大学時代の友人達が集まった同窓会。卒業してから八年も経っているのが不思議なくらい、居酒屋の個室の空間が大学時代に戻っていた。私の目の前には竜吾が座っている。五年ぶりに会っても丸顔なのは変わっていないかったが、肩にかかるくらいの長髪になっていて、私は一瞬誰なのか分からず、軽い会釈で済ませようとした。他の皆はそこまで変化が無かったからこそ、余計に竜吾の変化に驚いた。
 
 個室は大部屋で20人以上が集まっていたが、気がついたら私と竜吾は席で二人になっていた。私は何の会話をしてよいかわからず、冷えたから揚げにレモンを絞っては衣を少しづつ剥がしていた。そんな所に、ビールジョッキを持ったスーツ姿の俊樹が陽気というオーラを纏った姿で現れた。

「飲んでる?久しぶりじゃん、和那。少し太った? 辛かったもんな。わかる、わかるよ」

 一言目で容姿について触れてくる俊樹に対して、私は俊樹の声のトーンを2オクターブ下げる重力を感じさせる言葉を吐いた。そういえば俊樹は引っ越していなければすぐ近くに住んでいるはずだが、まったく会うことはなかった。

「相変わらず人の心に土足で入り込んでくるタイプね」
「俺の土足、裏にモップついてるからね。床をキレイにしちゃうから大丈夫よ」
「私の心が汚れてるって事?」
「和那の綺麗な心の床をさらに磨きをかけたいんですよ。ワックスもサービスするよ?」
 
 俊樹はポケットから整髪料のワックスを取りだして私に見せた。私は負けたというかのように吹き出した。
 
「相変わらずだね、俊樹」
 
 俊樹は口角をこれ以上ないくらい上げて嬉しそうに叫んだ。

「俺の名前憶えててくれたんだ!ありがとう、それだけでも今日来た甲斐があったよ」
「忘れてるわけないでしょ」
「ありがとう。俺の記憶、ゴミ箱に捨てないでね」
「次のゴミの日までは忘れないようにする」
「神様、ゴミの日の前日で時間が止まりますように!」
 
 自然と私と竜吾にあの頃の笑顔が戻っていた。俊樹は学生時代からそうだった。どんな人と話をしてもその場の温度を2度あげることが出来る。そして俊樹は最近占い師として仕事を始めた事を一方的に告げて、次のテーブルに向かった。竜吾と私は過ぎ去った台風を見送るかのように、ため息をついた。

「俊樹、変わんねえな」
「本当ね。あの会話術なら占いで大豪邸建てられると思うよ」
「俺もやってみようかな、占い師」
「無理だって」
 
 竜吾はビールジョッキを目の前に置いて、両手をかざして目を閉じた。

「おお、あなたの未来が見えます」
「どんな?」

 竜吾は眉間にしわを寄せて考え始めた。そして諦めたかのように手をかざすのをやめた。

「何にも思いつかない」
「だから無理って言ったでしょ」
 
 竜吾は私の未来が見えるはずだったビールジョッキを握って、勢いよく飲んだ。
 
「俊樹は凄いな。死ぬまであんな感じで喋ってるんだろうな」
「俊樹なら死んでもお墓の中で話してるかもしれないね」

 竜吾は、ふと思いついたように呟いた。
 
「タダヨリは、今は何してるんだろうな」
 
 竜吾の問いかけに、私は和らぎかけていた心をまた固めた。しかし竜吾はそんな私の様子を気にすることなく会話を続けた。

「甘い物好きだったから、今頃何か食べてるかもな。あ、桃のスムージー飲んでたりして」

 更に私は表情を強張らせた。しかしそれを見て竜吾は優しく首を振った。長く伸ばした髪の毛がふわりと宙に浮いた。

「和那、そろそろ現実を受け止めてもいいんじゃない?」

 竜吾の言葉を聞いた瞬間、私はテーブルの上の醤油を探し始めた。竜吾はそんな私の挙動を無視するかのようにスマホを取り出して、私の顔の正面にスマホ画面をかざした。

「これ、お前が投稿してるんだろ?」

 ――パートナーと付き合ってから7周年記念で、今日は告白された場所でランチ。毎年来てるんだけど、ここのクラブハウスサンドイッチはいつも美味しいっ。八年目、これからもよろしくね。

 竜吾のスマホには二人前の美味しそうなサンドイッチの画像が表示されていた。私は慌てて首を振った。

 あの事故以来、私は感情を何処かに置き忘れていた。どんなに笑ったとしてもそれは顔の表情が笑っているだけで、心はついていかなかった。まるでレンジで温めて湯気が出ている肉まんの中央が冷たいままのようだ。しかしSNSに投稿している時だけは私の感情が戻っていた。私は、もしタダヨリが死んでいなかったらやっていた事をSNSに投稿していた。タダヨリの誕生日にはタダヨリが好きだったラーメン屋の画像、夏は千葉で海水浴、クリスマスはロマンティックな夜景の遊園地。あたかもタダヨリと一緒に来ているかのようにSNSへ投稿する、それだけが私の楽しみだった。
 
「知らない。私じゃない」
「じゃあこれは?」

 タダヨリのバイト先、タダヨリが好きだったラーメン屋の写真、タダヨリの家の近くの公園、次々とタダヨリと私の思い出の場所が映る動画を流した。そして私とそっくりな声がナレーションをしていた。
「タダワナの思い出の場所めぐりでした。チャンネル登録、高評価よろしくお願いします」
「これ、あきらかにお前の声だよな」
 私はスマホには目もくれず、冷えたから揚げの衣を見つめた。竜吾は私の様子を見て、スマホをポケットへしまった。
「一人でカップル動画ってどういう事だよ。すぐバレるよ」
「バレてないもん」
「コメントで彼氏早く出せとか、ホントは恋人いないんじゃね?って書かれてるよ」
 私は膝の上に両手を置いて、グッとスカートの生地を握りしめた。タダヨリにプレゼントされたボタニカル柄のフレアスカートだ。あれ以来、私は新しい洋服を購入していない。
「いいでしょ、別に。何したって」
「俺は和那が心配なんだ」
「誰にも迷惑かけてないでしょ」
「迷惑はかけていないけど、心配はかけてるだろ」
「勝手に心配しなくていいから。私はこうやって私の中のタダヨリと二人で生きていくんだから」

 私の目にはうっすらと涙が浮かび始めた。竜吾は小刻みに震えている私に向かって小さく諭した。

「そんなんじゃ、和那もあの時に死んだのと同じだぞ」

 私は竜吾の言葉に何も言い返さなかった。そして私は近くにあったお手拭きで口を拭い、マスクをつけた。竜吾は興奮した自分を抑えるかのように深呼吸をし、冷めきっている衣の取れた唐揚げを一つ口に放り込んだ。そして気の抜けたビールで一気に流し込んだ。
 
「和那、まだあの事気にしてるのか」
「あの事?」
「何度も言ったろ。もう気にするなって」
「何を?」
「お前がタダヨリにぶつかったのはわざとじゃないんだから」

 私は竜吾の言葉を聞いて、目を大きく開いて見つめた。

「どういう、事?」
「あれは、不可抗力だから」
「私がタダヨリを道路に押したって言ってるの? もしかして私のせいでタダヨリが死んだって言ってるの?」
「いや、そうじゃなくて」
「私、やってない!」
 
 私は感情に任せて勢いよく席を立ち上がった。私の膝が机にぶつかり、机の上に乗っていた何品かの料理が床に落ちた。皿が割れる音で不穏な事が起きたと察知した俊樹が慌てて私の所に駆け寄った。

「どうしたの?」

 俊樹の問いかけに、私は下唇を強く噛んで震えていた。俊樹は何かを察知したかのように、部屋に響くような声で私に問いかけた。
 
「じゃあ俺と夜空でも見るか。今日は和那さんのために良い星を沢山揃えておりますよ」

 そう言うと、俊樹は私の荷物と上着を持って、優しく私を店外へ連れ出した。俊樹は私を出口までエスコートしながら、振り向きざまに竜吾に向かって軽くウインクをした。竜吾は二人が出ていった後に、長い髪を振り乱すかのように頭を激しく掻いた。そして何かを飲み干したかったのか、ビールジョッキを一気に空にした。

 店を出た私と俊樹は、店から少し離れたところまで歩いた。少し歩くだけで酔っ払ったサラリーマンと何度かぶつかった。世界的にはあんな騒動があったにもかかわらず、飲み屋街は以前のような賑やかさを取り戻していた。

「和那ちゃん、今日はありがとうね。駅はあっちだから」

 俊樹は交差点の向こう側のタクシーがたくさん並んでいる方向を指差した。私は俊樹に小さな声で呟いた。
 
「星は?」

 俊樹はこちらをご覧くださいと言わんはかりに夜空へ右手をかざした。私は俊樹が手を上げた方向を見上げたが、街の明かりが眩しくて星座はおろか星もほとんど見えなかった。

「申し訳ございません。ご注文の星は配達中でございます。和那さんがゆっくりお家でくつろいでいる最中にお届けいたします。今しばらくお待ちください」

 私は興奮が少し収まったのか、俊樹に荷物を持たせている事に気づいた。慌てて俊樹から荷物を受け取ると俊樹は手に持っていた上着を私に優しくかけた。

「ありがとう」
「今日のお金は立て替えとくから。皆にもいい感じに言っとくし。実家の猫が具合悪くなったって」
「ごめんね」
「皆が安全に楽しく家に帰るまでが幹事のお仕事です」
「あと」
「何?」
「私、犬派なんだ」
「オッケー。実家の犬でいかせていただきますワン」
 
 俊樹は再びこれ以上ないくらい口角を上げた。私は危うく抱きつきたくなる感情を抑えて、俊樹に頭を深く下げた。俊樹は私の感謝を受け取るかのように、私に向かって胸元で小さく手を振った。
 
 私は駅に戻る道を歩きながら、自分の記憶を辿った。

 正直言うと、あの日のことはほとんど記憶にない。

 鳴り響くクラクションの音だけは耳の奥にずっと残っている。

 私は自宅へ到着するとドアを開けて、玄関に飾ってあるタダヨリの写真に声をかけた。

「ただいま、タダヨリ」

 写真立ての中でタダヨリが笑っている。タダヨリが初めて私に料理を作ってくれた時に、エプロン姿でキッチンにて撮影した写真だ。あの時タダヨリが作ったハンバーグは、不思議な味がしたのを覚えている。まな板の横へ置かれている瓶にSUGARと書かれている事に気づいた時に私はあの時の不思議な味の意味を理解した。

「ねぇ、タダヨリ。私、タダヨリを押したの?」

 写真の中のタダヨリは、あの時の笑顔のまま私に向かって微笑んでいる。私は大きく首を振るとコートを脱ぎもせずにソファへ倒れ込んだ。机の上に飾ってあるタダヨリの写真が目に入った。

「ねぇ、答えてよ。タダヨリ」

 私の声が狭い部屋の天井に吸い込まれていく。そしてその答えが返ってくることはない。タダヨリがいなくなってからの五年、ずっとそうだった。

「答えてってば!」

 料理を作り途中のタダヨリも、誕生ケーキのロウソクを吹こうとするタダヨリも、私とキスをするタダヨリも、その叫びに応える事はなかった。

 私は冷蔵庫からビールを取り出して飲み始めた。一気に飲み干しては次の缶を開けた。そして6本のビールを全て開けた。それはタダヨリのためのビールだった。酒に弱い私はあっという間に酔いが回り、タダヨリの写真を睨み始めた。

「私、タダヨリを殺したんでしょ。憎いでしょ、ねえ。私が」

 タダヨリの写真は写真立ての中で笑顔のままだった。私は写真立てを握りしめ、強く抱きしめた。

「嘘だよ、私がタダヨリを殺すなんておかしいよ」

 私はソファーに突っ伏して激しく泣いた。1時間以上泣き続けた。泣きすぎてしゃっくりがとまらなくなっても、私は泣き続けた。

 突然、私のスマホが鳴った。電話の相手は俊樹だった。

「お待たせしました!」

 私の涙はまだ止まっていなかった。俊樹は電話口から聞こえてきた私が鼻をすする音を聞いて、話を一人で続けた。
 
「ご注文の星をお届けにあがります。消えないうちに、ご堪能ください」

 私は、俊樹に促されるように窓を開いて空を見上げた。建物に囲まれているが、少しだけ夜空が開けている場所があった。その夜空にいくつもの星が流れていた。

 まるで私の代わりに、空が泣いているかのように。

 私は電話口の俊樹に伝えた。

「まだ届いてないみたい」
「そうですか、それは失礼しました。改めて星の準備を」
「違う。私が注文したのは俊樹」

 しばらく沈黙が流れた。そして俊樹は申し訳なさそうな声を出した。

「あいにく俊樹は品切れみたいですね」
「お願い、ねえ俊樹」
「和那、知ってる? 味噌ラーメンを食べたいときに醤油ラーメン食べると、もっと味噌ラーメン食べたくなるんだよ」
「……」
「もし、本当に醤油ラーメン食べたくなったら、また連絡ちょうだい」
 
 私は電話を切って、ベットに潜り込んだ。

 その日の夜は、いつもより更に長く感じた。

 私に朝が来るのは、一体いつなんだろう。