれど。
「おとぎ話の世界の私たちは――今日出会っていなきゃいけなかったの」
だけど。現実は違う。
私たちはもう過去に出会ってしまっている。
「…………」
キミの瞳に映っていたのは、月見草が咲き誇る夜にハジメテ劇的に出会ったお姫様としてのユウカで。
小さな頃に出会った――記憶のどこにも残っていないような平凡な少女としての私じゃない。
「キミが、そんな私の正体をいつか知ってしまったら。シンデレラの魔法は解けてしまう」
階段をおりていく途中で。
川の土手に咲く月見草の群生が目に入った。
『無言の愛情』『打ち明けられない恋』――そんな花言葉を持つ黄色い花。一夜に咲いて。朝にはしおれてしまう儚い花が作りだした地上の月。
「気づかないふりをしていたのかもしれない」
空の上に浮かぶ月は永遠でも。
地上に咲いた月は一夜限りの刹那だ。
私を現実から救い出してくれた王子様にとって――私はハリボテのお姫様でしかなかった。
「そんなの最初から。分かってたはずなのに――」
だって。落ちたのはやっぱりどうしたって空じゃなくて階段だし。
可愛いって言ってくれた服装は、ぜんぜん可愛くなんかないし。
褒めてくれたシンプルなネイルは、落ちた時に擦れて剥がれてたし。
私のことを最後まで――思い出すことはなかったし。
なんてことはない。
キミの瞳の中に現実世界の私は映っていなかった。
「それに――月見草の花言葉は、もうひとつあるの」
『無言の愛情』『打ち明けられない恋』――私にふさわしい優しい花だと。キミは言ってくれたけれど。
一夜のうちに花びらの色を変えていくことからなぞらえたもうひとつの花言葉は――『移り気』だ。
キミはきっとその花言葉を本当に知らなかったんだろうけど。
無知だからこそ無邪気で。無知だからこそ純粋でいられて。だからこそ。
キミはおとぎ話の世界に生きていられるのだろうけど。
「私は現実を知ってしまったから」
キミと同じ世界にはいられない。
そんな資格は――私には、もう。
「……っ」
いつのまにか一階まで降りてきていた。
玄関ホールの照明は壊れているのか、一定間隔を置いて明滅している。
「やっぱりガラスの靴には程遠いけれど」
私は鞄から手帳を取り出して。空白のページに、簡単に摩擦や熱で消えてしまうインクのボールペンを走らせて。1406――キミのポストに入れた。
―― 『 好きでした。 唯花 』
* * *
近くでタクシーを拾って。家につくと24時はとっくに過ぎていた。
魔法は解ける時間だけれど。私には最初から魔法なんてかかっていなかった。
「…………」
お風呂に入る気分じゃなかった。電球色のデスクライトだけをつけて。簡単に体を拭いてから。服を着替えて。メイクを落として。机の上に残っていたペットボトルから水を飲んだ。途中で右足が痛む。小さな擦り傷に対して大げさな包帯が巻かれている。私はその上で何度か手のひらを滑らせたあと。ぜんぶをゆっくりと剥がしていった。血はとっくに止まっていて。兎か何かの小動物に引っかかれたようなかさぶたができていた。
「……跡、残らないといいけど」
鞄の中からスマホを取り出す。黒い蜘蛛の巣みたいにひび割れた画面には、いくつか通知が残っていた。
会社の人たちからのラインに返信をして。残った2件の通知は――カレからだった。
――『いましごとおわった』『こんど埋めあわせする』
座っていた椅子をゆっくりと回転させる。天井を見上げる。そこにはどこまでも現実的な気配がある。
私はふたたびスマホの画面に目を落として。『おつかれさま』とだけ返したあと。すこしだけ迷って。
――『ねえ、私たちって付き合ってるの?』
なんて言葉を。打って。
そのまま送信ボタンを押した。
「……ふう」
短く息を吐く。私はラインを閉じてメールアプリを立ち上げる。ネイルサロンのメルマガからURLに飛んで平日の日中に予約をする。クローゼットの中からフリルのついたガーリーなワンピースを引っ張り出してきて、明日クリーニングに持っていくのを忘れないよう入り口の壁際にかけておいた。
「あ――」
卓上のスマホを見る。ひび割れた画面にカレから返信がきているのが分かった。顔認証はエラー。暗証番号を入れて。アプリを開く。本名で登録されたカレの名前の上に人差し指をもっていって、長押し。ポップアップで画面が浮かび上がる。そこにはたったひとことだけが書かれている。
「………………」
私はそこに書かれていた短い言葉を。
カレの本心かどうかも分からないひらがなの文字列を。
その7文字の言葉を頭の中で何度か繰り返したあと。
ゆっくりと。人差し指を画面から離して。
既読はつけないまま、微かに体に残った月の香りと一緒にベッドの中にもぐりこんだ。