ガタン! ガタガタガタン!
薮井青年のほの白く光る両の掌を覗き込もうとした良庵せんせでしたけど、お尻をぶつけて文机がひっくり返ってしまいました。
けれど良庵せんせはそれを気にすることもなく、ずり下がった眼鏡を指で押し上げ食い入る様にその手を見詰めています。
『……だ、大丈夫ですか?』
『お気になさらず続けてください』
『で、では――、この巫の力を三才図絵に流し込みます』
畳の上、地の部の冒頭が開かれた野巫三才図絵にそっと手を触れさせると、そのほの白い光が三才図絵へと染み入る様に移っていきます。
『――あ! ず、図柄が! 浮かび上がって――!』
そうなんです。
良庵せんせの驚きの声の通り、未完だった図柄がすっかり浮かび上がりました。
野巫三才図絵の地の部、それは最低でも巫の力を使える者にしか読むことすらできないものだったのです。
『祖父から聞いていた通りです。どうでしょう、良庵先生の仰った美しさに届きましたか?』
『はいっ! これぞまさに睦美先生の描かれる美しさです!』
そう叫んだ良庵せんせ、今度はガバリっ! と額を畳につけ、さらに叫ぶ様に続けました。
『甚兵衛どの! いえ! 師匠! 僕に巫の力の使い方を教えてください!』
『そんな師匠だなんて止してください。私で良ければお教えしますから』
整えば師が現れる、ってのは本当でしたね。
――何が必要かを理解した上でそれを強く求めれば、必要なものを与えてくれる何者かが現れる――
ってえ意味の言葉ですけど、早速現れるなんてせんせったらよっぽど強く願っていらしたみたいですねぇ。
さっ、あたしもせっかく淹れたお茶が冷めちまう前に中に入りましょ。どうにも途中で入る雰囲気じゃなかったんで障子の外で立ち尽くしていましたから。
「失礼しますよ――って良庵せんせ! 文机しっちゃかめっちゃかじゃないですか!」
少しお話し中断して、文机を起こして散らばった描きかけの呪符なんかを片して一つにまとめました。
その中の一枚、人の部の呪符を薮井青年が手に取って、まじまじと見詰めて口を開きました。
「この呪符の出来栄え、驚くほどに正確だ……相当に学んでいらっしゃいますね」
「そうでしょう? 良庵せんせったら朝から晩まで野巫の事ばっかり考えてらっしゃるんですから」
自分が褒められたみたいでつい軽口挟んじまいました。
けれど薮井青年の思いは少し違った様子。
「この出来栄えでほとんど効果が無いとなれば、心折れそうなものですがよくぞここまで続けられたものです」
あ、ばか。余計なこと言うんじゃないよ甚坊!
「そうなんですよ。半年前まではちっとも効かなくって諦めかけた事もあったんですが……」
ちょいと甚坊! 察しておくれ! この良庵せんせの嬉しそうな顔見りゃ分かるだろ!?
ちらちらとせんせの顔とあたしの顔に視線をやった甚坊――じゃなくって薮井青年が、あぁなるほど、といった風にポンっと手を叩いて言いました。
「…………そういう事でしたか」
頼むからほんっと余計なこと言ってくれるんじゃないよ!?
「良庵先生は巫の力を覚え始めていたのかも知れませんね」
「! だ、だからここのところ呪符に効き目が!? なるほど! 巫の力のおかげでしたか!」
……ふーぃ。ドキドキしちまうじゃないか。『巫の力も無しに効くわけない』なんて言われちまったらどうしようかと思ったよ。
冷めちまう前にどうぞなんて前置きして、ぶっちゃけちょいと冷めちまったお茶を注いでそれぞれへ。
喉を湿して最初に口を開いたのは薮井青年。
「それで随分と慌てている様でしたが……?」
良庵せんせが掻い摘んでここのところに起きた事を説明しました。
あたしがどこぞの破落戸にぶち当たられたとこから始まって、それを指示した元締めが妖魔だったこと、その妖魔にコテンパンに伸されたこと、賢哲さんに請われて明晩から妖魔の夜回りに出なきゃならなくなったこと。
「妖魔騒動でしたか。しかも明晩から夜回りとは急ですね……。私が参加できれば良かったんですが、夜明け過ぎにはここを立ち上方へ向かわねばならないんですよ」
聞けばこの薮井青年。甚坊の跡を継いで野巫医者をしてるのかと思ったら、野巫を使った妖魔退治を生業にしてるんですって。
いま一番欲しい人材なんですけどね。でもま、お仕事ならしょうがありませんねぇ。
「一晩しかありませんができるだけの事はしましょう。幸いにも良庵先生はすでに妖魔の『戟』に出会っている。『巫』の習得も早いでしょう」
今夜ウチに泊まってもらう事になりましたから、薮井青年はすでに取っていた宿へ断りと預けていた荷物を取りに一旦外出されました。
「良かったですね、良庵せんせ」
「はい。まさか睦美先生のお弟子さんのお孫さんにお会いできるとは……あっ」
「どうかしました?」
「いや、この野巫三才図絵はお返ししなくちゃいけないのかと……」
そういやそんな話は出ませんでしたね。
甚坊が死ぬ前、三才図絵を探してくれって言ったそうですが、なんの為にそんな事言ったんでしょうね?
良庵せんせと手分けして客間の布団を調えたり、夕飯の準備なんかをしてる間に薮井青年が戻ってきました。
早速良庵せんせが三才図絵について薮井青年に伺いましたが、青年は笑って必要ないと答えました。
「祖父は悪用されないかが心配だったそうです。良庵先生ならその心配も無用でしょうし、その本はきちんと贖われたもの。返せなんて言えませんよ」
「しかしこれが無くては困りませんか?」
「当家には祖父が書き写したものがありますから」
「でしたら良かった!」
良庵せんせが本当に嬉しそうにそう言いました。
三十路を過ぎた良い歳の男ですけど、子供みたいに喜ぶ良庵せんせがこれまた可愛くってキュンとしちまったよ。
この良庵せんせの笑顔の隣にずっといられりゃ他に何も望むものなんてありゃしませんよ。