城所さんの言う通り、品川駅を過ぎると街の雰囲気が一変した。仕事で見慣れた高層ビルが居並ぶ都心の街並みではあるけれど、午前三時にはさすがに人通りはほとんどない。そんな場所を歩くのは新鮮だったし、隣を歩く人がいるのは未だに不思議な感じがした。
「このペースでいけばちょうど臨海部に出た辺りで夜が明ける感じですね。よかった」
スマートフォンのマップに視線を落とした城所さんがワクワクした様子で声をあげる。
「よかった、ですか?」
「橋の上から見える朝日が絶景なんですよ。こんな綺麗な朝日があるのかってくらい。なんだかんだ毎年歩き続けてる理由の一つかもしれません」
「そんなにすごいんですか?」
「百聞は何とやらです。楽しみにしててください」
城所さんは得意げだ。都心から見える朝日がそんなに綺麗なのか半信半疑だったけど、針治療のこともあるから想像以上のものかもしれない。何より、ワクワク感は疲れた体を前へと押し進めてくれる。
そうして歩き続けて、チェックポイントから歩き出して二時間ほど。
順調なペースで歩き続けて新橋の近くまで辿り着いた。この先は臨海部に向かいゴールの豊洲を目指すことになる。まだ辺り一帯は暗いけど、少しずつ夜明けの気配が近づいていた。
「……六川さん、ちょっと座ってもらっていいですか?」
それまで普通に話しながら歩いていた城所さんが、小さな公園で足を止めると二人掛けの小さなベンチを私に示した。休憩かなと思ってベンチに腰掛けたところ、城所さんは険しい顔をして私の前で膝をついた。
「すみません。勝手に失礼します」
「えっ」
止める間もなく城所さんは私の左足のシューズの紐を解く。するりと脱げた靴から現れたのは、ところどころ赤黒い染みがついた靴下だった。城所さんは失礼しますともう一度言ってから私の靴下を脱がし、表情を一段と険しくする。
「これ、めちゃめちゃ痛いですよね。途中から左足の接地の仕方、何かおかしいと思ってました。どうして言ってくれなかったんですか?」
「それは……」
朝日の話をした後くらいから、左足の痛みが無視できなくなってきた。マメがつぶれているのは陸上部時代の経験でなんとなく感じていた。
だけど、もし伝えたら、きっと城所さんは足を止めていただろう。そしたら、城所さんが楽しみにしていた朝日に間に合わなくなるかもしれない。結局、ばれてしまったわけだけど。でも、それをそのまま伝えたらかえって城所さんに気を遣わせるかもしれない。
答え方に悩んでいる間にも、城所さんは自分のみ持つからガーゼとテープを取り出すと手際よく傷口を保護してくれた。
「一応、応急処置はしましたが、ずっと庇って歩いてきたわけですし、少し休んだ方がいいですね」
処置を終えた城所さんは私に言い聞かせるように少し強めの口調で言うと、迷いなく私の隣に腰を下ろした。そこに焦った様子はまるでない。
「あ、あの。城所さんまで休憩したら、朝日見られなくなりますよ」
「そうですね」
「城所さんだけでも行ってください。私もちゃんと休憩してから行きますから」
「僕も疲れただけですから。ああ、そうだ。予備があるのでラストスパート用に六川さんもどうぞ」
城所さんは早口で言うと、荷物から栄養ドリンクを二本取り出して一本を私に握らせる。城所さんはぐいっと飲み干すと、ほのかに明るみの増した夜空を見ながら息をついた。白い靄がゆるゆると空気に溶け込んでいく。
「どうして、そんなに優しくしてくれるんですか」
城所さんと出会ってから、まだ数時間だ。ここまで連れてきてくれて、傷まで手当てしてくれて、さらには見たいと言っていた景色より人のことを優先しようとしている。親切な人、というだけでここまでしてくれないと思う。
「……六川さんは、僕が普段は根暗な陰キャだって言ったら信じますか?」
夜空を見上げていた城所さんは、少しだけ視線を私の方に向けた。
首を横に振ると、城所さんはふわりと表情を崩した。不思議と今日見てきた中で一番自然な表情に見えた。
「昔から人見知りで、この歳になっても変わらなくて。初めてこのイベントに出たときも、100km歩ききったら何か変わるかなって思ったんです。結局歩ききっても何も変わらなかったですけど」
どこか投げやりな口調とは別に城所さんの表情は穏やかだった。今日の城所さんを見ていたら人見知りなんて信じられなかったけど、相槌を打つ。
「だけど、100km歩いてる間だけは不思議となりたい自分になれるんです。歩いててハイになってるからかわからないですけど、明るくて、いつも笑顔で、人に優しくできて。そんな理想の僕でいられるんです」
城所さんは一度俯いてから顔をあげる。泣き笑いのような表情が街灯に照らされて頼りなく揺れていた。仮面がはがれた傷だらけの笑顔が、切なくて、愛おしい。
「だから、僕は理想の自分を演じるために優しさを六川さんに押し売りしてるだけなんです。今日を特別にしたいだけの、自分勝手なわがままなんです」
もしそれがわがままだとしても、城所さんと歩き出してから、私はここまで前を向けた。
それに、演技なんて言ってるけど、普段はうまく面に出せないだけで本来の城所さんは笑顔で、優しい人のはずだ。今夜の出来事がもしすべて演技だというのなら、城所さんは俳優になった方がいい。
特別な日にだけ顔を出す本来の自分。理想の自分。ありたかった自分。ああ、そっか。私はきっと。
「私、ずっと人に頼るのが苦手で。五年間付き合った恋人にも『愛梨は一人で生きていけそうだから』なんて振られて。100km歩いたら吹っ切れるかなって思ってたんですけど、城所さんの話聞いてたらそれくらいじゃ変わらないのかもしれませんね」
「そんなことは……」
城所さんの言葉を最後まで聞かずに、受け取った栄養ドリンクを一気飲みする。普段飲む安物とは違うのか癖と苦みがあったけど、元気と勇気をもらえた気がする。
足だけで靴を履いてえいっと立ち上がる。応急処置のおかげで足をついてもさっきまでのような痛みはなかった。
「今日だけは特別に『人に頼れる私』になろうと思います。それに、城所さんが見るべきだって景色も見たいんです。だから、歩きます」
突然立ち上がった私をポカンと見ていた城所さんの眉が心配そうに八の字に下がる。
「あくまで応急処置なんで、歩いたらすぐに悪化するかもしれません」
「はい。一人だったら歩けなくなるかもしれません。だから、お願いします」
自分のことをワガママだなんて言う城所さんに本物のワガママをぶつける。
戸惑った表情の城所さんに右手を差し出す。
「城所さん、私を連れて行ってください」
城所さんは戸惑った表情を苦笑に返ると、私の手を取って立ち上がる。
立ち上がってからもその手は握りしめたまま。城所さんはしばらく迷うようにその手を見つめてから、やがて諦めたように息をついて笑った。
「どうなっても知りませんよ」
「大丈夫です。今日は特別な日、ですから」
城所さんに手を引かれたまま歩く。体も心もどこかフワフワとしていて、痛みも疲れも感じなかった。
それまでとは打って変わってほとんど話すことなく夜明け前の街を歩く。新橋を越え、銀座の辺りで右折して進んでいくと、段々と潮の香りが近づいてくる。そうして勝鬨橋を渡ると視界がぐっと開けた。海に近づくほど、世界が明るくなっていく。
明けてほしくない夜のことを、可惜夜というらしい。もしこのまま夜が明けることなく歩き続けたら、私たちは理想の姿で居続けることができるだろうか。本当は、こうやって誰かに頼りたかった。導いてほしかったのだと、歩くたびに実感する。
「間に合った!」
晴海から豊洲につながる橋の途中で城所さんが足を止める。
城所さんに倣って海の方を見ると、東の空から少しずつ光の筋が顔を出す。空を染めるのは淡く揺れる紫色のグラデーション。海は朝焼けの光でキラキラと光りながら、夜と朝のはざまの色で揺れていた。
世界が夜から朝へと移ろっていく。ただそれだけの光景に心を奪われていた。そっと握りしめた手のひらが、ぎゅっと握り返される。
少しずつ世界は明るくなって、海は輝きを増していく。赤みがかっていた世界が青みを帯びて、世界が喧騒を帯びていく。
――そして、それは夜の終わりを意味していた。
橋を渡り切れば、ゴールはすぐそこだった。
「このペースでいけばちょうど臨海部に出た辺りで夜が明ける感じですね。よかった」
スマートフォンのマップに視線を落とした城所さんがワクワクした様子で声をあげる。
「よかった、ですか?」
「橋の上から見える朝日が絶景なんですよ。こんな綺麗な朝日があるのかってくらい。なんだかんだ毎年歩き続けてる理由の一つかもしれません」
「そんなにすごいんですか?」
「百聞は何とやらです。楽しみにしててください」
城所さんは得意げだ。都心から見える朝日がそんなに綺麗なのか半信半疑だったけど、針治療のこともあるから想像以上のものかもしれない。何より、ワクワク感は疲れた体を前へと押し進めてくれる。
そうして歩き続けて、チェックポイントから歩き出して二時間ほど。
順調なペースで歩き続けて新橋の近くまで辿り着いた。この先は臨海部に向かいゴールの豊洲を目指すことになる。まだ辺り一帯は暗いけど、少しずつ夜明けの気配が近づいていた。
「……六川さん、ちょっと座ってもらっていいですか?」
それまで普通に話しながら歩いていた城所さんが、小さな公園で足を止めると二人掛けの小さなベンチを私に示した。休憩かなと思ってベンチに腰掛けたところ、城所さんは険しい顔をして私の前で膝をついた。
「すみません。勝手に失礼します」
「えっ」
止める間もなく城所さんは私の左足のシューズの紐を解く。するりと脱げた靴から現れたのは、ところどころ赤黒い染みがついた靴下だった。城所さんは失礼しますともう一度言ってから私の靴下を脱がし、表情を一段と険しくする。
「これ、めちゃめちゃ痛いですよね。途中から左足の接地の仕方、何かおかしいと思ってました。どうして言ってくれなかったんですか?」
「それは……」
朝日の話をした後くらいから、左足の痛みが無視できなくなってきた。マメがつぶれているのは陸上部時代の経験でなんとなく感じていた。
だけど、もし伝えたら、きっと城所さんは足を止めていただろう。そしたら、城所さんが楽しみにしていた朝日に間に合わなくなるかもしれない。結局、ばれてしまったわけだけど。でも、それをそのまま伝えたらかえって城所さんに気を遣わせるかもしれない。
答え方に悩んでいる間にも、城所さんは自分のみ持つからガーゼとテープを取り出すと手際よく傷口を保護してくれた。
「一応、応急処置はしましたが、ずっと庇って歩いてきたわけですし、少し休んだ方がいいですね」
処置を終えた城所さんは私に言い聞かせるように少し強めの口調で言うと、迷いなく私の隣に腰を下ろした。そこに焦った様子はまるでない。
「あ、あの。城所さんまで休憩したら、朝日見られなくなりますよ」
「そうですね」
「城所さんだけでも行ってください。私もちゃんと休憩してから行きますから」
「僕も疲れただけですから。ああ、そうだ。予備があるのでラストスパート用に六川さんもどうぞ」
城所さんは早口で言うと、荷物から栄養ドリンクを二本取り出して一本を私に握らせる。城所さんはぐいっと飲み干すと、ほのかに明るみの増した夜空を見ながら息をついた。白い靄がゆるゆると空気に溶け込んでいく。
「どうして、そんなに優しくしてくれるんですか」
城所さんと出会ってから、まだ数時間だ。ここまで連れてきてくれて、傷まで手当てしてくれて、さらには見たいと言っていた景色より人のことを優先しようとしている。親切な人、というだけでここまでしてくれないと思う。
「……六川さんは、僕が普段は根暗な陰キャだって言ったら信じますか?」
夜空を見上げていた城所さんは、少しだけ視線を私の方に向けた。
首を横に振ると、城所さんはふわりと表情を崩した。不思議と今日見てきた中で一番自然な表情に見えた。
「昔から人見知りで、この歳になっても変わらなくて。初めてこのイベントに出たときも、100km歩ききったら何か変わるかなって思ったんです。結局歩ききっても何も変わらなかったですけど」
どこか投げやりな口調とは別に城所さんの表情は穏やかだった。今日の城所さんを見ていたら人見知りなんて信じられなかったけど、相槌を打つ。
「だけど、100km歩いてる間だけは不思議となりたい自分になれるんです。歩いててハイになってるからかわからないですけど、明るくて、いつも笑顔で、人に優しくできて。そんな理想の僕でいられるんです」
城所さんは一度俯いてから顔をあげる。泣き笑いのような表情が街灯に照らされて頼りなく揺れていた。仮面がはがれた傷だらけの笑顔が、切なくて、愛おしい。
「だから、僕は理想の自分を演じるために優しさを六川さんに押し売りしてるだけなんです。今日を特別にしたいだけの、自分勝手なわがままなんです」
もしそれがわがままだとしても、城所さんと歩き出してから、私はここまで前を向けた。
それに、演技なんて言ってるけど、普段はうまく面に出せないだけで本来の城所さんは笑顔で、優しい人のはずだ。今夜の出来事がもしすべて演技だというのなら、城所さんは俳優になった方がいい。
特別な日にだけ顔を出す本来の自分。理想の自分。ありたかった自分。ああ、そっか。私はきっと。
「私、ずっと人に頼るのが苦手で。五年間付き合った恋人にも『愛梨は一人で生きていけそうだから』なんて振られて。100km歩いたら吹っ切れるかなって思ってたんですけど、城所さんの話聞いてたらそれくらいじゃ変わらないのかもしれませんね」
「そんなことは……」
城所さんの言葉を最後まで聞かずに、受け取った栄養ドリンクを一気飲みする。普段飲む安物とは違うのか癖と苦みがあったけど、元気と勇気をもらえた気がする。
足だけで靴を履いてえいっと立ち上がる。応急処置のおかげで足をついてもさっきまでのような痛みはなかった。
「今日だけは特別に『人に頼れる私』になろうと思います。それに、城所さんが見るべきだって景色も見たいんです。だから、歩きます」
突然立ち上がった私をポカンと見ていた城所さんの眉が心配そうに八の字に下がる。
「あくまで応急処置なんで、歩いたらすぐに悪化するかもしれません」
「はい。一人だったら歩けなくなるかもしれません。だから、お願いします」
自分のことをワガママだなんて言う城所さんに本物のワガママをぶつける。
戸惑った表情の城所さんに右手を差し出す。
「城所さん、私を連れて行ってください」
城所さんは戸惑った表情を苦笑に返ると、私の手を取って立ち上がる。
立ち上がってからもその手は握りしめたまま。城所さんはしばらく迷うようにその手を見つめてから、やがて諦めたように息をついて笑った。
「どうなっても知りませんよ」
「大丈夫です。今日は特別な日、ですから」
城所さんに手を引かれたまま歩く。体も心もどこかフワフワとしていて、痛みも疲れも感じなかった。
それまでとは打って変わってほとんど話すことなく夜明け前の街を歩く。新橋を越え、銀座の辺りで右折して進んでいくと、段々と潮の香りが近づいてくる。そうして勝鬨橋を渡ると視界がぐっと開けた。海に近づくほど、世界が明るくなっていく。
明けてほしくない夜のことを、可惜夜というらしい。もしこのまま夜が明けることなく歩き続けたら、私たちは理想の姿で居続けることができるだろうか。本当は、こうやって誰かに頼りたかった。導いてほしかったのだと、歩くたびに実感する。
「間に合った!」
晴海から豊洲につながる橋の途中で城所さんが足を止める。
城所さんに倣って海の方を見ると、東の空から少しずつ光の筋が顔を出す。空を染めるのは淡く揺れる紫色のグラデーション。海は朝焼けの光でキラキラと光りながら、夜と朝のはざまの色で揺れていた。
世界が夜から朝へと移ろっていく。ただそれだけの光景に心を奪われていた。そっと握りしめた手のひらが、ぎゅっと握り返される。
少しずつ世界は明るくなって、海は輝きを増していく。赤みがかっていた世界が青みを帯びて、世界が喧騒を帯びていく。
――そして、それは夜の終わりを意味していた。
橋を渡り切れば、ゴールはすぐそこだった。