慰めてくれるのなら、誰でも良かった。
雨が降る中、傘も差さず一心不乱に鈴緒を振り回し、本坪鈴を鳴らしている私の姿はきっと狂気に満ちていたはずだ。
けれど、周りからどう見られるかなんて考えている余裕はなかったし、そもそも夜の十一時を越えたこの時間に縁切りで有名な神社を訪れている人間なんて多かれ少なかれ皆狂っているに違いない。
「ホントに! いったい! なんなのよ!!」
社務所が開いていたならきっと、あのふたりを呪う言葉を絵馬に書き連ねていただろう。それぐらい私の心はズタズタに傷つけられていた。
「もうやだ……。神様がいるなら、あいつのこと忘れさせてよ……」
鈴緒を握りしめたまま立ち尽くす私の耳に、雨音に混じって誰かの声が聞こえた。
「ねえ、縁を切りたいほど辛い思いをしたなら、俺が全部忘れさせてあげようか」
思わず振り向いた視線の先にあったのは、傘を差し出す若い男の子の姿だった。
***
恋人である柴田隆文に呼び出されたのは、付き合って八年目の記念日だった。大事な話があるというからには、ついにプロポーズ!? と思ってしまってもしょうがない話だと思う。
私も隆文ももう二十八歳。周りは第一次結婚ブーム真っ只中だ。いよいよ私も結婚かぁ、なんて浮かれた気持ちで待ち合わせ場所のカフェへと向かっていた私に『冷静になれ』と言いたい。だって待ち合わせ場所は、いつか隆文が語っていたプロポーズの雰囲気とはほど遠い、チェーン店の格安ファミリーレストランだったのだから。
私がお店に着くとすでに隆文は席に座っていた。四人がけのボックス席。隆文の隣には見覚えのある顔があった。
「え、なんで」
そこにいたのは私の妹である、鳥居春菜だった。
「春菜? ど、どうしたの? あ、偶然会ったとか?」
言いながら無理があるのはわかっていた。偶然ふたりが会ったのだとしたら、姉の恋人である隆文の隣に座るだろうか。向かいの席に座るのが普通じゃないだろうか。
でも、そうじゃない理由を私は考えたくなかった。
「お姉ちゃん、私……」
「いいよ、俺から言うから」
「でも……!」
私の質問に答えることなく、ふたりは親密そうな雰囲気を出しながらお互いを気遣いながら話していた。私の記憶が正しければ、ふたりが会ったのなんて数えるほどのはずだ。いつの間にこんなに親しくなったのかと不思議に、そして不審に思う気持ちが顔を出してくる。
「あの、ふたりとも、なんの話を……」
「唯奈」
隆文が覚悟を決めたように私の名前を呼んだ。いつもとは違う強ばった表情と同じぐらい固い声。その意味がわからないほど、隆文との付き合いは短くなかった。
「ごめん、唯奈。俺と別れてほしい」
喉の奥がひゅっと音を鳴らす。上手く呼吸ができなくて、目の前にいるはずの隆文が知らない人のように見えた。
「どう、して」
それだけ絞り出すので精一杯だった。そんな私の問いかけに答えたのは、隆文ではなかった。
「私のせいなの! 全部私が悪いの! 私が隆文君のことを好きになっちゃったから!」
「違う、春菜はなにも悪くない。全部俺が!」
「でも……!」
私はいったいなにを見せられているのだろう。目の前では彼氏と私の妹が自分が悪いのだと悲劇のヒロインのように言いながらいちゃついている。
「だから、私が……!」
「春菜、ちょっと黙ってくれる?」
「あ……」
「私は今、隆文と話をしているの」
「ご、ごめんなさい」
静かに、冷静に、落ち着いて。感情的にならないように伝えた私に対して、異を唱えたのは隆文だった。
「おい、春菜に対してそんなキツイ言い方することないだろ」
「そもそも別れ話に春菜を同席させる方が間違ってるんじゃない?」
「それは、そうかもしれないけど。でも春菜も俺も、ちゃんと唯奈に伝えたいって思ったから」
お花畑としか言いようがない。どこの世界に彼氏が別れ話をするときに自分の妹――しかも彼氏の浮気相手に同席されて喜ぶ人間がいるのだろう。
「理由は春菜のことを好きになったから……?」
恐る恐る私は理由を尋ねた。たしかに私よりも春菜の方が可愛いし、性格もいい。どちらが好みかと尋ねたら十人中九人は春菜と答えるはずだ。でも、隆文は残りのひとりだと信じていたのに。
私の言葉に隆文は隣にいた唯奈を見た。唯奈は何故か頬を染めて嬉しそうな表情を浮かべている。今この場所で浮かべる表情として、これほどそぐわないものはないはずだ。
「それも、あるけど。その、子どもができたんだ」
「は?」
間の抜けた声が出た。だって、今、なんて。
混乱しつつ、ああだからさっき唯奈はあんな表情を浮かべたのかと納得してしまう私もいた。
それにしても。好きな人ができたから、でもフラれる理由としてはつらいのに、その相手が実の妹で、さらに子どもまでできたと言われたら、もうどんな顔をしてここにいればいいのかわからない。
「責任を取るってこと?」
せめて浮気相手をうっかり妊娠させちゃったから仕方なく結婚することになった、ぐらいのスタンスであってほしかった。受け入れたくないけど、それならまだ私の心は守られたかもしれない。
なのに、私が八年間も付き合ってきた彼氏には、優しさの欠片もなかった。
「責任感なんかじゃない! 俺は春菜のことをこれから守っていきたいんだ! 唯奈と違って、春菜は可憐で、か弱くて、俺が守ってやらなきゃ駄目だから」
「……は?」
「唯奈はほら、春菜と違って俺がいなくても大丈夫だろ? 強いもんな!」
頭がクラクラして座っているのさえやっとだった。
目の前で目をキラキラさせて喋っているこの男は、本当に私が付き合っていた彼氏と同一人物なのだろうか。
隆文が自立した女の人が好きだと言ったから、つらいことがあっても必死に頑張ってきた。泣きたい夜があってもグッと飲み込んだ。服装だって、スカートよりパンツスタイルの方が変な男が寄ってこなくていいと言われたから、私服もスーツもパンツにした。
それなのに、結局最終的に選んだのは私とは正反対の可愛い守ってあげたい雰囲気の春菜だなんて。
そのあと、どうやって店を出たのかわからない。ただ春菜がメニュー表を見ながら「お姉ちゃんも一緒にご飯食べる?」と悪意のない笑顔を向けていたことだけは覚えていた。
フラフラと外を歩いていると、ぽつりと雨粒が頬に当たり、やがて土砂降りへと変わっていく。
雨予報なんてなかったから傘なんて持っていない。けれど濡れ鼠のようになった今、お店に入ることもコンビニで傘を買うこともはばかられた。
真冬であれば風邪を引いたかもしれないけれど、今は七月。多少冷えたとしても、大したことにはならないはずだ。
私は、家に帰るのであればまっすぐに進む道を右へと曲がった。その小径はいつも観光客であふれていて、昼夜問わず歩くのにはむかない。もちろん私も通常なら避けて通るのだけれど、今日は雨のおかげか人通りはほとんどない。もしかしたらみんな近くのお店に入ったのかもしれない。好都合だった。
誰もいない通りの真ん中を私はひとり歩く。雨の中、傘も差さずに歩いている女性の姿は人がいればさぞかし不気味に見えたに違いない。
小径を抜け、いくつかの曲がり角を進んだ先にその場所はあった。『安井金比羅宮』いわゆる『縁切り神社』だった。昼間はたくさんの人でいっぱいのここもすでに十一時を回ったこの時間は静まり返っていた。迷いなく神社に足を踏み入れると、私は拝殿の前に立つ。
まさかここに来る日が来るなんて。
噂だけは聞いたことがあった『縁切り神社』。でも、私には無縁の場所だと、そう思っていた。けれど。
「ホントに! いったい! なんなのよ!!」
鈴緒にそっと触れると、今までの隆文と思い出が脳裏をよぎる。楽しかったこと、嬉しかったこと、喧嘩をして仲直りをしたこと、いつか一緒に暮らしたいねと話した幸せだったときのこと。そして――春菜の隣に座る、隆文のこと。
「もうやだ……。神様がいるなら、全部忘れさせてよ……っ」
全ての思いを断ち切るように、鈴緒を握りしめ、思いっきり振り回した。
雨音しかしなかった境内に、ガランガランと本坪鈴の音が鳴り響く。ただただ心の中の辛さを振り払うように、一心不乱に鳴らし続けていた。その声が、聞こえるまでは。
「ねえ、縁を切りたいほど辛い思いをしたなら、俺が全部忘れさせてあげようか」
「……え?」
一瞬、本当に神様の声なのかと錯覚するぐらい、その声はすぐそばから聞こえた。私の頭上に降り注いでいた雨は、彼が持つ傘によって遮られる。
振り向いたそこにいたのは、私よりも少し背が高くて、綺麗な顔立ちをした男の子だった。
「あなたは……誰……?」
「神様って言ったら、信じる?」
思わず尋ねた私に、彼は少し幼さの残る顔で笑った。
私たちは屋根のある場所に移動すると、並んで立つ。颯真と名乗った彼は、背丈こそ私よりも高かったけれど、笑った顔と言い口振りと言い、どこか幼さを感じさせる。
「それで、何があったんですか?」
「……彼氏にフラれたの」
普段なら初めて会った人にこんな話をしない。なのに答えてしまったのは、自分で思っている以上に傷付いているのかもしれない。
「わー……お気の毒様です。でもまあよくあるっちゃあることで……」
「相手は私の妹で、しかも妊娠してるんだって」
「そ、れは……つらいですね」
一瞬、言葉に詰まった颯真だったけれど、眉をひそめ心底気の毒そうな声で言った。そんな反応をされると逆にどうしていいかわからなくなる。
「ま、まあ私にも悪いところはあったのかもしれないしね。愛想尽かされるようなことしたのかもだし。喧嘩と一緒でこういうのってどっちかだけが悪いなんてことは……」
だからだろうか。思ってもないことを口先だけでペラペラと話してしまったのは。そして不思議なことに、言葉にしてしまうとまるで本当にそうなのかもと思ってしまう。
私にも悪いところがあったのかもしれない。だから隆文は春菜を選んだのかもしれない。私より春菜の方が――。
「そんなことないです!」
私の思考を遮ったのは颯真の真っ直ぐな声だった。
「どんな理由があったとしても、付き合っている人がいるときに他の人と関係をもっていいわけなんてないです! それも彼女の妹となんて、絶対ありえない! だから唯奈さんが悪いなんてこれっぽっちもありません!」
きっぱりと言い切ってくれる颯真の言葉は、傷付いた私の心に染み込んでいく。
気づくと頬を涙が伝い落ちていく。
ぐすぐすと泣く私の背中を、颯真は静かに優しく撫で続けてくれた。
涙がようやく落ち着いた頃、私は今の状態が恥ずかしくなっていた。
見知らぬ、恐らく年下の男の子の前でフラれたことを話して、慰めてもらって、あげく泣き止むまで背中を撫でてもらうなんて。
というか。年下だとは思っていたけれど、颯真はいったい何歳なのだろう。
隣に立つ颯真を見つめて見ても、年齢まではわからない。
「どうしました?」
見つめられていることに気づいた颯真は、不思議そうに首を傾げる。
「あの、さ。ちなみになんだけど、君って未成年じゃないよね……?」
話を聞いてもらっておいてなんだけど、未成年だったらこんな時間に出歩いていれば警察に補導されてしまう。一緒にいた私も注意を受ける可能性だってある。フラれて警察のご用にまでなったら踏んだり蹴ったりにも程がある。
恐る恐る尋ねると、颯真は少しだけ雨に濡れた髪を掻き上げながら口を開いた。
「そんなに子どもっぽく見えます? 酷いなぁ」
「そういうわけじゃないけど、念のため」
「安心してください。俺、神様だから年なんて――ああ、ごめんなさい。そんな目で見ないで!」
茶化すように言われ思わず冷たい視線を送ってしまう。そんな私に颯真は慌てて顔の前で手を振った。
「えっと、大丈夫です。今年二十二歳です。あ、もし心配なら身分証明とか見せますよ」
「別にそこまでしてもらわなくても大丈夫だけど……」
二十二歳だと言われればそう見える気もする。ということは数ヶ月前に新卒で入ってきた子たちとひとつしか変わらないということか。うーん、やっぱり幼い。でも、その幼い颯真に傘を貸してもらって、こうやって雨宿りに付き合ってもらっているのは私だ。
恋人にフラれたからと言って何をやってるんだか。
「……私ももう帰るから、君も帰りなよ」
「え、帰っちゃうんですか?」
私の言葉に颯真は不服そうな、それでいて心配そうな声を上げる。
「帰るに決まってるよ。こんな時間なんだから」
「でも、お姉さん。傘、持ってないじゃん。こんな雨の中、どうやって帰るの」
「それは……」
雨は弱まるどころか、どんどん激しさを増していく。一歩外に踏み出せば跳ね返る雨水で足もとまでびしょ濡れになってしまいそうなほどだ。
「それにさ、お姉さん今日帰りたくないんじゃない?」
「なんで……!」
「だって、そんな顔してるもん」
颯真は身体を私に寄せる。少しだけ近づいた距離のせいで、颯真の体温を肩で感じてしまう。熱っぽさを持つ颯真の身体は、私の冷え切った身体をほんの少しだけ熱くした。
「ね、お姉さんのこのあとの時間、俺にちょうだい? そしたら、つらいこと全部忘れさせてあげるよ」
冷えた身体に頭までのぼせてしまったせいだろうか。頭がぼうっとして、どうにも正常な判断ができなくなっているようだ。
「ね?」
颯真に手を握られ、私は自然と頷いてしまっていた。
「ふふ、可愛い」
そう言ったかと思うと、颯真は私の手を引いたまま雨の中に飛び出した。行き先は――神社と目と鼻の先にある少し古びたラブホテルだった。
「なんで『縁切り神社』のすぐそばにラブホテルなんて……」
部屋に入った私は思わず呟いてしまう。
縁を切りたい人が集まるのではないのだろうか。それともここを利用したあとに縁を切って後腐れをなくすのだろうか。自分自身では答えの出ない問いの答えを、洗面台の方から戻ってきながら颯真はさらりと答えた。
「切りたいだけじゃなくて結びたい人もいるからじゃないかな」
「結びたい人? だってあそこって縁切りで有名なんでしょ?」
「悪縁を切って良縁を結んでくれるんだ。だから、俺と出会ったのは良縁かもしれないでしょ?」
「ふふ、凄い自信」
言い切る颯真の自信満々の態度がおかしくて、つい笑ってしまった私に颯真は優しい視線を向けた。
「やっと笑った」
「え?」
「ずっと悲しそうな顔か怒った顔しかしてなかったから」
「あ、そう、かな」
そうかもしれない。隆文と春菜のことがあってから、ずっと胸の奥が苦しくてモヤモヤしていた。
颯真のおかげ、なのだけれどそれを素直に伝えるのは年上として少しだけ恥ずかしい。
黙ってしまった私の身体を、颯真は後ろからそっと抱きしめた。
「ね、お風呂入る?」
どうやら先ほど洗面台の方に向かったときにお風呂を沸かしてくれていたらしい。
「身体冷えちゃったでしょ」
颯真は私の返事を聞くことなく、手を引くと脱衣所へと向かった。
どうすれば、いいんだろう。お風呂に入るためには服を脱がなければいけないことはわかっている。でも、今日初めて会った人の前で服を脱ぐのは……。
黙ったまま立っている私に、手早く自分の服を脱いだ颯真は笑った。
「脱がしてほしいの?」
「ち、ちが……!」
「冗談だよ。先に入っとくから、早く来てね」
ひらひらと手を振ると、颯真は浴室へと姿を消した。
残された私は、どうしようかと立ちすくむ。冷静になってしまうと、こんなことをしてもいいのかと考えてしまう。でも、ここまできて後戻りするわけにもいかない。
それに、隆文のことを見返したい気持ちも少しだけあった。
「……っ」
ぺたりと張り付いたブラウスとパンツを脱ぐと、鏡には下着姿の私が映る。私ではなく隆文が好きだった薄いグリーンのブラジャーとパンツを脱ぐと、私は浴室の扉を開けた。
「ホントに……来てくれたんだ」
待ってると言ったはずの颯真は湯船の中にいて、浴室に入ってきた私の姿に驚いたような声を上げたあと嬉しそうにはにかんだ。
「すごく綺麗」
「そ、んなお世辞、言わなくていいよ。たいしたことないのは私が一番わかってるから」
「そんなことないよ。俺にとってはすごくすごく綺麗だ。ね、こっちに来て」
立ち上がると、私の手を引いて湯船へと引っ張る。
「待って、シャワー浴びてない……」
「こっちのほうが温まるよ」
「もう……」
強引に私の手を引っ張ると、颯真は後ろから私を抱きしめ湯船の中に浸かった。背中に颯真の意外と筋肉質な胸板が触れ、ドキドキしてしまう。
「あっ……」
後ろから抱きしめられる形になったせいで、颯真の手が私の胸に触れた。
思わず身体がビクリと震える。甘い痺れ、よりも不安の方が大きかった。
「大丈夫、抱きしめるだけ。それ以上のことは何もしないから」
耳元で囁くとギュッと抱きしめてくれる。大事に、壊さないように、私に怖い思いをさせないように。触れたところから、そんな颯真の優しさが伝わってくるかのようだった。
「……あったかい」
お湯も、それから颯真の身体から伝わってくる熱も、冷え切った私の身体には心地よかった。
身体が温まると、少しだけ心も落ち着いた気がした。
「ね、唯奈さんは好きなものとかある?」
「好きなもの? たとえば?」
「うーん、映画とか本とかなんでも!」
「えー、そうだなぁ」
湯船に浸かったまま、私たちは他愛のない話をした。最近読んだ本のこと、今度公開される映画のこと、少し前にできたお料理の美味しい居酒屋のこと。どれも楽しく聞いてくれるから、つい話しすぎてしまう。
そういえば昔は隆文もこんなふうに楽しく私の話を聞いてくれていた。それが適当な相づちに代わり、返事さえしてくれなくなったのはいつの頃だろう。そのときにはもう春菜と付き合っていたのかもしれない。
どうして気づかなかったのだろう。
「…………」
「そろそろ出よっか。のぼせちゃいそうだ」
隆文のことを思い出してボーッとしたまま水面を見つめていた私に颯真は明るく声をかけた。
「そ、そうだね! って、ひゃっ」
慌てて立ち上がったせいか、目の前がぐらっと回る。
「っと、大丈夫?」
私の身体を支えるように腕を掴むと、そのまま脱衣所へと颯真は向かう。ドアを開けた瞬間に感じる涼しい風が気持ちいい。
洗面台を支えにして立つ私の身体を、颯真はバスタオルでそっとくるんだ。
「あ、じ、自分でやるよ」
「いいから。俺がやりたいの」
バスタオルで私の身体を隅々まで拭いていく。なんとも言えない恥ずかしさとくすぐったさに包まれる。
「はい、できあがり」
「ありがとう……」
お礼を言う私に、颯真は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを手渡してくれる。
「飲ませてあげようか」
「だっ、大丈夫!」
「ちぇ、残念」
そう言って笑う颯真はイタズラっ子のようだった。
ラブホテルに来たのだから、何をするかぐらいはわかっている。純情ぶるつもりはないし、隆文よりも前に付き合った人とこういうところに来たこともあった。でもそれは少なくとも付き合った人と、だ。こんなふうに初めて会った人とラブホテルに来た経験なんてない。
ここまで来ておいて何を言ってるんだと思われるかもしれないけれど、身体を重ねる覚悟はまだできていなかった。
そんな私の不安を見抜いたのか、ベッドに座った颯真は優しく微笑んだ。
「おいで」
「……っ」
「大丈夫、なにもしないから」
本当? とは聞かなかった。短い時間ではあったけれど、出会ってから今までで私にとって颯真は信頼できる人になっていた。
裸のまま颯真の前に立つ。颯真はベッドの掛け布団をめくると私の腕を引き、そのまま布団の中へと入った。
腕枕をされ、向かい合って、空いた方の腕で颯真にギュッと抱きしめられる。少しだけ冷めた身体に、再び熱が灯る。
颯真の身体が反応しているのもわかってしまった。
「いいの? 本当に……」
「いいんだよ。だって唯奈さん、付き合ってもないやつとそういうことするタイプじゃないでしょ?」
見透かしたかのように言われてつい口ごもってしまう。
「だから、無理にしなくても大丈夫。身体を繋げなくても抱きしめ合っているだけで、心は満たされると思うよ」
「……ありがとう」
こんなふうに人肌に触れたまま眠るのは久しぶりだ。
優しく頭を撫でてもらうと、涙があふれてきた。
「ごめ、腕、濡らしちゃう……」
「そんなこと気にしなくていいよ。あのね、唯奈さん。つらいときまで、他人のことを気遣う必要なんていないんだよ。ちゃんとつらい自分の気持ちに向き合ってあげて」
「つらい、気持ちに……?」
「そう。唯奈さんの気持ちに向き合えるのは唯奈さんだけなんだから」
颯真の言葉に、涙が止まらなくなってしまう。
そうだ、私はつらかった。大切な人に、大事な家族に裏切られて、悲しくて悲しくて仕方がなかった。
「……っく……ううっ……」
あふれ続ける涙は、颯真の腕を、そしてシーツを濡らし続けた。
ようやく涙が止まったころ、私は颯真に問いかけた。
「どうして、こんなに優しくしてくれるの?」
今日初めて会った見ず知らずの人間に、こんなにも優しくしてくれる理由がわからなかった。
けれど私の質問に颯真は笑う。
「鈴緒が取れそうなほど本坪鈴を鳴らしてる人がいたら、誰だって心配するでしょ」
「それは、そうかもしれないけど」
でも、その答えはどうも腑に落ちない。だって。
「じゃあ、誰にでもこんなふうにホテルに入って慰めてあげるの……?」
颯真のおかげでつらかった気持ちがほんの少しだけ和らいだのは事実だ。でも、いくら心配したとしても、どれだけ颯真が優しかったとしてもやり過ぎではないかと思う。
けれど、私の質問に颯真は答えなかった。代わりに。
「でもって、つらくなったらいつでも泣いていいよ。涙には心の浄化作用があるんだ。俺がそばにいるから、ひとりで泣かなくていいから、だから安心して」
颯真の言葉が、ぬくもりがあまりにも優しくて、あやすように言う颯真の言葉を聞きながら、私はいつしか眠りに落ちていた――。
ふと目覚めると、私を抱きしめてくれていた腕はもうどこにもなかった。シーツが冷たくなっていたので、随分前に出て行ったようだ。
「そばにいるって言ったのに、嘘つき」
けれど、目覚めたときに颯真の姿があれば縋ってしまっていたかもしれない。手放せなくなっていたかもしれない。
だから、きっとこれでよかったんだ。
もう一度会いたいという思いは胸の奥にグッと仕舞い込むと、颯真がかけておいてくれたのか、すっかり乾いたスーツを身に纏い、私はひとりでホテルを出た。
「あ……」
見上げた先にあったのは、あの縁切り神社だった。
***
数日後、私は会社に行くためにマンションの部屋を出た。先日まで着ていたパンツスーツではなく、休日に買いに行った淡い水色のスカートを穿いて。
「おはようございます」
一階の駐輪場横で、同じマンションに住む大学生とちょうどはち合わせた。颯真もあれぐらいの背丈だっただろうか。
また会いたいと思う半面、もう二度と会わないと思ったからこそ本心をさらけ出せたのかもしれないとも思う。
それに。
もしも私と颯真の縁が結ばれていれば探さなくてもきっとまた出会えるはずだ。
「それじゃあ、今日も頑張ろうかな」
恋をして傷付いたけれど、いつかもう一度誰かを好きになりたい。
でも、今は。
私は歩き出す。新しい日々を。
新しい縁を自分の手で繋ぐその日まで、自分らしくいようと誓いながら。
雨が降る中、傘も差さず一心不乱に鈴緒を振り回し、本坪鈴を鳴らしている私の姿はきっと狂気に満ちていたはずだ。
けれど、周りからどう見られるかなんて考えている余裕はなかったし、そもそも夜の十一時を越えたこの時間に縁切りで有名な神社を訪れている人間なんて多かれ少なかれ皆狂っているに違いない。
「ホントに! いったい! なんなのよ!!」
社務所が開いていたならきっと、あのふたりを呪う言葉を絵馬に書き連ねていただろう。それぐらい私の心はズタズタに傷つけられていた。
「もうやだ……。神様がいるなら、あいつのこと忘れさせてよ……」
鈴緒を握りしめたまま立ち尽くす私の耳に、雨音に混じって誰かの声が聞こえた。
「ねえ、縁を切りたいほど辛い思いをしたなら、俺が全部忘れさせてあげようか」
思わず振り向いた視線の先にあったのは、傘を差し出す若い男の子の姿だった。
***
恋人である柴田隆文に呼び出されたのは、付き合って八年目の記念日だった。大事な話があるというからには、ついにプロポーズ!? と思ってしまってもしょうがない話だと思う。
私も隆文ももう二十八歳。周りは第一次結婚ブーム真っ只中だ。いよいよ私も結婚かぁ、なんて浮かれた気持ちで待ち合わせ場所のカフェへと向かっていた私に『冷静になれ』と言いたい。だって待ち合わせ場所は、いつか隆文が語っていたプロポーズの雰囲気とはほど遠い、チェーン店の格安ファミリーレストランだったのだから。
私がお店に着くとすでに隆文は席に座っていた。四人がけのボックス席。隆文の隣には見覚えのある顔があった。
「え、なんで」
そこにいたのは私の妹である、鳥居春菜だった。
「春菜? ど、どうしたの? あ、偶然会ったとか?」
言いながら無理があるのはわかっていた。偶然ふたりが会ったのだとしたら、姉の恋人である隆文の隣に座るだろうか。向かいの席に座るのが普通じゃないだろうか。
でも、そうじゃない理由を私は考えたくなかった。
「お姉ちゃん、私……」
「いいよ、俺から言うから」
「でも……!」
私の質問に答えることなく、ふたりは親密そうな雰囲気を出しながらお互いを気遣いながら話していた。私の記憶が正しければ、ふたりが会ったのなんて数えるほどのはずだ。いつの間にこんなに親しくなったのかと不思議に、そして不審に思う気持ちが顔を出してくる。
「あの、ふたりとも、なんの話を……」
「唯奈」
隆文が覚悟を決めたように私の名前を呼んだ。いつもとは違う強ばった表情と同じぐらい固い声。その意味がわからないほど、隆文との付き合いは短くなかった。
「ごめん、唯奈。俺と別れてほしい」
喉の奥がひゅっと音を鳴らす。上手く呼吸ができなくて、目の前にいるはずの隆文が知らない人のように見えた。
「どう、して」
それだけ絞り出すので精一杯だった。そんな私の問いかけに答えたのは、隆文ではなかった。
「私のせいなの! 全部私が悪いの! 私が隆文君のことを好きになっちゃったから!」
「違う、春菜はなにも悪くない。全部俺が!」
「でも……!」
私はいったいなにを見せられているのだろう。目の前では彼氏と私の妹が自分が悪いのだと悲劇のヒロインのように言いながらいちゃついている。
「だから、私が……!」
「春菜、ちょっと黙ってくれる?」
「あ……」
「私は今、隆文と話をしているの」
「ご、ごめんなさい」
静かに、冷静に、落ち着いて。感情的にならないように伝えた私に対して、異を唱えたのは隆文だった。
「おい、春菜に対してそんなキツイ言い方することないだろ」
「そもそも別れ話に春菜を同席させる方が間違ってるんじゃない?」
「それは、そうかもしれないけど。でも春菜も俺も、ちゃんと唯奈に伝えたいって思ったから」
お花畑としか言いようがない。どこの世界に彼氏が別れ話をするときに自分の妹――しかも彼氏の浮気相手に同席されて喜ぶ人間がいるのだろう。
「理由は春菜のことを好きになったから……?」
恐る恐る私は理由を尋ねた。たしかに私よりも春菜の方が可愛いし、性格もいい。どちらが好みかと尋ねたら十人中九人は春菜と答えるはずだ。でも、隆文は残りのひとりだと信じていたのに。
私の言葉に隆文は隣にいた唯奈を見た。唯奈は何故か頬を染めて嬉しそうな表情を浮かべている。今この場所で浮かべる表情として、これほどそぐわないものはないはずだ。
「それも、あるけど。その、子どもができたんだ」
「は?」
間の抜けた声が出た。だって、今、なんて。
混乱しつつ、ああだからさっき唯奈はあんな表情を浮かべたのかと納得してしまう私もいた。
それにしても。好きな人ができたから、でもフラれる理由としてはつらいのに、その相手が実の妹で、さらに子どもまでできたと言われたら、もうどんな顔をしてここにいればいいのかわからない。
「責任を取るってこと?」
せめて浮気相手をうっかり妊娠させちゃったから仕方なく結婚することになった、ぐらいのスタンスであってほしかった。受け入れたくないけど、それならまだ私の心は守られたかもしれない。
なのに、私が八年間も付き合ってきた彼氏には、優しさの欠片もなかった。
「責任感なんかじゃない! 俺は春菜のことをこれから守っていきたいんだ! 唯奈と違って、春菜は可憐で、か弱くて、俺が守ってやらなきゃ駄目だから」
「……は?」
「唯奈はほら、春菜と違って俺がいなくても大丈夫だろ? 強いもんな!」
頭がクラクラして座っているのさえやっとだった。
目の前で目をキラキラさせて喋っているこの男は、本当に私が付き合っていた彼氏と同一人物なのだろうか。
隆文が自立した女の人が好きだと言ったから、つらいことがあっても必死に頑張ってきた。泣きたい夜があってもグッと飲み込んだ。服装だって、スカートよりパンツスタイルの方が変な男が寄ってこなくていいと言われたから、私服もスーツもパンツにした。
それなのに、結局最終的に選んだのは私とは正反対の可愛い守ってあげたい雰囲気の春菜だなんて。
そのあと、どうやって店を出たのかわからない。ただ春菜がメニュー表を見ながら「お姉ちゃんも一緒にご飯食べる?」と悪意のない笑顔を向けていたことだけは覚えていた。
フラフラと外を歩いていると、ぽつりと雨粒が頬に当たり、やがて土砂降りへと変わっていく。
雨予報なんてなかったから傘なんて持っていない。けれど濡れ鼠のようになった今、お店に入ることもコンビニで傘を買うこともはばかられた。
真冬であれば風邪を引いたかもしれないけれど、今は七月。多少冷えたとしても、大したことにはならないはずだ。
私は、家に帰るのであればまっすぐに進む道を右へと曲がった。その小径はいつも観光客であふれていて、昼夜問わず歩くのにはむかない。もちろん私も通常なら避けて通るのだけれど、今日は雨のおかげか人通りはほとんどない。もしかしたらみんな近くのお店に入ったのかもしれない。好都合だった。
誰もいない通りの真ん中を私はひとり歩く。雨の中、傘も差さずに歩いている女性の姿は人がいればさぞかし不気味に見えたに違いない。
小径を抜け、いくつかの曲がり角を進んだ先にその場所はあった。『安井金比羅宮』いわゆる『縁切り神社』だった。昼間はたくさんの人でいっぱいのここもすでに十一時を回ったこの時間は静まり返っていた。迷いなく神社に足を踏み入れると、私は拝殿の前に立つ。
まさかここに来る日が来るなんて。
噂だけは聞いたことがあった『縁切り神社』。でも、私には無縁の場所だと、そう思っていた。けれど。
「ホントに! いったい! なんなのよ!!」
鈴緒にそっと触れると、今までの隆文と思い出が脳裏をよぎる。楽しかったこと、嬉しかったこと、喧嘩をして仲直りをしたこと、いつか一緒に暮らしたいねと話した幸せだったときのこと。そして――春菜の隣に座る、隆文のこと。
「もうやだ……。神様がいるなら、全部忘れさせてよ……っ」
全ての思いを断ち切るように、鈴緒を握りしめ、思いっきり振り回した。
雨音しかしなかった境内に、ガランガランと本坪鈴の音が鳴り響く。ただただ心の中の辛さを振り払うように、一心不乱に鳴らし続けていた。その声が、聞こえるまでは。
「ねえ、縁を切りたいほど辛い思いをしたなら、俺が全部忘れさせてあげようか」
「……え?」
一瞬、本当に神様の声なのかと錯覚するぐらい、その声はすぐそばから聞こえた。私の頭上に降り注いでいた雨は、彼が持つ傘によって遮られる。
振り向いたそこにいたのは、私よりも少し背が高くて、綺麗な顔立ちをした男の子だった。
「あなたは……誰……?」
「神様って言ったら、信じる?」
思わず尋ねた私に、彼は少し幼さの残る顔で笑った。
私たちは屋根のある場所に移動すると、並んで立つ。颯真と名乗った彼は、背丈こそ私よりも高かったけれど、笑った顔と言い口振りと言い、どこか幼さを感じさせる。
「それで、何があったんですか?」
「……彼氏にフラれたの」
普段なら初めて会った人にこんな話をしない。なのに答えてしまったのは、自分で思っている以上に傷付いているのかもしれない。
「わー……お気の毒様です。でもまあよくあるっちゃあることで……」
「相手は私の妹で、しかも妊娠してるんだって」
「そ、れは……つらいですね」
一瞬、言葉に詰まった颯真だったけれど、眉をひそめ心底気の毒そうな声で言った。そんな反応をされると逆にどうしていいかわからなくなる。
「ま、まあ私にも悪いところはあったのかもしれないしね。愛想尽かされるようなことしたのかもだし。喧嘩と一緒でこういうのってどっちかだけが悪いなんてことは……」
だからだろうか。思ってもないことを口先だけでペラペラと話してしまったのは。そして不思議なことに、言葉にしてしまうとまるで本当にそうなのかもと思ってしまう。
私にも悪いところがあったのかもしれない。だから隆文は春菜を選んだのかもしれない。私より春菜の方が――。
「そんなことないです!」
私の思考を遮ったのは颯真の真っ直ぐな声だった。
「どんな理由があったとしても、付き合っている人がいるときに他の人と関係をもっていいわけなんてないです! それも彼女の妹となんて、絶対ありえない! だから唯奈さんが悪いなんてこれっぽっちもありません!」
きっぱりと言い切ってくれる颯真の言葉は、傷付いた私の心に染み込んでいく。
気づくと頬を涙が伝い落ちていく。
ぐすぐすと泣く私の背中を、颯真は静かに優しく撫で続けてくれた。
涙がようやく落ち着いた頃、私は今の状態が恥ずかしくなっていた。
見知らぬ、恐らく年下の男の子の前でフラれたことを話して、慰めてもらって、あげく泣き止むまで背中を撫でてもらうなんて。
というか。年下だとは思っていたけれど、颯真はいったい何歳なのだろう。
隣に立つ颯真を見つめて見ても、年齢まではわからない。
「どうしました?」
見つめられていることに気づいた颯真は、不思議そうに首を傾げる。
「あの、さ。ちなみになんだけど、君って未成年じゃないよね……?」
話を聞いてもらっておいてなんだけど、未成年だったらこんな時間に出歩いていれば警察に補導されてしまう。一緒にいた私も注意を受ける可能性だってある。フラれて警察のご用にまでなったら踏んだり蹴ったりにも程がある。
恐る恐る尋ねると、颯真は少しだけ雨に濡れた髪を掻き上げながら口を開いた。
「そんなに子どもっぽく見えます? 酷いなぁ」
「そういうわけじゃないけど、念のため」
「安心してください。俺、神様だから年なんて――ああ、ごめんなさい。そんな目で見ないで!」
茶化すように言われ思わず冷たい視線を送ってしまう。そんな私に颯真は慌てて顔の前で手を振った。
「えっと、大丈夫です。今年二十二歳です。あ、もし心配なら身分証明とか見せますよ」
「別にそこまでしてもらわなくても大丈夫だけど……」
二十二歳だと言われればそう見える気もする。ということは数ヶ月前に新卒で入ってきた子たちとひとつしか変わらないということか。うーん、やっぱり幼い。でも、その幼い颯真に傘を貸してもらって、こうやって雨宿りに付き合ってもらっているのは私だ。
恋人にフラれたからと言って何をやってるんだか。
「……私ももう帰るから、君も帰りなよ」
「え、帰っちゃうんですか?」
私の言葉に颯真は不服そうな、それでいて心配そうな声を上げる。
「帰るに決まってるよ。こんな時間なんだから」
「でも、お姉さん。傘、持ってないじゃん。こんな雨の中、どうやって帰るの」
「それは……」
雨は弱まるどころか、どんどん激しさを増していく。一歩外に踏み出せば跳ね返る雨水で足もとまでびしょ濡れになってしまいそうなほどだ。
「それにさ、お姉さん今日帰りたくないんじゃない?」
「なんで……!」
「だって、そんな顔してるもん」
颯真は身体を私に寄せる。少しだけ近づいた距離のせいで、颯真の体温を肩で感じてしまう。熱っぽさを持つ颯真の身体は、私の冷え切った身体をほんの少しだけ熱くした。
「ね、お姉さんのこのあとの時間、俺にちょうだい? そしたら、つらいこと全部忘れさせてあげるよ」
冷えた身体に頭までのぼせてしまったせいだろうか。頭がぼうっとして、どうにも正常な判断ができなくなっているようだ。
「ね?」
颯真に手を握られ、私は自然と頷いてしまっていた。
「ふふ、可愛い」
そう言ったかと思うと、颯真は私の手を引いたまま雨の中に飛び出した。行き先は――神社と目と鼻の先にある少し古びたラブホテルだった。
「なんで『縁切り神社』のすぐそばにラブホテルなんて……」
部屋に入った私は思わず呟いてしまう。
縁を切りたい人が集まるのではないのだろうか。それともここを利用したあとに縁を切って後腐れをなくすのだろうか。自分自身では答えの出ない問いの答えを、洗面台の方から戻ってきながら颯真はさらりと答えた。
「切りたいだけじゃなくて結びたい人もいるからじゃないかな」
「結びたい人? だってあそこって縁切りで有名なんでしょ?」
「悪縁を切って良縁を結んでくれるんだ。だから、俺と出会ったのは良縁かもしれないでしょ?」
「ふふ、凄い自信」
言い切る颯真の自信満々の態度がおかしくて、つい笑ってしまった私に颯真は優しい視線を向けた。
「やっと笑った」
「え?」
「ずっと悲しそうな顔か怒った顔しかしてなかったから」
「あ、そう、かな」
そうかもしれない。隆文と春菜のことがあってから、ずっと胸の奥が苦しくてモヤモヤしていた。
颯真のおかげ、なのだけれどそれを素直に伝えるのは年上として少しだけ恥ずかしい。
黙ってしまった私の身体を、颯真は後ろからそっと抱きしめた。
「ね、お風呂入る?」
どうやら先ほど洗面台の方に向かったときにお風呂を沸かしてくれていたらしい。
「身体冷えちゃったでしょ」
颯真は私の返事を聞くことなく、手を引くと脱衣所へと向かった。
どうすれば、いいんだろう。お風呂に入るためには服を脱がなければいけないことはわかっている。でも、今日初めて会った人の前で服を脱ぐのは……。
黙ったまま立っている私に、手早く自分の服を脱いだ颯真は笑った。
「脱がしてほしいの?」
「ち、ちが……!」
「冗談だよ。先に入っとくから、早く来てね」
ひらひらと手を振ると、颯真は浴室へと姿を消した。
残された私は、どうしようかと立ちすくむ。冷静になってしまうと、こんなことをしてもいいのかと考えてしまう。でも、ここまできて後戻りするわけにもいかない。
それに、隆文のことを見返したい気持ちも少しだけあった。
「……っ」
ぺたりと張り付いたブラウスとパンツを脱ぐと、鏡には下着姿の私が映る。私ではなく隆文が好きだった薄いグリーンのブラジャーとパンツを脱ぐと、私は浴室の扉を開けた。
「ホントに……来てくれたんだ」
待ってると言ったはずの颯真は湯船の中にいて、浴室に入ってきた私の姿に驚いたような声を上げたあと嬉しそうにはにかんだ。
「すごく綺麗」
「そ、んなお世辞、言わなくていいよ。たいしたことないのは私が一番わかってるから」
「そんなことないよ。俺にとってはすごくすごく綺麗だ。ね、こっちに来て」
立ち上がると、私の手を引いて湯船へと引っ張る。
「待って、シャワー浴びてない……」
「こっちのほうが温まるよ」
「もう……」
強引に私の手を引っ張ると、颯真は後ろから私を抱きしめ湯船の中に浸かった。背中に颯真の意外と筋肉質な胸板が触れ、ドキドキしてしまう。
「あっ……」
後ろから抱きしめられる形になったせいで、颯真の手が私の胸に触れた。
思わず身体がビクリと震える。甘い痺れ、よりも不安の方が大きかった。
「大丈夫、抱きしめるだけ。それ以上のことは何もしないから」
耳元で囁くとギュッと抱きしめてくれる。大事に、壊さないように、私に怖い思いをさせないように。触れたところから、そんな颯真の優しさが伝わってくるかのようだった。
「……あったかい」
お湯も、それから颯真の身体から伝わってくる熱も、冷え切った私の身体には心地よかった。
身体が温まると、少しだけ心も落ち着いた気がした。
「ね、唯奈さんは好きなものとかある?」
「好きなもの? たとえば?」
「うーん、映画とか本とかなんでも!」
「えー、そうだなぁ」
湯船に浸かったまま、私たちは他愛のない話をした。最近読んだ本のこと、今度公開される映画のこと、少し前にできたお料理の美味しい居酒屋のこと。どれも楽しく聞いてくれるから、つい話しすぎてしまう。
そういえば昔は隆文もこんなふうに楽しく私の話を聞いてくれていた。それが適当な相づちに代わり、返事さえしてくれなくなったのはいつの頃だろう。そのときにはもう春菜と付き合っていたのかもしれない。
どうして気づかなかったのだろう。
「…………」
「そろそろ出よっか。のぼせちゃいそうだ」
隆文のことを思い出してボーッとしたまま水面を見つめていた私に颯真は明るく声をかけた。
「そ、そうだね! って、ひゃっ」
慌てて立ち上がったせいか、目の前がぐらっと回る。
「っと、大丈夫?」
私の身体を支えるように腕を掴むと、そのまま脱衣所へと颯真は向かう。ドアを開けた瞬間に感じる涼しい風が気持ちいい。
洗面台を支えにして立つ私の身体を、颯真はバスタオルでそっとくるんだ。
「あ、じ、自分でやるよ」
「いいから。俺がやりたいの」
バスタオルで私の身体を隅々まで拭いていく。なんとも言えない恥ずかしさとくすぐったさに包まれる。
「はい、できあがり」
「ありがとう……」
お礼を言う私に、颯真は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを手渡してくれる。
「飲ませてあげようか」
「だっ、大丈夫!」
「ちぇ、残念」
そう言って笑う颯真はイタズラっ子のようだった。
ラブホテルに来たのだから、何をするかぐらいはわかっている。純情ぶるつもりはないし、隆文よりも前に付き合った人とこういうところに来たこともあった。でもそれは少なくとも付き合った人と、だ。こんなふうに初めて会った人とラブホテルに来た経験なんてない。
ここまで来ておいて何を言ってるんだと思われるかもしれないけれど、身体を重ねる覚悟はまだできていなかった。
そんな私の不安を見抜いたのか、ベッドに座った颯真は優しく微笑んだ。
「おいで」
「……っ」
「大丈夫、なにもしないから」
本当? とは聞かなかった。短い時間ではあったけれど、出会ってから今までで私にとって颯真は信頼できる人になっていた。
裸のまま颯真の前に立つ。颯真はベッドの掛け布団をめくると私の腕を引き、そのまま布団の中へと入った。
腕枕をされ、向かい合って、空いた方の腕で颯真にギュッと抱きしめられる。少しだけ冷めた身体に、再び熱が灯る。
颯真の身体が反応しているのもわかってしまった。
「いいの? 本当に……」
「いいんだよ。だって唯奈さん、付き合ってもないやつとそういうことするタイプじゃないでしょ?」
見透かしたかのように言われてつい口ごもってしまう。
「だから、無理にしなくても大丈夫。身体を繋げなくても抱きしめ合っているだけで、心は満たされると思うよ」
「……ありがとう」
こんなふうに人肌に触れたまま眠るのは久しぶりだ。
優しく頭を撫でてもらうと、涙があふれてきた。
「ごめ、腕、濡らしちゃう……」
「そんなこと気にしなくていいよ。あのね、唯奈さん。つらいときまで、他人のことを気遣う必要なんていないんだよ。ちゃんとつらい自分の気持ちに向き合ってあげて」
「つらい、気持ちに……?」
「そう。唯奈さんの気持ちに向き合えるのは唯奈さんだけなんだから」
颯真の言葉に、涙が止まらなくなってしまう。
そうだ、私はつらかった。大切な人に、大事な家族に裏切られて、悲しくて悲しくて仕方がなかった。
「……っく……ううっ……」
あふれ続ける涙は、颯真の腕を、そしてシーツを濡らし続けた。
ようやく涙が止まったころ、私は颯真に問いかけた。
「どうして、こんなに優しくしてくれるの?」
今日初めて会った見ず知らずの人間に、こんなにも優しくしてくれる理由がわからなかった。
けれど私の質問に颯真は笑う。
「鈴緒が取れそうなほど本坪鈴を鳴らしてる人がいたら、誰だって心配するでしょ」
「それは、そうかもしれないけど」
でも、その答えはどうも腑に落ちない。だって。
「じゃあ、誰にでもこんなふうにホテルに入って慰めてあげるの……?」
颯真のおかげでつらかった気持ちがほんの少しだけ和らいだのは事実だ。でも、いくら心配したとしても、どれだけ颯真が優しかったとしてもやり過ぎではないかと思う。
けれど、私の質問に颯真は答えなかった。代わりに。
「でもって、つらくなったらいつでも泣いていいよ。涙には心の浄化作用があるんだ。俺がそばにいるから、ひとりで泣かなくていいから、だから安心して」
颯真の言葉が、ぬくもりがあまりにも優しくて、あやすように言う颯真の言葉を聞きながら、私はいつしか眠りに落ちていた――。
ふと目覚めると、私を抱きしめてくれていた腕はもうどこにもなかった。シーツが冷たくなっていたので、随分前に出て行ったようだ。
「そばにいるって言ったのに、嘘つき」
けれど、目覚めたときに颯真の姿があれば縋ってしまっていたかもしれない。手放せなくなっていたかもしれない。
だから、きっとこれでよかったんだ。
もう一度会いたいという思いは胸の奥にグッと仕舞い込むと、颯真がかけておいてくれたのか、すっかり乾いたスーツを身に纏い、私はひとりでホテルを出た。
「あ……」
見上げた先にあったのは、あの縁切り神社だった。
***
数日後、私は会社に行くためにマンションの部屋を出た。先日まで着ていたパンツスーツではなく、休日に買いに行った淡い水色のスカートを穿いて。
「おはようございます」
一階の駐輪場横で、同じマンションに住む大学生とちょうどはち合わせた。颯真もあれぐらいの背丈だっただろうか。
また会いたいと思う半面、もう二度と会わないと思ったからこそ本心をさらけ出せたのかもしれないとも思う。
それに。
もしも私と颯真の縁が結ばれていれば探さなくてもきっとまた出会えるはずだ。
「それじゃあ、今日も頑張ろうかな」
恋をして傷付いたけれど、いつかもう一度誰かを好きになりたい。
でも、今は。
私は歩き出す。新しい日々を。
新しい縁を自分の手で繋ぐその日まで、自分らしくいようと誓いながら。