落とされた島で、フランツは暫くの滞在を余儀なくされた。この空間から出るには次元を越える必要があり、今のフランツにはそのための魔力が不足していた。無理やりこの島に落とされた時に、かなりの魔力を消耗してしまったのだ。魔力が回復するまでは、ここに留まるしかない。
使役するための魔物を生み出すには、人間の悪意が要る。しかしこの島には、悪意を持つ人間が存在しない。手足となって動く存在を失った彼はどうしたか。
何も、しなかった。
「ちょっと、フランツ!」
怒ったようなマリアの声に、フランツは一度瞼を開くと、うっとおしそうに視線をやってそのまま閉じた。
「もう! この島に来てから、ごろごろしてばっかりで何もしないじゃない! ちょっとは手伝ってよ!」
「知るか」
「そんなこと言うなら、ごはんあげないんだからね!」
「頼んでねェ」
口ではそう言いながらも、マリアはフランツの横に、採ってきた果物を置いた。
フランツは転がったままそれを手にして、口に運んだ。
別に、食事をとらなくても死にはしない。悪魔の体は不老不死である。この身を滅ぼせるものは、神だけだ。それと同時に、神を殺せるのも悪魔であるフランツだけ。だから神は不用意にフランツに接触してこない。
食事も睡眠も必須ではないが、マリアはそのことを知らない。食物を摂取すれば多少なりとも魔力は回復する。睡眠も然り。都合が良いので、フランツは黙ってマリアに貢がせていた。
「フランツは、この先どうするつもりなの?」
「回復したら出ていく」
「えっ!? ここ出られるの!?」
「俺はな」
フランツは、魔力さえ回復すれば次元の壁を破って元いた地上へ帰れる。しかし、マリアは違う。彼女は世界の理から外れている。仮にフランツが連れて行こうとしても、マリアはここを出られない。
「そう……そうなの。フランツは、いなくなっちゃうのね」
マリアは寂しげに呟いた。彼女にとっては、生贄として殺されるより、無人島での生活を強いられるより、孤独が何より辛いようだった。だから、自分を殺しかけた男にも、こうして尽くそうとする。
「わたしね、今家を作ろうとしてるの。フランツにも手伝ってほしかったけど……ずっと生活するわけじゃないなら、フランツには要らないわよね。でも、気が向いた時にでも、ちょっと手を貸してくれたら嬉しいな」
明るく取り繕ったマリアに、フランツは黙って果物を齧った。
人間は脆いから、生活基盤が必要なのだろう。しかしフランツにはどうでもよかった。自分がいなくなった後のことになど興味は無い。今だって生きてはいるのだから、家など無くても死にはしないだろう。
そう思って、彼女が毎日あくせく働くのを横目に見ていた。
水の気配に、フランツは顔を上げた。この島は霧に覆われている。いつでも湿度が高いため気づきにくいが、目を凝らせば雨雲が見えた。間もなく、強い雨が降り出す。この島の天候は固定されているとばかり思っていた。想定外のことに、フランツは舌打ちした。フランツにも、雨に濡れれば不快だと思う感覚はある。別段体に支障はきたさないので、このまま雨に打たれていてもどうということはないが。
あの女は。
気にかけてやる義理など無いが、あれが死ぬと自分の世話をする者がいなくなる。
様子を見に行くだけだ、とフランツはマリアの元へ足を向けた。
マリアは、木の根元に座り込んでいた。しかしこれだけの強い雨だ。枝も葉もそれほど雨避けの役割は果たしてくれずに、彼女はずぶ濡れになっていた。
「いい格好だな」
「フランツ」
嘲笑うようなフランツに、マリアが顔を向ける。その顔を見て、フランツは口を噤んだ。
マリアの顔は真っ青だった。唇は色を無くし、体は小刻みに震えている。
悪魔の肉体の強度は、人間とは比にならない。暑さや寒さにやられることはまずない。
けれど、彼女は。弱くて脆くて、ただの人間であるマリアは。
この程度で、死んでしまう。
マリアが死んでも困らない。下僕がいなくなれば多少の不便はあるかもしれないが、大したことではない。
ただ。ここには、他に人間がいない。彼女がいなくなれば、遊べるおもちゃが無くなる。それは退屈だ。
退屈は嫌いだ。永久の時を生きるフランツにとって、刺激は必要なことだった。
フランツは、黙ったまま指先から黒い弦を出した。それにマリアが目を瞠る。首を絞められた時を思い出したのかもしれない。
しかしその弦は絡み合い、マリアを囲うようにドーム状で固まった。鋼鉄のようなそれは水をしっかりと弾き、水滴の一つも入ってこない。
「あ、ありがと」
感情の読めないフランツに、マリアは戸惑いながらも礼を告げた。フランツは、答えなかった。
雨に濡れ続ける彼に、マリアはドームの中から声をかけた。
「ねぇ、フランツも入ったら? 濡れるよ」
と言っても、フランツもマリア同様、既にずぶ濡れである。今更、と思いながらも、フランツはマリアの言葉に従った。
ドームの中で、マリアはまだ震えていた。濡れた体が乾いたわけじゃない。寒さは続いているのだろう。
「……ねぇ。くっついても、いい?」
遠慮がちに、マリアはフランツに尋ねた。寒さに耐えかねたのだろう。火の無いこの場では、人肌くらいしか暖を取れるものがない。
魔術を使えば火を起こすこと自体はできるが、燃やし続けるには魔力を消耗する。今のフランツの状態で、ドームを維持したままそれを行うのは厳しい。自然に燃焼させ続けるには、乾いた薪を用意しなければならない。この雨の中、それを探しに行ってもすぐには見つからないだろう。
「服脱げよ」
「えっ!?」
慌てるマリアをよそに、フランツは着ているものを脱いで水を絞った。フランツは単に不快だからだが、マリアは違う。水は吸熱する。蒸発する時に熱を多く使うので、濡れた服は着ているだけでどんどん体温を奪われる。
フランツの調子から、邪な感情は無いことを悟ったのだろう。マリアもおそるおそる服を脱ぎ、それを絞った。絞った服で髪や体を軽く拭って、更に絞る。
それから遠慮がちにフランツにくっついたマリアを、フランツが抱え込んだ。
「ひょわぁ!?」
「うるせェ」
珍妙な悲鳴を上げたマリアは、フランツの一声で黙った。
そのまま、沈黙が続く。
雨の音が、葉を弾く音が、水が流れる音が、響く。
フランツは、視界を遮るように目を閉じた。そうすると、余計に感じ取ってしまう。自分以外の命を。
マリアの体は冷え切っているはずなのに、熱い。いや、熱いのは、自分の方なのかもしれない。
この腕の中に。呼吸が。鼓動が。体温が。
喚き散らしたい気分だった。今すぐ壊してしまいたい衝動に駆られた。
不快だった。理解のできない何かが、自分の中にあるということが。
跡形もなく粉々にしてしまえば。全て、無かったことになるんじゃないか。
「あったかいね」
沈黙に耐えかねたのか、マリアが照れくさそうにそう零した。
「フランツがいてくれて、良かった」
そう言って、マリアは微笑んだ。
――良かった。俺がいて。悪魔の、俺がいて。
悪魔の自分の存在を、望んだ者などいない。望まれて生まれた存在ではない。
それをどう思ったこともない。そういうものだった。そういう生き物だった。悪意から生まれた悪魔は、ただ悪意をばらまくだけの災害。だというのに。
――俺は、いて、良かったのか。
震えた息は、雨音に混ざって溶けて消えた。
使役するための魔物を生み出すには、人間の悪意が要る。しかしこの島には、悪意を持つ人間が存在しない。手足となって動く存在を失った彼はどうしたか。
何も、しなかった。
「ちょっと、フランツ!」
怒ったようなマリアの声に、フランツは一度瞼を開くと、うっとおしそうに視線をやってそのまま閉じた。
「もう! この島に来てから、ごろごろしてばっかりで何もしないじゃない! ちょっとは手伝ってよ!」
「知るか」
「そんなこと言うなら、ごはんあげないんだからね!」
「頼んでねェ」
口ではそう言いながらも、マリアはフランツの横に、採ってきた果物を置いた。
フランツは転がったままそれを手にして、口に運んだ。
別に、食事をとらなくても死にはしない。悪魔の体は不老不死である。この身を滅ぼせるものは、神だけだ。それと同時に、神を殺せるのも悪魔であるフランツだけ。だから神は不用意にフランツに接触してこない。
食事も睡眠も必須ではないが、マリアはそのことを知らない。食物を摂取すれば多少なりとも魔力は回復する。睡眠も然り。都合が良いので、フランツは黙ってマリアに貢がせていた。
「フランツは、この先どうするつもりなの?」
「回復したら出ていく」
「えっ!? ここ出られるの!?」
「俺はな」
フランツは、魔力さえ回復すれば次元の壁を破って元いた地上へ帰れる。しかし、マリアは違う。彼女は世界の理から外れている。仮にフランツが連れて行こうとしても、マリアはここを出られない。
「そう……そうなの。フランツは、いなくなっちゃうのね」
マリアは寂しげに呟いた。彼女にとっては、生贄として殺されるより、無人島での生活を強いられるより、孤独が何より辛いようだった。だから、自分を殺しかけた男にも、こうして尽くそうとする。
「わたしね、今家を作ろうとしてるの。フランツにも手伝ってほしかったけど……ずっと生活するわけじゃないなら、フランツには要らないわよね。でも、気が向いた時にでも、ちょっと手を貸してくれたら嬉しいな」
明るく取り繕ったマリアに、フランツは黙って果物を齧った。
人間は脆いから、生活基盤が必要なのだろう。しかしフランツにはどうでもよかった。自分がいなくなった後のことになど興味は無い。今だって生きてはいるのだから、家など無くても死にはしないだろう。
そう思って、彼女が毎日あくせく働くのを横目に見ていた。
水の気配に、フランツは顔を上げた。この島は霧に覆われている。いつでも湿度が高いため気づきにくいが、目を凝らせば雨雲が見えた。間もなく、強い雨が降り出す。この島の天候は固定されているとばかり思っていた。想定外のことに、フランツは舌打ちした。フランツにも、雨に濡れれば不快だと思う感覚はある。別段体に支障はきたさないので、このまま雨に打たれていてもどうということはないが。
あの女は。
気にかけてやる義理など無いが、あれが死ぬと自分の世話をする者がいなくなる。
様子を見に行くだけだ、とフランツはマリアの元へ足を向けた。
マリアは、木の根元に座り込んでいた。しかしこれだけの強い雨だ。枝も葉もそれほど雨避けの役割は果たしてくれずに、彼女はずぶ濡れになっていた。
「いい格好だな」
「フランツ」
嘲笑うようなフランツに、マリアが顔を向ける。その顔を見て、フランツは口を噤んだ。
マリアの顔は真っ青だった。唇は色を無くし、体は小刻みに震えている。
悪魔の肉体の強度は、人間とは比にならない。暑さや寒さにやられることはまずない。
けれど、彼女は。弱くて脆くて、ただの人間であるマリアは。
この程度で、死んでしまう。
マリアが死んでも困らない。下僕がいなくなれば多少の不便はあるかもしれないが、大したことではない。
ただ。ここには、他に人間がいない。彼女がいなくなれば、遊べるおもちゃが無くなる。それは退屈だ。
退屈は嫌いだ。永久の時を生きるフランツにとって、刺激は必要なことだった。
フランツは、黙ったまま指先から黒い弦を出した。それにマリアが目を瞠る。首を絞められた時を思い出したのかもしれない。
しかしその弦は絡み合い、マリアを囲うようにドーム状で固まった。鋼鉄のようなそれは水をしっかりと弾き、水滴の一つも入ってこない。
「あ、ありがと」
感情の読めないフランツに、マリアは戸惑いながらも礼を告げた。フランツは、答えなかった。
雨に濡れ続ける彼に、マリアはドームの中から声をかけた。
「ねぇ、フランツも入ったら? 濡れるよ」
と言っても、フランツもマリア同様、既にずぶ濡れである。今更、と思いながらも、フランツはマリアの言葉に従った。
ドームの中で、マリアはまだ震えていた。濡れた体が乾いたわけじゃない。寒さは続いているのだろう。
「……ねぇ。くっついても、いい?」
遠慮がちに、マリアはフランツに尋ねた。寒さに耐えかねたのだろう。火の無いこの場では、人肌くらいしか暖を取れるものがない。
魔術を使えば火を起こすこと自体はできるが、燃やし続けるには魔力を消耗する。今のフランツの状態で、ドームを維持したままそれを行うのは厳しい。自然に燃焼させ続けるには、乾いた薪を用意しなければならない。この雨の中、それを探しに行ってもすぐには見つからないだろう。
「服脱げよ」
「えっ!?」
慌てるマリアをよそに、フランツは着ているものを脱いで水を絞った。フランツは単に不快だからだが、マリアは違う。水は吸熱する。蒸発する時に熱を多く使うので、濡れた服は着ているだけでどんどん体温を奪われる。
フランツの調子から、邪な感情は無いことを悟ったのだろう。マリアもおそるおそる服を脱ぎ、それを絞った。絞った服で髪や体を軽く拭って、更に絞る。
それから遠慮がちにフランツにくっついたマリアを、フランツが抱え込んだ。
「ひょわぁ!?」
「うるせェ」
珍妙な悲鳴を上げたマリアは、フランツの一声で黙った。
そのまま、沈黙が続く。
雨の音が、葉を弾く音が、水が流れる音が、響く。
フランツは、視界を遮るように目を閉じた。そうすると、余計に感じ取ってしまう。自分以外の命を。
マリアの体は冷え切っているはずなのに、熱い。いや、熱いのは、自分の方なのかもしれない。
この腕の中に。呼吸が。鼓動が。体温が。
喚き散らしたい気分だった。今すぐ壊してしまいたい衝動に駆られた。
不快だった。理解のできない何かが、自分の中にあるということが。
跡形もなく粉々にしてしまえば。全て、無かったことになるんじゃないか。
「あったかいね」
沈黙に耐えかねたのか、マリアが照れくさそうにそう零した。
「フランツがいてくれて、良かった」
そう言って、マリアは微笑んだ。
――良かった。俺がいて。悪魔の、俺がいて。
悪魔の自分の存在を、望んだ者などいない。望まれて生まれた存在ではない。
それをどう思ったこともない。そういうものだった。そういう生き物だった。悪意から生まれた悪魔は、ただ悪意をばらまくだけの災害。だというのに。
――俺は、いて、良かったのか。
震えた息は、雨音に混ざって溶けて消えた。