「――琴音(ことね)?」

 ずっと聞きたいと思っていた声。
 けれど、二度と耳にすることはないと思っていた声。

「……優斗(ゆうと)

 独身最後の一人旅の終着点は、初恋の人との再会だった。



 一人の時間が好きだ。
 自分の好みとセンスだけで作り上げた部屋の中、お気に入りの音楽を聴きながら好きな動画を見る。
 だらだらと惰眠を貪ってもいいし、ベッドからほとんど動かず漫画を読み耽ってもいい。
 それでご飯を食べ損ねようと、お菓子の食べ過ぎで翌日にニキビができて後悔しようと、咎める人は誰もいない。
 そんな自由な時間を過ごせるのは、一人のときだけだ。

 一人旅が好きだ。
 行き先やホテル、交通手段は全て自分で選べばいい。
 節約したければ夜行バスに乗って格安宿に泊まる。
 ちょっと贅沢をしたいときは、新幹線のグリーン車に乗って一泊数万円のホテルに泊まる。
 一人なら行きたい観光地も食べたいものも自分のことだけを考えればいいのだから、こんなに楽なことはない。
 こう話すと、返ってくる言葉はだいたい決まっている。

『一生結婚できなそう』
『独身主義なんだ』
『恋愛に興味がないの?』

 どうして「一人の時間が好き」イコール「結婚願望がない」になるのだろう。
 むしろ恋人がいるからこそ、たまの一人時間が楽しくて仕方ないのに。
 少なくとも琴音にとってはそうだった。
 どんなに好きでも恋人と自分は異なる人間。百パーセント理解し合うなんて不可能だ。
 だからこそお互いを大切にするためにも適切な距離感が必要なのだと思う。
 この考えに同意してくれる人もいれば、そうでない人もいた。
 過去にはこの恋愛観が原因で振られてしまったこともある。
 それでも琴音にとって「一人の時間」は絶対に必要なものだった。

『……琴音と話していると疲れる』
『いい加減にしてくれ。俺にも俺の都合がある。琴音にばかり合わせてなんていられない』
『――別れよう』

 もう二度と、同じ過ちを繰り返さないために。



 朝倉琴音、二十九歳、独身。
 今回、一人旅の行き先に琴音が選んだのは、大学時代を過ごした思い出の街だった。
 昼前に到着した琴音は、午後の時間いっぱいを使って当時の思い出を辿るように街を巡った。 
 大学の近くにある定食屋、学生御用達の専門書が豊富な本屋、友人とよく買い物に行った駅ビル。
 そして、四年間アルバイトをしていたチェーンの居酒屋。
 琴音の大学時代を振り返ったとき、真っ先に思い出すのは授業でもサークルでもない。このアルバイト先だ。

 ――ここは、初めての恋人と出会った場所だから。

 宮澤優斗。

 大学三年生の秋から社会人一年目の冬までの約二年間を付き合った、一歳年下の元彼。
 琴音の大学生活を語る上で優斗の存在は切っても切り離せない。
 手を繋ぐのも、キスも、セックスも。初めての相手は全て優斗だった。
 そんな彼と最後に連絡を取ったのは、六年前に別れ話をしたのが最後だ。
 今の彼がどこに住んでいて、なんの仕事をしているかも琴音は知らない。
 それなのに、昔を懐かしんでふらりと入った居酒屋にいたのが優斗なんて、さすがに出来過ぎだと思う。
 そう思ったのは優斗も同じだったようで、彼は琴音を見るなり絶句し、手に持っていたお猪口を落とした。
 おかげで再会の言葉を交わす間もなく互いに慌てふためいたものだから、気まずさを感じる暇もなかった。
 それがよかったのかは定かではないが、片付けを終えた後は自然な流れでカウンターに隣り合って座っている。

「まさかこんなところで琴音と会うなんてなあ。最後に会ったのが俺が二十二のときだから……六年ぶり?」

 もうそんなに経つのか。あっという間だなあ。
 しみじみと呟き、日本酒の注がれたお猪口を煽る優斗は、記憶の中の彼とは一致しない。
 琴音の中の彼の姿は、大学四年生で止まっている。
 当時の優斗もすでに飲酒できる年齢だったものの、あの頃の彼は酒の味より飲み会の雰囲気に酔っているような青臭い男子大学生だった。
 しかし今、琴音の隣にいる彼は違う。
 二十八歳となった彼は、まぎれもない大人の男だ。

「……私だって驚いたわ。優斗はどうしてここにいるの?」
「昼間、サークルのOB会があったんだよ」
「サークルって……自転車競技部?」
「そう。昼間はサークルの連中とひとっ走りして夜はみんなで飲む予定だったんだけど、一人でゆっくりしたくて俺だけここに来た」
「一緒に行かなくてよかったの?」
「別にいいんじゃね? 会おうと思えばいつでも会えるし。そもそも日中ずっと一緒にいたからな」
「あいかわらずマイペースね」
「そうかな?」
「……そうよ。優斗は今どんな仕事をしてるの?」
「都内のシステム開発会社で働いてる」
「え……? 今、東京にいるの?」
「そうだよ。あれ、知らなかった?」
「知らないわよ。だって、別れてから一度も連絡を取ってなかったし」

 呆気に取られながらも答えると、優斗は「それもそうか」と小さく笑う。
 でも、琴音は笑えなかった。
 この六年間、共に都内で働いていたのに二人が顔を合わせることは一度もなかった。それが旅先で再会するなんて、何の因果だろうと思ったのだ。

「そういう琴音は昔と同じ会社で働いてるの?」
「新卒で入社した会社なら三年前にやめたわ」

 琴音の前の職場は国内でも有数の食品メーカーで、例年就職人気企業ランキングにランクインするほどの大手だった。
 新入社員の多くを都内の有名私立大学を占める中、地方の国立大学出身の琴音はかなり珍しかった。
 当時、大学のキャリアサポートセンターの職員にとても驚かれたのは記憶に新しい。
 とはいえ、最終的にはあまりの激務ぶりに体調を崩して退社することになったのだけれど。

「今は同じ業種の違う会社で働いてる」

 隠すことでもないので素直に答えると、なぜか優斗はふわりと頬を綻ばせる。

「そっか、あの会社は辞めたのか」
「もったいないことをしたと思う?」
「いや。むしろほっとしてる」
「……どうして?」
「あの時の琴音は正直見ていられないほど疲れてたから。別れてからも、いつかそのうち体を壊すんじゃないかって心配してたんだ。だから今、転職したって聞いて少し安心した」

 さらりと告げられた言葉に咄嗟に反応できなかった。

(どうして……)

 なぜ、今になってそんなことを言うのだろう。
 かつての恋人が不意に見せた優しさに一瞬、気持ちが揺れる。
 心の奥底に閉じ込めていた甘くて青い感情が顔をのぞかせそうになって、たまらず琴音はグラスに残っていたビールをぐいっと飲み干した。

「うわっ、一気とかやめろって。悪酔いするぞ」

 直後、隣からは呆れる声が聞こえてきたけれど放っておいてほしい。

(こんな状況、飲まないと無理よ)

 今の琴音は表向きは平静を装いつつも、本当は自分でもどうしたらいいのかわからないほど緊張している。
 心臓がドクドクと激しく波打っているのは、ビールのせいではない。
 間違いなく、優斗が原因だ。

「おまえ、あんまり酒が強いわけじゃないんだからほどほどにな」

 ――また、だ。

 別れてから六年も経っているのに、優斗はあたりまえのように琴音を気遣う。
 優斗は知らないだろう。琴音の視線が、さりげなくまくった袖口から覗く太い手首に吸い寄せられていることも、酒を嚥下する喉元を意識していることも。
 
 ――すぐ隣に優斗がいる。
 ――自分に向けて笑いかけている。

 たったそれだけのことに、どうしようもなく胸が疼く。
 でも、それを優斗に気づかれることだけは絶対に避けたかった。
 だって、悔しいじゃないか。
 優斗が驚いたのは最初だけで今は平然としているのに、琴音だけが意識をしているなんて。
 だから琴音は酒に逃げることで動揺を押し隠した。

「琴音はどうしてまたここに? 大学時代の友達に会いにきたとか?」

 もしもここで「そうよ」と頷けばこの会話は何事もなく終わり、次の話題に映るだろう。
 しかし、琴音はそうはしなかった。
 多分、自分の隣で飄々と酒を楽しむかつての恋人が少しでも驚く顔が見たかったのだと思う。

「旅行中なの。結婚前にもう一度ここに来たいなと思って」

 目論見は当たった。優斗は目を丸くし、ぽかんとする。

「結婚するのか?」

 来月入籍予定だと答えれば、優斗の顔から笑顔が消え、瞳が揺れた。

「……おめでとう」
「ありがとう」
「相手はどんな人?」
「同じ会社の先輩」
「年上? 年下?」
「四歳年上よ。今、三十三歳」

 問われるままに質問に答える。
 すると優斗は「そっかあ」としみじみとつぶやき、盃を傾けた。
 しかし中身は空っぽだったようで、微かに震える彼の指先から琴音は優斗の動揺を感じ取る。
 どうやら少しは驚いてくれたようだ。
 優斗の反応に、琴音のちっぽけな自尊心が満たされる。

「でも、旅行中ってことは彼氏と一緒なんだろ? 一人で居酒屋なんかにいていいのか? しかも偶然とはいえ元彼と一緒なんて」

 俺、訴えたりしない?
 続くその言葉がどことなくわざとらしい。
 本音を隠したい時こそふざけたりおどける癖があるのは今も変わらないようだ。
 そんな些細なことに気づく自分の女々しさに内心苦笑しつつも、琴音は「大丈夫よ」と肩をすくめた。

「彼氏は来てないわ」
「……なんで?」
「趣味なの、一人旅」
「は……?」
「驚いた?」
「それは……そうだろ。一人旅なんて琴音が一番苦手なことじゃないの?」
「昔は、そうだったわね」

 答えながらも、琴音は優斗の反応を当たり前に受け入れていた。
 彼が驚くのも無理はない。彼と付き合っていた頃の自分は、どうしようもなく一人になることを――優斗と離れることを恐れていたのだから。

「……変わったな、琴音」

 しみじみと言われた言葉に琴音はクスッと笑う。

「そりゃあ六年もあればね」
「そういうことじゃなくて……なんていうのかな。今の琴音、すごく綺麗だなと思った。自立した大人の女って感じ」
「ありがとう。今の私にとってそれは最高の褒め言葉よ」
「ちなみに俺はどう? 変わった?」
「うーん……あまり変わらないかな」

 答えると、優斗は肩を落とす。

「ごめん、冗談。かっこよくなったよ。でも、優しいところはやっぱり変わらないわ」

 お世辞抜きにはっきりとそう告げると、優斗は一瞬驚いたように目を見開き、なぜか苦笑する。

「『優しい』なあ。嬉しいけど、男は優しいだけじゃだめみたいよ」

 ため息混じりに発せられたそれに琴音が首を傾げると、優斗は「実は」と切り出した。

「……俺、先月離婚したんだ」

 離婚? 優斗が?
 突然の告白に唖然として、返す言葉が見つからない。

「理由は『優しすぎて物足りないから』。俺が相手だと刺激が足りないとかで、不倫された。この際だからぶっちゃけるけど、今日一人で飲んでたのはサークルの連中に色々詮索されるのが面倒だったから。昼間もあれこれ聞かれたのに、この上夜まで俺の離婚を酒の肴にされたらたまらないと思った。……でも、結果的には琴音に会えたからよかったのかもな」

 ずっと話したかったのだろうか。
 驚きで黙り込む琴音を前に、優斗は堰を切ったようにつらつらと語る。

「どんな人だったの?」
「同じ会社の後輩。可愛い子だったよ。二年付き合って、入籍して一年で不倫されて離婚した。しかも相手は俺の直属の先輩。正直言ってかなりの地獄。毎日会社に行くのが嫌でたまらない」
「……転職とかは?」
「俺が、って意味なら絶対しない。今の仕事自体は気に入ってるしな。俺が不倫したならやめるべきだけど、不貞を犯したのは俺じゃないし。まあ、この先他にやりたいことが見つかるまでは図太く居座るつもり」

 優斗ははっきりとした口調で言い切った。
 同じ職場に別れた妻と不倫相手がいるなんて、考えただけでもぞっとする。
 それにもかかわらず「辞めない」と言い切る姿は力強くて、そんなところにも六年の歳月を感じた。

「……お互い色々なことがあったのね」
「そうだな。でも、変わらないものもあるってわかった」
「なに?」
「琴音と話していると、楽しいよ」
「え……?」
「琴音と一緒にいると自然体でいられる。……もしもあんな別れ方をしなければ、今頃琴音と結婚していたのは俺だったのかな」
「優斗……」
「――悪い、変なことを言って。飲みすぎたのかも、感傷的になってる」

 気まずい空気を取り払うように優斗は目尻を下げて笑う。

(……嘘つき)

 このくらいの酒で彼が酔わないことを、琴音は知っている。
 ならば今、彼が発したのは本心だったのだろうか。
 感傷的になっていたからだとしても……ほんの一瞬だとしても、優斗は琴音との将来を考えたことがあるのだろうか。
 そんなことを確認しても何も意味はないのはわかっている。
 片や結婚目前の女。片や離婚直後の男。
 互いにセンシティブになるには十分すぎる条件が揃っている。
 ならばこれはただの酒の席の戯言だ。

 ――そう、わかっているのに。

 言葉は、自然と溢れでた。

「ねえ、優斗」
「ん?」
「私のこと……好きだった?」

 優斗が息を呑んだのは、一瞬だった。
 おどけていた表情が変わる。こちらを見据える真剣な眼差しには、隠しきれない熱があった。

「好きだったよ」
「っ……!」
「琴音は俺にとって初めての彼女だったから、思い出も人一倍ある。振り返ってみても、あんなに純粋に恋愛をしたのは琴音だけだった」

 ストレートな言葉。

「私も」

 それに自然と溢れ出たのは、その一言。

 ――六年ぶりの夜が始まる気配がした。




 二人の恋の終わりのきっかけは、琴音の就職だった。 
 六年前。就職を機に琴音が上京したことで、遠距離恋愛が始まった。
 とはいえ新幹線で二時間の距離。会おうと思えば日帰りでも十分可能だ。
 寂しくはあるけれどその分たくさん電話をすればいい。
 初め、琴音はそう気楽に考えていた。
 むしろ遠距離恋愛を不安がっていたのは優斗の方で、琴音は自分と離れたがらない年下の恋人を可愛いとさえ思った。
 ……でも、そんな風に楽観視していられたのは初めのうちだけだった。
 働き始めてすぐに琴音は社会人と学生との壁に直面した。
 琴音の配属先が社内きっての激務で有名な部署だったのもあるだろう。
 とにかく、時間が合わなかったのだ。
 入社して初めの頃は仕事に慣れるのに必死で、帰宅する頃にはくたくた。
 連絡をする余裕も時間も取れず、できたとしても通話アプリでメッセージを送るのがせいいっぱい。
 週末は体を休めることが最優先で、せいぜい電話ができればいい方だった。

『ごめんね、優斗。今日は電話できそうにない』
『週末に会社の勉強会が入って会えなくなっちゃった』

 好き、会いたい。
 そんな言葉よりも謝罪の言葉を送る方が多かった。
 しかし、そんなすれ違いの日々にもかかわらず、優斗はいつだって琴音を応援してくれた。

『俺が会いに行くよ。大丈夫、もうほとんど単位は取り終わってるし、学生の俺の方が融通は利く。それに、どうせ言われるなら「ごめんね」より「ありがとう」の方が嬉しい』

 年下なのに。
 学生なのに。
 会いに来るのは、いつだって優斗の方だった。
 優斗は、底抜けに優しかった。
 日々の仕事が大変であればあるほど、疲れた体には恋人の優しさが沁みた。
 彼と過ごす時間が学生の頃よりもずっと大切だと感じるようになった。
 大袈裟でもなんでもなく、優斗との時間があるから自分は頑張れるのだと当時の琴音は思っていた。
 
 ……でも、それは依存しているのと同じだった。

 優斗と過ごす時間が居心地が良ければ良いほど、「もっと一緒にいたい」と思う気持ちが強まり、いつしか平日の仕事終わりは、着替えるよりも何よりも真っ先に優斗に電話をかけるようになっていた。
 しかし、当然ながら優斗にも自分の生活がある。
 いくら授業にゆとりのある四年生とはいえ、ときには電話に出られないことがあって当然なのに、繋がらない電話に琴音は身勝手にも不安になった。

 ――自分が働いている間、彼は何をしているのだろう。

 そう思わずにはいられなくなってしまったのだ。
 ただの飲み会だとわかっていても不安でたまらなくなる。
 週末に予定があると言われると、「どうして来てくれないの」と不満に感じる。
 それに先に限界が来たのは、琴音の方だった。
 いつものように仕事終わりに電話をかけたときのことだ。
 電話口から、『優斗』と甘えるように名前を呼ぶ女の声が聞こえた。
 優斗はすぐに『同じサークルの同級生だよ』と教えてくれたけれど、すでに彼に依存しきっていた琴音にとって、それは耐え難いことだった。

 ――私が仕事をしている間、優斗は他の女と一緒にいる。

 たったそれだけのことがとんでもない裏切りのように感じられたのだ。
 感情的になった琴音は怒りのままに優斗を一方的に責めた。
 そうしながらも、心の中では「優斗ならわかってくれる」という甘えがあった。
 しかし、そんなことがあり得るはずもなかったのだ。

『……琴音と話していると疲れる』
『いい加減にしてくれ。俺にも俺の都合がある。琴音にばかり合わせてなんていられない』
『――別れよう』

 束縛に耐えかねた優斗はそう言って、琴音を振った。
 そうなって初めて琴音は自分が犯した過ちに気づいた。
 自分は、優斗を仕事のストレスの逃げ場にしていた。
 好きだからという理由以前に、自分の苦しさを吐き出す道具として彼を利用していたのだ。
 しかし、気づいた時には全てが遅かった。
 優斗の優しさに甘えて、身勝手にも彼を振り回し、一番大切なものを手放してしまった。

(変わらなきゃ)

 このままではいつかまた自分は同じことを繰り返してしまう。
 それが嫌ならば変わらなければいけない。
 優斗と別れることになった原因は、彼に依存しすぎたから。束縛しすぎたから。
 彼の優しさの上にあぐらをかいて、自分の足で立つことをやめてしまったから。
 ならば、自立しなければ。
 恋人は自分の気持ちを楽にするための道具ではない。

(――自分の機嫌は、自分で取る)

 好きだから。付き合っているから。
 それを免罪符に恋人の行動を把握することはしない。
 一緒にいる間はその時間を大切にするけれど、離れているときはそれぞれ自由に過ごす。
 共通の趣味がなくても、食べ物の好みが一緒で、許せないものが同じならそれでいい。
 一度そう意識すれば、驚くほど気持ちは楽になった。
 燃え上がるような恋心も嫉妬心も必要ない。そんなマイナスな感情に囚われた結果、琴音は初めて愛した人を失ってしまった。
 二度とそんな経験をしないためにも、適度な距離感を保って互いの心の安定を大切にした方がいい。
 そんな琴音の恋愛観に共感してくれたのが、今の恋人だった。
 互いに一人の時間が好きだから、別々に過ごす時は特に連絡も取り合わないし、彼が何をしているか知りたいとは思わない。
 それをするくらいなら共にいる時間を大切にしたかった。
 もしも今の彼と電話中に女の声が聞こえても、琴音は「誰?」と素直に聞けるだろう。
 結婚を決めたくらいだから、もちろん彼のことは好きだ。
 しかし、この先もしも別れることになったとしても、琴音は泣いて縋ったり、息ができなくなるほど涙を流すことはしないだろう。
 しばらくの間は凹むかもしれないが、そのうち立ち直ることができる。
 心の傷はやがて時間が解決してくれることは、優斗で経験済みだから。



 居酒屋を出た二人は無言でタクシーに乗り込んだ。

「琴音のホテルは?」
「…………」
「なら、俺が泊まってる方でいいな。部屋もツインで取ってある」

 行き先は自然と決まった。それから目的地に着くまでの十五分間、会話は一切なかった。
 後部座席に並んで座る二人は今、指先一本すら触れていなければ、肩も接触していない。
 それなのにこれ以上なく夜の気配を感じるのは、これから何が起こるのかを互いに知っているから。
 再会した昔の恋人同士がホテルに向かう。
 その意味が指すものは、一つだけだ。
 ホテルに到着すると、優斗は一人カウンターに向かう。
 一人追加することを伝えているのだろう。
 戻ってきた優斗は鍵を片手に琴音を伴ってエレベーターに乗り込む。それから部屋に到着する間も会話はなかった。
 居酒屋でのおしゃべりが嘘のような沈黙にどうしようもなく胸が高鳴る。
 そして到着した部屋は、何の変哲もないビジネスホテルのツインルームだった。
 お世辞にも広いとは言えない空間の中にシングルサイズのベッドが二つある。
 しかし、その両方を使うことは、きっとない。
 ベットに視線を向ける琴音に、優斗は言った。

「先にシャワーを浴びてくる。俺が戻ってくるまでに答えを決めて」

 答え。
 それは、優斗に抱かれるつもりならこのまま部屋で待っている。
 そのつもりがないのならその隙に部屋を出ていけということだ。
 琴音は了解の意味を込めて小さく頷く。
 着いてきたのは自分なのに、緊張で声も出なかったのだ。
 ガチガチに体を強張らせる琴音の頭をふわりと撫で、優斗はバスルームへと消えていく。ドアが閉じた途端、琴音はピンと貼られたシーツの上に倒れるように座り込んだ。

『――好きだったよ』

 あの瞬間、琴音はあっという間に六年前の自分に引き戻された。
 自立なんてしていない。
 優斗のことが好きで、好きでたまらなかった頃の自分を思い出した。
 感情に引き寄せられるようにタクシーに乗り込んだ。
 その行動自体が今の恋人への裏切りであることは、あの瞬間頭から消えていた。

 ――優斗と一緒にいたい。

 ただ、それだけを思ってしまった。
 遠くからは、これからの行為を連想させるシャワーの音が聞こえてくる。しかしそれはかえって琴音を冷静にさせた。
 この束の間の時間は、琴音に許された最後の猶予だ。

(このままこの部屋にいれば、結婚はなくなる)

 浮気をしたまま入籍することは、自分にはできない。
 優斗に抱かれた翌日に自分は恋人に別れを告げるだろう。
 だからと言って、この一晩をきっかけに優斗と再び付き合う確証はない。その約束も確認もしないまま、二人はここに来てしまった。
 今この瞬間、琴音は人生の帰路に立っているのを感じた。
 片方を選べば、情熱的ではないけれど平穏な日々が。もう片方を選べば、再び嫉妬や不安に苦しみながらも、心が揺れるような恋が待っているかもしれない。
 そのどちらを選ぶのか。
 ひとたび冷静になった琴音の選ぶ答えは、きっと初めから決まっていた。



 ――もしも琴音が十代の若者だったら。
 感情のままに身を委ねていただろうか。
 ――もしも琴音が人生の終盤も近い年齢であったなら。
 終末を共にする相手として彼の手を取っていただろうか。

(わからない)

 そんなたらればの話は考えるだけ無駄だった。
 現実に生きる琴音は三十路を控えた二十九歳で、一夜限りの衝動に身を任せられるほど若くない。
 そして、約束された穏やかな日々を捨ててまで先の見えない関係を選ぶほどの情熱さも持てなかった。
 おそらく誰もいなくなった部屋を見て、優斗は残念に思うだろう。
 しかし、自ら琴音に連絡を取るようなことはきっとしない。
 大人になったのだ。
 良くも悪くも、二人とも。
 そして琴音はそんな自分が嫌いではなかった。
 少なくとも自分勝手な独占欲で大切な人を振り回し、傷つけた当時の自分よりは、引き際を知る今の方がずっといい。

 ありがとう、優斗。

「――大好きだったよ」

 六年前は言えなかった言葉を唇に乗せて、琴音はホテルを後にした。