「×××! ××××?」
「……あァ?」

 目を覚ました悪魔は、不機嫌そうに顰め面で声を漏らした。
 見知らぬ少女が、自分を覗き込んでいる。
 いらいらしながら身を起こせば、そこはどこかの砂浜だった。周囲を見回すも、少女以外の生物の気配は無い。霧の濃い島に、悪魔は目を眇めた。

 ――()()じゃねェな。

 ここは、先ほどまで自分がいた場所とは切り離された空間だ。次元の狭間にでも落とされたか、と悪魔は舌打ちした。
 思考を巡らせていると、ぐいぐいと何かに服を引っ張られ、悪魔は怒鳴った。

「ッンだよ、うぜェな!」

 殺気立った悪魔に怯むこともなく、少女はきらきらとした目で悪魔に話しかけた。

「××××?」
「だァら……何言ってんのか、わっかんねンだっつの!」

 がっと音がしそうな勢いで、悪魔は少女の頭を鷲掴み、力を込めた。少女から悲鳴が上がる。

「いったぁーい! なにするの!?」
「ぴーぴーうるせェ。ここはどこで、お前は何だ」
「ここがどこかは知らない。わたしは……って、あれ?」

 答えて、少女はただでさえ丸い目を更に丸くした。

「すごい! 言葉わかる! なんで!?」
「騒ぐな」

 魔物は獣の形をしているので、人の言葉が発音できない。声帯はあるので、意思疎通を図るため、悪魔は互いが発する言葉を翻訳する魔術を使っていた。同じ種族であれば、別個体でも効果は同様に発揮する。少女はどうやら、今まで悪魔が出会ったどの種族とも違うらしかった。そのため、新たに術をかけたのだ。

「わたし、マリアっていうの。あなたの名前は?」
「名前なんかねェよ」
「うそ! だって名前がなかったら呼べないじゃない。他の人からはなんて呼ばれてるの?」
「悪魔」

 そう言うと、少女――マリアは、息を呑んだ。

「名前なんて、個体識別のためのモンだろ。悪魔は俺しかいねェから、必要ねンだよ」
「……だったら、わたしがつけてあげる」
「はァ?」
「そうね……あなたの名前は、フランツ。フランツよ!」

 呆れ顔の悪魔をよそに、マリアは棒きれを手にして、砂浜に文字を書いた。

「綴りはこうね。覚えた?」
「……なんだこりゃ」
「え? アルファベットよ。言葉が通じたんだから、文字も読めるんでしょ?」
「文字なんか使わねェ」
「えぇ!? なにそれ、そうなの!? 不便!」
「いらねェよンなまだるっこしいモン」

 文字を書き記すようなことなどない。それを読む者もいない。そもそも、こうして会話をすることがほとんどない。
 悪魔と、敵意も恐怖も持たずに、会話をする者など。

「うぅん……。まぁ、わたしもここに来てから文字なんて全然使ってないもの。わからなくても、困らないわね」

 腕組みをして、うんうんと勝手に頷いている。ころころと表情の変わるマリアに、悪魔は奇妙な生物を見る目を向けていた。

「フランツは、どうやってここに来たの?」
「…………」
「フランツ?」

 了承した覚えは無いが、マリアの中では悪魔の呼び名はフランツで決定済みらしい。言い返すのも馬鹿らしくて、悪魔――フランツは、溜息を吐いた。

「俺は、地上から落とされてここに来た。お前は」
「お前じゃなくて、マリアよ」

 諭すような言い方にいらっとして、悪魔は指先から黒い弦を伸ばした。それはマリアの首に絡みついて、軽く締めあげる。

「俺に意見すんな。俺はいつでも()()を殺せんだぜ」

 赤い瞳に睨まれて、マリアは初めて恐怖を見せた。
 ああ、そうだ。人間は、どいつもこいつも。これが、普通だ。
 まだここの情報は得られていないが、面倒だし殺してしまおうか、とフランツが指先を動かそうとすると。

「マリア、だって、言ってるでしょ」
「……あァ?」
「名前で、呼んで。大事なことよ」

 自分を睨み返してくる碧眼を見て、フランツはマリアに多少の興味が湧いた。
 細い首は薄皮が切れて、僅かに赤い血が流れ出していた。それでも、彼女は自分の意志を曲げない。
 ふん、と鼻を鳴らして、フランツは弦を解いた。
 膝をついて咳き込むマリアに近づき、フランツはべろりと首筋の血を舐めとった。

「どうでもいい。けどまァ、殺すのはいつでもできるからな。俺が飽きるまでは生かしといてやるよ、マリア」

 舌なめずりをして酷薄な笑みを浮かべたフランツを、マリアは威嚇するように睨んだ。
 彼女はわかっていない。悪魔相手に、生きていられるということがどれほどのことか。
 しかし同時に、それはフランツにも同じことが言えた。悪魔が、人間を生かそうとしたことが。会話しようと思ったことが、どういうことなのか。
 今まで悪魔と会話を試みる者などいなかった。だから、彼自身も気づくはずがなかった。

 悪魔とは。出会う生物を片っ端から殺して回る、殺戮兵器ではない。
 悪魔は人間の悪意から生まれた。悪意は、残酷な感情のみに限らない。愛憎、嫉妬、執着、人の悪意は愛情と裏表なことがある。人から生まれた悪魔は、神や天使よりもよほど人に近い感情を有している。

「で? マリアはなんでこんなとこにいんだよ」

 どかりと砂浜に座ったフランツに、マリアも座り直した。
 ひとまず要求は呑まれたので、渋々といった風に口を開く。

「わたしは、海神様に捧げられたの。海に沈んで、死んだと思ってたんだけど、気づいたらここにいて」
「生贄か」

 鼻で笑うと、マリアがむっとした。

「わたしはお役目を果たしたの。きっと村は海神様の加護で、豊漁を迎えているはずよ」
「人間てのはほんとめでてェ頭してんな。神が生贄なんていちいち受け取ってるわけねェだろ。無駄死にだな、マリア」

 馬鹿にしたようなフランツに、マリアは真っすぐな目で言い切った。

「無駄なんかじゃないわ。仮にそれが神様にとって意味の無い行いだったとしても、村人たちにとっては大切な儀式だもの。ならそれは、意味のあることよ」

 フランツは目を眇めた。悪魔は、人の悪意に敏感だ。彼女が自分を殺した村人たちを恨んでいれば、わかる。
 この言葉は嘘ではない。彼女は誰も恨んでいない。だから解せない。何故、自分を死に追いやった者たちを許せるのか。

「ああでも、今こうしてるってことは、わたし死んでないのね。それとも、ここはあの世なの?」
「まァ現世じゃねェから、似たようなモンっちゃそうだが。少なくともその体は生きてんぜ」
「やっぱり? そうよね、お腹も空くし、眠くもなるから。変だと思った」

 言って、マリアは腹を押さえた。どうにも会話がずれている。

「どうやって暮らしてんだ」
「えーとね、島を散策したんだけど、果物は()ってるし、水場もあるの。だからとりあえず生きるだけなら困らないかな。寝る場所は草の上よ。今のところ雨が降ってないからなんとかなってるけど、お天気が崩れたらどうしようかなーって」
「へェ、案外図太いんだな。人間ってのは群れからはぐれたら生きられないとばかり思ってたぜ」
「そんなことないわよ。人間って、結構強いんだから」

 にひ、と歯を見せて笑った彼女は、この状況に絶望など微塵もしていないようだった。

「フランツも、仲間とはぐれちゃったの?」
「仲間なんかいねェよ」
「でも、一人じゃない」
「群れを作るのは弱いからだろ。俺は強いから、必要ねェ」
「必要よ」

 ずい、とマリアはフランツの方へ身を乗り出した。

「だってこうして、会話ができるじゃない。なら、話す相手は必要だわ。生きるだけなら一人でもできるけど、生きてるとは言えないのよ」
「意味わかんねェ。矛盾だらけじゃねェか」
「もう! わかるでしょ!」

 伝わらないもどかしさから、マリアは両手でフランツの手を取った。

「ほら!」

 フランツは、呼吸が止まった。どうして、こんなことで。
 他の生物の体温。他人の手の柔らかさ。自分以外の、命。
 奪う時にしか感じたことの無かったそれが、今、目の前で息づいている。

 ――そうか。マリアは、生きているのか。

 そんな当たり前のことを、今更ながらに思った。生きている。殺していないから。生きて、会話をして、そして。
 今、手を取っている。

「わたしたち、二人とも群れからはぐれて一人ぼっちになっちゃったけど。今こうして二人でいるから、新しい群れが作れるわ。二人しかいないんだもの。仲良くしましょ!」

 花が咲くように笑ってみせたマリアが、ちかりと光った気がした。

「あれ? 二人しかいない場合は群れって言わないのかしら。つがい? でもそれちょっと意味違うわよねぇ」

 能天気に首を傾げるマリアに、フランツは苛立たしげに舌打ちをした。
 いらいらする。いったい何に、こんなに、感情を乱されているのか。
 そもそも。感情というものが、あったのか。
 わからない。何もかも。わからないから。
 まだ、殺さなくていい。