夜の街は明るいんだって、初めて知った。

 私は今まで、夜7時以降に外へ出たことはなかった。門限を破ったことはないし、夜遊びも、夜更かしもしたことがない。
 友達からイルミネーションに誘われても断った。地域の花火大会が開かれても行かなかった。天体観測も、肝試しも、午前0時の初詣も。全部諦めて、全部我慢して。
 だって、それは、お父さんとの「約束」だったから。

「ははは、初めてだな……。お父さんとの約束破ったのも、夜の街を歩くのも」

 私は悪い子なのだろうか。出来損ないの子なのだろうか。生まれてきちゃいけない子だったのだろうか。

 ガラスの花瓶を投げつけられた腕からは、赤い血が流れている。必死に出血箇所を押さえながら、この後の適切な処置を考える。
 冷静に考えたら病院に行くのが普通だろう。しかし慌てて家を飛び出してきたせいで、財布も保険証も持っていない。

 とは言いながら、真っ白になった頭でもスマホはしっかり持ってきているのは不思議だ。血を流しながらスクリーンに映し出された「19:04」の時刻を見つめる。モバイルSuicaで改札を通り抜け、行き先もろくに決めずに電車へと乗り込む。

 激痛のする腕を抱えて、夜の街をふらふらと歩く。ネオンの灯る夜の世界。家の最寄り駅か数駅先――見慣れている街のはずなのに、なんだか全く違う世界のように感じられた。

「友達は……」

【優香。愛美。さーちゃん。凪。あみ】

 チャットの友達一覧を開くと、仲の良い友人がずらりと並ぶ。大学生になり、一人暮らしをしている者も多い。おそらく、泊めてほしいと頼めば快く泊めてくれる子は何人かいるだろう。

 でも、だめだ。

 私はそっとスマホの画面を暗くした。彼女らに家のことをバレたくない。皆の優しさに甘えて迷惑をかけたくない。
 わずかな間だけでも私の住む「地獄」を忘れさせてくれる――そんな大好きな友人たちだからこそ、言えない。

 頭がふらふらする。
 私は、ここで死ぬのだろうか。でも、このまま眠るように死ねるのなら、それはそれで良い最期かもしれない。

「ね、ちょっと遊ばない?」

 男の人の声がした。振り向くと、その人は悪戯っぽい笑みで笑った。暗闇の中でするりと私の腕に軽く触れた。
 振り払う気力などなかった。逃げる元気などなかった。

「私は……」

 そのとき、視界がふっと揺らいだ。

――今はただ、誰かにもたれかかりたい……。

 薄れゆく意識の中、ぼんやりとそんなことを思った。





「気が付いた?」

 男性はペットボトルをカシュッと空けると、ソファ横のローテーブルに置いた。

「それ飲んでいいから」
「あ、ありがとうございます……」
「腕の傷は手当てしておいたよ。よく洗ったし大丈夫だと思うけど、心配ならあとで病院いったほうがいい」

 腕を見ると、綺麗な包帯が巻かれている。

「えっと、ここは……」
「俺ん家。母さんと2人で住んでるんだけど、今日は帰ってこないから」

 小さな窓に深緑のカーテン。ローテーブルとソファが置かれ、壁際にはフィギュアが飾られている。隅の方には、メイク用品がまとめられているようだ。どれも使い勝手の良い、必要最低限のコスメばかりである。全体的に物は少なく、母親と二人暮らしというのは本当だろう。

「なんとなく声かけたら、急に倒れるからびっくりしたよ。しかも血まみれで。俺、殺人事件起こしちゃったかと思って焦ったわ。何かあったのか?」

 さすがに父から花瓶を投げられたとは言えない。言葉に詰まり、つい押し黙る。

「……えっと」
「まあ、言いたくないならいいけど」

 その人は深くは詮索しようとせず、興味なさげに背中を向けた。私に話しかけながら、財布とスマホを鞄に入れる。

「家まで送るよ。何があったのかは知らないけど、家の人も心配するだろうし」
「……えっと」

 これにもまた言葉に詰まってしまう。

 帰れない。帰れるわけがない。だって原因は父親なのだ。ただでさえ夜に出歩くことを禁止されているのに、こんな時間に外へ飛び出していって、ただですむわけがない。
 どうしよう。せっかく助けてもらって親切にしてもらったのに、何一つまともな返事ができていない。恩人に対してあまりにも失礼だ。

「何か事情でもある感じなのかな? 適当に言えるところだけ言ってくれればいいよ。」

「……あの、帰れないんです。……なので…………送ってもらわなくて大丈夫です……」

 やっとのことで言う。冷たく聞こえなかっただろうか。せっかく家まで送ってくれると言ってくれたのに、その親切を無下にしてしまって申し訳ない。見ず知らずの人にこんな迷惑をかけてしまって、いたたまれない気持ちになる。

「そっか。帰らないならどうするの?」
「特には……」
「ふうん。じゃ、ちょっと一緒に遊びに行く?」

 その人は名案だとでも言うように明るく微笑んだ。私に声をかけてきたときと同じ、悪戯っぽい表情で。

 私は反射的に頷いた。
 彼は、この孤独な夜で、私の唯一の居場所になってくれるような気がした。

「俺、雄大って言うんだ。君も大学生だろ? 呼び捨てでいいよ」

 雄大は上着を羽織ると、優しく私の手を引いた。

「えっと、私は夏葉。私も呼び捨てでいい」

 雄大は頷く代わりに、ひまわりのようなパッと咲く笑顔で笑いかけた。

 あたたかい。包まれたい。包んでほしい。
 これからどこに行くのかなんて分からない。でも、この人になら着いていってもいいと思った。



 行き先はゲームセンターだった。思っていた場所と違う。だいぶ違う。
 いや、だからと言って、どこに連れていかれるかなど何も考えていなかったのだけど。

「ゲームセンターだと何が好き?」
「来たことないから、さあ……」

 ショッピングモールで、ゲームセンターらしきコーナーを見たことはある。しかし、実際にやったことはない。「金の無駄使いだ」と言われ、入ることすら許されなかったからだ。

「そうなんだ。じゃあ王道でクレーンゲームでもやるか」

 そのとき、雄大のスマホがなった。雄大の顔がさっと暗くなる。

「ごめん、バイト先からだ。ちょっとでてくる」

 こんな時間に、バイト先から電話?

 不審に思いながらも、「まあ、そういう会社もあるか」と思考を右から左に流した。バイトをしたことがないから分からないが、夜にまで電話がかかってくるということは、相当ブラックな職場なのかもしれない。
 私はクレーンゲームの前に一人取り残された。お金を持っていないため、暇つぶしに一人でゲームをすることもできない。

「君、ひとり? 一緒に来ない?」

 にやにやとした笑みを浮かべながら、男の人が近づいてきた。これがナンパかあ、なんて呑気なことを考えた。着いて行ったらどうなるのだろう。またゲームセンターに連れていかれたりして。
 本当は少し着いていきたい気もした。しかし、雄大がいる。勝手に置いていくわけにはいかない。
 私は一人じゃないのだ。

「ごめんなさい。一緒に来てる人がいて」
「でも、今いないよね? バックレちゃおうよ」

 ぐい、と腕を引かれた。不思議と怖くはなかった。ただ不快感だけが募った。
 強めに男を押し退ける。

「やめてください」
「えー、強気なタイプ? いいね、そういうのも」

 男は笑いながら、なおのこと腕を引っ張る。決して離そうとしない執着心に、思わず呆れてしまう。
 私の何がいいのだろうか。可愛い子なんて他にたくさんいるし、遊び慣れていそうな子も周りに何人もいるのに。

「だから、離してってば」

 私が大きな声で言ったとき、後ろから冷ややかな声がかぶさった。

「夏葉に触らないでくれる?」

 その瞬間、男は苦い顔をして、私からぱっと手を離した。

「彼氏持ちかよ……」

 そんな捨て台詞を吐くと、男はあっという間に踵を返した。

「夜はああいうナンパ多いよなあ。大丈夫?」
「別に平気。雄大がいなければくっ付いて行ってたかも」
「はあ……? そんなほいほいついて行くなよ。危ないだろ」
「え、雄大だってナンパした側なのに?」
「いや、俺はナンパじゃない。誰かとゲームセンターで遊びたかっただけだ。コミュ強って言ってほしいな」

 雄大は屈託のない笑みを向ける。

――この人は、私に害を与えない。

 その安心感が心地よかった。

 ゲームセンターでは色んな機械で遊んだ。銃で撃ったり、メダルを落としたり、太鼓を叩いたり。それぞれどんな名前のマシーンなのかは知らなかったけれど、雄大に教えて貰いながら、初めてのゲームセンターを楽しんだ。

「ここ、よく来るの?」
「ああ、それなりには」
「いいなあ。私は夜に出歩くこと禁止されてるから一回も来たことないよ」

 大学生になって、夜遅くまで遊んでいる友人を見ると羨ましくなる。飲み会をしたり、サークルをしたり、バイトに明け暮れたり。
 自由に遊ぶことができる彼らも、それが許されている環境も、全部羨ましい。ないものねだりだということは分かっているが、私には「ないもの」があまりにも多すぎるのだ。

「禁止されてるのか? じゃあ、今日は?」

 雄大は茶化すように、私の顔をのぞき込む。
 言ってしまいたい。父のこと。家庭環境のこと。友達には絶対に言えない重荷を、全部ぶちまけてしまいたい。でも、そんなことをしたら、自分のたかが外れてしまいそうで怖かった。
 今までずっと我慢して、口を閉ざして、全てを封じこんできたからこそ。

「家から……逃げてきたの」

 包帯を巻かれた腕を見る。すると、雄大は「ああ……」と妙に納得したような顔になった。

「色々あるんだな、お前も」

 その瞳は悲しそうで。

「……雄大?」

 私が聞き返そうとしたとき、雄大はふと時計を見上げた。

「あ、もうそろそろ閉店か」

 ゲームセンターを出ると、ひんやりとした夜風が吹いた。

「もう帰るの?」
「帰るしかないだろ」
「そっかあ」

 ここで雄大と別れたら、私はまた一人だ。ふらふらこの辺を歩いていたらまた誰かがナンパしてくれるだろうか。
 可愛くもない私が、そんなに声かけられるはずもないか。一夜で二人からも声をかけられたことが幸運だったのかもしれない。
 もし三度目があるとしたら、そのときは迷いなく着いていこうと思った。その先でどんな目にあってもいい。たとえ、殺されたとしても。

「夏葉、今、よくないこと考えただろ」
「よくないこと?」
「誰かに着いていこうかな、とか」
「わあ、当たり」

 雄大は呆れたようにため息をついた。

「うち、来るか? ネカフェ行く金もないんだろ」
「……うん、いいの?」

 迷いはなかった。だって、声をかけられることがあれば着いていこうって、決めたばっかりだったから。この誘いを断る理由なんてなかった。

「即答か。危なっかしい奴だな、ほんと」





 雄大の家は小さなアパートだった。

 一階の窓が開いている。誰か中にいるようだ。アパートに近づくにつれ、輪郭がはっきりしてきて、その人影は煙草を吸っている男性だと分かった。すると奥から女性がやってきて、男性の煙草を取り、男の煙草を吸った。煙が戯れるような談笑の後、男性が女性に覆いかぶさるようにして窓の下に消えた。ガラスも閉めず、開放的な夜を過ごしているらしい。
 愛して、愛されて、愛し合って。
 幸せなカップルだと思った。煙草の間接キスも、甘い視線の交わりも、全てが生き生きとしていた。

 階段を上がるたびにギシギシと音がなる。窓枠は劣化が目立ち、手すりは少し触っただけで赤錆が手につく。
 ここでもし大地震でも起きたらひとたまりもないだろうな、と思った。耐震工事なんて碌にしていないに違いない。火事でも起きたらそれこそ大惨事だろう。偏見で申し訳ないけれど。

 古びたドアを開け、部屋に入る。つい先ほどまでいた場所なのに、ひどく寂しそうな空気が漂っている。
 うちとは大違いだなと思った。酒ばかり吞んだくれ、ろくに働きもしないで家で大きな顔をしている父親を思い出し、再び左腕が痛んだ。

「知らない男の部屋に入るの怖くない?」
「平気」

 父親のほうがよっぽど怖い。いつか殺されるんじゃないかとさえ思う。殴られながら、いつも、死ぬなら痛くない方法で死にたいと願う。

「お父さんの方が怖いから」
「そっか」

 重たい雰囲気が部屋にわだかまる。空気を変えたくて、私は別の話題を振った。
 
「どうして今日はお母さんいないの? 仕事?」
「そう。看護婦やってて今日は夜勤なんだ。看護婦って夜まで大変だよなあ、ほんと」
「へえ……いいな。ちゃんとした親で」

 ぽつりと呟いた。
 お父さんは多分、アルコール依存症なんだと思う。仕事もやめ、稼ぎはなく、今は生活保護で生活している。それなのに、バイトは禁止、門限は20時、家事は全部私がやっている。

「私はお父さんと二人暮らしなんだけど、ろくな奴じゃないよ。殴るし、蹴るし、物は投げるし。家に私の居場所なんてどこにもない。私が家のことを忘れられるのは学校にいるときだけ」
「そうか。周囲の人には恵まれてるんだな。それなら良かった」
「雄大は?」
「俺は親には恵まれてるほうだと思う。母子家庭だけど、母さんは女手一つで育ててくれたし、俺のことを否定することは絶対に言わない。ただ、周囲の環境はあんまりって感じかな」



「詐欺の受け子って、よくニュースでやってるだろ?」

 雄大はぽつりと言う。

「最初はSNSで単発バイトととして募集かかってたんだ。時給も高いしちょうどいいかなと思って応募したら、実は闇バイトだった。すぐにやめようとしたけど、学生証も保険証も提示したあとだったから逃げられなくて。でも受け子はすぐに捕まるんだ。そうなったら母さんに迷惑がかかる。今の生活だけでも精いっぱいなのに。だから、受け子をやめる代わりに今のバイトをやることになった。……詐欺とか密売とかに加担してるわけじゃないから、厳密には闇バイトと言わないのかもしれないけど」
「どんなもの?」

 おそるおそる聞くと、雄大はことりとマグカップを置いた。

「夜逃げ屋ってやつ。……借金取りから逃げたい人。誰にも知られず町を出たい人。色んな人がいるよ。中には犯罪者なんかもいる」
「それって危ないんじゃないの……?」
「ああ、でも逃げられないから。もしやめようとすれば母さんにバラされる。それだけは避けたい」

 雄大は憎々し気に天井を睨んだ。

「あんな奴ら、消えちまえばいいのにな。隕石でも落ちてきたらいいのに」
「ふふふ、地震のほうが現実的じゃない?」
「たしかに。もっと確実にいくなら火事だな」

 隕石でも、事故でも、事件でも、なんでもいい。
 この状況を終わらせてくれる「何か」が欲しい。

「……ねえ、燃やす?」

 私はふとそんなことを言った。

「ん?」

 雄大はきょとんとしている。

「そのままの意味だよ。燃やすの。放火するの」

 自分でも何を言っているのか分からない。これ以上言ってはいけないと分かっているのに、言葉が止まらない。

「弱み握られてるんでしょ? それなら、全部跡形もなく消してしまえばいいじゃん。事務所」
「いやいや、そんなこと」
「大丈夫。もし失敗したとしても、犯罪組織は警察に行けないんだよ。罪が露見するからね。だから、彼らは訴えることができない。雄大が捕まる心配はない。そいつらにバレさえしなければ」

 流れるようにとめどなく言葉が出てくる。

「もし半焼でもして警察沙汰になったときのことを考えて、一応事故を装ったほうがいいよね。そうだ、煙草の吸殻とか置いておけばいいんじゃないかな。燃えかすが建物に着火して延焼した体を装えば、多分事故に見える」

「……それは、夏葉の願望?」

 はっと雄大を見る。

――そうか、私は、父を殺したかったんだ。

 その瞬間、ぽろぽろと涙が流れ落ちた。いつもは滅多に流さない涙も、ここでなら流しても許されるような気がした。

 雄大は私のことを引き寄せ、そっと抱きしめた。


 開け放たれた窓から星が見える。もし今、流れ星が流れたとしたら、「一生朝が来ませんように」と願うと思う。
 この時間が続けばいい。夜なんて明けなければいい。あの地獄に帰るくらいなら、このまま死んでしまってもいい。死んで、もっと幸せな家に生まれたい。
 私だけの居場所がほしかった。

 雄大だって気持ちは同じはずだ。闇バイトなんかせず、母親と幸せに暮らしたいと思っていることだろう。

「ねえ、好き」
「……どういう意味だ?」
「言葉のままの意味」

 午後一時。夜も深く、静寂の星が眩しい。

 誰かに全力で甘えてみたい。嫌われるんじゃないかという不安も、捨てられるんじゃないかという恐怖も、全部忘れたい。そんな愛を知りたい。

「俺ら、今日会ったばかりなのに?」
「そういうのじゃない。もっとちゃんとした、好き、の意味なの」
「ちゃんとした?」

 雄大が私の肩に触れた。ゲームセンターで知らない男に掴まれたときは嫌悪感しかなかったのに、雄大に触れられたときにはそんなに嫌な感じはしない。ソファが、ぎしり、となった。

「夏葉」
「ねえ、好き」

 唇を合わせた。甘い味がして、頭が沸騰しそうなくらい熱かった。一夜の夢には十分すぎるくらいドラマチックな熱だった。

 今日初めて会ったというのに、初めて会った気がしないのはなぜだろう。
 境遇が似ているからだろうか。もしかしたら何か通ずるものがあるのかもしれない。

「俺さ、いつ死んでもいいや、って思って生きてきたんだ」

 それは私も同じだ。世界の方が、私を殺しにきてくれればいいのにとさえ思う。

「でも、夏葉を置いては死ねないな」
「……ふふっ」

 雄大の横にごろりと横になった。

 相手を愛しいと思うこと。これは、なんという感情なのだろう。
 私たちは抱き合ったまま眠りについた。この夢が覚めないことを祈りながら。

 開け放たれた窓からは、煙草の匂いがむわりと入ってくる。それは、苦くて甘い……私たちの一夜限りの運命のような匂いだった。





 ふと目を覚ました。やけに階下が騒がしい。なんとなく煙たい感じもする。
 どうしたのだろうか。
 ベッドから身を起こし、雄大を起こさないようゆっくりと立ち上がる。スマホで明かりをつけ、キッチンを覗いてみる。特に異変はない。もし煙が出るとしたら一体どこだろう。
 私は、玄関のドアを見つめた。

――まさか。

 おそるおそるドアを開ける。そんなことあるはずない、と思いながら、重いドアが鈍い音を立てた。
 ドアを開けた瞬間、ぶわりとした熱風におそわれた。めらめらと炎が立ち上がり、鮮烈な赤が目の前を包み込む。

「ゆ、雄大!」

 火事? どうして? なんで?
 パニックになった脳内で、半ば倒れこむように雄大のもとへ駆けた。

「起きて、雄大! 火事!」
「……え?」

「外が燃えてるの! 真っ赤に、どうしよう……逃げなきゃ、どうしよう」

 半泣きになりながら、雄大にしがみつく。

 雄大は厳しい顔をして、勢いよく体を起こした。

 まだ混乱状態の私の手を引っ張り、無理やり起き上がらせた。雄大は自分のカバンと財布をひったくるように持つと、私にぐいと押し付けた。

「お前は先に逃げろ」
「なんで、やだよ、怖いよ、一緒に逃げようよ」
「大丈夫。貴重品だけ持ったら、俺もすぐに逃げるから」

 雄大は、私の肩を力強く叩いた。雄大の「大丈夫」という言葉は、誰のどんな言葉よりも信頼出来るような気がした。

「わ、分かった」

 怖い。はやくここから出たい。

 雄大が私の背中を押し出すと同時に、玄関へと走った。開けっ放しにしていたドアから、炎が中にまで侵入してきている。

 ドアを全速力で駆け抜けた。

「人だ!」「あとは、二人がまだマンションの中だ」

 地上の人々が口々に叫ぶ。
 階段を駆け下り、息を切らしながらその場に倒れ込んだ。

 そのとき、年配の男性がマンションに向かって泣き叫んでいるのが目に入った。

「婆さんの形見が……家の中にあるんだ……取りに戻らせてくれ……!」
「危ないです! やめてください!」

 まだ動悸のおさまらない心臓を押さえながら、年配男性に胸が痛いほどの同情を覚えた。

 家には様々なものがしまってある。

 子供の頃の楽しい思い出も。
 絶対に忘れられない故人の忘れ形見も。
 命に代えてでも守り抜きたい大切なものも。
 記憶から葬り去りたいと願っていながら、棚の奥底に眠る暗い闇も。

 家とは、その人の全てが詰まった「箱庭」なのだから。
 まあ、私などは全部燃えてしまっても構わないものばかりだけど。できることなら、全て灰になって消えてもらいたいとさえ思う。

 私はアパートの二階を眺めた。

「雄大は、まだ……?」

 雄大がおりてこない。
 どうして?
 貴重品を持ったら、すぐに来るといっていたのに。
 どうして? まだなの?

 心臓がバクバクと鳴り響く。

 私が逃げる頃にはすでに、室内に炎が侵入しようとしていたところだった。火の回る速度は、人が思っているよりもはるかに早い。一分一秒が命取りの火事の現場で、悠長なことをしている暇はないのだ。
 
「お願いだ! あれだけは……!! 他のものはどうなってもいい……形見だけは……!」


――まさか。

 冷静さを取り戻し始めていた脳内に、危険サイレンがなった。呼吸が浅くなり、肺がはっ、はっと苦しくなる。

――雄大は、全部、消そうとしている……?

 行かなきゃ。雄大のもとに行かなきゃ。

「おい、待て!!」

 考えるよりも先に、勝手に体が動いた。
 地面に倒れこんでいた私は、消防隊員にとってノーマークだったらしい。背が低くすばしっこい動作も相まって、人々の隙間を抜けると、一直線に荒ぶる炎の中に飛び込んだ。

 後ろからたくさんの声が聞こえる。でも、そんなの構わない。
 私は消防士の言葉なんかより、雄大のほうが大事だ。

「雄大!」
「夏葉。なんで……」

 そこには、数枚の紙を燃やす雄大の姿があった。闇バイト関連の書類だろうか。
 メラメラと一枚ずつ燃えていく様は、火事の中とは思えない穏やかな光景だった。

「だって、いつまで経っても雄大が来ないから……」
「早く逃げろ!」

 雄大は叫んだ。

「分かってるのか! 火事なんだぞ! 早く逃げろよ! 俺のことなんて考えるな!」

 黒煙が部屋に充満する。瓦礫ががらがらと落ち、壁から柱へと炎が移る。

「それは雄大もでしょ……。今、火事なんだよ? 命が危ないのはあんたのほうでしょ!? そんな一枚一枚のんびり燃やしてないで、さっさと逃げてよ!」
「俺は、いいんだよ、もう」
「闇バイトの証拠を全部消して、自分諸共消えようって魂胆? ここで死ぬつもりなの? ねえ!」
「そうだよ。今なら母さんがいない。死ぬなら今だろ……今しかないだろ」

 世界を壊して死ねればいいのに、って何度も思って生きてきた。

 でも一人は嫌だった。これまでずっと苦しい思いをして生きてきたのに、どうして死ぬときまで寂しい思いをしなくてはならないのか。

 こんなちょうどいい死に方があるのなら、私は喜んで受け入れようじゃないか。

「早く逃げないと死ぬぞ!」
「雄大だって死ぬじゃん! なら、せめて一緒に死のうよ!」
「そんなこと言ってる場合かよ!」
「そうだよ! せっかく死ねるんだ! 願ってもないことだよ! 嬉しいじゃん!! やったじゃん!!」

 雄大の瞳が揺れた。

 きっと私の目は、今、キラキラしているに違いない。これで全部終わりにできる。こんな喜び、滅多に怒らない。

 黒煙がゆらりとたつ。煙を吸い込まないよう頭を低くし、雄大と目線を同じにする。
 死ぬなら一緒に死にたい。雄大を一人にはさせない。

「……お前とは今日会ったばかりなのに。……どうしてか、昔から知ってる気がするな」
「奇遇だね。私も」

 炎火はごうごうと勢いを増す。紺鼠色の煙が視界を遮り、白銅色の煙が気管に入る。

 いつか聞いたことがある。焼死ほど苦しい死に方はない、と。

 できれば、寝ている間に一酸化炭素中毒で死ねれば楽だったのだが、あいにく起きてしまったためこのまま自然に身を任せて死ぬしかないようだ。

「これって心中かな」
「無理心中だろ。俺がこんなに『死ぬな』って言ってるのに、無理やり一緒に死のうとしてるんだから」
「あはは、確かに。無理やり心中だ」
「笑えねぇよ」

 そう言いながらも、雄大は優しく微笑んで私の頬に手を添えた。

 窓の向こうには、美しい星空が広がっている。今までにイルミネーションも夜景も見たことはないが、おそらくこの星空よりもきれいな夜は存在しないだろうと思った。きっと、この世界で一番美しいのは、私たちの見ているこの世界だ。

 闇の中で、緋色の炎が勢力をふるう。

 夜空で一番明るいのは月のはずだった。丸い月がぽっかりと浮かび、黒の空に光と希望を与えるから。
 夜空で一番賑やかなのは星のはずだった。無数の月が点々と輝き、人の心の孤独と虚しさを埋めるから。
 しかし、この夜空を支配しているのは業火だった。黒い煙の中でちらちらと揺れる多様な赤。柱には茜色、壁には紅蓮色、天井には猩猩緋が燃えている。

「好きだ」

 私たちは、人生で二回目の口づけをした。

 悲しくて、虚しくて、
 幸福に満ち溢れた時間だった。