「素通りするなんてひどいじゃない。ここに来たんなら、スタジオに寄ればいいのに」
 そういう朋美は、服装がオシャレになっていて、かわいくなっていて、ボクは言葉を失った。
 学生の時は、いつもジーンズにTシャツのラフで地味なコーディネートだったのに、今はレースのスカートをはいてオレンジの華やかなブラウスを身にまとっている。
 直視するのが恥ずかしくて、下を向いていたら「何で、無言なの? 冷たいね」とさらに語気を強めた。

「ごめん、もうボクは部外者だから、近寄らない方がいいかな、と思って……」
「何それ」
「今日はたまたま、このビルで食品衛生責任者の講習があってさ」
「そう、もう仁人は立派な一般企業の会社員だもんね」
「朋美だって、夢のあるラジオ局、FM大垣の社員だろ? もうアシスタントから昇格してディレクターになれたのか?」
「うん」
「すごいじゃん」
「私はこれから帰るところだけど、仁人も?」
「うん。今日は電車で来たから駅に行くところ」
「じゃあ、久しぶりに一緒に帰ろうよ」
「今も変わらずに、駅前のアパートに住んでいるのか?」
「そうだよ」

 ボクたちは大学生だった頃のように大垣駅に向う。
 外に出ると薄暗く、空には一番星が輝いていた。
「寒くなったね」
「……」
 11月の後半の駅前通りは、人もまばらで、空虚な風がボクらを吹き抜けていった。
 右側を歩く朋美を見る。
 もう今は、メガネをしないで、コンタクトをしてるんだ……。
 昔と同じように歩いているのに、同じだという感覚はない。5年という月日を経て、ボクたちは確実に変わっていた。
 朋美は、……こんなにキレイになっている。横顔一つ見ても、大人っぽい。
 きっと、今の職場で輝いているのだろう。

 ラジオ局の仕事は、夢がある。
 全国レベルで有名なアーティストがプロモーションでやってくるし、ライブイベントを企画することもある。音楽や楽曲が好きな人にとって、こんなにワクワクする仕事はなかなかないだろう。
 だったらボクもFM大垣の社員になればよかったのだが、それは避けた。好きなものと仕事は分けたかったのだ。
 それにラジオは夢のある仕事であるがゆえに、残業や祝日出勤が多い。給料もそこまでよくないというのも、気になっていた。

 でも、今のボクといったら、……。
 つまらない仕事を淡々とこなすだけの毎日。つまらないのは仕事なのか、自分がつまらなくさせているだけなのか、もう分からない。

「ねえ、何で無言なの」
「いや、久しぶりだから、何を話していいのかすぐに浮かばなくて」
「そんなんじゃ、すぐに駅に着いて、バイバイになるよ」
「そうだな」
「仁人は今、どんな仕事をしてるの?」
「市役所とか商工会議所から発注を受けて、ふるさと納税向けの商品開発とか、土産物の製造とかやってる」
「すごいじゃん」
「そんなことないよ。仕事の中にクリエイティブなものはまるでないし、ただ、上の命令に従って、決められたことをやるだけっていうか」
「でも、安定した仕事っていいな」

 ━━━━もし今も、FM大垣で朋美と一緒に仕事をしていたら……?
 夢のある仕事の延長線上で、今頃、ボクらは付き合っていたのだろうか。
 そんなことを思い浮かべながら、差しさわりのない会話をしていたら、すぐに大垣駅についてしまった。

「うちに泊まる?」
 唐突に朋美は切り出した。
 え? これって?
 あの大雪となった5年前の1月と同じように、朋美は言う。
「それとも、前の時みたいに、また断るの?」
「やっぱり覚えてたんだ……」
「当たり前だよ。私に恥をかかせたんだから」
「ごめん」
「もう、冗談だよ」
「冗談なのか?」
 ボクは少し落ち込んだ。
「ねえ、それよりせっかくだから、どこか店に行かない? ダメ?」
 今度は、甘えた声でせがんでくる。こんな女っぽいところを見るのは初めてだ。
 やっぱり、……かわいい。改めて感じた。
「じゃあ、近くに知ってるバーがあるから、そこへ行く?」
 泊まるのはマズいが、これくらいなら、いいだろう。
「いいね」

 駅近くの民家のようなバーをボクはよく知っている。そこのマスターとは地場産の商品開発の仕事で関わっているからだ。
 店の名前は「スクランブル」。マスターとも気が合う。
「いい店ね! 案外、大人になった仁人ってお洒落なことするね。学生の頃とは違う」
 店に入るなり、朋美は喜んだ。
「そう?」
「案外、今もいい人みたいだし」
「あっ、そう?」
「それに、案外、今もいい男だし」
「……」
 よくこんな恥ずかしいことを話せるものだ。照れた赤い顔を見られたくなかったから、すぐに顔を背けた。

「おや、いらっしゃい。先日はどうも。仁人さんは隅に置けないな。こんな綺麗な恋人がいたのですか?」
 穏やかな渋顔のマスターが話しかけてくる。
「いえ、ただの大学時代のアルバイト仲間です!」
 すると、マスターは笑った。
「そんなに完全否定しなくても、ねえ。お嬢さん?」
 朋美は照れていた。

「この店、すごく落ち着く」
 朋美はこの店を気に入ってくれたようだ。
 この店は古い民家をリノベーションして造られ、土間の玄関から入って家に上がるように、靴を脱いで座敷に入る。
 本来畳が敷かれている座敷は、洋風のフロアーにリフォームされ、赤いじゅうたんが敷かれていた。そのフロアーには、古めかしい洋風のテーブルと椅子が並び、店の端に設置されたスピーカーからはドラムがスウィングする軽快なジャズが流れる。フロアーの入り口近くにはカウンターもある。
 和風の建物に、洋風の感覚が上手くマッチしていて気持ちいい。
 平日なので、店内にたくさんの客はいなかった。ボクらは、座敷で言えば上座、フロアーで言うと一番奥に位置する席に座ってジンライム二つとカルボナーラ、リゾットを注文した。
「これ、サービスだよ」
 マスターは注文していない小皿に盛られたスナック菓子をテーブルの上に置いて、微笑む。
「わー、ありがとう!」
 朋美は子どもみたいにはしゃいだ。周りの客がじろじろ見てもお構いなしだ。朋美のそんな無邪気なところが魅力的でもある。

 朋美はジンライムを一口飲むと、色っぽく息を吐き出してボクを見つめた。
「ねえ、5年前、私とラジオのアルバイトをするのは、やりにくかった?」
 こんな率直な話を、かつて朋美とはしたことがない。
「そんなことないよ。楽しかった」
「本当? でも私に心を開こうとしなかったよね。仕事だと割り切ってるって感じ」
「いや、そんなつもりはなかったけど……」
「でも辞めたよね」
「今思えば、続けてもよかったかな」
 言葉に出して言えないが、あのまま続けて朋美とも一緒に生きていたかった。

「朋美は、どうしてラジオの仕事を続けたいと思ったの?」
「華やかだから。決まってるじゃない、そんなの。元々音楽が好きな人は、きっとみんなラジオに対してそういう気持ち絶対あると思うよ」
 朋美は正直だった。
「でもね、ここまで夢中でやってきたけど、気がつけばアラサー。同級生はみんな結婚してたり、婚約者がいたりで、私だけ置いてかれてる」
 朋美は小さくため息をついて言う。

「ボクは先月29歳になったよ」
「あれ、私より1歳年上だっけ?」
「そうだよ。だって一浪してるから。昔、そういう話したけどな」
「じゃあ、私より年上のおじさんだ」
「ボクは、もうおじさんか?」
「おじさんだよ。おじさん。じゃあ、私は年下なんだ、ははっ。嬉しい、私は年下。年下!」
 空腹に飲んだカクテルのせいで、朋美は酔っている。
「そうだよ。ボクは年上だからもっと先輩として立てろよ」
「はーい。昔は仕事をしてても周りは年上ばかりでちやほやしてくれたんだけどなあ」
「年を取ったっていいじゃん。経験を積んだ分だけ、大学を出たばかりの若い人にはできないことができるからさ」
「そんなのは男だけの言い分だよ」
「そうか?」
「男は30歳でも40歳でもこれからが勝負、みたいな状況じゃない。それに比べて女はねえ。どこがジェンダーレスだよ、って言いたくなる。特にこういうメディアの世界はね」
「社会は残酷だね」
「そうだよ!」
 現実は確かに厳しい。
 どんなに夢を描いても、社会の枠組みにいれば周りの現実が嫌でも目に入る。周りと自分を比べてしまうとやり切れない。
 
「ねえ、仁人は今、彼女いるの?」
「いないよ、ずっと。そのせいでよく同僚にバカにされるけど」
「仲間だね。私も、ずっといない。じゃあ、5年前から私たち、何も進歩がないってこと? 笑っちゃう。恋人がずっといない悲しい私たちにカンパーイ!」
 もう二人でジンライムを4杯は飲んだだろうか? 酔いどれた朋美は、ボクの知っている昔の地味で真面目そうな朋美とはまるで違った。いや、これがそもそも、本当の朋美なのかもしれない。
 会話が弾み、「スクランブル」での時間があっという間に過ぎた。マスターがラスト・オーダーの確認に来たので、ボクたちは慌てて店を出た。

「もう終わり?」
 バーを出た後、朋美はアパートに直行しないで、大垣駅前へ行く路地をついてきた。
「電車がなくなっちゃうからさ」
 歩きながらケータイで電車の時間を確認していると、酔っている朋美は横で引き留めようとする。でも、もう深夜0時前だ。
「またよかったら、一緒に飲もうよ」
「本当に? 嘘だ。社交辞令でしょ? 騙されないぞ」
「本当だって。ボクも今日楽しかったから。久しぶりに孤独な思いをしなかった。だから、またさ、……」

 突然だった、それは余りにも。
 頭が事態を認識する前に、朋美の顔がボクの肩に乗り、体が接している。女の人と抱き合う甘い感触がボクを包み込む。
 朋美は泣いていた。耳のすぐ近くで、泣き声が聞こえる。
「孤独だよ。こんなこと言いたくても、誰にも言えなかった。淋しいよ。不安だよ」
「分かるよ」
「似た者同士だね」

 時間が遅いから、路地には車が全然通らない。近くの交差点の信号は、深夜なので黄色に点滅し、道端で抱き合うボクたちの行為を警告しているかのように、光を投げ掛けた。
 晩秋の寒い夜。
 人肌の温かさは、この街で確かなものを見出せないボクたちの孤独を癒す。
 ようやくやって来た車のヘッド・ライトに照らし出されて、ボクは朋美にキスをした。
 朋美の唇はこんなに柔らかいんだ。
 
「ねえ、うちに泊まる?」
 バーに行く前に行ったことを、朋美はリフレインしている。
 そう、あの大雪となった5年前の1月、この言葉に「はい」と言えなかった後悔は忘れたことがない。
「また『冗談だよ』とか言わない?」
「本気だよ」

 そして、ボクは初めて朋美のアパートに入った。
 朋美が玄関のドアを閉めると、ボクはすぐに背中から強く抱きしめる。
 今まで何度か夢に見てきたようなシチュエーションが現実になっていた。
 嬉しい。間違いなく嬉しいのだが、一方で悪いことをしているかのような気持ちにもなる。これまで手垢を付けることなく美化していたプラトニックな思い出を打ち壊したせいだろうか?
 思っていたより、朋美の肌は白かった。柔らかな腕とくびれた腰。想像していたよりも胸がある。
 服を脱がし合いながらベッドまで行き、ボクは朋美の胸に顔を埋めた。
 全てが愛しい。
 昔抱きたかった女の人を本当に抱きしめられる悦びに手が震えた。

 きっと今夜結ばれるために、ボクたちは生きてきたんだろう。
 後悔も、人生に対する悲観も、今はすべて忘れられる。
 この先のことは知らない。どうなってもいい。
 だって、確かなものなど、この世にないのだから。

 この人肌が、今のボクのすべてだ。
 ボクは、ただ、この時間を止めたかった。(了)