「ありがとう。喜瀬君のおかげで余裕を持って片付いた」

 そんな言葉と共に先輩がノートパソコンを閉じる。途中でコーヒーを一杯追加した以外は会話という会話もせずに資料作りに集中し、プレゼン資料も先輩が納得するクオリティのものができた。
 現在、朝の四時。健康的な生活には程遠いけど、徹夜に比べればましな時間だった。そんな発想になるくらいには、僕も先輩の寝食を忘れる姿に毒されているのかもしれない。

「朝、起こしますんで。あまり時間はないですけど少しでも寝てください。そうだ、寝室のベッド使いますか?」
「ううん、ここでいい」

 先輩の言葉に僕はクローゼットから毛布を取り出し、ソファーベッドを整える。少し薄手かなとも思うけど、風邪をひくような季節ではない。先輩はパソコンや資料を鞄にしまうと、ソファーベッドに腰を掛ける。少し名残惜しいけど、僕も早めに寝室に撤退しよう。

「ねえ、喜瀬君。思ってたより時間できたし、貸し、一つ返されてみない?」

 リビングを出る直前、背後からそんな言葉が飛んできた。
 振り返ると、毛布を肩から羽織るようにしてぺたりと座った先輩が、どこか挑戦的な眼で僕を見てる。その瞳はどこか熱っぽくて、切なげで。吸い込まれるように踏み出してしまいそうな足を、理性を振り絞ってどうにか堪える。

「こんな時間に何言って――」
「私が喜瀬君にしてあげられることなんて限られてるから。何でもいいよ。昔みたいなことしたっていい」

 しないの?とでも問いたげに先輩が小さく首をかしげる。
 昔みたいなことという言葉は、甘みと苦みを伴って胸の奥の方に突き立った。
 一年間ほどの間、先輩と僕は付き合っていた。仕事が立て込んで終電を逃しては、この部屋で朝まで過ごした。コーヒーを飲みながら朝まで研究の話をすることもあれば、恋人らしいことも一通り経験した。
 それは、僕の人生の中で一番充実した日々で。だけど、それは僕が手放した日々でもある。だから、僕は泣きそうになるのを堪えて呆れ顔を作る。

「何でもって言うなら、明日も普通に仕事なんですから寝てください」
「ね、喜瀬君。今から、ひどいこと言うから」

 先輩は寝るどころか立ち上がると、僕のところまで歩み寄ってくる。透明感を帯びた甘い香りと合わさって、ほのかにコーヒーの匂いが漂っていた。

「今の部下とトラブって、どうしても明日までに仕事が終わらなさそうで。そんな時に喜瀬君のことが思い浮かんだ」
「それは」
「喜瀬君なら、この状況をどうにかしてくれるって。食事やお風呂を準備してくれることも、仕事を手伝ってくれることも、全部わかった上で私はここに来た。私はね、全部計算して、喜瀬君を利用しに来たの」

 すぐ目の前の先輩の瞳は自嘲的で、挑発的で、投げやりで。そんな風に僕に行動を迫ってくる。一緒に働いていた頃も、付き合っていた頃も見たことがない表情。その顔が、少し動かすだけで触れてしまいそうなほど近づけられる。

「だから、喜瀬君のしたいことをしてほしい。明日の私が罪悪感を抱かないで済むように」
「……わかりました」

 吐き捨てるように頷いて、先輩の両肩を掴んでそのままソファーベッドへと押し倒す。
 はっと息を吸い込んだ先輩の口を逃がさぬように唇を押し当てた。
 甘く淡く、苦い。
 息が、胸が、感覚のすべてが苦しくなるほど先輩を感じてから顔を離すと、つっと繋がっていた糸がプツリと切れた。
 その先で先輩は僕に身を任せるように目を閉じている。
 そんな先輩の耳元にそっと口を寄せると、ピクリと先輩の体が震えた。

「これで、罪悪感なんて抱かないで済みますか?」

 虚を突かれたように先輩が目を見開いた。驚きの表情と共に先輩の右手が伸びてきて、導くように僕の頬に触れる。そのまま引き寄せられてしまいたい思いを堪えて、僕に触れる先輩の手をそっと引き離す。

「それ、は」
「先輩になら、利用されたって構いません。だから、こんなことで罪悪感なんて覚えないでください」
「でも、今の喜瀬君は恋人でもなければ、部下でもないのに」
「そんな関係の定義なんて、クソくらえです」

 胸の痛みをこらえて、できるだけはっきりと宣言する。こうして先輩を支えることができるなら、関係はなんだっていい。同僚でも、後輩でも、知り合いでも、もはやその呼び方に意味はないから。
 恐る恐るといったように先輩の手が伸びて来て、僕の背中に回される。ぎゅっと抱きすくめられて、先輩の顔が僕の胸に埋まる。

「ズルいよね、私。喜瀬君のことを一番にしてあげられなかったのに、困った時だけ傍にいてほしいなんて」

 一年間、先輩の部下として働いて。もっと先輩に近づきたくて、傍に居たくて、僕は先輩に告白した。
 先輩が私生活より研究を優先――というか研究が生活の一部なのは知っていたから、断られると思っていたけど、先輩はあっさりと僕を受け入れてくれた。
 それから一年間、先輩と僕は恋人として過ごした。世間一般でいう恋人のように過ごしたかというのは怪しいけど、一緒に過ごせば過ごすほど先輩に対する好きは増えていった。

「しょうがないですよ。僕が好きになったのは、研究を一番に愛してる先輩なんですから」

 全てを研究に捧げてしまうような先輩のことを好きになったのに、先輩と一緒にいる時間が増えていくにつれて、僕のことを優先してほしいと思うことが増えていった。
 それが当然だと言ってくれる人もいたけど、僕が好きになったのは研究に直向きに向き合う先輩だった。先輩が研究より僕を優先してしまった瞬間に、先輩のことを好きでなくなってしまうことが怖くなった。
 先輩の一番になりたい僕と、研究を第一にしてほしい僕がぶつかり合って、僕が選んだのは先輩と距離を置くことだった。先輩と別れて、部署の異動を希望した。全部先輩と話し合って決めたことだけど、僕がもっと強ければ――先輩の二番目として支え続けることができるような人間であれば、今も先輩の隣に座っていたかもしれない。

「だからどうか、自分のことを責めないでください。先輩の中の一番が研究であることを望んだのは、他でもない僕ですから」

 胸の中の先輩が小さく頷く。その僅かな動きで先輩の香りが広がり、胸の奥を切なくさせる。一番とか二番とか、余計なことは考えずに傍に居ればよかったじゃないか。そんな問いは別れてから一年過ぎても一向に頭から離れていく気配はなかった。

「僕の願いは、先輩を幸せにしてくれる人が現れるまで、今のままの先輩でいてくれることです。その為に必要なら、どれだけだって僕を使ってください」

 今度は先輩の反応はなかった。代わりに聞こえてきたのは微かな寝息。
 部下とトラブったと言っていたし、ここ数日分の疲労が溜まっていたのかもしれない。
 胸の中の大切な――それでいて、僕が手放してしまった温もりを、起こさないようにそっと抱き寄せる。

「おやすみなさい、先輩。よい夢を」