この夜だけでいいと、思い込んでいた


 先輩がずっと好きだった。
 でも、先輩にはいつだって、彼女がいた。
 そんな先輩と私の恋の物語が、始まったのは、今日。
 つい、さっきのことだった。

 元サークルメンバーで会って過ごした日帰り旅行は、夢のような楽しい時間だった。
 SNSのアプリの通知を見るまで、私はまだふわふわと夜の夢の中を漂う。
 現実感の無い幸せな痛みを、噛み締めながら。
 海で泳いで、夕日を眺めてみんなでバーベキューをして。
 私、今ものすごい青春をしてる。
 大人になってからも、こんな青春があるとは知らなかった。
 そんな感動に打ち震える、楽しい一日のはずだった。

 だって、大好きな先輩が隣にいて、はしゃいで海に足を浸してる。
 私の目はずっと、先輩だけを追っていた。
 でも先輩には、可愛い小柄な彼女がいる。
 「俺はきっと今の彼女と結婚する」なんて、自慢の彼女が。
 先輩の惚気に、いつだってサークル仲間は白けた顔で見ていた。
 私は、楽しそうにまたその話をしてるであろう先輩を見つめてる。
 一人で、潮風に濡れた唇を噛み締めながら。
 夕日が沈みかけの海は、ただ広い。
 そして、ただ、波を打ち寄せては返している。

 ざぷんっという音に、気を取られて、近づく先輩に気付けなかった。

「唇、血出ちゃうぞ」

 そう言って私の唇に触れた先輩の人差し指が、やけに熱くて湿っぽいから。
 慌てて、離れる。
 それでも、先輩はにじりよるように私の近くに座り込む。

「大丈夫です」
「なにそれ、強がり?」
「本当です! っていうか、今日は連れてきてないんですね」
「向こうも、友達と出かけるんだってさ」

 プイッと拗ねたような横顔に、ジリジリと心が焼き焦がされる。
 縋りついて、その手を取れば先輩は今だけでも私を見てくれるのだろうか。
 淡い期待に、バカな考え。
 私は誰をと言っていないのに、先輩はすぐさま、何の話か理解する程度には、彼女のことばかり考えてる。

「そうなんですね」

 さも興味ありません。
 という顔をして、海を見つめる。
 ぼんやりと歪んだ地平線に、激しく心が乱れた。
 聞きたくないくせに、すぐ、先輩に聞いてしまう。
 連れてこなかったのは、別れたからだって、聞きたくて、わざと言葉にしてしまった。
 私は、本当に、バカだ。
 
「ほら、みんな戻っちゃったから俺らもシャワー浴びて戻るぞ」

 先輩は優しく私の前に、手を差し出す。
 掴めば、触れれば、きっと、もっと先輩が好きになってしまう。
 可愛い彼女の自慢ばかりの、この人を。
 でも、また妄想してしまう。
 私が「まだ、いやです」と可愛くおねだりすれば、きっと先輩は待っていてくれるという、都合のいい想像。

「みんな、待ってるから」

 あっさりと、そんな妄想を打ち砕いて、先輩はみんなの方に目配せする。
 他のメンバーはといえば、バーベキューの後片付けも終わり、体にまとわりついた潮の香りを洗い流し終えたところだった。
 濡れた髪の毛を、乱雑にタオルで拭いながら、海辺を去っていく。
 先輩は、急かすように私の背中をトンっと叩いた。

「莉亜、置いてかれちゃうぞ」
「先輩こそ、急がないでいいんですか? みんなもう片付け終わって帰ろうとしてますけど」
「まぁ、ほら後輩置いて行けないだろ。まだ帰りたくないの? 夜の街に繰り出してみる?」

 魅力的な提案に、何も考えずに自然と頷いていた。
 先輩と、まだ一緒にいたい。
 この恋が叶わないことも、先輩は私のことを後輩としてしか見てないことも知っていても。
 まだ、隣に居れたら……淡い妄想が叶うような予感がしてしまう。
 頷いた私を見届けて、先輩は悪い顔で笑う。
 見える八重歯も、むにゅっとなった唇も、全てが恋しい。

 それに、先輩も少しは私のことを気にかけてくれてるんだよね?
 だって、ただの後輩が一人で黄昏ていたって、声をかけて来たりしない。
 この優しさは、誰にでも渡すものじゃ無いはずだ。

「じゃあ、早くシャワー浴びて着替えておいでよ。俺がみんなには言っておくから」

 さっと駆け出した先輩の背中を見送ってから、やっと立ち上がる。
 つま先にまとわりつく砂を蹴り上げて、一人でガッツポーズをしてしまった。
 今日だけは、私の先輩。
 この夜だけは、私のものだ。

 先輩と歩く夜の街は、すごく楽しくて。
 この世界に、私たち二人きりになってしまったみたいで。
 暗闇の中、ぼんやりと灯る灯りに目移りしながら、ふらふらと歩いた。

「どうして今日付き合ってくれたんですか?」

 提灯の赤さに目を細めながら、横を歩く先輩の顔を盗み見る。
 すっと通った鼻筋も、少し重ための一重の瞳も、ちょっぴり意地悪そうな笑顔も。
 全部、全部、愛おしくてたまらないのに。
 手を伸ばせば届きそうな距離。

 生ぬるい風が、私に変な気を持たせる。
 先輩が、私を見つめて、私だけを気にかけてくれてる。
 
 照りつける太陽の激しさとは裏腹な、静かなぬくもりを感じながら、隣の先輩にわざと手をぶつける。

「なんか、寂しそうだったから。ってか莉亜と二人で話すの久しぶりな気がするな」
「先輩の後ろずっと、着いて歩いてたんですけどねぇ」
「可愛いと思ってたよ」
「えっ?」
「だから、莉亜のそういうとこ、俺には可愛いと思ってた」

 するりと繋がれた右手に、緊張で熱がこもる。
 私の手だけが、汗ばんでいる。
 夕方、あんなに惚気ていた口が、今は私を可愛いと言っていた。
 そして、あんなに愛しいと彼女を見つめていた瞳が、私を真剣に射抜いている。

 もう嘘でも、いい。
 もしかしたら、先輩も、彼女と別れたいのかもしれない。

 いつのまにか、人通りの少ない暗闇に染まる海沿いの道まで来ていた。
 潮の香りが鼻にツンと染みて、先輩の顔がよく見えない。
 生ぬるく夜に染まって行く海岸は、人もまばらで静寂を保っている。

「将先輩、私、ずっと好きだったんです。一目惚れしたんです、先輩の音楽に」

 甘ったるいソフトな声に、楽しそうな表情に、額にかいた汗に、私の心は惑わされて掠め取られた。
 先輩は繋いでる手をより一層、強く握りしめて持ち上げる。
 そして、私の右手に軽くキスを落として、傷ついた顔をした。

「知ってた、だからちょっと会わないようにしてた。揺れちゃうから」
「私じゃダメですか」

 やけに陳腐な言葉に、気づけば、答えなんかいらなくて。
 将先輩の顔は、私のすぐ目の前で。将先輩になら流されてもいい。
 彼女への半分の、ううん、四分の一の愛でもよかった。
 涙で歪んだ先輩も、やっぱり変わらずに格好良くて。
 バカ女な私は、このまま時間が止まればいいなんて、本気で願ってる。

 触れるだけの軽いキスは、私の心をドロドロに溶かし切るのには十分だった。
 先輩の声に、指に、唇に、抗う理由をもう考えられない。
 まだ、まだと、ねだるように先輩の背中に手を回す。

「いい?」
「はい」

 その二音が、私たちの過ちの始まりだった。

「おいで」

 甘い声だけが耳を酔わせる。
 手のひらを重ね合わせて、二人で真っ暗い海で寄り添う。
 明るい時間の先輩は手に入られられない。
 分かりきってるのに、先輩のぬくもりに触れて愛されてると勘違いして。
 それでもいい。
 この夜の時間だけが、私の先輩なら。
 少しだけでも、私のものになるなら。

 朝には先輩のぬくもりは私の横から消えて、正しい定位置に戻るのに。
 そんな誤魔化しを繰り返し、言葉にした。

「莉亜?」
「将先輩、私本当に嬉しいんです。先輩に一時間だけでも、一ミリだけでも、応えてもらえて。なのに、どうして、人間って欲深いんでしょうね」

 白み始めた空は先輩の輪郭を、生々しくはっきりとさせていく。
 波の音だけが、静かに二人の間を行き来していた。
 将先輩は真剣そうな顔をして、寄せては返す波を見つめてる。
 もしかしたら、本当の帰る場所を思い出してたのかもしれない。

 わかってる。
 このまま、一ミリで良いから応え続けてほしいなんてワガママは通らない。
 だって、先輩の顔にピントが合ってる。
 おぼろげな夢は終わったんだ。
 離れてく先輩の体が冷たくなっていて、でも、縋り付くように頬にキスをした。

「莉亜は可愛いから、もっと良い人見つかるよ」

 残酷な音だけ耳に残して、私の唇を先輩の色に塗り替えるだけ塗り替えて。
 先輩はまた、私の好きな悪戯っぽい笑顔を作るから、涙が引っ込んでしまった。

「一日だけの、遊びで良いなんてずっと思ってたんですけどね」
「それも知ってたよ」
「ずるいですね」
「彼女が居なかったら、莉亜が一番だったよ」

 柔らかい嘘は、私の喉を締め付ける。
 彼女がいなくても、私は先輩の一番にならない。
 だって、彼女が居ない時期も、私はずっと先輩が好きだった。
 今の小柄な可愛い彼女と出会う前から、私は、ずっと、先輩の隣に居たんだ。
 
 だから、明日が始まらなければ良い。
 夜が明けなければ良い。
 ずっと、変わらずに、ここに永遠に留まっていたい。
 願っても、変わらずに明日へと、進んでしまう。

「ほら、帰って寝ないと明日辛いよ」

 私の右手を遠慮がちに掴む先輩の手は、さきほどの熱さとは打って変わって、ひんやりと冷めきっている。
 完全に陽が沈んだ海は、静かにザザンと波の音だけ響かせた。
 先輩のチラチラと時計を見る仕草で、次の約束に気づいてしまう。
 自分の勘の良さが、物分かりの良さが、恨めしい。
 立ち上がって、足にまとわりついた素直を、払い落とす。

「帰りましょうか」

 私の言葉に先輩は、わざとらしく安堵の笑みを浮かべた。
 そして、始まりと同じように、私に手を差し出す。
 私は、その手を掴めないで、先輩の太ももにこびりついた砂を払った。

 叶わない恋だと自覚しながらも、薄皮一枚の愛に縋った。

「送ってくよ」

 そう言って、先輩の車に乗り込む。
 先輩の好きなアーティストの曲が、カーナビから流れていた。
 叶わない恋に、騙された女の歌。
 その歌詞をただなぞるように、唇から音に乗せれば、先輩も隣で口ずさむ。

 先輩の隣に座れるだけで、ドキドキしたのに。
 先ほどキスしたとは思えないくらい、私の世界はカーキ色に色褪せている。
 帰り道は、あっという間で、終わらないでと願う隙もなく、私の家の前にたどり着いた。

「じゃ、また行こうな」
 
 そして、先輩は私を送った足でまた素晴らしい今の彼女の元に帰って行く。
 冷めた体温だけ、私に残して。

 先輩の体温を消し去るように、浴びたシャワー。
 拭いきれなかった水滴が、ぽたりと、床に伝っていく。
 さっきまで隣にいたのに。
 たまたま開いた、SNSには、幸せそうな先輩と。
 可愛い小柄な彼女の、左手が並べられた写真。
 婚約しました、という簡潔な報告付きだった。

 スマホを握る自分自身の左手が目に入って、寂しい薬指を切り落としたい衝動に駆られた。
 あんなに幸せそうなんだ、薬指一本交換するくらい。
 想像して、あまりの浅はかさに、視界が揺らぐ。

 先輩が、結婚する。
 その事実に唇を噛み締めたまま、アプリを強制的に終了する。
 幸せそうな顔で、奥さんと仲睦まじそうに微笑む先輩の写真ごと、スマホを握り潰してしまいそうだったから。
 さっきまで、先輩の横に居たのは、私だったのに。
 いつかこんな日が来ること、わかっていたのに。
 それでも、さっきまで先輩の甘い言葉に、私は惑わされていた。
 
「結婚するってどう言うことですか」

 呟いた言葉には、誰からも返事は無い。
 部屋は何の音もせず、静寂に包まれている。
 
 先輩に送ろうとしたメッセージを全部消して、恋の終わりが脳に焼き付く。
 海での、残酷な音を聞かなかったふりをした。
 もう、何の音も耳に届かない。
 
 いつか、が本当にあるものだと錯覚していた。
 それでも、スマホを放り投げられなくて、いつかが、来ない事実に、打ちのめされる。
 なにも、わからなかった。
 先輩が何を言いたかったのかも。
 何を考えていたのかも。

 でも、わかっていることは、先輩が婚約した事実だけだった。


<了>