私の海賊さん。~異世界で海賊を拾ったら私のものになりました~

「さて、天気良好、とはいかないけど、海に出るには問題なしかな」

 久方ぶりに帆を張って、奏澄はコバルト号の上甲板から『窓』を眺めていた。

「でも、いいんですか? ハリソン先生。この島を出てしまうと、もうはぐれ者を治療する機会はなくなると思いますけど」

 くるりと振り返った先には、ハリソンの姿があった。ハリソンは、この島には残らずに、奏澄とメイズの出航に合わせて、また船医として船に乗ってくれることになったのだ。

「構いませんよ。かなりのデータは取れましたし、助手も一年で随分と育ちました。もう私がいなくても、困らないでしょう。それなら、外の世界であなたの傍についていた方が安心です」
「正直、助かります。ありがとうございます」

 奏澄が眉を下げて微笑むと、ハリソンも心得たように微笑んだ。

「最初は、どこに行くんだ」

 メイズの言葉に、奏澄は決めていたとばかりに答えた。

「アルメイシャ! メイズと回った順に、回ろうかなって」

 アルメイシャには、ライアーとマリーたちが待っている。最初に、奏澄の仲間になってくれた者たちだ。せっかくだから、仲間たちと会った順番に、もう一度世界を巡っていこう。
 今度は、義務じゃない。会いたい人に会いに行くための、楽しい船旅だ。そして。

 奏澄がメイズをじっと見ていると、視線に気づいたメイズが首を傾げた。それに何を答えることもなく、奏澄は照れくさそうに笑った。

 愛しい人が隣にいる。それだけで、何も不安はない。大丈夫だ。

「出航!」

 海面を波立たせ、船は進み、窓を潜って大海原を往く。
 たんぽぽの旗を、風にはためかせて。





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これにて第一部・完結となります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
少し間を空けて、第二部を毎日更新予定です。
もし気に入っていただけましたら、是非評価・感想等いただけますと大変嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
 かつて世界は地続きだった。
 まっさらな大地を息吹かせるため、天は地上に神と天使を遣わされた。
 神は生命を生み出し、天使はそれらを育んだ。
 地上には善なるもののみが息づいていた。
 営みが広がっていくと、天使たちの管理だけでは追いつかなくなった。
 神は自ら思考し豊かさを作り上げる存在を求め、自分に似せた命を、人間を作った。
 神や天使に叛くことのないように、翼は与えず、神通力も使えないようにした。
 己の手足と、知恵のみを使う存在。しかしそれは、急速に成長し、繁殖した。
 個体数が増えると、同種の間で差異が出るようになった。その差はいつしか争いの種となり、人間は『悪意』を持つようになった。
 善なるもののみで保たれていた平和は崩れ、悪意は凝り固まり、地の底から『悪魔』を生み出した。
 悪魔は人の悪意から更に『魔物』を生んだ。
 『悪』が形を得たそれらは、何もかもに害をなし、世界に恐怖をもたらした。
 手に負えなくなった神は、大地を粉々に割った。
 集まってしまえば争うのなら。そこに悪意が生まれるのなら。多くが集まらないように、大地を小さくしてしまおう。
 悪なるものたちは、世界の一番遠い所へ追いやってしまおう。
 そして自分たち、善なるものが住まう大陸を一つ残して、人々は交流できないように海で分断され、悪なるものたちは暗くて寒い地の果てに追いやられた。
 それでも人は知恵をつける。分断された海を渡る手段を生み出し、割れた大地と大地の間を行き交うようになった。
 悪意は止まず、悪魔に力を与え続けた。
 苦悩の末、神は一人の女神を悪魔の元へ送り込む。
 女神の計略により、悪魔は神の剣で胸を貫かれ、打ち倒された。
 『悪』の象徴を失った人々は、再び『善』なるものに救いを求め、導かれ、従った。
 かくして、世界は再び平穏を取り戻した。
 かの女神はその栄誉を称えられ、善なるものたちが住まう国の紋章に刻まれることとなった。
 現在のセントラルの国章、女神マリアである。



 ――セントラル建国書より抜粋。
 大地が燃えている。人が燃えている。全てを焼き尽くす業火の中、耳をつんざくような悲鳴に混じって、楽しげな高笑いが響いた。

「あっはっはっは!」

 ()()は高い岩の上に胡坐(あぐら)をかいて、愉快そうに地獄絵図を見下ろしていた。
 夜の闇を溶かしたような長い黒髪に、血の色の瞳。(わら)う口元からは、牙と言えるほど尖った犬歯が覗いていた。
 それは若い男の姿をしていたが、人間ではない。彼は、悪魔と呼ばれていた。

「た、たすけ、て」

 炎に体の半分を焼かれながらも、枯れた声で助けを求める女が、悪魔のいる方へ手を伸ばした。ほとんど目が見えていないのだろう。届くはずもない距離に、人の形をした何かがいる、という認識のみで、ただただ縋った。
 それを耳にした悪魔は、ついと指を動かした。その指に従うように、炎の中から黒い塊が飛び出した。

「ぎゃあああ!!」

 黒い塊は、獣の形をしていた。狼によく似た姿をしているが、毛並みは針鼠のように硬く尖っている。それは魔物と呼ばれる生物だった。
 鋭い牙で女に噛みつき、切り裂いた。あっという間に女だったものは、ただの肉片となった。
 悪魔は、虫を潰す子どものような無邪気さで、更に指を振った。それに応えるようにあちこちで黒い塊が動く。僅かに残っていた息のある人間たちが、次々と悲鳴を上げて食い殺されていく。
 断末魔の音楽を目を細めて聞いていた悪魔だったが、近づく気配に眉を顰め、舌打ちを零した。

「目障りなのが来やがった」

 炎が、遠い箇所から順に消されていく。粉雪のようなものがちらちらと舞って、徐々に勢いを失っていった。地を這う赤が落ちつくと、散乱する死体が目立って見えた。
 悪魔がぎろりと睨み上げた先には、白い翼を持つものたちが浮かんでいた。純白の髪と瞳を持ち、人の形ではあるが、女性とも男性ともつかない体をしていた。天使と呼ばれる存在である。
 天使は悪魔に向かって光の球体を次々に飛ばした。しかし悪魔が手を払うと、指先から黒い弦がしゅるしゅると伸び、絡み合い、悪魔の身を守るように半球状に広がった。黒い盾に光の球体がぶつかり、周囲を照らして弾け飛ぶ。
 光が収まるよりも早く、黒い弦が素早く天使たちに伸び、その首に絡みついた。ぎり、と弦が締まり、刃物のような鋭利さで首を落とす。切断面からは血が流れることもなく、落とされた首と、分断された体は、さらさらと灰になっていった。
 それを悪魔は、つまらなそうな目で見つめていた。



 神殿にて。一連の様子を映した大鏡を、天使たちが囲んでいた。

「このままでは、人間の数は減少する一方です」
「天使の力では、悪魔には敵いません」
「神よ、ご決断を」

 神、と呼ばれた存在は、天使たちよりも高い位置にある壇上の椅子に腰かけていた。
 白銀の髪は美しく、金の瞳は光を集めたように煌めいている。体は男性体のようだった。
 神は大鏡を見つめ、暫く沈黙していた。やがて重い腰を上げると、立てかけてあった杖を手に取った。
 自身の身長よりも長いそれを、神は一度掲げた後、地面へと突き立てるように振り下ろした。
 コォン、という音が波状に広がっていく。その音は、世界の隅々まで響いた。



「……なんだ?」

 奇妙な感覚に、悪魔が周囲を見渡す。途端、地面が揺れ出した。ゴゴゴゴ、という地響きが鳴り、次々に亀裂が走っていく。
 大地が、割れていく。
 地上にあったものが、亀裂に呑まれていく。死体が滑り落ちて、奈落の底へと消えていく。
 悪魔の座っていた岩もたちまちひび割れ、彼は体勢を崩した。

「ッちィ!」

 悪魔は舌打ちをして、黒い弦を伸ばした。別の岩に巻きつけたものの、その岩もすぐに崩れてしまう。
 悪魔は()()()()()()。地の底から生まれた彼は、空で活動することができない。それは彼が使役する魔物たちも同様だった。魔物には様々な種類がいるが、翼を持つものは一つもない。

「クソ野郎が……!」

 恨み言を吐きながら、悪魔は亀裂の間へと落ちていくのだった。
「×××! ××××?」
「……あァ?」

 目を覚ました悪魔は、不機嫌そうに顰め面で声を漏らした。
 見知らぬ少女が、自分を覗き込んでいる。
 いらいらしながら身を起こせば、そこはどこかの砂浜だった。周囲を見回すも、少女以外の生物の気配は無い。霧の濃い島に、悪魔は目を眇めた。

 ――()()じゃねェな。

 ここは、先ほどまで自分がいた場所とは切り離された空間だ。次元の狭間にでも落とされたか、と悪魔は舌打ちした。
 思考を巡らせていると、ぐいぐいと何かに服を引っ張られ、悪魔は怒鳴った。

「ッンだよ、うぜェな!」

 殺気立った悪魔に怯むこともなく、少女はきらきらとした目で悪魔に話しかけた。

「××××?」
「だァら……何言ってんのか、わっかんねンだっつの!」

 がっと音がしそうな勢いで、悪魔は少女の頭を鷲掴み、力を込めた。少女から悲鳴が上がる。

「いったぁーい! なにするの!?」
「ぴーぴーうるせェ。ここはどこで、お前は何だ」
「ここがどこかは知らない。わたしは……って、あれ?」

 答えて、少女はただでさえ丸い目を更に丸くした。

「すごい! 言葉わかる! なんで!?」
「騒ぐな」

 魔物は獣の形をしているので、人の言葉が発音できない。声帯はあるので、意思疎通を図るため、悪魔は互いが発する言葉を翻訳する魔術を使っていた。同じ種族であれば、別個体でも効果は同様に発揮する。少女はどうやら、今まで悪魔が出会ったどの種族とも違うらしかった。そのため、新たに術をかけたのだ。

「わたし、マリアっていうの。あなたの名前は?」
「名前なんかねェよ」
「うそ! だって名前がなかったら呼べないじゃない。他の人からはなんて呼ばれてるの?」
「悪魔」

 そう言うと、少女――マリアは、息を呑んだ。

「名前なんて、個体識別のためのモンだろ。悪魔は俺しかいねェから、必要ねンだよ」
「……だったら、わたしがつけてあげる」
「はァ?」
「そうね……あなたの名前は、フランツ。フランツよ!」

 呆れ顔の悪魔をよそに、マリアは棒きれを手にして、砂浜に文字を書いた。

「綴りはこうね。覚えた?」
「……なんだこりゃ」
「え? アルファベットよ。言葉が通じたんだから、文字も読めるんでしょ?」
「文字なんか使わねェ」
「えぇ!? なにそれ、そうなの!? 不便!」
「いらねェよンなまだるっこしいモン」

 文字を書き記すようなことなどない。それを読む者もいない。そもそも、こうして会話をすることがほとんどない。
 悪魔と、敵意も恐怖も持たずに、会話をする者など。

「うぅん……。まぁ、わたしもここに来てから文字なんて全然使ってないもの。わからなくても、困らないわね」

 腕組みをして、うんうんと勝手に頷いている。ころころと表情の変わるマリアに、悪魔は奇妙な生物を見る目を向けていた。

「フランツは、どうやってここに来たの?」
「…………」
「フランツ?」

 了承した覚えは無いが、マリアの中では悪魔の呼び名はフランツで決定済みらしい。言い返すのも馬鹿らしくて、悪魔――フランツは、溜息を吐いた。

「俺は、地上から落とされてここに来た。お前は」
「お前じゃなくて、マリアよ」

 諭すような言い方にいらっとして、悪魔は指先から黒い弦を伸ばした。それはマリアの首に絡みついて、軽く締めあげる。

「俺に意見すんな。俺はいつでも()()を殺せんだぜ」

 赤い瞳に睨まれて、マリアは初めて恐怖を見せた。
 ああ、そうだ。人間は、どいつもこいつも。これが、普通だ。
 まだここの情報は得られていないが、面倒だし殺してしまおうか、とフランツが指先を動かそうとすると。

「マリア、だって、言ってるでしょ」
「……あァ?」
「名前で、呼んで。大事なことよ」

 自分を睨み返してくる碧眼を見て、フランツはマリアに多少の興味が湧いた。
 細い首は薄皮が切れて、僅かに赤い血が流れ出していた。それでも、彼女は自分の意志を曲げない。
 ふん、と鼻を鳴らして、フランツは弦を解いた。
 膝をついて咳き込むマリアに近づき、フランツはべろりと首筋の血を舐めとった。

「どうでもいい。けどまァ、殺すのはいつでもできるからな。俺が飽きるまでは生かしといてやるよ、マリア」

 舌なめずりをして酷薄な笑みを浮かべたフランツを、マリアは威嚇するように睨んだ。
 彼女はわかっていない。悪魔相手に、生きていられるということがどれほどのことか。
 しかし同時に、それはフランツにも同じことが言えた。悪魔が、人間を生かそうとしたことが。会話しようと思ったことが、どういうことなのか。
 今まで悪魔と会話を試みる者などいなかった。だから、彼自身も気づくはずがなかった。

 悪魔とは。出会う生物を片っ端から殺して回る、殺戮兵器ではない。
 悪魔は人間の悪意から生まれた。悪意は、残酷な感情のみに限らない。愛憎、嫉妬、執着、人の悪意は愛情と裏表なことがある。人から生まれた悪魔は、神や天使よりもよほど人に近い感情を有している。

「で? マリアはなんでこんなとこにいんだよ」

 どかりと砂浜に座ったフランツに、マリアも座り直した。
 ひとまず要求は呑まれたので、渋々といった風に口を開く。

「わたしは、海神様に捧げられたの。海に沈んで、死んだと思ってたんだけど、気づいたらここにいて」
「生贄か」

 鼻で笑うと、マリアがむっとした。

「わたしはお役目を果たしたの。きっと村は海神様の加護で、豊漁を迎えているはずよ」
「人間てのはほんとめでてェ頭してんな。神が生贄なんていちいち受け取ってるわけねェだろ。無駄死にだな、マリア」

 馬鹿にしたようなフランツに、マリアは真っすぐな目で言い切った。

「無駄なんかじゃないわ。仮にそれが神様にとって意味の無い行いだったとしても、村人たちにとっては大切な儀式だもの。ならそれは、意味のあることよ」

 フランツは目を眇めた。悪魔は、人の悪意に敏感だ。彼女が自分を殺した村人たちを恨んでいれば、わかる。
 この言葉は嘘ではない。彼女は誰も恨んでいない。だから解せない。何故、自分を死に追いやった者たちを許せるのか。

「ああでも、今こうしてるってことは、わたし死んでないのね。それとも、ここはあの世なの?」
「まァ現世じゃねェから、似たようなモンっちゃそうだが。少なくともその体は生きてんぜ」
「やっぱり? そうよね、お腹も空くし、眠くもなるから。変だと思った」

 言って、マリアは腹を押さえた。どうにも会話がずれている。

「どうやって暮らしてんだ」
「えーとね、島を散策したんだけど、果物は()ってるし、水場もあるの。だからとりあえず生きるだけなら困らないかな。寝る場所は草の上よ。今のところ雨が降ってないからなんとかなってるけど、お天気が崩れたらどうしようかなーって」
「へェ、案外図太いんだな。人間ってのは群れからはぐれたら生きられないとばかり思ってたぜ」
「そんなことないわよ。人間って、結構強いんだから」

 にひ、と歯を見せて笑った彼女は、この状況に絶望など微塵もしていないようだった。

「フランツも、仲間とはぐれちゃったの?」
「仲間なんかいねェよ」
「でも、一人じゃない」
「群れを作るのは弱いからだろ。俺は強いから、必要ねェ」
「必要よ」

 ずい、とマリアはフランツの方へ身を乗り出した。

「だってこうして、会話ができるじゃない。なら、話す相手は必要だわ。生きるだけなら一人でもできるけど、生きてるとは言えないのよ」
「意味わかんねェ。矛盾だらけじゃねェか」
「もう! わかるでしょ!」

 伝わらないもどかしさから、マリアは両手でフランツの手を取った。

「ほら!」

 フランツは、呼吸が止まった。どうして、こんなことで。
 他の生物の体温。他人の手の柔らかさ。自分以外の、命。
 奪う時にしか感じたことの無かったそれが、今、目の前で息づいている。

 ――そうか。マリアは、生きているのか。

 そんな当たり前のことを、今更ながらに思った。生きている。殺していないから。生きて、会話をして、そして。
 今、手を取っている。

「わたしたち、二人とも群れからはぐれて一人ぼっちになっちゃったけど。今こうして二人でいるから、新しい群れが作れるわ。二人しかいないんだもの。仲良くしましょ!」

 花が咲くように笑ってみせたマリアが、ちかりと光った気がした。

「あれ? 二人しかいない場合は群れって言わないのかしら。つがい? でもそれちょっと意味違うわよねぇ」

 能天気に首を傾げるマリアに、フランツは苛立たしげに舌打ちをした。
 いらいらする。いったい何に、こんなに、感情を乱されているのか。
 そもそも。感情というものが、あったのか。
 わからない。何もかも。わからないから。
 まだ、殺さなくていい。
 落とされた島で、フランツは暫くの滞在を余儀なくされた。この空間から出るには次元を越える必要があり、今のフランツにはそのための魔力が不足していた。無理やりこの島に落とされた時に、かなりの魔力を消耗してしまったのだ。魔力が回復するまでは、ここに留まるしかない。
 使役するための魔物を生み出すには、人間の悪意が要る。しかしこの島には、悪意を持つ人間が存在しない。手足となって動く存在を失った彼はどうしたか。
 何も、しなかった。

「ちょっと、フランツ!」

 怒ったようなマリアの声に、フランツは一度瞼を開くと、うっとおしそうに視線をやってそのまま閉じた。

「もう! この島に来てから、ごろごろしてばっかりで何もしないじゃない! ちょっとは手伝ってよ!」
「知るか」
「そんなこと言うなら、ごはんあげないんだからね!」
「頼んでねェ」

 口ではそう言いながらも、マリアはフランツの横に、採ってきた果物を置いた。
 フランツは転がったままそれを手にして、口に運んだ。
 別に、食事をとらなくても死にはしない。悪魔の体は不老不死である。この身を滅ぼせるものは、神だけだ。それと同時に、神を殺せるのも悪魔であるフランツだけ。だから神は不用意にフランツに接触してこない。
 食事も睡眠も必須ではないが、マリアはそのことを知らない。食物を摂取すれば多少なりとも魔力は回復する。睡眠も然り。都合が良いので、フランツは黙ってマリアに貢がせていた。

「フランツは、この先どうするつもりなの?」
「回復したら出ていく」
「えっ!? ここ出られるの!?」
「俺はな」

 フランツは、魔力さえ回復すれば次元の壁を破って元いた地上へ帰れる。しかし、マリアは違う。彼女は世界の(ことわり)から外れている。仮にフランツが連れて行こうとしても、マリアはここを出られない。

「そう……そうなの。フランツは、いなくなっちゃうのね」

 マリアは寂しげに呟いた。彼女にとっては、生贄として殺されるより、無人島での生活を強いられるより、孤独が何より辛いようだった。だから、自分を殺しかけた男にも、こうして尽くそうとする。

「わたしね、今家を作ろうとしてるの。フランツにも手伝ってほしかったけど……ずっと生活するわけじゃないなら、フランツには要らないわよね。でも、気が向いた時にでも、ちょっと手を貸してくれたら嬉しいな」

 明るく取り繕ったマリアに、フランツは黙って果物を齧った。
 人間は脆いから、生活基盤が必要なのだろう。しかしフランツにはどうでもよかった。自分がいなくなった後のことになど興味は無い。今だって生きてはいるのだから、家など無くても死にはしないだろう。
 そう思って、彼女が毎日あくせく働くのを横目に見ていた。



 水の気配に、フランツは顔を上げた。この島は霧に覆われている。いつでも湿度が高いため気づきにくいが、目を凝らせば雨雲が見えた。間もなく、強い雨が降り出す。この島の天候は固定されているとばかり思っていた。想定外のことに、フランツは舌打ちした。フランツにも、雨に濡れれば不快だと思う感覚はある。別段体に支障はきたさないので、このまま雨に打たれていてもどうということはないが。
 あの女は。
 気にかけてやる義理など無いが、あれが死ぬと自分の世話をする者がいなくなる。
 様子を見に行くだけだ、とフランツはマリアの元へ足を向けた。

 マリアは、木の根元に座り込んでいた。しかしこれだけの強い雨だ。枝も葉もそれほど雨避けの役割は果たしてくれずに、彼女はずぶ濡れになっていた。

「いい格好だな」
「フランツ」

 嘲笑うようなフランツに、マリアが顔を向ける。その顔を見て、フランツは口を噤んだ。
 マリアの顔は真っ青だった。唇は色を無くし、体は小刻みに震えている。
 悪魔の肉体の強度は、人間とは比にならない。暑さや寒さにやられることはまずない。
 けれど、彼女は。弱くて脆くて、ただの人間であるマリアは。
 この程度で、死んでしまう。
 マリアが死んでも困らない。下僕がいなくなれば多少の不便はあるかもしれないが、大したことではない。
 ただ。ここには、他に人間がいない。彼女がいなくなれば、遊べるおもちゃが無くなる。それは退屈だ。
 退屈は嫌いだ。永久の時を生きるフランツにとって、刺激は必要なことだった。

 フランツは、黙ったまま指先から黒い弦を出した。それにマリアが目を瞠る。首を絞められた時を思い出したのかもしれない。
 しかしその弦は絡み合い、マリアを囲うようにドーム状で固まった。鋼鉄のようなそれは水をしっかりと弾き、水滴の一つも入ってこない。

「あ、ありがと」

 感情の読めないフランツに、マリアは戸惑いながらも礼を告げた。フランツは、答えなかった。
 雨に濡れ続ける彼に、マリアはドームの中から声をかけた。

「ねぇ、フランツも入ったら? 濡れるよ」

 と言っても、フランツもマリア同様、既にずぶ濡れである。今更、と思いながらも、フランツはマリアの言葉に従った。
 ドームの中で、マリアはまだ震えていた。濡れた体が乾いたわけじゃない。寒さは続いているのだろう。

「……ねぇ。くっついても、いい?」

 遠慮がちに、マリアはフランツに尋ねた。寒さに耐えかねたのだろう。火の無いこの場では、人肌くらいしか暖を取れるものがない。
 魔術を使えば火を起こすこと自体はできるが、燃やし続けるには魔力を消耗する。今のフランツの状態で、ドームを維持したままそれを行うのは厳しい。自然に燃焼させ続けるには、乾いた薪を用意しなければならない。この雨の中、それを探しに行ってもすぐには見つからないだろう。

「服脱げよ」
「えっ!?」

 慌てるマリアをよそに、フランツは着ているものを脱いで水を絞った。フランツは単に不快だからだが、マリアは違う。水は吸熱する。蒸発する時に熱を多く使うので、濡れた服は着ているだけでどんどん体温を奪われる。
 フランツの調子から、(よこしま)な感情は無いことを悟ったのだろう。マリアもおそるおそる服を脱ぎ、それを絞った。絞った服で髪や体を軽く拭って、更に絞る。
 それから遠慮がちにフランツにくっついたマリアを、フランツが抱え込んだ。

「ひょわぁ!?」
「うるせェ」

 珍妙な悲鳴を上げたマリアは、フランツの一声で黙った。
 そのまま、沈黙が続く。
 雨の音が、葉を弾く音が、水が流れる音が、響く。
 フランツは、視界を遮るように目を閉じた。そうすると、余計に感じ取ってしまう。自分以外の命を。
 マリアの体は冷え切っているはずなのに、熱い。いや、熱いのは、自分の方なのかもしれない。

 この腕の中に。呼吸が。鼓動が。体温が。

 喚き散らしたい気分だった。今すぐ壊してしまいたい衝動に駆られた。
 不快だった。理解のできない何かが、自分の中にあるということが。
 跡形もなく粉々にしてしまえば。全て、無かったことになるんじゃないか。

「あったかいね」

 沈黙に耐えかねたのか、マリアが照れくさそうにそう零した。

「フランツがいてくれて、良かった」

 そう言って、マリアは微笑んだ。

 ――良かった。俺がいて。悪魔の、俺がいて。

 悪魔の自分の存在を、望んだ者などいない。望まれて生まれた存在ではない。
 それをどう思ったこともない。そういうものだった。そういう生き物だった。悪意から生まれた悪魔は、ただ悪意をばらまくだけの災害。だというのに。

 ――俺は、いて、良かったのか。

 震えた息は、雨音に混ざって溶けて消えた。
 黒い弦が踊り、あっという間に木が木材の形になる。その光景を目の当たりにして、マリアはあんぐりと口を開けた。

「これでいいのか」
「す……っごーい! 便利! わたしの努力はいったい……」

 むしろ今まで何をやっていたのか。一向に進んでいなかった家づくりに、フランツは呆れ顔だった。

「次どうすんだ」
「あ、えーっとね」

 記憶を頼りに覚束ない指示を出すマリアに、フランツは疑わしげにしながらも弦を操った。人間の住居のことなど知らない。正解がわからないのだから、とりあえず言う通りにするしかない。
 なるべくなら魔力は温存しておきたかったが、黒い弦はフランツの手足の延長にあるほど慣れた力だった。それほど大掛かりなことをしなければ、消耗は最小限に抑えられる。

「それにしても、急に家づくりを手伝ってくれるなんて、どういう風の吹き回し?」
「家が無いと死ぬんだろ、人間は」
「そのくらいじゃ死なないけど」

 死にそうだったくせに。思ったけれど、言わなかった。彼女を心配しての行動だと思われたら(しゃく)だ。

「でも嬉しい。ありがと」

 にひ、と子どもっぽく笑うマリアが、ちかりと光った。

 それからフランツは、気まぐれにマリアを手伝うようになった。いつも共にいるわけではないが、食事は一緒にとるようになった。会話が増えて。接触が増えて。マリアには、笑顔が増えた。
 二人で過ごすことが自然になった頃。ついに、家が完成した。

「や……った~! 長かった!」

 感激した目で家を見つめるマリア。簡易なログハウスなので、快適さはさほどない。まだ内部は改良の余地があるだろうが、最低限の機能は果たすだろう。

「ありがとう! フランツ! ほんっとうにありがと~!」
「大げさなんだよ」

 両手をとってぶんぶんと振ってみせるマリアに、フランツは体を引いた。

「これで一緒に住めるわね!」
「住まねェよ」
「えっ!? なんで!?」
「そろそろ出てく」

 マリアは、先ほどまでの興奮が嘘のように、一瞬で表情を変えた。
 何かを言おうと口を開いて、空気だけを吐き出して、俯いて唇を噛んだ。
 再び顔を上げた時には、眉を下げながらも、笑顔をかたどっていた。

「そっか。元々、出てくって言ってたものね。家ができるまで居てくれて、ありがとう」

 フランツは顔を逸らした。その通りだ。本当は、もっと早くに出ていけた。けれど、家が完成するまでは、と。ここに残ったのは、フランツの意志だ。それを見透かされたことが、なんだかきまりが悪かった。

「たまには、会いに来てくれる?」
「アホか。そうひょいひょい来れる場所じゃねェよ、ここは」
「あはは、だよねぇ。だって、フランツ以外、誰も……来ないものね」

 寂しそうに笑ったマリアに、フランツはじりじりとした居心地の悪さを感じていた。
 もう用は無い。義理も無い。地上に戻れば、人間は山ほどいる。マリア一人を気にかける必要など、ありはしないのに。
 自身の中に渦巻く感情を追い払うように、大きく舌打ちした。

「おい。『がらくた箱』漁んぞ」
「え、え?」

 『がらくた箱』とは。マリアが、砂浜から拾い集めた物を詰め込んだ箱のことだ。この島には、人間はマリアしかいない。しかし、時折どこからか流れ着いた物が砂浜に打ち上げられていた。この島の周囲の海は、直接外界とは繋がっていない。つまり、この島への漂着物は、どこか異界から紛れ込んだものだということになる。明らかに文明の違う物、理解のできない物、壊れて直せない物。それらを、何かに使えるかもしれないと、マリアは見つけては保管していた。

「これでいいか」

 フランツは一つの壊れたコンパスを手に取った。文字は擦り切れて、何の印もない。けれど、媒体は何でも良かった。(しるべ)となりさえすれば。
 ぐっと握り込み、それに魔力を込める。

「手出せ」

 疑問符を浮かべるマリアの手をとって、フランツはマリアの指先にコンパスの磁針を刺した。

「いったぁ!」
「うるせェ」

 じわじわと、磁針がマリアの血を吸って赤く染まる。マリアの手を離すと、今度は磁針の反対側にフランツが指を刺した。同じように、磁針がフランツの血を吸っていく。
 さっぱりわけのわからないマリアに、フランツはコンパスを手のひらに乗せて見せた。

「これが、俺とマリアを繋ぐ。マリアの血を辿って、居場所がわかる」
「……くれるの?」
「なんでだよ」

 物わかりが悪い、とフランツは顔を顰めた。マリアはこの島から動けないのだから、道標は必要無い。

「俺が。これを辿って、会いに来る」

 絶対の保証は無いが、一度通った道だ。標と、フランツの魔力があれば。再びこの島へ訪れることは、できるはずだ。

「会いに、きて、くれるの?」
「だからそう言ってんだろ」

 照れ隠しからか、苛立ったようにそう告げたフランツに。
 マリアは、涙を浮かべて、満開の笑顔を見せた。
 島を出たフランツは、地上のありさまに顔を顰めた。
 大地が、砕けている。
 かつて果てが見えぬほどに広がっていた地面は、分断され、時間の経過によって移動し、大量の水に浮かぶ島となっていた。
 それぞれの島はある程度の広さがあり、散らばった人間は小さなコミュニティを形成しているようだった。
 フランツは舌打ちした。翼を持たない悪魔は、空を飛んで移動することができない。だが、この大量の水は、底が見えない。歩いて渡ることは不可能だろう。沈んでも溺れ死ぬことはないが、上がってこられなくなる。何らかの手段を講じなければ、別の島へ移動することはできない。

 ――寒いな。

 吐いた息が白い。この場所は、どうやらとても寒いようだ。
 寒さで凍ることは無いが、温度はわかる。だが、それだけではない。
 今まであった温度が無いから、寒いのだ。
 そのことに気づいて、フランツは苛立たしげに眉を寄せた。
 大量の水を睨みつければ、遠目に何かが浮かんでいるのが見えた。目を凝らすと、何やら木の皮を丸めたものに、人間が乗っている。
 目視できる距離ならば。
 フランツは指先から黒い弦を伸ばし、見えた物体に引っかけた。そしてそのまま引き寄せる。

「よォ」

 にぃと口の端を吊り上げると、それに乗っていた男は青ざめた顔をした。

「いいモン持ってんな。なんだこれ」
「ふ、ふね、です」
「フネ?」
「う、海を渡るための、乗り物です。島と島を、行き来するには、これが、必要で」
「へェー……」

 海。そうだ、海だ。マリアも言っていた。
 あの島は、それだけで独立した空間だった。どこへも繋がっていないから、あの水の先へ行こうなどとは露ほども思わなかった。
 しかし、ここでは、この水を渡るための移動手段が要る。

「これ貰うぜ」

 一方的に告げて、フランツは男を船の外へ放り出した。

「えっ!? こ、困ります! わ、私も、船がないと、自分の島へ帰れません……!」
「知るかよ。海に突き落とさねェだけマシだと思え」

 積んであった櫂を手に取って、しげしげとそれを眺める。

「これで動かすのか?」
「か、返して、ください」

 縋る男を冷たい目で見下ろして、フランツは男を踏みつけた。

「使い方を、訊いてんだよ。訊かれたことだけ答えろ」
「う……っ、そ、そうで、す。それで、水を、かいて……っ」
「はァ、なるほどな」

 なんとなく、どういう装置かは把握した。
 フランツは船に乗り込むと、一匹の小さな魔物を生み出した。それは猿に似た形で、全身毛むくじゃらだったが、手だけは人間のようにつるりとした五本の指を持っていた。
 ぎょろりとした目でフランツを見上げたそれに、櫂を持たせる。

「じゃァな」

 軽い声で告げて、フランツは男を置き去りに、船を出した。毛むくじゃらの魔物は、器用に小さな手で櫂を動かしている。
 島に残された男は、恨めしげな目で、離れていくフランツを見送った。

 恨め。憎め。それが、悪魔の力となる。

 あの男の悪意程度では、こんな小さな魔物にしかならないが。人の集まる場所へ行けば、いくらでも生み出せる。
 人間はいつでも悪意に満ちている。できるなら、血の臭いのする場所へ行きたい。
 気分が高揚する。ようやく調子を取り戻せたと、フランツは楽しげな笑みを浮かべた。

 ひとまず人の気配がする島へ船を寄せると、フランツは慣れた臭いを嗅ぎ取った。
 
「――ははっ」

 乾いた笑いが零れる。ああ、やはり、人間は変わらない。土地が変わっても。悪魔の自分が姿を消しても。争いを、やめない。
 心地良い悪意の気配を感じ取りながら、フランツは魔力を放出する。
 地面に黒い油のような液体が滲みだし、どろりどろりと形を変えながら、獣の姿になっていく。

「さァ。狩りの時間だ」

 魔物たちが一斉に駆け出す。血と肉の焼ける臭いを目指して。



 悪魔の再臨に、人間は再び恐怖に震えることとなった。
 極寒の地へ取り残されたかと思われた悪魔だったが、人間の生み出した海を渡る技術を用い、近くの島々へ移動していた。まだ長距離航海できるような船が存在しないため、神の住まう地へ来るまでには相当な時間がかかるだろう。しかし、放置していればそれも時間の問題だ。天使たちはざわついた。

「あれは奈落へ落ちたのではなかったか」
「いったいどうやって戻った」
「力を失って弱っていたはず」

 大鏡に映る悪魔の姿を、神は無感情な目で見つめていた。

 飽きた。
 目の前の頭蓋骨を砕くと、フランツは無感動にそれを地面に落とした。
 つまらない。以前は、こんなことでも暇つぶし程度には思えていたのに。
 何かが不足している。飢えにも似たそれは、血肉を喰らっても埋まることはなかった。
 ここには悪意が満ちている。それは心地が良い。力も存分に振るえる。だというのに、フランツは、あの不自由な空間を思い出していた。
 あの場所は、訪れるだけで魔力を消耗する。行くメリットは無い。会いに行くと言ったが、あんなものは口約束だ。守る義理も無い。
 考えると不愉快になる。いらいらとして、何かに当たり散らしたくなる。それなのに何故、あの馬鹿みたいな笑顔が脳裏から消えないのか。
 会えば、この不快さは多少ましになるだろうか。
 大きく舌打ちをして、フランツはコンパスを取り出した。



 霧のかかる島。視界の悪い砂浜で、彼女は何かを拾っていた。また、流れ着いたものを集めているのだろう。頼りないその背中を、蹴り飛ばしたらどんな顔をするだろうか。怒るだろうか。泣くだろうか。
 けれど。

「マリア」

 ただ、名前を呼んだ。マリアは息を呑んで振り返ると、手に持っていたものを全て放り出して駆け寄ってきた。

「フランツ!」

 ちかりと、光が散る。
 フランツ。そうだ。呼ばれるまで、自分の名前すら忘れていた。彼女がくれた名前。彼女しか、呼ぶことのない名前。
 眩しいほどの笑顔。弾んだ声。遠慮なく飛びついてきた彼女の、重み。じわりと肌に沁みる体温。
 そうだ。これが、欲しかった。

「おかえりなさい!」

 渇きが、満たされていく。満たされたそばから渇いていく。
 飢えている。欲しい。もっと欲しい。
 マリアが、欲しい。

「フランツ? どうし――」

 見開かれた彼女の碧眼は、海とやらに似ていなくもない、と思った。



*~*~*



「最っっっ低!!」

 マリアがまともに言葉が発せるようになって、第一声はそれだった。

「うるせェ」
「うるさい!? うるさいで済む問題!? 自分が何したかわかってる!?」
「腹が減ったら飯を食うだろ」
「わたしは家畜か!!」
「似たようなモンだろ」
「はああああ!?」

 激怒、と表現するのが正しいマリアの態度に、フランツは眉を顰めた。別にマリアが怒ったところで恐くもなんともないが、高い声できゃんきゃんと喚かれるのは頭に響く。
 何をそんなに怒ることがあるのか。五体満足だし、見る限り大きな怪我もしていない。自分にしては随分と気をつかってやった。
 殺すこと。奪うこと。犯すこと。それらは当然の欲求で、人間だってやっていることだ。

「ねぇ。フランツは、わたしのこと、その……好きなの?」
「……はァ?」

 斜め上すぎる質問に、フランツは何を言われたのか理解できなかった。
 そんな言葉は生まれてこの方一度も使ったことが無い。
 フランツの反応から、期待した答えでないことはわかったのだろう。マリアは再び喚いた。

「じゃなんで抱いたの!?」
「腹が減ったから」
「~~~~っもう……!」

 これ以上は意味が無いと思ったのか、マリアはぐったりとしたように肩を落とした。

「わかった。もういい。フランツは、あれね。常識とか、そういうの、ごっそり抜け落ちてるのね」

 そもそも悪魔にそんなものは無い。マリアは、いまいちフランツが悪魔であるということを理解していない。比喩か何かだと思っている節がある。

「いいわ。わたし、フランツはわたしのこと好きなんだ、って思っておくから」

 何を勝手なことを、とフランツはマリアを睨んだ。しかし彼女は、あの無邪気な笑顔を浮かべていた。何やら毒気が抜かれて、フランツは反論を止めて溜息を吐いた。



 それからフランツは、度々マリアの元を訪れるようになった。普段は地上で好き放題暴れて、たまに気まぐれに姿を消す。
 行方をくらますフランツを不審に思った天使たちは、彼の行動を監視した。
 そして、突き止めた。次元の狭間に存在する、異空間を。そこに滞在する、マリアのことを。

「このような場所があったとは」
「我らだけでは越えられぬ」
「ここは我らの管轄ではない」
「しかし彼女は利用できるのではないか」

 大鏡を囲って口々に議論する天使たち。それを黙って見下ろしていた神が、おもむろに口を開いた。

「私が行こう」

 神の発言に、天使たちはざわついた。

「なりません!」
「神が直接出向くなど」
「万が一のことがあれば、世界が崩壊します」

 何者にも害されることのない神だが、悪魔だけは別だ。悪魔だけが、神を殺せる。神ならばあの空間に入ることができるが、だからと言って、送り出せるわけがない。

「私が手を下すわけではない」

 神が手を翳すと、ぼうと光が灯って、徐々にそれが剣の形を成す。
 真白な鞘と柄には、金の装飾が施されていた。

「彼女に、殺してもらおう」
 マリアは裸足で波打ち際を歩いていた。こうすると、足に生ぬるい海水が触れて心地良い。
 基本的には住居の周辺にいることの多いマリアだが、フランツが訪れるようになってから、浜辺に来ることが多くなった。彼がいつも、浜辺に現れるからだ。
 今日は来るかもしれない。来ないかもしれない。期待を胸に、彼の顔を思い出す。

「フ」「ラ」「ン」「ツ」

 吐息を漏らすように、音に出さずに彼の名前を唇だけでかたどる。それだけで、自然と顔がにやけるのがわかった。
 フランツ。この名を与えたのは、自分だ。彼はきっと適当につけたと思っているだろう。実際、それほど深く考えたわけではないのだけれど。
 フランツ。自由な人。彼の何にも囚われない奔放な姿は、マリアにとって憧れだった。



 マリア。その名は、初めから生贄になるために与えられた名だった。
 隣人を愛せ。村人を愛せ。島を愛せ。神を愛せ。この世の全てを愛せ。
 我が子のように慈しみ、運命さえも愛し、受け入れよ。
 そのように育てられたマリアは、その通りに育った。外の価値観など、知らなかったからだ。マリアにとっては、村が全てだった。出自すらも定かではないが、村人たちは自分を愛してくれた。だから愛を返した。それはマリアにとって当然の行いだった。
 それでも、自由への憧れが無かったわけではない。
 マリアには、望まれていた姿があった。望まれている役割があった。そこから逸脱することはできなかったし、その方法も知らなかった。けれど、時折思うのだ。この村の外には、何があるのだろうと。自分が愛すべき世界とは、どのような形をしているのだろうと。
 それでも、自由を追い求めることは、村人たちから貰った愛に反する行為だ。マリアは村人たちを愛していたから、裏切るような真似はしたくなかった。

 歳を重ねて、いざ海神に捧げられるとなった時。村人たちは、笑顔でマリアを送り出した。神の花嫁になるのだと。肉体という器を捨てて、永遠の楽園で幸せになるのだと、祝ってくれた。マリアも笑顔で、海へ出た。

 岩場に一人取り残されて。マリアは初めて、不安というものを覚えた。誰もいない。何も無い。波の音しか聞こえない広い空の下、ただ一人。
 それでも、海神様が迎えに来るのだと信じて、マリアは孤独に耐えた。
 時間が経つにつれ、潮が満ちていき、岩場が海に沈んでいく。足の先が冷たい海に浸って、マリアは思わず体を引いた。そのことに、マリア自身が驚いた。
 この身は、これからこの海に沈むのに。自分はそれを受け入れているはずなのに。
 役目から、逃げようとしたのか。
 恐ろしかった。体が震えた。それは寒さに対してなのか、死への恐怖からなのか、自分自身に対してなのか。わからなかった。どうして、今更。
 何も怖いことなど無い。この身は十分愛された。それを今、返すだけ。

 体が海に浸っていく。震えが止まらない。頭の先まで海水に浸かってしまえば、当然のように呼吸もままならず、肺に水が入っていく。
 後悔など何も無い。幸福に満ちた人生だった。最後に愛する人たちへ、恩返しもできた。
 それでも、もしも。一つ、願えるのだとしたら。

 恋というものを、してみたかった。

 万人を愛すマリアには許されなかったもの。ただ一人を特別扱いする行為。
 村の娘たちが時折頬を染めて話すそれが、マリアにとっては微笑ましく、また僅かな憧れを抱かせた。
 村の娘たちのようになりたいと思ったことは無い。マリアの人生は、マリアだけのものだ。それを手放したいとは思わない。
 ただ、もしも。別の人生があったのなら、と空想することくらいは。
 心の内だけは、マリアが唯一自由にできるものだった。

 もしも、恋をするのなら。その人は、どんな人かしら。
 優しい人かしら。逞しい人かしら。頭のいい人かしら。美しい人かしら。
 背は高い? 歳はわたしより上? どんな声をしているの?
 でもきっと、どんな人だったとしても。
 わたしはその人を、うんと特別扱いして。世界一幸せにしてみせるのよ。



 当時を思い返して、マリアはくすりと微笑んだ。
 結局マリアが恋した相手は、思い描いていたような素敵な人とは全然違った。
 身勝手で、適当で、口が悪く、暴力的。
 けれど、自由で、他人におもねることが無く、堂々としたところが清々しい。
 これが本当に恋かどうかはわからない。他に誰もいないから、寂しさから温もりを求めてのことかもしれない。
 理由など何でもいい。例えこれが思い込みだったとしても。今、マリアは、弾むような心のときめきを感じている。
 自分は一度死んだのだ。なら今生は、好きに生きてもいいだろう。
 村にいた時とは違う。マリアの命はマリアのもので、マリアの体もマリアのものだ。マリアの好きに使っていい。ならば。

 ――彼に全てを捧げたいと思うのも、わたしの自由でしょう。

「君が、マリアか」

 突如背後からかけられた声に、マリアは体を硬直させた。浮かれていた気持ちが急激に冷えていく。声でわかる。フランツではない。
 しかしマリアの警戒心の理由はそれだけではない。
 この人物は。音も無く、気配も無く、突然現れて。色も温度も無いような声をしている。いや、そもそも、人なのか。
 怖い。心臓が痛いくらいに胸を打つ。何故これほどに恐怖を感じるのか、マリア自身にも説明がつかなかった。
 振り返りたくない。けれど確認しないわけにはいかない。マリアは意志の力で、固まった首を無理やりに動かした。

 そこには、白銀の髪と金の瞳を持つ()()が立っていた。