「もう私たち別れましょう」
夕方のコーヒーショップ。俺、氷室亜紀人(ひむろあきと)は彼女から別れ話を切り出された。仕事が忙しくて会うことができず、少しずつ会話が減ってきたからなんとなく気まずい雰囲気が続いていた。今日、呼び出された時になんとなく予感はあった。むしろ相手から切り出されてほっとしている。
「そうだね。今までありがとう」
「仕事ばっかりしてないで、ストレス発散も大事だよ。じゃあね」
彼女は、席を立つとコーヒーの紙カップを手に店を出る。俺はため息をつきながら、空を見上げる。もうすぐ梅雨に入りそうな季節に特有の蒸し暑さを感じながら、肩の荷が少し降りた気がしていた。付き合った期間はそんなに長くはなかったが、どうしても仕事中心の生活の俺と、遊びたい気持ちが優先する彼女とはすれ違いが多かった。彼女の気持ちを汲み取りたいとは思っていたが、結局、平行線のままだった。楽しくなかった。席を立ち出口に向かう。その時、ズボンのポケットに入れてあったスマホが軽く震える。取り出して見てみると、最近やたら送られてくる迷惑メールだ。メールのタイトルに『話し相手募集中』と書かれている。いわゆる出会い系の迷惑メールだ。俺は削除するために、ごみ箱のアイコンをタップした。

家に帰り、ベッドに仰向けに寝そべる。『話し相手募集中』。別に出会い系の怪しいサイトに興味があるわけではない。ただ、いくら肩の荷が下りた感覚があるとはいえ、彼女と別れたという事実は変わらない。別れ話を切り出された側だからフラれたのだ。パソコンの電源を入れて、検索サイトで先ほど目にした広告に書かれていた単語を、打ち込んで調べてみる。びっくりするぐらい多くの出会い系サイトがヒットする。中にはチャットサイトなどというものもある。俺は、チャットサイトの一つをクリックした。『覗く』というボタンをクリックすると、女性の顔写真がたくさん出てくる。『ログイン中』と小さく隅に書かれている女性は、リアルタイムでお話ができる状態のようだ。結構な女性が登録されている。女性とやり取りするには、まずは登録をしなきゃいけない。登録料は無料で、初回登録時に無料ポイントがいくらか付くようだ。メールやチャットでポイントが消費され、チャットでお話をする場合は、1分で100円分消費されるらしい。あくまで女性はキャストで、お話をすることで収入を得ることができるそうだ。出会い系ではない。中には『アダルト』と表示されている女性もあり、こちらは少し過激な内容を演じているらしい。はまる奴は根こそぎお金を持ってかれるだろうな。率直な感想が頭をよぎる。
「ちょっとやってみるかな」
独り言ちて、登録をすます。自分の自由な時間に適当な女性とパソコン上で会話する。怪しい出会い系サイトでお金をぼったくられるよりは、はるかに良いだろう。名前は『あき』にした。考えるのが面倒だし適当で良いだろう。見知らぬ誰かと、サイトを介した後腐れもないチャットだ。登録完了のメールが届き、軽い気持ちで女性のページを覗いてみる。顔を出している女性もたくさんいるし、明らかに男性を誘ってくるようなコメントを載せている女性もいる。俺は、何人かいるログイン中の女性の一人に目が留まった。アダルト表示はない。少しうつむき加減で、なんとなく元気がなさそうな女性の顔写真。他の女性は皆、笑顔を前面に出して盛っている写真ばかりだから対照的だ。

名前は『マリ』さん。年齢は俺と同じ。職業は会社員。とりあえずメールを送ってみる。どんなことを書いていいかわからないから軽く挨拶ぐらいでいいだろう。

『マリさん。こんにちは、僕も会社員です』

簡単な文章を打ち込んでから冷蔵庫へ向かい、缶ビール開けてぐいと飲み干す。再度、パソコンの前に腰掛けて画面を見ると、メールボックスの中に1通新着メールが来ている。クリックするとマリさんからの返信だ。

『あきさん、こんにちは。メールありがとうございます。嬉しかったです。あんまりメールとかもらったことなくて、寂しかったんです。会社員なんですね、同じです。ちなみに趣味とかって何ですか?私は目的を特に決めずに街をぶらぶら散歩するのが好きです。ゆっくり歩くといろいろな発見があって面白くて。人の家の庭に咲いている花の写真を撮って家に帰って調べてみたりとかもしてます』

てっきり『チャットしよう』とか言ってきてお金を使わせるようにしてくるかと思ったが少し違った。もう一度返信してみる。

『返信ありがとう。お花とかはまったくわかりません。趣味は特にないです。強いてあげれば、目的もなしに適当に車でぶらぶら出かけるぐらい。ただ最近は仕事が忙しくてなかなか行けてないけど』

送信。するとまたすぐに返信が来る。

『そうなんですね。お仕事も大事ですけど、身体を大切にしてくださいね。趣味はぶらぶらって感じなら似てますね。私も仕事の後に、こういうチャットサイトに来ちゃうことが多いからあまり散歩できていないです。でも本職の会社員の収入が安いんで、チャットサイトでしっかり稼がないといけないんです』

なるほど、副業か。じゃあ、少し応援してあげよう。俺はチャット開始ボタンを押す。するとパソコンの画面がマリさんを大きく映し出した。マリさんは少し慌てた様子だ。
「あきさんですか?チャット大丈夫なんですか?画面もお顔が見えてますけど大丈夫?」
「マリさんはじめまして。大丈夫ですよ。こういうサイト初めてなんでこれでいいのかな?」
「初めてなんですね、堂々としているから慣れているかと。私は人気がないのであまりアクセスしてもらえないんです。だから来てくれてすごくドキドキしてます」
「でもリラックスしてる感じですね。可愛い部屋だし」
「ここ、サイトの運営会社が借りているマンションの部屋なんです。私の本当の部屋はもっと暗いですよ。ここに来るとご飯とか飲み物とかが無料なんで、ついつい来ちゃうんですよ」
知らないことが多い。なるほど、簡単に言えば男性から料金を徴収して女性に還元して、且つ女性の居心地が良いように環境を設定する。システムとしては納得だ。その後も少しマリさんと他愛もない会話をする。互いの仕事の愚痴やちょっとした旅行の話。気が付くとあっという間にポイントが消費されている。
「あ、ごめん、マリさん。ポイント無くなりそうだから、また今度ね」
「あ、すみません。お金使わしちゃった。無理しないでね。ありがとう」
チャット終了ボタンを押して退室する。意外に楽しかった。また、ログインしてみよう。

数日後、帰宅してからコンビニの弁当を食べて一息つく。パソコンの電源を入れて、ユーチューブを開く。代り映えのしない動画がお薦めとしてトップページに映し出される。ならいっそチャットサイトに行ってみるか。さっそくログインしてみると、マリさんはログイン中だった。ポイントは補充しておいたので、今日はもう少しお話ができそうだ。マリさんとのチャット開始ボタンをクリックする。
「あきさん、こんばんは」
「マリさん、こんばんは。今日は前と部屋が違うね」
「この前の部屋の隣の部屋」
そう言って、マリさんは笑う。うつむいた写真より笑顔の方が断然可愛い。
「その部屋もなかなかいい雰囲気だね」
「でしょ。あきさん、結婚してないの?」
「あ、独身だよ」
「彼女さんは?」
「いないよ、ついこの間別れた」
「そっか、ごめんね。そりゃ彼女さんがいてラブラブならこんなサイト来ないよね」
「結婚している人も来ないでしょ?」
「いっぱいいるよ、既婚者の人。多い多い」
「そうなんだ、マリさんは?独身?」
「独身だよ、彼氏もいない。以前付き合ってた人がさ、既婚者でね。付き合うまでは結婚してるなんて言ってなかったから、まさか既婚とは思わなかった。それにDV気質もあったんで、時間かかったけどなんとか別れた。奥さんから訴えられたら洒落にならないしね」
「結構大変だったんだねえ」
何時の間にか、かなり打ち解けてきた気がした。ネットを介してだけど、リアルタイムに会話ができて、生の声を聴くことができる。話が弾んで、付き合う時のデートの話題へ。
「あきさんは、私とデートするならどこに連れてく?」
「うーん、普通に街をぶらついてショッピングとか」
「動物園や遊園地じゃないんだ」
「そっちが良かった?ならそっちにしようか?」
「うわあ、てきとー」
他愛もない会話が心地いい。仕事一辺倒じゃなく、生活にちょっとした遊びを入れることは大切だと思った。その後、好きな音楽の話から小中学校の頃の合唱曲の話まで飛び火する。何気ない会話が心を休めてくれる。時折、マリさんとチャットする日々が俺の日常に加わった。気が付くと、かなりのポイントを使ってしまっていた。

数日間、仕事が重なってなかなかサイトにログインできていなかった。久しぶりに、ログインすると、メールの受信箱に1通のメール。
『あきさん、お疲れ様。おそらく結構なポイントを消費させちゃったみたいでごめんなさい。お仕事も忙しいだろうし、無理しないでくださいね。私も少しサイトに来ることを控えようかなって思っています。仕事も忙しい時もあるし、あきさん以外とはあんまりお話しすることもないですし。あ、最初の頃に散歩が趣味って私、言ってましたよね? 近くで見かけた綺麗な花です。ブルースターっていう名前だそうです。別名はオキシペタラム。検索してみてください』

マリさんはログアウト中。多くの女性の写真の中に、一枚だけ異質な花の写真。マリさんの写真だった。綺麗な花の写真。いかにも庭に咲いているような綺麗な青い花。もちろんブルースターなんて名前の花は知らない。

俺は『ブルースター』『花』とキーボードに打ち込んで、画像検索をしてみる。可憐な青い花の写真がいくつも並ぶ。確かにマリさんがアップした花と同じだった。花言葉なんてのもある。花言葉に『信じ合う心』と書かれていた。『信じ合う心』は、青が聖母マリアを象徴する色で、信仰する誠実な心を表しているらしい。こんなことで雑学を身につけてもなあ。あんまりマリさんもログインしないなら、俺もサイトに来るのをやめようか。ふとそんなことを思ったとき、もう一度『検索してみてください』という言葉を考え直し、ある可能性を期待する。

ずっと登録したまま、まったくポストしていないかったSNSのXを開いて『ブルースター』で検索する。たくさん出てくるが、それらしいアカウントはない。じゃあ『オキシペタラム』ではどうか。数件のヒット。その中に見たことある花の写真。マリさんの写真と同じ花。開くとXを開始した日は3日前の日付。フォロー中0人、フォロワー0人。すぐにフォローして『もしかしてマリさん?』とダイレクトメッセージを送る。すぐに返信が来る。『はい。あきさんですか?』

こんなことがあってもいいのだろうか。チャットサイトで知り合った女性と、今日の夕方に会う。チャットサイトでは直接のやり取りは禁止されている。だから決して人に言えない出会い方だ。出会い系とは違うが出会ってはいけないはずなのだ。後ろめたさはあるが、話していてとても楽しいし、会ってみたいと思ったのも確かだった。

マリさんの本名は北条茉莉菜(ほうじょうまりな)さん。もちろん、俺も本名を明かした。画面越しには何度も会っている。声も知っている。女性とこんな形で会うのは初めてで、緊張する。


駅近くのデパートの前で待ち合わせる。この駅は茉莉菜さんの住んでる街と俺の住んでる街のちょうど間に位置しており、店も多くあるので待ち合わせの場所はすぐに決まった。とにかく待ち合わせのメッカなので、多くの人が立ち並んでいる。皆一様にスマホの画面を覗いてるのが滑稽だ。俺も周りの人たちと同じようにスマホを覗き込む。滑稽に見えるなら見えればいい。茉莉菜さんは今こちらに向かっている最中らしい。こちらの服装をあらかじめ伝えておく。茉莉菜さんは青いブラウスに白いスカート。ドキドキしている。心臓の音が聞こえる。
「亜紀人さんですか?」
少しだけ上擦った高い声が右横から聞こえた。向くと、淡い青色のブラウスに白いスカートの女性が立っている。
「茉莉菜さんですよね?」
「初めまして、ですね」
「リアルでは。本当は会っちゃいけないんですねど」
少し沈黙。でも茉莉菜さんは笑顔を見せて話を続ける。
「私、この街に来るの、久しぶりなんだ」
「前に来たのってどのぐらい前なの?」
「高校生の頃だから、すごく前だよ」
「ここら辺は、再開発で結構街並みも変わっているから。でも新鮮でいいかもね。喫茶店にでも行こうか」
俺と茉莉菜さんは近くの喫茶店へ入る。窓際の席へ腰掛けて、二人ともコーヒーを注文する。何か話さなきゃ。少し焦って、とりあえず他愛もないことを聞く。
「茉莉菜さん、コーヒー好き?」
「うーん、普通かな。でもブラックで飲むよ。砂糖はね、カロリー怖いし」
茉莉菜さんのスタイルは決して悪くない、むしろ良い。きちんとコントロールしてるんだろうなと勝手に想像する。
「健康とか美容に気を使ってるんだよね、スタイル良いし、服装もめちゃ似合ってるよ」
「そんなに気を使ってるわけじゃないよ、そりゃ女の子だから体形は気にするしね。服はね、この色好きなんだ」
淡い青はブルースターの色に似ていた。
「亜紀人さん、意外に背が高くてびっくり。画面越しだと分かんなかったからね」
「それ言えるよね、全身が写らないから」
お互い少し緊張しているのが分かる。いつもよりもコーヒーの味が薄く感じる。でも不思議と話は尽きない。空が少し暗くなりかけた頃、思い切って誘ってみる。
「茉莉菜さん、もうちょっと時間ある?お酒でも飲みに行かない?」
「良いですよ、あんまり遅くならなければ」

喫茶店を出て、二人で繁華街に向かう。歩きながら、茉莉菜さんの方を見る。身長差は10cm程だろうか。
「さっき、背が高いって言ってたけど、そんなに高いかな?」
「私と同じくらいかなって勝手に思ってただけ、ちょうどいいぐらいだよね」
そう言ってから茉莉菜さんは少し顔が赤くなった。俺も頬が紅潮している気がした。
まだ日が暮れていないせいか、繁華街でも人は少ない。人気のないところに誘ったら誤解されそうだから、大きな通りに面した賑やかな居酒屋が良い。確か、こっちにお洒落な居酒屋が多くあったはずだ。
「茉莉菜さん、ここは?いろんな料理がありそうだし、お酒も種類ありそう」
「お洒落な店だね。いいよ、ここにしよ」
店に入って店員に2名だと伝える。カウンターしか空いていないとのこと。テーブルは予約でいっぱいだそうだ。茉莉菜さんも俺もカウンターで問題なし。右に茉莉菜さん、左側に俺が腰掛ける。
「茉莉菜さん、何飲む?」
「亜紀人は?」
「俺は、とりあえずビール」
「じゃあ、私も」
ビールを2杯注文。ついでに何種類か無難な料理も注文しておく。厨房に近いためか、すぐにビールがテーブルに届く。茉莉菜さんも俺もほぼ同時に店員に「「ありがとう」」と伝える。そしてジョッキを手に取り、顔を見合わせる。
「「乾杯」」
ジョッキの上部分がコツンと当たり、手に跳ね返ってくる感覚がある。普段一人で飲んいると、まったく感じることができない感覚だ。
「なんか、乾杯したの久しぶりだな」
「私も。感染症が流行ってたから、会社で飲みになんていけなかったし」
「会社関係の飲み会は、疲れるしね。茉莉菜さんとの乾杯は心地いいよ」
「私もだよ、ねえ。前さ、デート行くならどこ行くって話したの覚えてる?」
「覚えてるよ、街ブラでしょ」
「そうそう。ちょっと私が拗ねたやつね。今だったら?」
「今かあ、そうだな、車でドライブかな」
「どこら辺?」
「海」
「いいなあ、楽しそう」
「みんなでワイワイ言いながらドライブってのも良いなあ」
茉莉菜さんが、一瞬黙る。
「友達とかとってこと?」
背中に少し冷や汗が出るのを感じた。二人の出会いはチャットサイトだ。友達にそう簡単に言える出会いじゃない。
「やっぱり、ちょっと、言いにくいかな」
「うん。友達には言えないよね」
少し沈黙。俺だけじゃなくて、茉莉菜さんも、出会いには引っ掛かるものがあるのだろう。二人の出会いは、人には話せない。とにかく話題を変えずに雰囲気を変える。
「水族館ってもいいな。クラゲ好きなんだよ」
「水族館いいね。クラゲって、あの透明なの?」
「そうそう、こういうやつ」
俺は手で、クラゲの動きをマネする。手を開いたり閉じたりしながら、上へ動かし、ちょっと開いた状態で、ゆっくりと下げる。もう一度手を開いたり閉じたりして上へ動かす。
「あはは、上手いね」
「ずっと見てられるよ。いろんな種類があるしね。楽しい」
「面白そう。亜紀人さん、動物園とかも好きそう。私、動物園も好きだよ」
「俺も好き」
「共感!」
共感って大事だなって思う。好きなもの、楽しいものの共有はお互いを知るのにとても大切。好きなものと対比するもう一つの共感、そう、苦手なものはどうか?。
「さて、問題。この料理の中に俺の苦手なものがあります。料理というよりは素材です。それは何でしょうか?」
いわゆる食わず嫌いだ。茉莉菜さんは当てられるか?
「何回、チャンスあるの?」
「3回」
「じゃあ。これ!刺身!」
「はずれー。大好物」
「生魚苦手な人、多いから。これかと思ったけど。うーん」
「ヒントいる?」
「いらない」
「お、頑張って」
「じゃあ、これは?ピーマン!」
野菜炒めの中に入っているピーマンを指さして、俺の方を見る。茉莉菜さんの目が『どう?当たってる?』と聞いてきているようだ。
「はずれー。ピーマン、全然大丈夫だよー。次で最後ね」
「えー、もうわかんないや。豚肉、牛肉、鶏肉、玉ねぎ、たまご、トマト、枝豆、豆腐、なす、きゅうり、きのこ・・・」
「ギブアップ?」
「ううん、じゃあラスト、これ!トマト!」
「ぐ、正解」
普通に当てられた。
「やったー!何をお願いしよっかな」
「え?そういうルール?」
「当てたんだから。考えておくね」
「無理難題は、やめてね」
「トマト苦手なんだ」
「生のトマトがね。アレルギーじゃないし、食べられるけど。とにかく味が嫌いなんだよ」
「そういえば多いよね、トマトソースとかケチャップとかは大丈夫だけど、生のトマト嫌いな人」
「まさにそれ、むしろケチャップは大好き」
「亜紀人さんの嫌いなものは、共感できないなあ」
「茉莉菜さんの嫌いなものは?」
「あんまりないんだよね。食べ物の好き嫌い。強いて挙げれば、食虫文化はだめ」
「俺もそれはダメ」
「それダメな人は、多そう」
「じゃあ、茉莉菜さんの苦手な人のタイプは?」
「え?芸能人?」
「でもいいけど。例えばさ、さっき、ビール持ってきてくれた時に『ありがとう』って二人とも言ったでしょ。俺、子供のころからそういうお礼を言うようにめちゃくちゃ親に仕込まれてて。それで、店員に対して横柄な態度取る人って苦手なんだよね」
「すごくわかる。私も同じ。コンビニで店員にめちゃくちゃエラそうにしてる人を見ると嫌な気分になる。お金を投げるように渡す人とか」
「うわ、同じだ」
「そこは共感だね」
ちょっと違うかもしれないけど、仲間の結束を高めるには共通の敵を作るといいと聞いたことがある。好きなことと、嫌いなことの共感って大事だ。思えば、前の彼女とは共感が足りなかったのだろう。
「ね、ペット好き?」
茉莉菜さんが話題を変える。
「犬とか猫とか?」
「じゃあ、犬と猫ならどっち?」
「俺は犬派。昔、実家で飼ってたから。雑種だけど。でも猫も嫌いじゃない」
「私も犬派。大きな犬を飼いたい。猫はちょっと怖いイメージ」
「猫も可愛いよ、猫カフェ行ったことあるけど、勝手に膝の上に載ってくるよ」
「確かに可愛いけど、爪とか怖い」
「鋭利だからね。大きな犬かあ。そういう犬を飼うのが夢なの?」
「うん、リビングにおっきな犬。それで休みの日に庭で遊ぶの」
「じゃあ、家をかなり大きくしなきゃ」
「そうそう」
そう言って茉莉菜さんは目の前の紙ナプキンを一枚手に取る。鞄から細いボールペンを取り出して、紙ナプキンいっぱいに大きな四角を書く。
「ここがリビング、ここがキッチン。ここが階段で、2階に行けるの。ここから直接庭に出られる」
「2階建てなんだ、広そうだね。2階はどうなってるの?」
「2階はこんな感じ」
茉莉菜さんは、もう一枚紙ナプキンを取ってさらに書き加えていく。
「亜紀人さんの部屋はこっちで・・・」
二人が同時に固まる。お酒も入って、楽しく話していたから、ついつい茉莉菜さんも口を滑らしてしまったんだろう。俺も調子に乗ってしまった。今日初めてリアルで会ったんだ。しかも出会い方は出会ってはいけないはずのチャットサイト。
「ごめんなさい」
「いやいや、謝らないでよ。こっちこそごめんね、茉莉菜さん」
ちょっとだけ沈黙。茉莉菜さんの顔が赤い。お酒のせいなのか、それともさっきの話のせいなのか。
「お飲み物、他にお持ちしましょうか?」
良いタイミングで、店員が飲み物の注文に来る。
「あ、じゃあ、俺は芋焼酎のロックで。茉莉菜さんは?」
「私は、カルーアミルクで」
店員がメモを取って厨房へ向かう。
「その、コーヒーの甘いのはいいんだ」
思わずにやにやしながら茉莉菜さんに聞く。
「これは、まあ、いいの」
茉莉菜さんはさらに顔を真っ赤にしながら、枝豆を取って口にする。実際に会って話をすると茉莉菜さんに対して色々な発見ができる。話しながらちょっとはにかむところとか、突っ込みには弱そうなところとか。今、俺はすごく楽しい。けど、出会いがチャットサイトだということがずっと心に引っ掛かっている。店員が焼酎ロックとカルーアミルクを持ってきてくれる。やはり二人とも同時に「「ありがとう」」とお礼を言う。すぐに顔を見合わせて笑う。

話は、それぞれの地元の名物や文化についてまで広がる。そこまで地域は離れていないけど、正月の風習や雑煮の具の違いに驚愕する。もちろん否定はしない、むしろ食べてみたいって思う。そうこうしているうちに夜も更けていく。
「茉莉菜さん、もうそろそろ、時間ヤバくない?」
「あ、そろそろヤバいかも」
「じゃあ、お会計して出よっか」
伝票を取ってレジに向かう。
「あ、亜紀人さん、私も払うよ」
「初めのころ、本職の会社の収入が厳しいとか言ってなかったっけ? このぐらいは出させてよ」
「でも、結構使わせちゃったでしょ」
「いいよ、いいよ」
電子マネーで支払って外へ出る。すっかり空が黒くなっている。街の明かりのせいか、ほぼ星は見えない。二人で歩きながら駅へ向かう。
「亜紀人さん、ありがとう」
「こちらこそ」
「私ね、昨日の夜。チャットサイト辞めてきたんだ」
「そうなんだ。なら、なおのこと、払えてよかった」
「不特定多数の男の人に見られることが辛くなったし、誰に見られるかわからない怖さも感じ始めてきたし」
確かに、知人に見つけられるのは怖いだろう。
「うん、そうだね。まあ俺も辞めると思うよ。茉莉菜さん以外とは話してないしね」
「嘘つかなくてもいいよ」
「いやいや、ホントだって」
「うん、分かった」
茉莉菜さんはそう言ってほほ笑む。駅に着く。俺と茉莉菜さんは、帰る方向が逆だ。
「じゃあ、さよならだね」
「うん。ありがとう」
もしかしたら、もう会わないかもしれない。出会ったのがチャットサイトじゃなければ、違った未来があったのかも。茉莉菜さんの後姿を見送り、電車へ向かう。歩きながら空を見上げる。雑踏から酔客の声が聞こえる。すると、ズボンのポケットに入れていたスマホがラインの着信を知らせる。
「さっきの勝負のお願い決めた!」
茉莉菜さんからのライン。続けてもう1通。
「私たち二人の出会い。今日、デパートの本屋で出会ったってことにする!」
ぐっと右手を握る。立ち止まり、返信を書く。
「出会い方は嘘になるけど、今日からのことは真実」
ブルースターの花言葉は『信じ合う心』だったな。実際の出会い方は違うから嘘になるけど、これからは誠実な心で向かい合いたい。チャットサイトという虚無な世界から抜け出して、二人で新しい本当の未来を形作っていくんだ。