「——幸い、大事には至らず、治療も無事終わりました。あと数日経てば、退院できるでしょう」
「そうですか。ありがとうございます」

私は、目の前の医者に頭を下げた。そして、肺に溜まっていた空気を一気に吐きだした。

「お、夕は無事みたいやな」

声がして振り向くと、そこには狐様こと、九尾の狐の4代目が立っていた。
着物姿だったさっきとは違い、黒いパーカーとジーンズ姿で、狐のお面も外していた。

「聞いてたで。一安心やな」
「そうですね。……ていうか、そういう服も着るんですね、狐様」
「当たり前や。着物のままじゃ、流石に怪しまれてまうからな」

狐様は、長い指で首元を触って言った。

「……なぁ、月音ちゃん。夕に遭ったこと、知りたい?」
私は目を見開いた。
けれど、答えは当然だ。

「知りたいです」
「そうこなくっちゃな」

私達は並んで歩き始めた。

「こっちの世界だと、夕の失踪はなんて扱われとったん?」

病院の中庭は、花畑のように、沢山の花に彩られていた。
私達はその一角のベンチに座った。

「えっと……行方不明とか、神隠しとか、そういう見出しで、ニュースはやってました」
「“神隠し”って、ほぼあってるやん。こう見えて、俺も一応、神やからなぁ」

狐様は、ここに来る前に買ったという缶コーヒーを飲みながら笑った。
目の前の異様なほど現代に馴染んでいる九尾の狐を前に、私は不自然さを覚えた。

「夕は、おれが住み着いていた神社にお祈りに来たんや」

狐様は、思い出を振り返るように目を細めた。

「確か、お母さんを亡くして、『お母さんが帰ってきますように』『これ以上、お母さんみたいに急に消えちゃう人がいなくなりますように』って願ってたんや。おれは、夕の後者の方の願いに食いついた」

目を細めるその顔は、本物の狐のようだった。封印されてもなお語り継がれる、平安を生きた怪物。

「『困っている人を助けたいなら、おれの代わりをしてくれへん?』って言ったら、夕は不思議そうに顔を傾げた。当たり前や。おれが細かく説明したら、夕はコクリと頷いた。あの日から、あいつはおれの代理……九尾の狐の4.5代目になったんや」

私は、小さな神社で、目の前に突然現れた九尾の狐に驚いている幼き日の夕を想像する。その説明を聞いていた幼い夕は、一体、どんな気持ちだったのだろう。怖かったのか、訳もわからず混乱していたのか、自分が背負う羽目になる使命を飲み込み、どこか冷静だったのか。その時、一緒にいなかった私には、正解はわからない。

「夕は、4.5代目なんですか? 5代目じゃなくて」
「そや。初代は平安時代に封印されて、江戸時代あたりから、悪い事をした償いに、人助けを始めたんや。けど、封印されて妖力が半減してもうたらしくてなぁ……。100年に1度、後継を探して、その後継に役目をパスするんや」

狐様は「ほんま、厄介なシステムやなぁ」と、ため息混じりの声で言った。

「ほんで、おれはそれに選ばれてもうた。……おれ、人間の時、凄く病弱でさぁ……。貧乏な村に住んでたから、親からも周りの人間からも“いらない人間”扱いされてた。だから、その村に3代目が来た時は、真っ先におれを後継にして追い払おうと、村の奴らは言った。おかげで、妖力も少なかったわ。100年保たなかった」
「……人間時代、病弱だった身体のせいで、100年分の妖力を持つことができなかったってことですか?」
「そういうこと。もう、使命を果たせないかもしれないって思った時、偶然、夕が来たんや。……流石に可哀想やから、100年じゃなく、10年の契約にしたけどな。おかげで、今、ここでおれは生きとる。夕の身内には悪いけど、感謝しとるよ」

苦笑いしてそう言った狐様の顔を、スポットライトのように、月光が照らしている。
その顔は、どこか夕に似ていた。

「ほな、帰る時は気ぃつけてな。夕が退院する時に、また来るわ」

狐様は大きな手をヒラヒラと振って、月夜に消えていった。
私はエレベーターに乗り込み、3と書かれたボタンを押した。
誰も乗っていない夜のエレベーターは、どこか気味が悪いと同時に、沈黙が心地いい。
狐様曰く、お母さんの「私達のご先祖様を呪った九尾の狐の片割れ」という話は本当で、九尾の狐の初代が封印される前に呪った一族と、私達は血がつながっているという。それを聞けば、両親のあの行動にも合点がいく。
ドアが開き、エレベーターを出た私は、夕の部屋へと向かった。
夜の病院には、多くの幽霊がいると聞く。実際に今、私が見えていないだけで、幽霊は私の周りをユラユラと漂っているのかもしれない。
それでも、私は怖くなかった。
初恋の人に、久々に会えるのだから。
夕の病室は、部屋の空き状況の問題で個室だった。
面会時間の終了まで、あと少し時間がある。
病室の扉を開けると、その部屋のベッドには、白い花のような肌をした少年が目を瞑っていた。
目を瞑っていてもわかる、大きな目と、黒色のふわふわの猫っ毛。
やっぱり、変わってない。

——おかえり、化け狐。