『終電逃した。今晩泊めて』

 二十三時頃、スマホに表示されたのはシンプルなメッセージ。
 シンプルさといい、断定系なところといい、豊留先輩らしい。
 職場から僕の家まで徒歩で三十分くらい。僕が就職と同時にこのマンションに住み始めてから六年程の間、田舎過ぎるせいか事件らしい事件が起きた話を聞いたことがないけれど、流石に女性一人で歩かせるのは不安な時間だった。

『迎えに行きますよ』
『もう半分くらい来てるから大丈夫』

 豊留先輩からの返信は早かった。さらに言えば、その行動はもっと早い。
 僕が断るなど考えていないのか、半分まで来ていることを理由に断らせないつもりか。豊留先輩のことだから、きっと前者だと思う。
 どのみち断るつもりもなかったから、とりあえず部屋を見渡す。良くも悪くも今週は忙しかったから、部屋は殆ど散らかっていない。もっとも、多少散らかっていたところで気にするような先輩ではないけれど。
 片付けなど先輩を迎えるための準備をしていると、インターホンが鳴る。玄関の扉を開けると、疲れ果てた様子の豊留先輩が立っていた。バッチリ決まっているはずのブラウスやジャケットもくたびれて見えて、唯一その瞳だけがギラギラと熱意を帯びている。

「突然ごめんね」

 僕より三歳年上の先輩はあまり悪びれた様子もなくそう言うと、ひょいっと中に入ってくる。目の下のくまがひどいし、心なしかやつれて見える。先輩がこんな時間まで働いているのは珍しくないけど、こんな様子になっているのはほとんど見覚えがなかった。

「お疲れみたいですね」
「ん。お偉い方々への進捗報告が明日でね。つい時間を忘れて研究に没頭してた」

 そんなことを言いながら勝手知ったる様子で先輩はリビングへと向かう。隙の無さそうな格好なのに擦れ違いざまに女性らしい甘い香りが漂ってきて、無防備な背中をつい見つめてしまう。
 何考えてんだ。首を振って邪念を振り払っている僕をよそに、先輩はローテーブルの前に腰を下ろすと鞄から業務用のパソコンを取り出した。

「まだ仕事するんですか?」
「朝まで頑張れば間に合うと思うから。ああ、場所はちょっと借りるけど、喜瀬君は寝てていいから」

 本当に。この先輩は僕が部下だった頃からまるで変わっていない。
 ワーカーホリックというか、心の底から研究という仕事を楽しんでいる。“好き”を仕事にして、それが全く苦にならないタイプの人だ。だからこその危うさを部下だった二年間の間に身に染みて学んでいた。

「ちなみに、最後に食べたご飯は何ですか?」
「……出勤の途中で食べたモーニングかな」

 案の定、朝食以降何も食べていないらしい。食べる暇もないほど忙しかったというより、研究に没頭して食べるのを忘れていたのだろう。そして、この先輩は放っておいたらこのまま朝まで仕事を続けてしまう。

「先輩。効率上げるためにも一息入れてください。お風呂沸かしてますし、その間に簡単に何か作りますので」

 終電を逃したというメッセージが来た時点で、こんなことだろうという予想はだいたいついていた。ちょうどタイミングよくお風呂が溜まったことを知らせる音声が流れてくる。先輩は何か言いたそうな目で僕をじっと見た後、小さく息をついて立ち上がった。

「ありがとう。喜瀬君は昔から変わらないね」
「先輩が変わらない限り、僕の役目も変わらないですよ」

 僕がわざとらしくため息をついてみせると、先輩は一瞬ポカンとした表情になってからくすりと笑った。そんな先輩の顔を見るのは久しぶりで、思わず惹きこまれてしまう。その間に先輩は手早く着替えを準備して、浴室へと向かっていった。
 いつまでも呆けてはいられない。冷蔵庫を開いてみるけど突然だったから食材はあまり入っていない。自分の晩飯をつくった余りのにんじんと玉ねぎ、それから安売りの時に買って冷凍させていた合い挽き肉。後はトマト缶など買い置きしていた品々。
 となれば。玉ねぎとにんじんをみじん切りにして熱したオリーブオイルで炒め、飴色になったらひき肉を加える。ひき肉の色が変わったら野菜と混ぜ合わせ、トマト缶を加えて沸騰させる。沸々と泡が出てきたら、ケチャップとソースを加え、そのまま弱火で煮込んでいく。あとは、焦がさないように時々かき混ぜるだけ。もう一口のコンロで多めの水を鍋で沸かしておく。

「ん。懐かしい匂いがする」

 そうしているうちに、Tシャツにハーフパンツとラフな格好になった先輩が浴室から出てきた。僕からすれば、そうやって軽く目を閉じて大きく息を吸い込んでいる先輩の姿の方が懐かしい。

「あと三分くらいでできるので、あっちで待っててください」

 先輩は僕の言葉に従ってリビングに向かう。僅かな時間も惜しいのか、再びパソコンを開いていた。
 沸かしていたお湯にパスタを投入。その間に煮込んでいた方の鍋を塩と胡椒で味を調える。二つの鍋の中身を組み合わせれば、お手製ミートソースの完成。少し味見してみると、久しぶりに作ったにしては味はしっかりとまとまっていた。

「できましたよ。ほら、パソコンどけてくださいね」

 忙しいのはわかるけど、食事が終わる前は肩の力を抜いて欲しい。
 仕事を続けたがるかなと思ったけど、先輩は素直にパソコンを脇に避けてくれた。そのスペースにミートソースとフォークを並べると、先輩は静かに両手を合わせる。

「いただきます」

 先輩はちょっと不器用にパスタを巻いて、口に運ぶ。次の瞬間、ほっくりと表情が崩れていくが見えて、僕もほっと息をついた。

「うん。やっぱり、おいしい」

 一言零すと、身体が空腹を思い出したかのように先輩は黙々とパスタを食べ進める。先輩の部下だった頃、こちらが何も言わなければ食事を抜くか、仕事しながら食事をしているような先輩が、今は僕が作った料理だけに向き合ってくれている。普通ならなんてことの無い光景だけど、そんな先輩の姿に何だか胸の奥の方がじんわりとして、ほんの少しギュッと締め付けられた。
 
「……えっと。じっと見られてると、ちょっと食べづらい」

 自覚している以上に先輩の姿を見つめてしまっていたようで、先輩が困惑気味に顔を上げた。かっと顔が熱くなって慌てて視線を逸らすと、さっきまで先輩が作業していたパソコンが目に入った。

「あ、あの。仕事の方、ちょっと拝見してもいいですか?」
「うん、いいよ」

 迷いなく先輩が頷いたのを見て、パソコンを引き寄せてその画面を僕と先輩の間の仕切りのようにする。すると、先輩はちょっと安心したように再びフォークをクルクルと動かし始めた。あまり見つめているともう一度苦言を呈されそうなので、宣言通りに僕もパソコン画面と向き合った。見慣れた形式の報告書を斜め読みでスクロールしていく。
 先輩は研究者として地震に強い新たな建設材料の開発などに携わっている。僕は技術系の職員として、一年程前まで先輩の下で働いていたわけだけど、研究は順調に進んでいるようだった。まだ実験データなどの数値が抜けた報告書の概形だけど、遠くないうちに新たな建設素材として実用化されるかもしれない。

「明日はこの報告書だけで説明されるんですか?」
「ううん。報告書も配るけど、説明用のプレゼン資料は別に作るよ」
「へえ。報告書だけでも結構時間かかりそうなのに、プレゼン資料も作ってるなんて流石ですね」

 わかりやすさと正確さを兼ね備えた資料というのは分量の割に作成にはとても時間がかかる。先輩の部下だった頃は何度も苦労したから身に染みているけど、やはり先輩は格が違う。
 あるいは、僕の後任が僕よりはるかに優秀なのか。当然ありうる話なのに、その可能性を思い浮かべると胸の辺りがチクリと痛んだ。

「いや、プレゼン資料はこれからだけど」

 ミートソースを食べ終えた先輩が一息つきながら事も無げに答えた。時計を見ると、既に日付が変わろうとしていた。始業に間に合うように家を出るなら、残された時間はあと九時間。報告書自体もまだ実験結果を整理して詰める必要があるし、それに加えてプレゼン資料もとなると自分の仕事ではないのにすうっと気が遠くなる。
 そんな僕を他所に先輩は僕の手元にあったパソコンを引き寄せると、軽く肩を回して仕事モードに入ろうとしていた。急に泊りに来た先輩に風呂と食事を提供して、ひとまず僕のやるべきことは終わったと思う。先輩もそのつもりのようだし、僕が寝室に向かっても咎めはしないだろうけど。

「先輩。報告書と実験関係のデータ、僕に送ってください。プレゼン資料の素案、僕が作ります」

 ミートソースの皿をシンクで水に浸けて、自分の業務用のパソコンを持って先輩の向かいに座る。既にカタカタと作業を始めた先輩はそんな僕を怪訝な表情で見つめてきた。

「気持ちは嬉しいけど、喜瀬君はもう私の部下じゃないし、これ以上付き合う必要は……」
「ここまで来て、どの口で遠慮してるんですか」

 本当に遠慮しているなら、終電後に元部下とはいえ後輩の家に突然乗り込んでこないだろう。そもそも、いくら今は部下ではないとはいえ、疲労感の滲む顔で朝まで働こうとする先輩を放って一人で寝られるほど僕の神経は太くない。
 それに、どこまで当てにしていたかはわからないけど、先輩が頼ってくれたことを素直に嬉しいと思ってしまう僕がいた。

「でも、私は喜瀬君に何も返してあげられない」
「別に、そういうのじゃないです。僕が勝手に手伝うだけですから」
「……本当に変わらないね、喜瀬君は」
「放っておくと倒れるまで研究にのめり込んじゃうような、どこかの先輩程じゃないですよ」

 僕の言葉に先輩は目をパチクリとさせてから、不満そうに口をとがらせる。その次には、言葉での返事の代わりに僕のパソコンにメールが届いた。そこには報告書のデータと、実験結果の保存先が記してある。

「喜瀬君には、借りばっかりが増えていく」
「いつかまとめて返してくださいね」

 突然すぎる深夜残業――多分朝までコース――だけど、懐かしさと共に未知のチャレンジに挑むようなワクワク感が僕の胸を満たしていた。