──お母さんみたいに結婚で失敗してほしくないの。あなたには絶対に幸せになってほしいのよ。

父は私が小学3年生のときにいなくなった。
あれは9歳の誕生日。
私に、おもちゃのタブレットをくれて。
宝石や海の生物や花の図鑑がいれてあった。
私は自分の新しいおもちゃにわくわくしていた。
『こうやって使うんだよ』
一緒に指をさしたりしたりページをめくったりいろいろといじってそれから、じゃあな、と言った。
『どこにいくの?』
そう聞いた私に、ちょっとタバコを買いに、なんて答えた父は口の端をあげて笑っていた。その背中は大きかった。
それが父の最後の記憶。
それから父は家に帰らなかった。



「美桜はきれいになったわねえ」
「もういい歳だからね」

母の妹の真理子さんが遊びにくると、ふたりは必ずそんなことを話し出す。
──もう、いい歳だからね
そうはいっても。

「まだ26歳でーす」
「ちょうどいいわよ。いい人に巡り会えたんだから」
「そうよ、本当に美桜にはもったいないくらい」
「いつも渡辺さんは『僕にはもったないくらいの可愛いひと』って言ってくれるよ?」

母と真理子さんは顔を見合わせてくすりと笑う。

「愛されてるわねえ」
「いいわよね、美桜は」
「そんなこと……あるわよ、いいでしょう?」

ふふっと胸をはってみる。
それでも考える。
愛されているってどうことかなって。

愛されてる?
愛されてる。
母と父は、違ったのかな。
いつから、狂ってしまったのかな。

私は呪文を繰り返す。

──お母さんみたいに結婚で失敗してほしくないの。あなたには絶対に幸せになってほしいのよ。



渡辺さんは私を可愛い可愛いと言ってくれる。
父からその言葉をもらい損ねて生きてきたから、嬉しくてたまらない。その言葉を真正面から信じてしまう。
3年前に新入社員として入社した部署で、直接の先輩で。
告白は2年前に、渡辺さんからだった。
優しく頼もしい5歳上の先輩からの告白を、私が断る理由なんてなくて。
ただ、名前で呼び合っていると公私混同と言われる気がしたからずっと名字で呼び合っている。

「私の名前って知ってます?」

一度、冗談で言ってみたら顔を赤くして怒ったっけ。

「もちろんだよ、みお、美桜、さん」
「よかった。靖史さん」

そんなやりとりを経て順調につきあって。
あと1ヶ月後に式を挙げることになった。
付き合い始めて2年。

それでも私は呪文を繰り返す。



渡辺さんの実家が士業の事務所をしていることを、職場で聞いたことがあった。まだ告白もされていないころに。
──いつか会社をやめて実家の事務所を継ぐのよね。お金持ちなのよね。資格もとってるみたいだし。
そんな噂を聞いて、ふうん、と思った。

ふうん。
そうなんだ。

直接の上司、先輩であるその渡辺さんは、みんなに平等に親切だった。
誰か1人を特別に扱うことはなかった。
残業で飲み物を買ってくるときは必ずみんなに同じもの。何人いても。
小腹が空いたころには小さなチョコ。
クッキーやマドレーヌだったり。
優しさを等しく誰にでも分け与えられる人。
彼の笑顔は穏やかで、大きな嵐が起こることはなくて。
特別な人のいない人。
──じゃあ、そういう人が誰かを『特別』に思うことはあるのだろうか。
『それがもしも私だったら』
ふと思いついた。

それから。
渡辺さんを目で追うようになった。
彼が今何をしているのか、誰と仕事を進めているのか。
その相手も把握した。
彼が進めている作業は部下の私にも共有されていたから、平易な作業は積極的に請け負った。
先回りして、とにかく何でも。
入社半年の私にできることは少なかったけれど、例年同じ作業を繰り返すようなことや表作成などの『誰でもできるけど自分でやるには時間がかかる』ことなら。過去のファイルから学べるところは何でも学んでみた。

渡辺さんは『助かるよ』と言ってくれて。
私だけにコーヒーとクッキーを用意してくれた。
私だけに。
残業もできるだけ付き合った。
帰宅してもどうせ家で母と食事をとるだけの毎日。
それなら別に渡辺さんと残業して帰ってもかまわなかった。

──渡辺さんが新入社員を特別扱いしている。
そんな噂が出たときには別部署の女性に足をひっかけられたこともある。
渡辺さんだけの仕事を補佐するわけでなかったので、妙に畑違いな仕事を回されることもあった。
他のファイルや事例から学んでやりきった。出力した最後のページには私のデータ印をポンと押してやった。
誰が行った業務なのか上司に絶対にわかるように。

そういうことが続いて、何かしら嫌なことをしてくる人たちが女性ばかりだ、と気がついた。
渡辺さんが意外と人気があるんだな、と理解した。

そんなことがあったなどとは夢にも思っていない渡辺さんは、心底いい人だった。
変わらずみんなに丁寧で優しくて、私には更に優しく何かを──お菓子でも紅茶でも──プラスしてくれた。

そして告白をされて。
付き合い始めて今にいたる。



私は渡辺さんの『特別な人』になれたのだ。
母がなれなかった『特別な人』に。
これで母の呪文が頭をめぐることはなくなるだろう。
そう思ったとき、何かが手の中から落ちていった気がした。
手に入れたはずなのに。
自分がよくわからなかった。
いたずらに彼を振り向かせたかっただけだったのだろうか。
好きでもないのに。
好きでもないのに?

抱き合うことがすべてでもないのだろうけど、抱き合ってみればわかることもあるかと思って誘ったりした。しかし。

「それは結婚してから」

彼のおそろしく固い貞操観念に阻まれた。
職場ではお互いに普通の顔をしたまま仕事をする。
けれど職場以外で会うときは私のことをでれでれと眺め、可愛い可愛いと連呼する。
それでも抱き合ったりすることはなくて。
通常の男性の感覚がよくわからなくなった。
少なくとも、今まで付き合った男性とは普通に夜を過ごしたし、それが当たり前だと思っていた。
父のように、結婚をしていてさえも母以外の女性とそういうことができるということが男性は当たり前なんだと。思っていたくらいなのに。

好きか嫌いか、なんとも思っていないか。

結婚というゴールに向かってその三択のどれかであるか自分の気持ちをはっきりとさせたい。
なのにその手段を拒否されてはどうにもならない。
もやもやとしていた。

『結婚』は決まっている。変更しない。
母の呪文を繰り返す。
母を捨てて出て行った父のような相手と結婚しないように。
父という人間とは真逆の渡辺さん。
いい人の代表のような渡辺さん。
彼と結婚することは、母の願いにかなっていた。



「川島、美桜さん?」

夕方、残業もなかったので1人で駅の書店に入って結婚情報誌を眺めていると、声をかけられた。

「はい?」

振り向いたらそこには見覚えのある男性が立っていた。
その昔、大学時代につきあっていた彼の友達だった。
──その目に見つめられると体温が上がる。
当時、そんなことを思っていた相手。
確か名前は。

「橋本だけど。覚えてる?」



「美桜さんのこと、あのころみんな狙ってたし」
「嘘ばっかり。興味なんてなかったでしょ?」

あのころのこの人からの視線を覚えているのにそんな軽口をたたく。
その軽口のほうがずっと嘘だ。
橋本くんがよく行くというワインバーに誘われた。
中に野菜が入った丸いボールのような形のゼリー。それがサラダだった。珍しくておいしくて、ワインもすすんでしまった。

「大学卒業してあいつと別れたって聞いてたけど、今は?」
「んー? どうでしょう」

さっき私が結婚情報誌を見ていたことを、橋本くんは見なかったことにするらしかった。
それなら私もそうしようと思った。
ほろ酔いの気分で、気分のふりをして、話を続けてみる。

「講義のときもわざと美桜さんの隣に座ったりしてたのに、美桜さんはあいつとつきあっちゃって。あのときはほんとに1週間寝込んだ」
「ええ? 気づかなかったなー。橋本くんかっこいいもん。もっと口説いてくれたらよかったのに」
「そしたら俺にしてくれた?」
「したよー。もっちろん。とかいって、橋本くんだって彼女いたよね? おぼえてるよ、清楚な子」
「ああ、結婚した」
「ええええ? すっごい。続いてたの?」
「うっそ。違う彼女と」

橋本くんは、あはは、と笑ってワインを口にした。
結婚したことが嘘なのか。
あのころ付き合っていた彼女と続いてたのが嘘なのか。

グラスを持ってくるんくるんとワインを回してみた。
ここにおこる波。静かな波。
私が起こしている波。
薄暗い照明の中で、光がグラスにあたって反射する。
橋本くんをちらりと見やると、その視線に気づいたようににこりと笑った。

橋本くんの言ったとおり、私は大学時代の彼とは卒業後すぐに別れた。
そのまま母の呪文を胸に繰り返して会社員として過ごしてきた。
だからこんな軽口が楽しくてたまらない。
大学生のころに戻ったような気持ちになる。

──まあ、あのころ橋本くんとは何も起こらなかったけど。

今、私の手元にある波は、激しい波になるのだろうか。
グラスを見つめて、そう思った。



「ねえ、今からどうする?」

店をでて私たちは並んで歩く。
私の肩に手を回しながら耳元で橋本くんがささやいた。
──私たち、似ているのかもしれない。
こうしたことが、できてしまうということが。
私という海の中の波が、大きくうねるのを感じる。
彼の手に自分の手を重ねてみる。
それが彼への答えだったように、橋本くんが私をうしろからぎゅっと抱きしめた。
振り向き、私も彼の背に手をまわす。
唇がふってくる。生温かい。久しぶりのそのねっとりとした感触に、くらりとする。

その熱に。



父が出て行ってから母が唱え続けた呪文を、私もずっと胸の内で唱え続けていた。

──父のような人はだめ。
──幸せになれる人でなければだめ。

でも。
でも母だって初めは父と一生添い遂げるつもりだったはずなのだ。
どこで狂ってしまったんだろう。

父がタバコを買ってくると言ってふらりと出て行ってしまったとき。

「お父さんはタバコを買いに行っただけ」

母がそれきり何も言わないことが不思議だった。
愛して結婚したのなら、どうして何も追求しないのか、と。
もっと騒いだり怒ったりしないのか、と。
母の中の海は凪いでいるのか、と不思議だった。
ただ、タブレットで遊んでいると、母の眉はきゅっと険しくなった。
それを見てから、私は父にもらった最後のプレゼントを押し入れにしまい込んだ。
凪いでいるわけがなかった。
母にとってタブレットさえ父の抜け殻で。
憎々しく思う気持ちを抑えていただけだったのかもしれない。

今、あのときの押し入れをあけてみたら、何を思うだろう。
父の抜け殻を、捨てたいと思うだろうか。
いや、抱きしめたいと思うだろうか。
父によく似た、私自身の抜け殻を。



「赤ちゃんかわいい。かわいいよ、美桜。ありがとう。よくがんばったね」

生まれたばかりの赤ん坊をぎこちなく抱っこして、靖史さんは私をたたえた。その眉がさがりにさがっている。赤ん坊のおむつさえ、我先にと、にこにこして換えている。
私との結婚と同時に会社を辞めて、彼は父親の事務所のあとを継いだ。2代目社長になった。
資格もとってあり、事務所の従業員のかたがたとも良好な関係でいる。
私はすぐに妊娠して赤ちゃんを産んだ。

「渡辺さん、じゃなかった。靖史さん」
「ん? 美桜、なに?」

間違えちゃった、とペロリと舌を出した私を靖史さんがまぶしく見ている。
可愛いと、言ってくれるそのまなざしで。

「呼んでみただけ」
「ん?」

可愛いなあ、と呟いて、靖史さんが私の頭をそっと撫でた。
靖史さんの腕の中で、赤ちゃんが「だあ」と声をあげた。
私に似た、赤ちゃん。
可愛い赤ちゃん。
私の抜け殻の。