島を出たフランツは、地上のありさまに顔を顰めた。
 大地が、砕けている。
 かつて果てが見えぬほどに広がっていた地面は、分断され、時間の経過によって移動し、大量の水に浮かぶ島となっていた。
 それぞれの島はある程度の広さがあり、散らばった人間は小さなコミュニティを形成しているようだった。
 フランツは舌打ちした。翼を持たない悪魔は、空を飛んで移動することができない。だが、この大量の水は、底が見えない。歩いて渡ることは不可能だろう。沈んでも溺れ死ぬことはないが、上がってこられなくなる。何らかの手段を講じなければ、別の島へ移動することはできない。

 ――寒いな。

 吐いた息が白い。この場所は、どうやらとても寒いようだ。
 寒さで凍ることは無いが、温度はわかる。だが、それだけではない。
 今まであった温度が無いから、寒いのだ。
 そのことに気づいて、フランツは苛立たしげに眉を寄せた。
 大量の水を睨みつければ、遠目に何かが浮かんでいるのが見えた。目を凝らすと、何やら木の皮を丸めたものに、人間が乗っている。
 目視できる距離ならば。
 フランツは指先から黒い弦を伸ばし、見えた物体に引っかけた。そしてそのまま引き寄せる。

「よォ」

 にぃと口の端を吊り上げると、それに乗っていた男は青ざめた顔をした。

「いいモン持ってんな。なんだこれ」
「ふ、ふね、です」
「フネ?」
「う、海を渡るための、乗り物です。島と島を、行き来するには、これが、必要で」
「へェー……」

 海。そうだ、海だ。マリアも言っていた。
 あの島は、それだけで独立した空間だった。どこへも繋がっていないから、あの水の先へ行こうなどとは露ほども思わなかった。
 しかし、ここでは、この水を渡るための移動手段が要る。

「これ貰うぜ」

 一方的に告げて、フランツは男を船の外へ放り出した。

「えっ!? こ、困ります! わ、私も、船がないと、自分の島へ帰れません……!」
「知るかよ。海に突き落とさねェだけマシだと思え」

 積んであった櫂を手に取って、しげしげとそれを眺める。

「これで動かすのか?」
「か、返して、ください」

 縋る男を冷たい目で見下ろして、フランツは男を踏みつけた。

「使い方を、訊いてんだよ。訊かれたことだけ答えろ」
「う……っ、そ、そうで、す。それで、水を、かいて……っ」
「はァ、なるほどな」

 なんとなく、どういう装置かは把握した。
 フランツは船に乗り込むと、一匹の小さな魔物を生み出した。それは猿に似た形で、全身毛むくじゃらだったが、手だけは人間のようにつるりとした五本の指を持っていた。
 ぎょろりとした目でフランツを見上げたそれに、櫂を持たせる。

「じゃァな」

 軽い声で告げて、フランツは男を置き去りに、船を出した。毛むくじゃらの魔物は、器用に小さな手で櫂を動かしている。
 島に残された男は、恨めしげな目で、離れていくフランツを見送った。

 恨め。憎め。それが、悪魔の力となる。

 あの男の悪意程度では、こんな小さな魔物にしかならないが。人の集まる場所へ行けば、いくらでも生み出せる。
 人間はいつでも悪意に満ちている。できるなら、血の臭いのする場所へ行きたい。
 気分が高揚する。ようやく調子を取り戻せたと、フランツは楽しげな笑みを浮かべた。

 ひとまず人の気配がする島へ船を寄せると、フランツは慣れた臭いを嗅ぎ取った。
 
「――ははっ」

 乾いた笑いが零れる。ああ、やはり、人間は変わらない。土地が変わっても。悪魔の自分が姿を消しても。争いを、やめない。
 心地良い悪意の気配を感じ取りながら、フランツは魔力を放出する。
 地面に黒い油のような液体が滲みだし、どろりどろりと形を変えながら、獣の姿になっていく。

「さァ。狩りの時間だ」

 魔物たちが一斉に駆け出す。血と肉の焼ける臭いを目指して。



 悪魔の再臨に、人間は再び恐怖に震えることとなった。
 極寒の地へ取り残されたかと思われた悪魔だったが、人間の生み出した海を渡る技術を用い、近くの島々へ移動していた。まだ長距離航海できるような船が存在しないため、神の住まう地へ来るまでには相当な時間がかかるだろう。しかし、放置していればそれも時間の問題だ。天使たちはざわついた。

「あれは奈落へ落ちたのではなかったか」
「いったいどうやって戻った」
「力を失って弱っていたはず」

 大鏡に映る悪魔の姿を、神は無感情な目で見つめていた。