「これ、家に帰ってから開けてね」

 年下の同期、石川に1枚の封筒をこっそり渡すや否や、部長の合図で私の送別会がお開きになった。明日の朝の便で海外に行く。外資系企業にヘッドハンティングされたのはいいタイミングだった。
 私は石川のことが好きだった。でも、石川は先月、同期の女・蝶野と電撃結婚した。調子がいいと思う。入社当初は一流大学卒でないというだけで石川を陰で窓際候補とバカにしていたくせに、徐々に頭角を現して出世コースに乗った途端にアプローチして結婚までしてしまったのだから。
 蝶野も、女性の中では出世頭だった私のことはよく思っていないらしく、今日の送別会には来なかった。

「四条さーん!」

 酔っぱらっている社員たちを後にすると、石川が後ろから走って来た。

「この辺暗くて危ないので、駅まで送りますよ!」

 お台場勤務の私たち。今日の送別会は海が見える店で行われた。おしゃれな雰囲気で料理も美味しかったが、駅までは明かりの少ない浜辺を通らねばいけないのがネックだ。

「奥さんに悪いんじゃなくて?」

 気にかけてくれるのは嬉しい。でも、未練を残したくないからあえて冷たく突き放す。

「そんな固いこと言わないでくださいよ。さっきの送別会、なかなか話せなかったし。ほら、四条さん人気者だし、順番待ちしてる間にお開きーって感じでしたし。俺が四条さんと話したいんですよ」

 砂浜に足跡をつけながら、二人で歩く。あいにくの曇り空。ロマンチックな星空も満月もない。打ち明けられなかった片思いにはお似合いの暗闇だ。

「石川君こそ、貴方の結婚が決まったことで何人の女子社員が泣いたことか」

 私も含めて、なんて言わないのがせめてもの矜持だ。

「そうそう、同窓会とか行っても結構モテるんですよ。学生時代は陰キャでバカにしてたくせに、俺が結構稼いでるって分かると掌返し!女って怖えー。昇進しまくったら山田さんにも告白されたんですよねー。入社当初は、俺のこと無能君呼ばわりしてたくせに調子よくないっすか?」
「そうね……」

 蝶野はその筆頭なのにね、バカな人。

「で、肝心の話したいことなんですけど。研修の時とか、四条さんがアドバイスとか色々くれたのに、俺結構八つ当たりしちゃったじゃないっすか。その時のこと謝りたくて」
「別に気にしてないけど。むしろあの頃は同期なのに偉そうにしてた私の方が悪かったと思うけど」

 彼の屈託のない笑顔に一目惚れして、近づこうとした。彼の笑顔が曇るのが嫌で、力になろうとした。アドバイスをしたり、相談に乗ろうとしたり……。でも、彼を怒らせてしまったのだ。
「同情なんてやめてくださいよ、みじめになるじゃないですか、どうせ四条さんも俺のことバカにしてるんでしょ」
 嫌われたくなくて、その後私は彼に対して他の同期と同じように接することにした。

「実際、四条さんは一番優秀だったじゃないですか。俺、ずっと四条さんに追い付きたくて頑張ってたんすよ。なのに辞めちゃうなんてちょっと寂しいなーなんて思ったり」
「そういうこと、他の女性に言うと誤解されるから今後は気をつけなさいね」

 現に私は浮かれている。浮かれてはいけないのに。

「だって、四条さん仕事速いし何でもできるし。物知りで、理系の院卒なのに、文学とかまで詳しいじゃないですか。ほら、I love youの和訳の話とか教えてくれたの四条さんだし。夏目漱石が「月が綺麗ですね」、二葉亭四迷が「死んでもいいわ」って訳したんですよね。俺ちゃんと覚えてますよー」

 今となっては黒歴史だ。ロマンチックな雰囲気を作ろうとして恋の話をしようとしても、いかんせん恋愛経験がないので、そういう話題にしか持っていけなかった。

「蝶野さんにもそうやってプロポーズしたの?」

 勘違いしちゃいけない。彼はもう他の人のもの。

「いや、蝶野はそういうの知らないと思いますよ」

 でしょうね。あの女に婉曲的な愛の表現なんて感性があるわけがない。

「でも、あいつ本当にいいやつなんすよ。ほら、前に話したじゃないですか。新入社員の頃に蝶野が手紙をくれたって話。俺、あの頃本当にコンプレックスで潰れそうになってたんですけど、落ち込んだ日の翌日は手紙がデスクに置いてあったんですよ。それに救われて、今もお守りにしてるんすよ。いいところあるっしょ?」

 彼は1枚の便箋を見せる。真珠と海の魚たちの柄の便箋の右下には外国語が印字されている。「誰より努力家の貴方を尊敬しています。貴方は一人じゃない。貴方にずっと笑顔でいてほしい誰かより」と書いてあり、差出人の名前はない。

「あれ書いたの私だよーって言われて、あいつにならこれから弱いところも全部見せられるし信頼できるなって思ったんですよね」

 私の心の熱がすっと引いて凍り付いていくのを感じた。

「四条さん、明日から海外かー。すっげえなあ。本当に一生追い付ける気がしないっす。俺も蝶野も海外行ったことないんで、新婚旅行でやっと初海外なんすよ。四条さんって海外行ったことあります?」
「大学の卒業旅行でモルディブに行ったけど」
「やっぱりスケールが違うなあ」

 これ以上話を聞いていたくなくて思わず早足になる。息を切らせながら、石川が続ける。

「ねえ、四条さん。最後だからこそ言えることってあると思うんですよ。俺も四条さんもお酒飲んでるし、今から言うこと明日になったら忘れてくださいね」

 私は貴方を忘れたい。蝶野の存在を忘れたい。

「俺、四条さんにちょっとは追いつけたんですかね。俺、バカだからこの波が月の引力で起こってることも四条さんに教わるまで知らなかった。月が綺麗ですねって、同じ景色を共有できるあなたが愛しいって意味なんですよね。これも全部四条さんが教えてくれた」
「さっきから何なの?惚気を聞かされたかと思えば、急に持ち上げたりして!」

 これ以上私の心を掻き乱さないでほしくて、立ち止まって声を荒げた。沈黙が流れ、月が見えない夜に波の音だけがこだまする。

 石川は深呼吸して、私を真剣なまなざしで見つめた。

「波の音が綺麗ですね」

 波の音がする。ああ、今日は満月のはずだっけ。悲しいくらいに綺麗な音。蝶野にはこういう情緒は永遠に分からないでしょうね。
 私は泣いたりなんかしない。最後まで貴方の憧れたカッコいい私のままでいる。

「さっき渡した封筒、開けてみて」

 石川は突如口を開いた私に驚き、慌てて封筒を開けた。石川がお守りにしている便箋と全く同じ柄の便箋と、あの日の手紙と同じ筆跡の手紙。石川はおそるおそる音読し始める。

「誰より努力家の貴方を尊敬しています。貴方は一人じゃない。
そう書いた手紙をあの日渡したのは残念ながら蝶野さんではなく私、四条万葉です。
貴方のご活躍を遠い海の彼方で誰よりも願っています。
どうかお幸せに。さようなら。
貴方にずっと笑顔でいてほしかった誰かより」

 最後の方は声が震えていた。

「嘘……なんで……?え?冗談ですよね?蝶野と協力してドッキリしてるだけですよね?どっかで蝶野が見てるってオチですよね?」

 先ほどまでの虚勢はどこへやら、石川は明らかに取り乱している。

「嘘じゃないわ。私、蝶野さんみたいな嘘つきは大嫌いだから協力するなんてありえない。その便箋も、蝶野さんが行ったことがないモルディブで買ったの。日本では売ってないんじゃないかしら」

 蝶野はあの日、私が手紙を置くのを見ていて偽善者と嘲笑った。石川が出世した途端、金に目がくらんで横から全部奪い取ったあの女を生涯許さない。

「嘘ですよね……?だって、俺、ずっと一方的に四条さんに憧れてて……、でも俺と四条さんじゃ釣り合わなくて、でも、この手紙をくれた女の人は俺の弱さとか全部受け止めてくれる優しい人だと思ってて……それも、四条さんだっただなんて……!俺、どうしたらいいんですか!」

 石川が膝から崩れ落ちた。高級スーツが砂で汚れることも気にしていない。絶望した表情で私を見つめている。

 私もきっとそんな顔をしていたよ。私の長期出張中、うかがい知れないところで蝶野が手紙の主を名乗り貴方に取り入ったことを、入籍して取り返しがつかなくなってからあなたの口から聞いたときはね。

 でも、貴方は優しいから離婚するなんて言い出せないでしょう?それに、せっかく今仕事でいきいきしている貴方を無理矢理海外に連れていく気はないの。私は笑っている貴方が大好きだったから、言葉も知らない地で自信を失って笑顔を曇らせる貴方を見たくはないの。

「俺、ずっと四条さんのこと……」

 石川は今にも泣き出しそうな目で私を見つめている。でも、この続きを聞いたら私もきっとかんじょうが溢れてしまう。石川の人生を滅茶苦茶にしてしまう。私もしゃがみこんで、石川の唇をキスでふさいだ。
 正真正銘ファーストキスだけど、石川はそんなこと知らなくていい。恋愛経験豊富なお姉さまの最後の気まぐれだとでも思ってくれればいい。

「貴方となら泡になってもよかった」

 好きだった。本当に好きだった。言えなかった。バカなのは私だった。

 この捨て台詞の意味を石川が理解する前に、私がこらえきれなくなって泣いてしまう前に、立ち上がって走り出す。

「待ってください!四条さん、待って!ねえ、四条さん!」

 後ろから石川の叫ぶ声がする。振り返ると石川が追いかけて来ていた。私は全速力で走る。石川の足がもつれて派手に転んだ。

「待って、足捻ったかも、待って!一生のお願いですから!行かないで四条さん!俺、四条さんのことが……」

 遠くなっていく石川の泣き声を波の音が掻き消した。

 振り返らない。私の初恋は死んだ。言えなかった恋心は泡になった。全部なかったことにして、私は明日、海の彼方へと発つ。
 でも、私は綺麗な人魚姫になんてなれないから、置き土産に貴方の心に短剣を刺していく。永遠に叶わない過去の片思いを、「お守り」を見るたびに思い出せばいい。大好きだった貴方の涙を知らずに私は生きてゆく。