明るく人工的な光が散乱する宵闇の世界がガラスの外で繰り広げられている。
その無数の中の一つである静まり返った店内。
「もう、君とはやっていけない。ごめん、景衣子」
向かい合いながらも視線を外しながら告げられた言葉。
それは、私の胸に多少の傷をつけた。
目の前には、一口も口をつけていないコーヒーカップが二つ。
彼はテーブルに千円札を一枚置いて立ち上がった。
「ごめん、俺と別れて。今までありがと」
最後に合った瞳は、とても冷たかった。
そのまま急いだ様子で店を出て行く。
申し訳程度の音量のBGMだけが耳に流れている。
正真正銘今私は、5年付き合った彼氏と別れた。うすうす結婚のことを考えていたこの時に。
原因は、多分あっちの浮気。じゃなくて、私に飽きたから、かな。
昔から歴代の彼氏にはつまらない女だって言われてきた。
まあ2人しかいないけど。あ、今ので3人に更新か。
———立花景衣子、28歳を目前に彼氏にフラれました。なんてキャッチコピーはどうだろうか。

彼氏だった男、根本悠志と初めて出会ったのは、高校のとき。
もともとみんなの憧れって感じで、女子人気もあって彼女も絶えない人だった。
私は大して気にしたことはなかったけど、大学を卒業し22歳の社会人一年目の年に偶然再会した。
クラスメイトだったってだけで関わりなんてほとんどなくて当時も事務的な会話しかしていなかっただろうに、向こうは私のことを覚えていたのだ。
そこから何回か食事に行くにつれて私でもわかるほどの熱烈なアピールを受け、日々仕事のストレスで身体も心もボロボロだった私は、優しくしてくれる彼に簡単に甘えてしまった。
そして再会から一年も満たないうちに私たちは交際をスタートさせた。
あれから五年。今まで気付かなかったのが不思議なくらい。
高校の頃から女の子をとっかえひっかえしていた彼。そんな人が5年という長い歳月で私だけを好きでいるなんておかしい。
浮気をしてるって分かったのは、彼が『仕事で帰れない』とメッセージを送ってきた日のスーパーで夕食の買い物を済ませた帰り道だった。スーツ姿の彼と見知らぬ女性が親密な様子で歩いていたのを見かけたのだ。
誰が見てもきっと、恋人だというだろう。
ショックだった。とても。あのときは確か、3年半付き合ったときだったかな。
だけどなぜか、涙は出てこなかった。それはたぶん、昔の彼を思い出して納得してしまったから。
別れられなかったのは、早く結婚して両親を安心させてあげたかったから。
家計が厳しくても仕事で忙しくても、私にたくさんの愛を注いでくれた両親には感謝しかない。だから多少の浮気くらいの我慢、別にどうってことないと思った。
だけど結婚の話なんて出ることもなく5年。ついには正反対の別れ話が出てしまった。
好きだった、のかな。これだけ一緒にいたから、感覚が麻痺して分からない。
このレストランは、私と彼が恋人になったときの一番最初のデートで彼が連れてきてくれた店だ。
わざわざここを選んだのかなと思ったけど。違うだろう。5年前のデート先なんて覚えてるはずがない。

やけになって冷めたコーヒーを一気飲みし、テーブルに置かれた千円札を掴み取った。
会計を済ませ外に出る。
スマホを確認すると、午後9時過ぎ。
冷たい10月半ばの風が前を通り過ぎ、薄いカーディガンの裾を揺らす。
……さて、どうしようか。
彼とは同棲していたので、あの家にはもう帰れない。
とりあえず今夜はネカフェで過ごして、荷物もなんとかしなきゃならないけど、今は具体的なことは考えたくない。
スマホで空室のあるこの辺のネカフェを検索するけど、運悪くどこもヒットしなかった。
……これは、公園で野宿かな。
ホテルに宿泊できるような額は生憎持ち合わせていない。仕方ないか。
彼氏と別れた今、諦めの感情が強く押し寄せる。
このまま脱力して座り込んで、アスファルトの上で寝たい気分だ。
そんなことは人の迷惑になるし通報されかねないのでもちろんしないのだが。
とりあえず一晩寝れる公園でも探そうかと、私は歩き出した。
どこもかしこも人だらけ。友達とかカップルとか。都内の夜はまだまだこれからで、眠りにつく気配はない。
寒さに触れる腕を抱えながら、人の間を縫って進む。
というか、公園なんてないか。こんなところに。
そんなことに今更気づきつつ、歩く以外の選択肢はないのでひたすら足を動かした。
酒の匂いがつんと鼻をつく。足元を見まわすと、数本の空の缶ビールが転がっていた。
海外に比べれば日本はずいぶんときれいだというけれど、まあ想像はできない。海外になんて行ったことないし。

昔からなにかに挑戦することが嫌いだった。失敗して、笑われるのが怖くて。
成功なんて約束されてないのに、人は無責任に大丈夫だと言う。
どこからくるんだろう、その自信は。なんて考えてしまう。
私が会社に就職して一度も辞めずに今まで頑張ってこれたのはかなり奇跡に近い。だけどそれよりも、彼と5年も居れたことのほうが私にとっては一生分のなにかを使い果たした気分だった。
彼はよく女性に声をかけられた。デート中も、私がいるなんてお構いなしに。
私ごときからなら奪えるとでも思われてるんだろうか。まあ正直なところ、奪おうと思えば奪えると思う。
私は“つまらない女”だし、自分でも面白みのない人間だと自覚している。特に趣味もなければ得意なこともない。話も面白くないし、特別容姿がいいわけでもない。
……それに。
私は、自分の右腕を見つめた。
そこには手の甲から腕半分くらいにかけて、大きな濃い色のあざがある。
生まれたときからあるものだ。これが原因で小学生の時にはいじめられたりもした。私にとっては、一番のコンプレックス。
彼は気にしなくていいよと言ったけど、触れることはあってもこの場所にキスしてくれたことは一度もなかった。
避けてたのか、それとも偶然なのか。ここ1年くらいはそれ以前にレスだったため真相は分からない。分からなくていいけど。もう終わったことだし。

そうこうしているうちに細めの路地に入った。
この辺は住宅街みたいで、一軒家やマンションが連なっている。
人はいないが、代わりに光の漏れる先から笑い声や会話が聞こえた。
「……私、なにしてるんだろ」
そこでやっと足を止めた。気付かなかったけど、ヒールで長時間歩いたから足が痛い。
……少しだけ、少しだけだから。
そう言い聞かせて痛みに耐えながらゆっくりしゃがみ込んだ後、ぺたっと座り込んだ。
冷たい。けど熱い。どっちかわからないや。
地面。安心する。どっと疲れが身体にのしかかると同時に、ずっと張っていた神経が緩む。
つ、と頬になにか違和感を感じた。
触れると、生温かい水分だった。
それに加えて、ぽつぽつと雨が降る。
いつもなら傘を差すけど、そこまで頭が回らない。
ただ雨だ、と思った。
都合がいい。流す必要のない無意味な涙も、この雨に流れてしまえ。
悲しくないはずなのに涙はどんどん溢れて、眼球が潤っていく。
三十路も近い大の大人がこんなところで泣き崩れてるなんておかしいけど、今はどうでもよかった。
「あの、大丈夫ですか?」
だんだんと強くなる雨の中、かすかに人の声が聞こえた。
すると、ぱたりと雨が止む。
いや、止んだんじゃない。
上を見上げると、傘をこちらに差す一人の男性がいた。
「濡れてますよ。立てますか」
そして私に手を差し伸べてくる。
頭があまり働いていない私は、力の入らない手のひらでそれを迷わずぎゅっと握る。
強い力で引っ張られ、あんなに重いと思っていた身体がするりと持ち上がった。
傘を差してくれた男性と目が合う。
私よりも頭半分大きな身長。
スーツ姿で変わった形のカバンを肩にかけていた。
「あ、ありがとう、ございます……」
なんとかお礼を言い、私はその人の横を通り過ぎて去ろうとする。
「っ、待って」
と思ったら、優しい力で右手首を掴まれた。
あろうことか、あのあざに触れられる。暗闇で見えないのかもしれない。
「なん、ですか」
小さく振り返る。

「こんなにボロボロの人、放っておけないです」
「あの、大丈夫です。私のことは」
フラれた女と関わるなんてろくなことがないんだから、さっさと私のことなんか見捨ててほしいと思った。
そもそも、一般的な考えを持った人はこんな身なりの女になんて声をかけない。この人は、ちょっと優しすぎるか、おかしい。
「でも足すりむいてるみたいだし。傘も持ってないようなので、雨が止むのを待てがてら、俺の家へ来ませんか」
……なにを言っているんだろう、この男は。
初対面のはずなのに、家に来いだなんて。いろんな意味でやっぱりおかしい。
でも私もこの人から見れば相当変なんだろうなと思う。
「……分かり、ました」
気付けばそう返事をしていた。

痛い足を引きずりながら、というか相合傘をしながら来たのは、あの場所から数メートル先の高層マンションだった。
傘を閉じて中に入り、男性がオートロックを解除する。
……ん?だんせい?にしては、ちょっと幼いような。
黒いジャケットの背中を眺めながらふと疑問に思う。
「こっちです」
再び同じ場所に触れられ、手を引かれながらエレベーターに乗った。
1平方メートルの狭い空間。私は彼の背中だけを半目でぼうっと見つめているとエレベーターが止まる。
扉が開き、引っ張られながら歩く。
ずいぶんと先まで行くと、連なるドアのうちの一つの前で止まった。
がちゃりと鍵が回り、視界が開く。
「どうぞ」
「……おじゃまします」
さっきよりも朦朧とする意識の中で靴を脱いでいると、ふらりと身体が傾いた。
「っおっと」
床へ強打するかと思いきや、男性が支えてくれる。
ふわっと甘い花の香りがした。
「……すみません」
「いえ。よかった、怪我しなくて」
彼に微笑みかけられる。
———それからの記憶は、あまりない。
目を覚ましたら知らない部屋のベッドで一人、横になっていた。

知らない香り。どこだろう、ここ。
飲んだわけではないので記憶はしっかりと残っている。
この部屋はあの人の家だ。
「あ、起きましたか」
「ご、ごめんなさい。私……」
部屋にあの男性が入ってきて、私はそろそろと頭を下げる。
一夜の過ち……は起こしてないみたいだけど、さすがにいろいろまずいでしょ、これは。
「疲れはとれましたか」
「え、あ、はい。おかげさまで……」
「そうですか。よかった」
さっきとは違い部屋着姿の彼の背中を、慌てて追おうとしたとき。
足首に衝撃が走り、そのままつんのめってばたりと倒れてしまった。
「ううっ、いったあ~」
「えっ、大丈夫ですか?」
彼はこちらへ振り向き、駆け寄ってくる。
「足、怪我してますね。絆創膏取ってきます」
「す、すみません……」
なにからなにまで迷惑かけまくって、情けなくなる。
しかも、初対面の人に。
ベッドに腰かけ絆創膏を受け取ろうとしたら拒否され、靴擦れを起こした足首へ丁寧に張ってくれた。
目にかかるほどの長さの前髪。奇麗なまつげ。妙に色気のある姿に不覚にもドキッとしてしまう。
「できました。立てますか?」
「……ありがとう」
すること一つ一つ聞いてくるなんて律儀だなあ。
私は差し伸べられた手をとり、立ち上がった。
「ほんとに、ありがとうございました。じゃあ私、そろそろ帰ります」
帰るところなんてないけど、これ以上お世話になるわけにもいかない。彼には彼の生活があるから。
と思うと、私ってほんとにあの人にフラれたんだなあとずしりと身体が重くなる。
それには気付かないフリをして部屋を出て行こうとしたら。
「あの」
「……はい」
振り向くと、彼は少し切なそうに眉尻を下げていた。
「まだ雨も降っていますし、コーヒー一杯くらい、どうですか」
———その夜の私は、やっぱりちょっとおかしかったんだ。
そんな顔を見てしまったら断るに断れない。なんて言い訳を付けて、彼の言葉にうなずいてしまった。

リビングルームに通され、真っ白なダイニングテーブルの椅子に座る。
周りを見渡すと、余計なものが置かれていないなと思った。言い方を変えれば、生活感のない部屋。そんな中、一つ異彩を放つものがあった。
少しくたびれたスクールバッグが床に置かれている。
数分後、キッチンからふわりとコーヒーの香りが漂い、心が少しだけ落ち着いていく。
「どうぞ。粗末なものですが」
「いえ……ありがとうございます」
目の前にお花模様のティーカップが置かれ、彼が目の前に腰掛けた。
お言葉に甘えてコーヒーにそっと口をつけると、苦くて甘い味が舌に広がる。それがゆっくりと身体全体に巡り巡っていく。
「……おいしい」
「よかった。俺、コーヒー淹れるのちょっと得意なんで」
そう控えめに笑った姿に、私は見覚えを感じた。なんでだろう、どこかで会ったりしたのかな。
「こんなことを女性に聞くのは失礼かと思うんですが、おいくつですか?」
「……27歳です、けど」
ほんとに突然だな。と思ったけど別に失礼だとは思わなかった。それは言葉に悪意が感じられなかったからだと思う。純粋に知りたいだけなんだと。
「俺は見ての通りです。今年で17になります」
「……じゅう、なな?」
う、うそでしょ。
17ってことは、高校生!?じゃああのスクールバックは……。
ていうよりも私、今未成年の部屋にいるってこと!?
なんで気が付かなかったんだ。察しが悪すぎる。
しかし当の本人は不思議そうな顔をしていた。
「どうしましたか?」
「これ、私、まずいんじゃ……」
と言いかけると、遮られる。
「俺の名前は、武内千尋です」
「は、はい」
「好きになように呼んでください」
「えっと、千尋くん」
「はい」
私は名乗らずにこんなところまで来てしまったことに自分の常識のなさを痛感する。
「私は立花景衣子、です」
「景衣子さんって呼んでもいいですか」
「は、はい。どうぞ」
17とは思えない落ち着き。大人っぽい雰囲気。そして、コーヒーと混じる甘く爽やかな花の香り。
それが、私を一夜だけの世界へ誘いこむ。

コーヒーを三分の一になるまで飲み終わったころ、私は千尋くんの話を聞いていた。
千尋くんは、都内の高校に通う二年生。ご両親はお医者さんで日本中を飛び回っており、普段は一人でここに住んでいるらしい。
「じゃあ次は、景衣子さんの番です。今夜限りで互いに聞いた内容は忘れましょう」
「わかった」
私はそう返事をして、ゆっくりとここまでの経緯を話し始めた。
仕事終わりに彼氏から連絡が来て、店に呼び出されたこと。そこで5年付き合った彼に別れを告げられたこと。その原因は彼の浮気で、私はそれを黙認していたこと。
その店が初デートの場所だったなんてそんなどうでもいいような話までしてしまう。
子どもみたいにつっかえてしまったから聞きずらかっただろうに、ときどき会う視線があまりにも優しすぎて、私はそれに甘えてしまう。
高校生に話すようなことじゃない。しかも迷惑をかけている側の身なのに。そう思うが止められず、あのことまで口走っていた。
「しかたないの。彼氏に浮気されても。私は、つまらない女だから。なにもない、コンプレックスだらけの、大切にされていたほうがおかしいような人間なの」
テーブルの下で、カーディガンの上からぎゅっと右腕を握る。
これさえなければ、私は自分に少しくらい、自信を持てたんだろうか。
そんなたらればなんて考えても仕方ないって分かってる。これは、私がずっと、一生向き合っていかなきゃいけない“傷”だから。
俯くと、手の甲の傷の上にぽたりと涙が落ちた。
やだ。泣きたくない。彼の浮気が発覚したときも彼と別れたときも泣けなかったのに。こんなときばかり。
「……景衣子さん」
低くて澄んだ優しい声が、遠い雨の音に紛れて響く。私は名前を呼ばれ顔を上げた。
「右腕、見せてもらえますか」
私は素直に差し出す。今夜だけの関係。すべて忘れるならいいやと、思った。
千尋くんは袖を掴み、真っ白な大きな手でそっと丁寧に肘のあたりまで捲る。
そして、あざ全体が露わになった。
「……ふ」
千尋くんは優しく笑ったかと思うと、立ち上がりあざに顔を近づける。
「んっ……」
右腕に、柔らかい感触。びっくりして、思わず声を出してしまった。
顔を上げた千尋くんと目が合う。見つめられるだけで、溶けてしまいそうだった。
「……もっとして、いいですか」
そのお願いに私の拒否権はなく、手の甲から順番に余すことなくキスの雨が降る。
隙間を埋めて、全部全部埋めて。
———私を、認めて。
そんなわがままな感情に応えてくれるように、千尋くんは続ける。
右腕がふやけ始めたころ、手の甲にちゅうっと吸いつくようなキスをされてようやく止んだ。
10cmもない至近距離。長いまつ毛の覆ううるんだ瞳は高校生とは思えないほどだ。その色気にどきりと胸が甘い悲鳴を上げる。こんな感覚、もうずっと忘れていた。
この流れなら誰しもが今度は唇に——と思うだろう。
だけど千尋くんはせず、椅子に座り直した。
彼の中で唇は“特別”なんだろう。首の皮一枚で繋がったような関係じゃ、だめだと。
それが悲しくて、だけど私を肯定してくれたことがうれしくて、感情が入り乱れた。
「コーヒー、冷めちゃいましたね。入れ直します」
骨ばった手は私のティーカップだけとり、席を立つ。
待って、いかないで。
私を一人にしないで。
浮気されて、私をもうずっと見てくれなくても涙は出なくて。それは見て見ぬふりをしてきたから。
———ずっと寂しかったことに、気付かせないでほしかった。

細くて大人の男性には遠く幼い、だけど私よりも大きな背中。
立ち上がって、追いかける。
そして、その背中にぎゅっと抱きついた。
「今夜だけ。今夜だけでいいから、そばにいて」
千尋くんを包む布にすがるように額をこすりつける。
「……うん。わかった」

それからもう一度コーヒーを飲んだ後、シングルベッドで身を寄せ合いながら眠りについた。
なにもない。寝ただけ。だけど隣に人がいて、人肌の暖かみを感じるだけで胸がいっぱいになった。今までの寂しさを忘れるくらい。
その少し厚い胸に触れれば応えてくれる。それがうれしい。すごくうれしい。
———“今夜だけ”、なんて、もったいないくらいに。
だけど私と君は社会人と高校生なわけで、本当は恋に落ちてはいけない関係。
素直な気持ちだけじゃ解決できない法律が邪魔をする。
でも十分だ。これ以上を望んでしまったら、天罰が下る。甘えるには限度があるのだ。
花の香りが鼻腔をくすぐる。

窓から日の光が差し込む。
私は目を覚ました。
隣には、静かに寝息を立てる千尋くんの姿。
……愛しい、なんて思ってしまう。
ふわふわの柔らかい髪をそっと撫で、ベッドを降りる。
そのとき通知音が鳴り、近くにあったカバンの中を探りスマホを取り出す。
開くと、あの人からのメッセージだった。
書かれていたのは謝罪とお礼。昨日別れたばかりなのに、すっかり心の隅に追いやってしまっていた。
「……景衣子さん」
振り向くと、ぽやぽやと眠そうな様子で千尋くんが立っていた。
「洗面所借りてもいいかな?私、準備したら行くよ」
「……はい、分かりました」

20分後に簡単な支度を終え、私は肩にカバンをかけた。
「すみません。見送り、こんな格好で」
「ううん。見送ってくれるだけでうれしいから」
ありがとうと、感謝してもしきれない。君には。
たった一夜だけで、私の隙間だらけの心をこんなにも埋め尽くしてくれたことを。
「では、さようなら。ありがとう」
「うん、さようなら。こちらこそ」
控えめに手を振りかえしてしてくれたその姿を最後まで見つめ、ドアを閉じた。

———“今夜限りで互いに聞いた内容は忘れましょう”。彼の言葉が脳裏をよぎる。
全て忘れるなんて無理だ。
私は右腕のカーディガンの袖を捲る。
これを見たら、思い出してしまうから。
君が肯定してくれたこと。この傷をも愛してくれる人が、この広い世の中にはいるってことを。
千尋くんの瞳。背中。暖かさ。身体が覚えている。
甘い花の香りすらまだ、服に残っている。
マンションを出て、地面に足を付ける。
雨はもうすっかり止んでいて、空には青空が広がっていた。
「……あ」
虹だ。それも何色も連なっているもの。
きれいだ。私はそう思う。
純粋な気持ちで空を見上げられるくらいに、私は自分を少しくらいは好きになれたのかもしれない。
短い間でも、人は変われる。
枯れたと思っていた花は今から咲くよと、少しだけ花びらを見せていた。


あの日も雨だった。
夜にお母さんが病院で倒れたって電話を受けて、傘もささずに気付けば駆け出していた。
ぴちゃぴちゃと足音を立てひたすら走る。
夢中で走っていて人に気付かずぶつかってしまった。
明るい繁華街。すみませんと軽く謝って再び足を動かそうとした。
「ああ?なんだよ?」
だけど数人の大男たちによって阻まれてしまう。
周りは何事もないように通り過ぎていく。
「教育もなってねえのかよ。ガキがよ」
「ちゃんとおにーちゃんたちに謝りましょーね」
「うっ」
ギラギラと光る靴で俺は簡単に蹴られてしまい、後ろに倒れる。
「ご、ごめ」
すっかり怯えきってしまった身体は動くはずもなく、怖くて涙が流れた。
「あ?泣いてんのかよ。ガキのクセに——」
「だ、だめっ!!」
視界に大きな影が落とされる。それが人だとわかったのは、すぐのこと。
ほつれたお団子頭にエプロン姿で、右腕を伸ばしてる。
そこには、あの“シルシ”があった。
「おじょーちゃん邪魔しないでくれる?俺らは今からこいつに礼儀ってもんを———」
「けっ、警察呼びましたから!うちの店長が!」
「は?そんな冗談通じるわけ———」
すると、本当に近くでパトカーのサイレンの音が鳴り響いていた。
「まじじゃね?」
「逃げろお前らっ!」
バタバタと足音を立てて大男たちは逃げて行った。
サイレンはというと、こちらに近づいてくることはなくだんだんと遠のく。
「大丈夫?」
「は、はい」
手を差し伸べられ、俺はそれをとる。
胸元のネームプレートには、『立花』と書かれていた。

あそこで声をかけたのは善意だった。
だけど彼女と目が合ったとき、あの人だと一瞬で分かった。
それにあのシルシ。間違いない。
最初は本当にお礼がしたかっただけ。他意はない。
だけど、彼女———景衣子さんは、シルシを嫌っているみたいだった。
俺にもう一度チャンスを与えてくれた、あなたと俺を繋げてくれたシルシを。
あの人は、自分のことは“つまらない女”だと言った。
そんなことない。あなたは勇敢で、とても優しい人。
少しでも景衣子さんがこのシルシを好きになってくれたらって、キスをした。
唇にはできなかった。そこに口づけするのは、あなたと恋人同士である人だけ。
“今夜限り”だと言ったのは、これ以上感情が大きくなっていかないようにするための自制。
それより上のものは求めてはいけない。俺とあなたは、結ばれるにはまだ早すぎる関係だから。
それに、幸せでいてほしかったんだ。俺が今も幸せであるように、あの人にも。
後にあの大男たちは強盗集団だということと、逮捕されたということがテレビで放映された。助けてもらわなかったらどうなっていただろう。俺は今、ここにいないかもしれない。
どれだけ大きなものをもらったのか、想像もつかない。

景衣子さんを見送ってから俺はベランダに出た。
朝の冷たくも爽やかな風が髪を揺らす。秋のどこまでも高い空には、大きな虹がかかっていた。
ピロンと音がしてポケットからスマホを取り出して開くと、「明日お父さんと帰るからね!」という母さんからのメッセージだった。
あの宝石みたいに甘いシルシが、俺とあの人を繋げてくれた。
恋だと言うのには、判断材料が少なすぎる感情。気付いてはいけないもの。

俺は、ありがとう、その言葉を言って、今度はあの人の役に立てたなら、俺は嬉しい。
この関係がたった一夜だけの短い時間———ワンナイトだったとしても。