赤の海域で一通りの準備を済ませ、緑の海域を過ぎ、コバルト号は順調に青の海域に進行していた。
奏澄とメイズの仲も、順調だった。奏澄の性に対する苦手意識が拭われてきたので、島ではそれなりに楽しんでいる。
しかし、奏澄の方では、メイズには言えない問題が発生していた。
――おかしい。
最近の自分は、おかしい。どこがおかしいのかと言えば、全部おかしい。頭もおかしいし、体もおかしい。
「どうした?」
メイズに声をかけられて、心臓が跳ねる。ぼうっとした奏澄を気にしたのだろう。しかし、顔が見られずに、奏澄は焦ったように答えた。
「な、なんでもない。私、やることあるから」
あからさまな言い訳をして、奏澄はその場を立ち去った。
残されたメイズは、怪訝な顔をして首を傾げた。
「メイズ。しばらく一緒に寝るのやめよう」
自室の前。いつぞやと同じ提案をされて、メイズは固まった。
「何かしたか」
「ううん、メイズは何もしてない。大丈夫。私の問題だから」
目を逸らしたままもごもごと言う奏澄に、メイズは眉を寄せた。
「最近避けてないか」
「き、気のせいじゃない?」
「ならこっち見ろ」
少し苛立ったように、自分の方を向かせようとメイズが奏澄の顔に手をかけた。
手が触れた瞬間、奏澄はびくりと肩を跳ねさせて、反射的にその手を払った。
ぱしん、という音が響いて、双方が目を丸くする。
手を払った奏澄の方が、明らかに『やってしまった』という顔をしていた。
「ご、ごめん! ごめんね! 大丈夫!?」
奏澄はすぐに払ったメイズの手を両手で包んだ。内心はこの場を逃げ去ってしまいたい気持ちでいっぱいだったが、この状態でメイズを置いていくのは非常にまずい。辛うじてその判断だけはできた。
呆然と黙っていたメイズは、奏澄の手を引いて、自室へ引き込んだ。
驚いた奏澄は為す術なく連れ込まれ、そのままメイズに強く抱きすくめられた。
「メ、メイズ、ちょっと」
明かりを灯す前の暗い部屋。扉を閉めてしまえば、廊下の明かりもろくに入らない。
ぼやける視界で、奏澄は自分を包む体温と、メイズの香りだけを感じていた。
どっと心拍数が上がって、訴えるようにメイズの体を叩く。
「メイズ、離して」
メイズは答えずに、奏澄の頭を片手で胸元に押さえつけた。これ以上、言葉を聞きたくないということだろうか。顔が密着して、先ほどよりも強い香りに、頭がくらくらする。ああ、まずい。おかしくなる。
「は、な、し、て!」
渾身の力を込めて体を押せば、腕が緩んだ。ほっとして距離を取り見上げると、暗さに慣れてきた目に映ったメイズの顔は、傷ついているように見えた。
「そんなに嫌か」
「い、嫌じゃないよ。そうじゃなくて」
「じゃぁなんだ」
どうしよう。なんて返せば。だって、正直に言うには、あまりにもみっともない理由だ。けれどそれは、今目の前で傷つけたメイズよりも優先することだろうか。
そんなはずはない。なら言ってしまえばいい。けれどそれを口にすることは、恥ずかしい、だけで済む問題でもなく。
色々な考えが頭を巡って、何かを言わなくちゃという気持ちが溢れ出して、どうにもならなくて、奏澄のキャパを超えた。
「うー……」
急にぼろぼろと泣き出した奏澄に焦ったのはメイズだ。この状況で泣きたいのはメイズの方だろうに、何故か奏澄の方が泣き出した。困惑したメイズを置き去りに、奏澄はしゃがみこみ、しゃくり上げたまま口を開いた。
「メイズのせいだぁー……」
「……何がだ」
これは責任転嫁だ。この状況で奏澄が先に泣くのは卑怯だし、メイズは何も悪くない。それなのに、理由を聞こうとしてくれている。甘い男め。怒ればいいのに。
「メイズの、せいで、私、いんらんになったぁ……!」
「は……?」
淫乱。思いも寄らない単語に、メイズは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
完全に理解が及んでおらず、困惑して二の句が継げない様子だった。
「い、今まで、したいとか思ったこと、なかったのに。なんか、メイズに触られたりとか、近くで、匂いとかすると、なんか、し、したくなっちゃって、からだ、おかしくて、メイズのせいで変になったぁ! ばぁか!」
もうこれ傍から見たらギャグだろう。
冷静な自分が俯瞰してつっこみを入れる。しかし当人は至って真面目に悩んでいて、制御がきかない状態だった。
おかしい。今まで一度もこんなことはなかったのに。自分の体が、作り変えられていくようだった。快楽を重ねて、体がそれを覚えていく内に、ちょっとしたきっかけでその感覚が蘇ってしまうのだ。肌の感触であるとか、汗の匂いであるとか、そういったものにひどく過敏になってしまった。
ろくに性欲など感じたことがなかっただけに、急に訪れた変化に戸惑い、一人で処理できる容量を超えていた。船ではしない、というルールを決めたのは奏澄の方だ。あれだけ厳重に言い含めていたのだ。メイズに言えるはずもない。
しかし、船での時間が長くなればなるほど、ごまかしもきかず、疼きを抑えるには距離を取るしかなかった。ちょっと離れればすぐ収まると思ったのに。なんなのかいったい。バイオリズム的なやつだろうか。脳内ピンクになってしまったのだろうか。中学生じゃないのだから。
泣きじゃくる奏澄を前に、メイズは力が抜けたようにへたりこみ、そのまま肩を震わせた。
「わ、笑うな!」
「っふ、いや、わる……ははっ」
やっぱりギャグだった。あのメイズが声を上げて笑っている。
メイズはしゃがみこんだ奏澄を抱き上げて、ベッドに座らせた。自身も横に座り、宥めるように緩く抱き締めて、頭を撫でた。
「よしよし」
「何で機嫌いいんだコノヤロウ」
不貞腐れた奏澄とは対照的に、メイズはすっかり機嫌を直していた。
「なぁ、お前がルールを作ったのって、何のためだ?」
「何のため……って、船で共同生活するにあたって、必要なことを」
「聞き方を変える。誰のためだ?」
「……仲間の、ため?」
仲間たちに、気をつかわせなくていいように。変な空気にならないように。
隣人の性事情は、アパートでのトラブルに発展することもあるくらいポピュラーな問題だ。だから奏澄の認識では、これは『注意すべき問題』なのだ。
「そうだな。で、俺はあいつらと合流してから、割と目立ってお前にべたべたしていたわけだが」
「えっあれわざとだったんだ」
「まぁな」
仲間の目がある時に限って、スキンシップが過多な気がしていた。奏澄としてはあれは恥ずかしいからやめてほしかったのだが、何か牽制でもしたいのかと思っていた。
「俺がどれだけお前に触れても、あいつらが嫌な顔をしたことは一度もなかった」
「うん、まぁ、そうだろうね」
「だろ? つまり、俺とお前が仲良くしている分には、誰も文句はないってことだ。むしろ喧嘩した方が心配をかける」
奏澄は目を瞬かせた。まさかメイズがそんなところに気を配っていたとは。一応、メイズも気にして試してくれたのだ。仲間たちが、果たしてメイズと奏澄の関係性をどう見ているのかを。祝福に偽りがなかったとしても、他人がべたべたしているのを好まないタイプもいるだろう。
何にせよ、言いたいことはわかった。仲間たちは、奏澄とメイズが船で行為に及ぼうが何をしようが、仲が良い分には見守ってくれるだろうと。それよりも、原因が何であれ、ぎくしゃくされた方が気になるし支障が出るだろうと。だから今、こうしてすれ違いが起きていることの方が問題だろうと。
「ルールは、俺とお前で決めたもので、他の連中は知らない。だから、お前さえ納得すれば、いつでも撤回できる」
「一度決めたことを、そう簡単に覆すのは」
「頭固いよな……。まぁ、俺の方から何かすることはない。約束したからな。してほしければ、いつでも言え」
にやりと笑ったメイズに、奏澄は口を開閉させた。主導権を握っているのは、奏澄だ。ルールの決定権も奏澄にある。しかしそれ故に、誘う時は奏澄からしかあり得ない。
「原因はわかったし、今後は触るのに遠慮はしない。セックス以外は、禁止されてないもんな?」
この状況を作り出したのは奏澄だ。しかし恨みがましい目をしてしまうのは、仕方のないことだろう。
そして近い内に、この『ルール』は撤廃されることになる。
奏澄とメイズの仲も、順調だった。奏澄の性に対する苦手意識が拭われてきたので、島ではそれなりに楽しんでいる。
しかし、奏澄の方では、メイズには言えない問題が発生していた。
――おかしい。
最近の自分は、おかしい。どこがおかしいのかと言えば、全部おかしい。頭もおかしいし、体もおかしい。
「どうした?」
メイズに声をかけられて、心臓が跳ねる。ぼうっとした奏澄を気にしたのだろう。しかし、顔が見られずに、奏澄は焦ったように答えた。
「な、なんでもない。私、やることあるから」
あからさまな言い訳をして、奏澄はその場を立ち去った。
残されたメイズは、怪訝な顔をして首を傾げた。
「メイズ。しばらく一緒に寝るのやめよう」
自室の前。いつぞやと同じ提案をされて、メイズは固まった。
「何かしたか」
「ううん、メイズは何もしてない。大丈夫。私の問題だから」
目を逸らしたままもごもごと言う奏澄に、メイズは眉を寄せた。
「最近避けてないか」
「き、気のせいじゃない?」
「ならこっち見ろ」
少し苛立ったように、自分の方を向かせようとメイズが奏澄の顔に手をかけた。
手が触れた瞬間、奏澄はびくりと肩を跳ねさせて、反射的にその手を払った。
ぱしん、という音が響いて、双方が目を丸くする。
手を払った奏澄の方が、明らかに『やってしまった』という顔をしていた。
「ご、ごめん! ごめんね! 大丈夫!?」
奏澄はすぐに払ったメイズの手を両手で包んだ。内心はこの場を逃げ去ってしまいたい気持ちでいっぱいだったが、この状態でメイズを置いていくのは非常にまずい。辛うじてその判断だけはできた。
呆然と黙っていたメイズは、奏澄の手を引いて、自室へ引き込んだ。
驚いた奏澄は為す術なく連れ込まれ、そのままメイズに強く抱きすくめられた。
「メ、メイズ、ちょっと」
明かりを灯す前の暗い部屋。扉を閉めてしまえば、廊下の明かりもろくに入らない。
ぼやける視界で、奏澄は自分を包む体温と、メイズの香りだけを感じていた。
どっと心拍数が上がって、訴えるようにメイズの体を叩く。
「メイズ、離して」
メイズは答えずに、奏澄の頭を片手で胸元に押さえつけた。これ以上、言葉を聞きたくないということだろうか。顔が密着して、先ほどよりも強い香りに、頭がくらくらする。ああ、まずい。おかしくなる。
「は、な、し、て!」
渾身の力を込めて体を押せば、腕が緩んだ。ほっとして距離を取り見上げると、暗さに慣れてきた目に映ったメイズの顔は、傷ついているように見えた。
「そんなに嫌か」
「い、嫌じゃないよ。そうじゃなくて」
「じゃぁなんだ」
どうしよう。なんて返せば。だって、正直に言うには、あまりにもみっともない理由だ。けれどそれは、今目の前で傷つけたメイズよりも優先することだろうか。
そんなはずはない。なら言ってしまえばいい。けれどそれを口にすることは、恥ずかしい、だけで済む問題でもなく。
色々な考えが頭を巡って、何かを言わなくちゃという気持ちが溢れ出して、どうにもならなくて、奏澄のキャパを超えた。
「うー……」
急にぼろぼろと泣き出した奏澄に焦ったのはメイズだ。この状況で泣きたいのはメイズの方だろうに、何故か奏澄の方が泣き出した。困惑したメイズを置き去りに、奏澄はしゃがみこみ、しゃくり上げたまま口を開いた。
「メイズのせいだぁー……」
「……何がだ」
これは責任転嫁だ。この状況で奏澄が先に泣くのは卑怯だし、メイズは何も悪くない。それなのに、理由を聞こうとしてくれている。甘い男め。怒ればいいのに。
「メイズの、せいで、私、いんらんになったぁ……!」
「は……?」
淫乱。思いも寄らない単語に、メイズは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
完全に理解が及んでおらず、困惑して二の句が継げない様子だった。
「い、今まで、したいとか思ったこと、なかったのに。なんか、メイズに触られたりとか、近くで、匂いとかすると、なんか、し、したくなっちゃって、からだ、おかしくて、メイズのせいで変になったぁ! ばぁか!」
もうこれ傍から見たらギャグだろう。
冷静な自分が俯瞰してつっこみを入れる。しかし当人は至って真面目に悩んでいて、制御がきかない状態だった。
おかしい。今まで一度もこんなことはなかったのに。自分の体が、作り変えられていくようだった。快楽を重ねて、体がそれを覚えていく内に、ちょっとしたきっかけでその感覚が蘇ってしまうのだ。肌の感触であるとか、汗の匂いであるとか、そういったものにひどく過敏になってしまった。
ろくに性欲など感じたことがなかっただけに、急に訪れた変化に戸惑い、一人で処理できる容量を超えていた。船ではしない、というルールを決めたのは奏澄の方だ。あれだけ厳重に言い含めていたのだ。メイズに言えるはずもない。
しかし、船での時間が長くなればなるほど、ごまかしもきかず、疼きを抑えるには距離を取るしかなかった。ちょっと離れればすぐ収まると思ったのに。なんなのかいったい。バイオリズム的なやつだろうか。脳内ピンクになってしまったのだろうか。中学生じゃないのだから。
泣きじゃくる奏澄を前に、メイズは力が抜けたようにへたりこみ、そのまま肩を震わせた。
「わ、笑うな!」
「っふ、いや、わる……ははっ」
やっぱりギャグだった。あのメイズが声を上げて笑っている。
メイズはしゃがみこんだ奏澄を抱き上げて、ベッドに座らせた。自身も横に座り、宥めるように緩く抱き締めて、頭を撫でた。
「よしよし」
「何で機嫌いいんだコノヤロウ」
不貞腐れた奏澄とは対照的に、メイズはすっかり機嫌を直していた。
「なぁ、お前がルールを作ったのって、何のためだ?」
「何のため……って、船で共同生活するにあたって、必要なことを」
「聞き方を変える。誰のためだ?」
「……仲間の、ため?」
仲間たちに、気をつかわせなくていいように。変な空気にならないように。
隣人の性事情は、アパートでのトラブルに発展することもあるくらいポピュラーな問題だ。だから奏澄の認識では、これは『注意すべき問題』なのだ。
「そうだな。で、俺はあいつらと合流してから、割と目立ってお前にべたべたしていたわけだが」
「えっあれわざとだったんだ」
「まぁな」
仲間の目がある時に限って、スキンシップが過多な気がしていた。奏澄としてはあれは恥ずかしいからやめてほしかったのだが、何か牽制でもしたいのかと思っていた。
「俺がどれだけお前に触れても、あいつらが嫌な顔をしたことは一度もなかった」
「うん、まぁ、そうだろうね」
「だろ? つまり、俺とお前が仲良くしている分には、誰も文句はないってことだ。むしろ喧嘩した方が心配をかける」
奏澄は目を瞬かせた。まさかメイズがそんなところに気を配っていたとは。一応、メイズも気にして試してくれたのだ。仲間たちが、果たしてメイズと奏澄の関係性をどう見ているのかを。祝福に偽りがなかったとしても、他人がべたべたしているのを好まないタイプもいるだろう。
何にせよ、言いたいことはわかった。仲間たちは、奏澄とメイズが船で行為に及ぼうが何をしようが、仲が良い分には見守ってくれるだろうと。それよりも、原因が何であれ、ぎくしゃくされた方が気になるし支障が出るだろうと。だから今、こうしてすれ違いが起きていることの方が問題だろうと。
「ルールは、俺とお前で決めたもので、他の連中は知らない。だから、お前さえ納得すれば、いつでも撤回できる」
「一度決めたことを、そう簡単に覆すのは」
「頭固いよな……。まぁ、俺の方から何かすることはない。約束したからな。してほしければ、いつでも言え」
にやりと笑ったメイズに、奏澄は口を開閉させた。主導権を握っているのは、奏澄だ。ルールの決定権も奏澄にある。しかしそれ故に、誘う時は奏澄からしかあり得ない。
「原因はわかったし、今後は触るのに遠慮はしない。セックス以外は、禁止されてないもんな?」
この状況を作り出したのは奏澄だ。しかし恨みがましい目をしてしまうのは、仕方のないことだろう。
そして近い内に、この『ルール』は撤廃されることになる。