「そんな感じです。上手ですよ姉さん」
冷めた油揚げを破れないよう気をつけながらぎゅっと握って煮汁を絞り、俵型に丸めた高菜入りご飯をきゅっと詰めたら完成です。
「ほんと? 菜々緒上手? でもこれ大き過ぎない?」
「最初は良いんですよそんなこと。それに居間の男性陣はそんなの気にしませんよ」
「そっか! ならどんどん作るね!」
確かにちょいと詰め過ぎですけど思ったよりも上手です。これなら任せっきりでも良さそうですねぇ。
せっせとお稲荷さんを握る姉さんを尻目に、姉さんのうなじから顔を出した三郎太の髭面と相談を続けます。
見た目は絵本に出てくる『二口女』そのものですけど、料理に三郎太の唾が入っちゃかないませんから。
「姉さんや三郎太からヨルに諦めるよう言うってのはどうだい?」
「言うだけは言っても良いが無駄だろうよ。ヨルも黒狐の連中もムキになってやがる」
さらに三郎太が続けます。
「黒狐の中じゃ菜々緒の立場なんて屁みたいなもんだ。発言力なんてな皆無に等しい」
「はぁ、そういうもんかい。面倒だねぇ黒狐ってなぁ」
あたしら白狐の一族は母様含めてみんな、ぼーっと好きなことだけして気楽なもんですけどねぇ。
「直接言わなきゃしょうがないか。あたしにゃもう夫がいますってねぇ」
「それは止めとけ。オマエの大事な良庵せんせが危ねえ」
ちょいとの間、何言ってるのか分かんなくて固まっちまいましたけど、意味が分かって今度は青褪めちまいました。
「……連中、そこまでやるのかい?」
「ああ。やるだろうな」
……もし良庵せんせに手出ししたらタダじゃおかないよ。たとえ敵わなくっても喉笛噛み切って八つ裂きにしてやる――
あたしの気持ちを察したのか、うなじで頷く三郎太。
こんな時にほんっとどうでも良いけど、そんなとこで髭面が頷いたりして姉さんはチクチクしないのかしら。
「こないだのヨルの尾っぽ。聞いた話じゃオマエに破落戸ぶち当たらせたらしいじゃないか」
与太郎ちゃんの件だね。
「あの尾っぽもお葉を探しての事だろうが、恐らくあいつ、誰彼構わず綺麗な女に破落戸ぶち当たらせてたんだと思うぜ」
「……人に化けたあたしにいつかぶち当たるだろうから、って事? でもそれって……」
「ああ。オツムの足りねえ策だわな」
あの女、ヨルの何番目の尾っぽか知りませんけど、しーちゃんや三郎太に比べて少しオツムの中身が怪しいんじゃないかしら。
それこそ干し草の中で縫い針を探すようなものじゃないですか。
っても実際あたしにぶち当たってますから引きの強さは侮り難いものがありますけど。
「引き強えな、とか思ってるかもしれねえが、きっと二、三十年そこらじゅうでやってんだ。俺らの寿命を考えりゃいつかはオマエに当たってただろうさ」
こりゃ参ったね。三郎太ったらあたしの事がよく分かってるねぇ。
三郎太は姉さんが百年生きて最初に増えた尾っぽ。
あたしが三十年だかしか生きてない頃だったし、 今じゃ見る影もない髭面の巨大なおっさんだけど最初の百年ほどは華奢で可愛い可愛い美少年だったから、よくこうやって話したもんさ。
姉さんの尾っぽとは言え、あたしと一番仲の良い相手だっただけの事はあるねぇ。
「とにかくだ。お葉、オマエと良庵は大人しく目立たないようにしてろ。ヨルの尾っぽもじきに違う町へ行くだろうよ」
……消極的な案だけど、まぁ三郎太の言う通りにしなきゃしょうがないかねぇ。
「オレらもお葉を探してるフリしながらのらりくらりやるからよ」
あ、いけない。姉さんのお稲荷さんが仕上がっちまう。
あっためといた出汁に慌ててお味噌といて、刻んでおいたネギだけ散らして根深汁も仕上げちまいます。
「お葉ちゃん、高菜ご飯もうないよ! お揚げさん二枚余っちゃった!」
「そういう時にはこうするんですよ」
余った油揚げを指で一枚つまみ上げ、あたしの口へポイっと放り込んで食べちまいます。
うん、酢飯じゃないぶん濃い目の味付けにして正解だね。これならちょうど良くなるんじゃないかねぇ。
「……そんなん良いの? せんせーとか賢哲さんより先食べちゃって……」
「よだれ垂らして何言ってんですか。これはご飯を作った者の務め、味見ですよ。はいどうぞ、姉さんも」
あたしに促された姉さんも油揚げをぱくっと一口。
どうやら美味しいらしくて嬉しそうな顔でもぐもぐしてます。
姉さんに聞こえないよう口パクで三郎太へ。
『姉さんなんだか幼くなってないかい?』
『素に戻っただけだろ。元々こいつはこんな感じだ』
ヨルとの婚儀が持ち上がってからというもの、黒狐の血も引く姉さんとは長いことギクシャクしてましたけど、昔に返ったみたいで嬉しいねぇ。
なんだかんだ言っても今じゃたった二人の姉妹です。仲良くしたいもんね。
「菜々緒ちゃんが作ったんかよコレ!」
「お葉ちゃんと一緒にね!」
「うっ……まーーい!」
ちょいと大振りなお稲荷さんをパクついた賢哲さんが大袈裟にそう言って二つ目に手を伸ばします。
姉さんがこれ以上ないってくらいに良い笑顔ですね。
「高菜ご飯の稲荷寿司も美味しいですね」
「たまには良いもんでしょう?」
良庵せんせも美味しいって言ってくれてあたしも嬉しいねぇ。
一緒に食べて喜んでくれる人がいるってのが楽しいんですよね、料理って。
良庵せんせも賢哲さんも与太郎ちゃんも、お腹いっぱい食べてくれました。
食後にお茶をそれぞれ飲んで、立ち上がった賢哲さんが言いました。
「よし! 腹も膨れた! ウチへ帰るぞ与太郎!」
「お世話んなるだ!」
「菜々緒ちゃんを送ってからだがな」
姉さんはまだ旅籠泊まりなんですよ。まだお式が済んでませんからね。
三人が帰ってしまうと途端に静かになる我が家。
与太郎ちゃんが居ないもんだから、なっちゃんもどことなく寂しそうです。
「お葉さん」
「なんです良庵せんせ?」
「お昼寝しましょうか」
なっちゃんが真ん中で丸くなってるのがいまいち不満ですけれど、のんびり穏やかな気持ちで良庵せんせの腕枕。
三郎太が言う通りにしばらくこんなして目立たないようのんびり過ごすつもりだったんですけど、ほんの数日後に賢哲さんがやって来たんですよ。
面倒事と一緒にねぇ。
「義弟よ! 力貸してくれ!」
「義弟よ! 力貸してくれ!」
なんてな事を言って飛び込んできた賢哲さんに、良庵せんせは膠もなく言ってのけました。
「見たらわかるだろう。今忙しい。後にしろ」
賢哲さんが飛び込んだの、やーっ、とーっ! なんて掛け声響く道場ですからね。
「話を聞く前に一つ言っておく。僕は賢哲の義弟じゃあない。少なくとも今はまだな」
「良いじゃねえか。じきそうなるんだしよ」
実際そうなったら認めざるを得ませんけどねぇ。
賢哲さんと姉の婚儀は来月らしいんでじきっちゃじきなんですよね、実際。
双肌脱ぎになった良庵せんせへ手拭いを渡します。こんな何気ない事だって、なんだか甲斐甲斐しいお嫁さんって感じで満足感ありますねぇ。
「ありがとうございますお葉さん。それでどうした。何かあったのか? 誰か怪我でもしたのか?」
「ばか、違えよ。そっちの力はあんまアテにしてねえ。こっちの方だ」
賢哲さんがそう言って、握った拳を縦に並べて頭上に掲げて振り下ろしました。
貸して欲しいのは野巫医者の方でなくってやっとうの方でしたか。
「バカ親父のせいでよぉ! 俺が夜回り行かなきゃなんねんだ!」
「そうか、ご苦労な事だな。ここのところ物騒だから気を付けろよ」
「だから一緒に来てくれよぉ! 俺だけじゃ心許ねぇ!」
なんでそんな事になっちまったのかってぇと――
この間から町を駆け回る妖魔の噂に加え、三太夫らの妖魔騒ぎを受けて町長さんや邏卒長がお寺に相談に来たそうなんです。
止しときゃ良いのに賢哲さんのお父上、賢安寺の住職・賢仁さんは大法螺ふいて言っちまったそう。
『神仏の加護が妖魔を祓う!』って。お父上も大概お調子者ですよねぇ。
それは頼もしいってなもんで、町長その他は『では妖魔の事は賢安寺さんにお任せします』って事で白羽の矢が刺さったのが賢哲さん。
「妖魔相手だぜ!? 俺がお経唱えたからってなんとかなると思うかよ?」
「うーん、この間の感じから言って……おまえじゃ死ぬなぁ」
「だろう!? だから義兄ちゃんのお願い聞いてくれ!」
良庵せんせが一緒に行ったからってどうなるものでもないと思いますけど……。
けれど、しばし思案した良庵せんせは頷いてしまいます。
「……分かった。僕にも思うところがある。付き合うよ」
断らないとは思いましたけど、なんだか良庵せんせったら複雑な表情しながらも満足そう……?
ま、何考えてるかあたしにゃ分かりますけどね。
巫戟の力がなんだかよく分からないながらも、再び読み返した地の部と天の部、それから得た何かを試そうってんでしょうねぇ。
これは拙いことになりました。
アレは今の良庵せんせが何度読んでも、何も得られるものはない筈なんですもの。
「助かるぜ! なら明日の晩から頼む!」
……しかも結構急ですねぇ。今晩から明日中、そんな短時間でなんとかなるものかしら……。
賢哲さんはそのあと元気よく帰って行きましたが、良庵せんせはあれから書斎にこもりっきりです。
時折り様子を覗いてみても、食い入る様に野巫三才図絵を見詰めていたかと思うと、今度は筆を手に取り黙々と何事かを書き殴ったり。
恐らくは地の部か天の部に載る呪符を試しているのでしょうが、きっと虫喰いだらけの、野巫として機能しない呪符でしょうねぇ。
淹れたお茶を持って書斎を訪れ、畳に散らばるせんせが書き殴った三椏の紙をさりげなく確認します。
……やはりこれではいけません。
この呪符では妖魔に対してなんの効果もありませんもの。
良庵せんせは巫戟を使えませんから当然ですが、せめてその片割れ、『巫』だけでも使えなければ……
もし万が一にも三太夫並みの妖魔に再び出会っちまったら……
このまま賢哲さんと二人で夜回りに行かせるわけにはいきませんね。……おや? お客さんかい?
あたしの張った結界をどなたか潜りましたね。
知らない方の様ですが、どことなく……なんだか懐かしい感じのする方です。
「ごめん下さい! どなたかおられませぬか!」
「はいはい居ますよ。どの様な御用件でしょ――」
……凛とした佇まいの、柔和そうな笑顔のお若い殿方……
「ど、どなた様でございますか?」
「奥方さまでございますな。それがしは薮井と申します!」
野巫医の家に薮井ですって。洒落たことですね、っても駄洒落どまりですけどねぇ。
「町の者からこちらが野巫医者をされていると耳にしまして、少しお話しを聞かせてもらえればと思い伺った次第でございます」
「まぁこれはご丁寧に。でしたら野巫医をしている主人に聞いてきますので少々お待ちくださいね」
とあたしが申し出れば、僅かに落胆した気配の薮井青年。何か拙いことでも言ったかしら。
とりあえず気にせずそのまま放っておいて、書斎のせんせのとこに行きましょうか。
「良庵せんせ、お客様ですよ。よく分かりませんけど野巫医者のお話ししたいそうです」
「野巫の? いま忙しいんですが……――そうですね、どうにも行き詰まったところです。ちょうど良いかも知れません」
「ならこちらにお通ししてよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
そう言ったせんせが畳に散らばった呪符を掻き集め始めたのを確認し、あたしは玄関へと戻ります。
戻りながら彼の人を思い浮かべてみますけど、どこかで見たとかそういう事はないようです。
けれど何故か、どことなく懐かしいような、そんな不思議な感覚があたしのどこかに確かにあるんです。
なんなんでしょうねぇ。
「薮井さま。主人がお話し伺うとの事です。どうぞ上がって下さいな」
何故だかあたしの顔をじっと見て、返事もしない薮井青年。なんです? なんか可笑しな顔でもしてるって言うのかい?
「……あぁ、すみません。見入ってしまいました」
「まぁ構いませんけど……。ご飯粒でもくっついてましたか?」
不快な感じの視線じゃありませんでしたからね、コロコロ笑って適当なこと言っときました。
「失礼ついでに一つ伺っても?」
「なんです?」
「奥方さまも野巫を嗜まれて?」
「いいえ、ちぃとも」
なんなんですこの人。
あたしは嗜むどころの話じゃないですけど、なんだか油断ならない感じですねぇ。
あたしがお茶を淹れると断って書斎を離れると、早速良庵せんせが口を開きました。
『野巫医の良庵と申します。副業で道場の師範代などもしております』
書斎の文机の前、畳の上で綺麗に端座する良庵せんせがまず名乗り――
『薮井甚兵衛です。急な訪いすみません』
対する薮井青年もかっちり座り、礼儀正しく頭を下げました。
ほぅ――
良庵せんせは言わずもがな、なかなかどうして薮井青年も二枚目です。
あたしとした事が、うっかりうっとりした溜め息吐いちまいましたよ。
二人向き合う様子を浮世絵にでもすりゃ娘さんがた殺到するんじゃないかしら。
浮世絵一枚がおよそお蕎麦一杯分で……、名うての絵師に頼めば費用が嵩む……、なら中堅どころの絵師……、この町一番の美僧と名高い賢哲さんも足して……
いけないいけない、そんな場合じゃありませんよね。皮算用するあたしの思考を遮るように、良庵せんせが話始めました。
『野巫についてのお話だそうで。ご興味がお有りで?』
『ええ。もうとびきりお有りなんですよ。実はここからひと山越えた町で祖父が野巫医を営んでおり――』
ここからひと山越えた町で野巫……それに甚兵衛の『甚』の字。それって……――
『お祖父様が野巫医を! それは是非お会いしたい!』
食い気味でせんせが反応するのを、薮井青年が首を振って答えます。
『――あ、いえ。営んでおりましたが、十年ほど前に亡くなりました』
『……そう、ですか。それは残念です。ご存命の折にご挨拶できれば……』
良庵せんせが心から残念そうにそう言いますが、こればっかりはしょうがありません。
人ってやつは、割りとすぐに死んじゃいますから…………。
『亡くなった先生のお名前をお伺いしても?」
『祖父ですか? 薮井甚吉です。晩年は町の者から甚じぃ甚じぃと呼ばれる明るく温和な人でした』
……ほらね。
やっぱりあの子だって死んじまうんですよ。
ひと山越えた町の甚吉。
出会った頃は甚坊なんて呼んでましたけど、十年ほども経てばあちらは立派な青年であたしは一つも老けないまま。
あの子はあたしの事を睦美先生なんてずっと呼んでましたっけ。
薮井なんて姓じゃなかった筈ですけど、駄洒落好きなふざけた子だったから改姓でもしたんでしょうね。
『実はその祖父が亡くなる前、かつて盗まれたある本を探して欲しいと頼まれたんです。実はそのために行く先々で野巫医と聞くと訪れる様にしてるんですよ』
『本……ですか?』
『祖父が野巫の師から受け継いだ、その名も野巫三才図絵という本なのですがご存知ありませんか?』
そう……だね。
確かにあたしが書いた野巫三才図絵、睦美蓉子を辞めようと思った時にあの子にくれてやったんでしたね。
『野巫の師……。と言う事は! お祖父様は睦美先生の直弟子ですか!? それは凄い! あぁ……是非お会いしたかった!』
『もしや良庵先生、三才図絵をご存知なのですか!?』
せんせはしっかりと頷いて、ご自分の背後、文机の上から恭しく野巫三才図絵を取り上げて畳の上へそっと置きました。
『ここに。幼い頃に父が古本屋で購入したものを譲り受けました。まさか盗品だとは父も知らなかった筈ですが』
『……こ、これが野巫三才図絵の原本……! は、拝見してもよろしいですか?』
『どうぞ、構いませんよ』
怪しげな者であれば良庵せんせが何よりも大事にされている三才図絵を渡す事はないでしょうけど、なんてったって憧れの睦美先生の直弟子のお孫さんです。
あたしだって甚吉の孫だと聞けば否やはありませんもの。
手に取ってぱらりぱらりと頁を捲り、人の部から地の部へと移った時、薮井青年の手が止まりました。
『や、やはり原本だ! 間違いない!』
薮井青年、甚吉から話を聞いて――というか野巫の手解きも受けていましたか。
この世界にただ一つの野巫三才図絵、見る人が見れば一目で原本だと分かる筈なんです。
『ど、どういう事です? 原本だと何か異なるのですか?』
『ほら! ここ見て下さい! この呪符に刻む絵、私が知るものに比べて明らかに絵が足りない!』
その通り。この本の絵、人の部を除いて図柄も解説も未完なんです。
『絵が……足りない――?』
ごめんなさいね良庵せんせ。あたしは当然知ってたんですけど、あたしから教える訳にもいかなくって……。
ずっと読んでいらした本が、読んでも無駄だと聞いちまっちゃ落ち込んじゃいますよね――
『――やっぱりそうか! 良かった……僕は間違えていなかった!』
って、あら? せんせ、気付いてらしたの?
『もしや気付いていたんですか?』
『あ、いや、気付いていた訳ではないんですが、そうとしか考えられないと――』
良庵せんせがこう続けました。
『人の部にある図柄に比べると天と地は確かに複雑ですが、人の部のそれよりも明らかに美しくない。どう考えても何かが足りないんです」
あたしなんだか嬉しくなっちまいます。
あたしが描いた野巫の図柄、その整った様を良庵せんせが美しいと感じてくれていたなんて。
『素晴らしい捉え方です、大したものだ。そう、仰る通りに地の部の図柄も完成形は人の部のそれと同様に美しいものです』
心なしか薮井青年の顔からも誇らしさが滲み出ているような気がします。
そして薮井青年が続けて言います。
『けれど今の良庵先生の言葉から察するに、先生は『巫』の力はご存知ない様ですね』
『……カ、カンナギ……の力――? そ、それはもしや巫戟の巫――?』
野巫三才図絵に視線を落としていた良庵せんせがガバリと顔を上げました。カッと見開かれた視線と一緒に。
『ええ。巫とは巫戟の片割れ、すなわちこれです』
薮井青年が仰向けに開いた両の手のひら。
その手がボウッと漂うような白い光に包まれていました。
ガタン! ガタガタガタン!
薮井青年のほの白く光る両の掌を覗き込もうとした良庵せんせでしたけど、お尻をぶつけて文机がひっくり返ってしまいました。
けれど良庵せんせはそれを気にすることもなく、ずり下がった眼鏡を指で押し上げ食い入る様にその手を見詰めています。
『……だ、大丈夫ですか?』
『お気になさらず続けてください』
『で、では――、この巫の力を三才図絵に流し込みます』
畳の上、地の部の冒頭が開かれた野巫三才図絵にそっと手を触れさせると、そのほの白い光が三才図絵へと染み入る様に移っていきます。
『――あ! ず、図柄が! 浮かび上がって――!』
そうなんです。
良庵せんせの驚きの声の通り、未完だった図柄がすっかり浮かび上がりました。
野巫三才図絵の地の部、それは最低でも巫の力を使える者にしか読むことすらできないものだったのです。
『祖父から聞いていた通りです。どうでしょう、良庵先生の仰った美しさに届きましたか?』
『はいっ! これぞまさに睦美先生の描かれる美しさです!』
そう叫んだ良庵せんせ、今度はガバリっ! と額を畳につけ、さらに叫ぶ様に続けました。
『甚兵衛どの! いえ! 師匠! 僕に巫の力の使い方を教えてください!』
『そんな師匠だなんて止してください。私で良ければお教えしますから』
整えば師が現れる、ってのは本当でしたね。
――何が必要かを理解した上でそれを強く求めれば、必要なものを与えてくれる何者かが現れる――
ってえ意味の言葉ですけど、早速現れるなんてせんせったらよっぽど強く願っていらしたみたいですねぇ。
さっ、あたしもせっかく淹れたお茶が冷めちまう前に中に入りましょ。どうにも途中で入る雰囲気じゃなかったんで障子の外で立ち尽くしていましたから。
「失礼しますよ――って良庵せんせ! 文机しっちゃかめっちゃかじゃないですか!」
少しお話し中断して、文机を起こして散らばった描きかけの呪符なんかを片して一つにまとめました。
その中の一枚、人の部の呪符を薮井青年が手に取って、まじまじと見詰めて口を開きました。
「この呪符の出来栄え、驚くほどに正確だ……相当に学んでいらっしゃいますね」
「そうでしょう? 良庵せんせったら朝から晩まで野巫の事ばっかり考えてらっしゃるんですから」
自分が褒められたみたいでつい軽口挟んじまいました。
けれど薮井青年の思いは少し違った様子。
「この出来栄えでほとんど効果が無いとなれば、心折れそうなものですがよくぞここまで続けられたものです」
あ、ばか。余計なこと言うんじゃないよ甚坊!
「そうなんですよ。半年前まではちっとも効かなくって諦めかけた事もあったんですが……」
ちょいと甚坊! 察しておくれ! この良庵せんせの嬉しそうな顔見りゃ分かるだろ!?
ちらちらとせんせの顔とあたしの顔に視線をやった甚坊――じゃなくって薮井青年が、あぁなるほど、といった風にポンっと手を叩いて言いました。
「…………そういう事でしたか」
頼むからほんっと余計なこと言ってくれるんじゃないよ!?
「良庵先生は巫の力を覚え始めていたのかも知れませんね」
「! だ、だからここのところ呪符に効き目が!? なるほど! 巫の力のおかげでしたか!」
……ふーぃ。ドキドキしちまうじゃないか。『巫の力も無しに効くわけない』なんて言われちまったらどうしようかと思ったよ。
冷めちまう前にどうぞなんて前置きして、ぶっちゃけちょいと冷めちまったお茶を注いでそれぞれへ。
喉を湿して最初に口を開いたのは薮井青年。
「それで随分と慌てている様でしたが……?」
良庵せんせが掻い摘んでここのところに起きた事を説明しました。
あたしがどこぞの破落戸にぶち当たられたとこから始まって、それを指示した元締めが妖魔だったこと、その妖魔にコテンパンに伸されたこと、賢哲さんに請われて明晩から妖魔の夜回りに出なきゃならなくなったこと。
「妖魔騒動でしたか。しかも明晩から夜回りとは急ですね……。私が参加できれば良かったんですが、夜明け過ぎにはここを立ち上方へ向かわねばならないんですよ」
聞けばこの薮井青年。甚坊の跡を継いで野巫医者をしてるのかと思ったら、野巫を使った妖魔退治を生業にしてるんですって。
いま一番欲しい人材なんですけどね。でもま、お仕事ならしょうがありませんねぇ。
「一晩しかありませんができるだけの事はしましょう。幸いにも良庵先生はすでに妖魔の『戟』に出会っている。『巫』の習得も早いでしょう」
今夜ウチに泊まってもらう事になりましたから、薮井青年はすでに取っていた宿へ断りと預けていた荷物を取りに一旦外出されました。
「良かったですね、良庵せんせ」
「はい。まさか睦美先生のお弟子さんのお孫さんにお会いできるとは……あっ」
「どうかしました?」
「いや、この野巫三才図絵はお返ししなくちゃいけないのかと……」
そういやそんな話は出ませんでしたね。
甚坊が死ぬ前、三才図絵を探してくれって言ったそうですが、なんの為にそんな事言ったんでしょうね?
良庵せんせと手分けして客間の布団を調えたり、夕飯の準備なんかをしてる間に薮井青年が戻ってきました。
早速良庵せんせが三才図絵について薮井青年に伺いましたが、青年は笑って必要ないと答えました。
「祖父は悪用されないかが心配だったそうです。良庵先生ならその心配も無用でしょうし、その本はきちんと贖われたもの。返せなんて言えませんよ」
「しかしこれが無くては困りませんか?」
「当家には祖父が書き写したものがありますから」
「でしたら良かった!」
良庵せんせが本当に嬉しそうにそう言いました。
三十路を過ぎた良い歳の男ですけど、子供みたいに喜ぶ良庵せんせがこれまた可愛くってキュンとしちまったよ。
この良庵せんせの笑顔の隣にずっといられりゃ他に何も望むものなんてありゃしませんよ。
夕方から二人は道場に篭りっきりです。
途中夕飯だけ食べに戻った時に調子を聞いてみましたけど、良庵せんせはにこやかに微笑んで言ってのけました。
「まだちっとも分かりません」
どうやら難航してるらしいですけど、今まで濃霧の中を彷徨っていたようなものだったのが、どうやら正しい手順で歩く為の師を手に入れた安心感がにこやかにさせる様子でした。
再び道場に戻った二人をしーちゃん越しに覗いてみようかと、ちょいと視界を共有した途端に薮井青年がしーちゃんを見たもんでびっくりしちまいました。
『良庵先生。先ほどから気になっていたんですが、そのお腰の……なにやら兎か何かの足の……それは一体?』
『御守りです。兎の妖魔の足先らしいんですよ』
そういや薮井青年は妖魔退治が生業でしたね。
あたしはともかくしーちゃん達は見つかるとややこしいかしらねぇ。
普通にそこらをうろちょろしてるなっちゃんはすでに見つかってるけど、まだ小狐なんで戟の力が弱いせいか特に反応ありませんでした。
そう、こないだ蝮の三太夫としーちゃんが吐いたあの光の波動、あれが巫戟のもう片割れ、巫と対を成す戟なんです。
こないだ良庵せんせが、野巫三才図絵を『人ではない何かの為のもの』と表現しましたが、確かに戟を使いこなせる妖魔であれば三才図絵の内容をある程度は使える筈なんです。
けどま、戟が使えるからって野巫なんて使いませんけどね、普通の妖魔は。
良庵せんせと薮井青年は、すっかり日が落ちてからも道場で何かごそごそやってます。
あたしも退屈なんで繕いものでもしようと思いはするんですけど、あちこちで焚いちゃ行灯の油代も馬鹿になりません。
だもんで、あたしもなっちゃん連れて道場へやってきました。
「あたしもちょいと灯り借りますね」
「先に寝んで下さって構いませんよ」
良庵せんせならそう仰るでしょうけど――
「亭主そっちのけで寝るなんてあたしにゃ出来ませんよ。お気になさらず続けて下さいな」
――一晩二晩寝ないくらいでどうなるものでもないですしね、あたしは。
膝の上で丸くなったなっちゃんのふわふわ柔毛を時折り撫でながら、チクチクチクっと針を動かします。
料理と違ってお針はあんまり得意じゃないんで、時間が掛かっちまって逆に丁度良いねぇ。
お針の途中で少し手を止め二人の様子を見てみれば。
あら、これはなんだか耽美な感じ。
胡座で座る良庵せんせの背に回った薮井青年が、体を密着させつつそれぞれの手をせんせの手に乗せて、そして耳元で囁くように一言。
「どうです、感じますか?」
「は、はい。感……じ、ます。なんだか……暖かい……ような、気持ち良い……ような――」
「良いですね。もっと私を全身で感じて下さい。いきますよ!」
「は、はい! あ、あぁっ――く、来る! 熱いのが、甚兵衛どのの熱いのが――っ!」
…………良庵せんせ。
あたしにゃそっちのけは無いんですけど、新たな扉が開いちまいそうですよ。
ヤキモチ妬くどころかずっと見てたい気になっちまいましたけど、「ぁあっ!」なんて小さく叫んだ良庵せんせが前のめりに倒れ込んだところで二人は体を離しました。
なんだかホントに浮世絵にしちまいたいような二人なんですけど、いっそ春画にしたらバカ売れ間違いなしですねぇ。
良庵せんせが荒く乱れた呼吸を整えようとハァハァ言ってる間に、薮井青年がその向かいに腰を下ろします。ちぇっ。
「……い、今のが巫……?」
「本来ならもっと時を掛けて行うのですが、生憎と時がない故このような手段しか私には思いつきませんでした。申し訳ない」
良庵せんせにぺこりと頭を下げつつも、あたしに向けても目顔で謝る薮井青年。
今のがどの様な絵面かよく分かっていらっしゃるらしいです。
甚坊、あの頃のあんたと違ってあんたの孫はなかなか経験豊富みたいだねぇ。
「いま良庵先生の体を通ったのは私の巫。それ単体ではなんの意味も持ちませんが、これを使い熟せなければ野巫の力は得られません」
「逆に言えば、これさえ使えれば……」
「仰る通り。三才図絵の地の部までは扱える様になります」
「地の部……まで?」
「天の部は無理です。私どころか祖父でさえ扱えぬ……いや読む事さえ叶わぬ代物です」
そうなんです。
天の部を扱えるようには、どうやったって普通はなれません。
アレは巫と、妖魔の力である戟をも併せ持つ者しか使えないのです。
あたしかい?
野巫三才図絵を書いたのはこのあたしですよ?
決まってます。
あたしは巫と戟の両方を使える数少ない存在。
天の部まで扱える一等凄い巫戟の遣い手があたしなんですよ。
三才図絵を書いたのはあたしですけど、野巫を作ったあの人が生きてりゃもちろん二等でしょうけどねぇ。
「心配いりませんよ。地の部が使えれば、そんじょそこらの妖魔なんて何ほどのこともありませんから」
あたしや姉さん、さらにヨルなんかが『そんじょそこらの妖魔』に当てはまるかは別にして、確かに薮井青年の言う通りだね。
剣の腕もある良庵せんせが使えりゃ、こないだの三太夫みたいなただの獣の妖魔だったら楽勝ですよ。
「では先ほど流した私の巫、あれを思い浮かべてご自分の巫を感じてみて下さい」
「……僕の巫を……感じる……。え? それってどうやれば……?」
この薮井青年、教えるのあんまり上手じゃありませんね。良庵せんせよりも五、六個はお若いでしょうしそりゃそうっちゃそうなんですけど。
「すみません。私はそれを言葉で教える知識を持ちません。なんと言っても私は巫の力を感じられるようになるのに……」
……勿体つけますね。
どうせ甚坊と同じ、二年掛かったとか言うんでしょ。
「……三年掛かりましたから」
……甚坊よりも掛かりましたか……。
ま、甚坊の師匠は甚坊じゃなくってあたしですからね。師匠の差ってことにしときましょうか。
「それで、その……言いにくいんですが……一刻(二時間)ほど仮眠しても良いですか? 明日も上方へ向けて歩き詰めなので……」
今は恐らく草木も眠る丑三つ時。
夜明けまで二刻あるかないかですからね、そこを半分の一刻と言ったのは逆に薮井青年の誠意の表れでしょうねぇ。
道場に良庵せんせ一人を残して、布団を敷いておいた客間へ薮井青年を案内します。
僕が案内しますとせんせは仰ったんですけれど、せっかく吹き込んだ薮井青年の巫の感覚を忘れちまっちゃいけませんからね。
道場から母屋へ繋がる廊下を行く時、後ろを歩く薮井青年が静かに口を開きました。
「睦美先生、どうしてご自分で教えてあげないんですか?」
「甚坊、だってしょうがないじゃないか――」
――……あっ。
つい昔の気分で返事しちまったよ。参ったねこりゃ。
なんとか誤魔化せないものかしら?
「やっぱり貴女が睦美先生でしたか」
「ちょいと何言ってるか判りません」
ついね、ほんとうっかり昔の――甚坊と話してる気分で返事しちまった。
誤魔化されてくれないものかと振り向くと、にやにや顔の楽しそうな薮井青年が続けて言います。
「甚じいちゃんもそれで満足だろうと思いますし、まぁそういう事にしておいても良いですよ」
「どういうことです?」
聞けば薮井青年、甚坊から頼まれたのは野巫三才図絵の事だけじゃなかったそうなんです。
あたし――睦美蓉子はきっとどこかで生きている、睦美先生の事も探してくれ、ってね。
甚坊にだってあたしが妖狐だとは明かしてないけど、ずっと歳を取らない不思議な女だってのは小さい頃からあたしを見てた甚坊は当然知ってる。あたしが生きてる、って思うのも無理ないね。
「いつあたしが睦美蓉子だと察したんだい?」
「祖父の描いた絵に似ていましたから。けれど確信を持ったのはついさっきですよ」
ぺろりと舌を出した薮井青年。鎌かけやがったねこのガキ。
はぁ、と溜め息ひとつついて、しっかりと薮井青年の目を見て伝えます。
「甚兵衛。あたしの事を良庵せんせにバラしちまったら承知しないよ」
「しませんよそんなこと。それこそ甚じいちゃんの意に反しますから」
甚坊はこの孫に、もしあたしを見つけても幸せそうならそのままに、困っていれば手助けしてくれ、そう願ったんだってさ。
「困っておられたのは御主人でしたけど、これで甚じいちゃんとの約束も守れました。では一刻後に、おやすみなさい」
甚坊ったら、かつて袖にされちまった相手にお優しいことだねぇ。
『一緒に歳を取ってやれないあたしには応えられない』
そう言って断ったあたしが今じゃこんなだもの。
申し訳なくって涙が出そうだけど……。うん、きっと甚坊なら喜んでくれるよね。
気を取り直してそっと静かに道場を覗くと、くかーくかーと小さく響くなっちゃんの寝息と、むむぅぐむぅと良庵せんせの唸り声。
そぉっと再び戸を閉めて、熱いお茶を淹れてから道場へと戻りました。
「一息ついてはどうですか?」
「いや、しかし――」
巫の感覚が逃げるんじゃないかと不安げに視線を彷徨わせた良庵せんせでしたけど、フワッと香るお茶の香りに誘われちまった様子。
「そう、ですね。頂きます」
二人分のお茶を注いでそれぞれ手に取って一口含むと、ほぅ、っと漏れた吐息が被ってお互い微笑み合いました。
なんか良いですよね、こういうの。
「良庵せんせ」
「なんですお葉さん?」
「巫の字の成り立ちって知ってますか?」
ちょいと唐突ですけど、あたしだってせんせに何か足掛かりでも上げたいですし、字のことなら野巫とは別に関係ない事ですからね、あたしが知ってたって問題ないでしょ。
「成り立ち……、いえ知りません。考えたこともなかった」
「巫の字の上の横線は天、下の横線は地、真ん中の人二つと縦線は踊る人々だそうですよ」
「天と地と踊る人々……。なぜ人は踊っているのでしょうか」
「あたしなりの解釈ですけど、天や地の力を借りようってんじゃないですかねぇ。良庵せんせは誰かの力を借りる事ってあまりされないですけど、人って自分一人の力は大した事ありませんから」
賢哲さんなんかは誰かに力を借りるの得意そうですけどねぇ。
「力を……借りる……」
そう呟いた良庵せんせがじっと固まり、なにか考え込んでしまいました。
時折りぶつぶつと呟いて、視線もどこか定まっていません。
よく見りゃせんせが握った湯呑みにまだお茶が半分ほど。
このままじゃ溢れちまうんで、そっと湯呑みを摘んで指を開かせ抜き取ると、ギュッとその手を掴まれちまいました。
「……お葉さん、僕はいつでも貴女の力になりたいと考えています」
「ええ、存じております」
あたしの左手を握ったままの良庵せんせ。
「一人前の野巫医になることもそうですが、例え妖魔が相手でも貴女を守れるようになるため巫の力を覚えたい」
「ええ。それも存じております」
あたしの右手は湯呑みを握ったまま。
「でも、僕だけの力じゃどうにも駄目みたいです」
「せんせは一人じゃありません。あたしがずっと一緒にいますから」
じっとお互い見つめ合ったまま、どれくらいの時間が経ったでしょう。
ほんの数瞬だったような気もしますし、半刻ほども経ったかも知れません。
けれど不思議と目を逸らせませんし飽きません。まだまだずぅっとこうしていられそう。
せんせの瞳に吸い込まれそうで、あたしの瞳がせんせを吸い込みそうで。
「お葉さん。僕はずっと貴女といたい」
「ええ。あたしも良庵せんせと」
甚坊にはあんなして断ったクセに、良庵せんせとはずっと一緒にいたいなんて笑っちまいますね。
あたしはせんせに出逢ってどうかしちまったんだろうねぇ。
「僕に力を貸してくれますか?」
「当たり前です。あたしは貴方の女房なんですから」
こくん、とあたしが頷くと、お互い自然と傾く様に顔が近づいて、あたしの口とせんせの口が触れ合いました。
お互い優しく啄む様に口付けて。
一度離れて瞳を見つめ、今度は吸い合うように深く口付けて。
息をするのも忘れて吸い合って。
「せん……せ――」
「お葉さん――」
握ったままだった湯呑みが転がり落ちて、仰向けに寝転がったあたしに、さらに覆い被さる様にせんせが――
「……きゅー?」
「……なぜそんな事になってるんです?」
あらいやだ。
道場の端、行灯の明かりがギリギリ届くところになっちゃんを抱っこした甚兵衛が。
バタバタバタっと飛び起きて、二人真っ赤な顔で正座して、しどろもどろで良庵せんせ。
「いやっ、その――! 巫を使うとは力を、その、天から、借りる事だと考えて――」
「その考えは正しいですが、なぜそんな事になってたんです?」
言い様は穏やかですが、言葉の端々に棘がありますねぇ。それももっともな事だと思いますけど。
「そ、その……、巫の字の……天に、力をその……、僕にとっての天、と言えばお葉さんだと思いまして、その――」
はぁぁ、と呆れた様に深い溜め息をついた甚兵衛が良庵せんせの言葉を遮り言います。
「まぁ良いんじゃないですか」
投げやり気味にそう言った甚兵衛がさらに続けます。
「目的は達した様ですし」
「……えっ?」
しどろもどろで額の汗を拭った良庵せんせが顔を上げると、その目に映った甚兵衛が嬉しそうにせんせの体を指差していました。
薄っすらぼんやりとですが、せんせの体をほの白い巫の力が漂っていたんです。
甚兵衛やあたしの巫なんかじゃない、間違いなく良庵せんせご自身の巫です。
「でもだからって。たった一晩しかない特訓の晩に盛らなくっても良いでしょうに」
いやもうほんと返す言葉もございませんねぇ。
⭐︎
唐突にいちゃこらしちまいましたけど、次話できちんと巫の説明できるかと……
ここんとこ全然イチャイチャしてなかったし……
「でもだからって。たった一晩しかない特訓の晩に盛らなくっても良いでしょうに」
「ほんと面目ない。返す言葉もありません」
しょんぼりと肩を落とす、ほわほわ光る体の良庵せんせ。
なんだかニヤニヤしちまうのは、せんせの絵面が面白いからだけじゃありません。
なんてったって、あたし……
せんせと初めて……
く、口付けなんて――
――もう…………きゃーーっ!
あぁ、駄目。思い出しただけであたし、赤面どころか体の芯が火照ってきちまうよぉ。
いやんいやんとクネクネしてたもんだから、甚兵衛が苛立たし気にオホンと一つ咳払い。
「よろしいか良庵先生に奥方さま。とにかく時間がないのです。私は夜明け過ぎにはここを立たねばならんのですよ!」
こいつは参ったね。
弟子の孫に諭されちまったよ。しかも一等正論だってんだから目も当てらんないってもんだねぇ。
全身ほわほわ光らせた良庵せんせもカチッと背筋を伸ばし、師匠である甚兵衛の声に集中する素振りです。
「良庵先生。なんとか最低限、巫の使い方だけでも覚えていただかなくてはなりませんが、あと一刻もない。集中していきましょう」
「かたじけない。よろしくお願いします」
良庵せんせがどうして巫の力を引き出せたのか。
よく考えるとそれは特別不思議なことではありません。
先ほど甚兵衛が自分の巫を良庵せんせの体に流した事もきっかけとしては大きいですが、こないだの蝮の三太夫やしーちゃんの『戟』、甚兵衛の『巫』、それらに直面しそれを頭が理解した事、さらに巫も戟も使えるあたしと触れ合った事。
以前に与太郎ちゃんにぶち当たられて捻挫しちまった時――そう、お姫さま抱っこして貰った時です。
あの時の良庵せんせの治癒の呪符、あれは僅かとはいえ確かに治癒の力を持っていました。
やはり巫や戟に触れ合う事、それが鍵となったのだと思います。
ですからね、せんせにとっての天があたしってのはなんだかよく分かんないけど、良庵せんせがあたしに、その、く、口付け、し、したのだってね、強ち間違いじゃないんですよ。たぶん。
「先ほども言いましたが、この巫の力はこれ単体ではほとんど何の意味もありません。仮に腕に纏わせ妖魔を殴ったとしても、それは普通に殴るのとほとんど変わりません」
良庵せんせと同じように、甚兵衛もその体をほわほわ光らせてみせました。
淀みもなくってなかなかの腕前ですねぇ。
「ではどうするのか」
「――三才図絵……ですか」
「その通りです」
甚兵衛は指を一つ立て、揺蕩う様に体を覆う巫の力をその指先に集めます。
そしてその指先で宙空に字を書くように角が五つの星形を描くと、薄ぼんやりとした白い線が星形を象ったままで静止していました。
「これが巫の使い方です」
「な、何もないところに……図柄を……」
「もちろん筆に巫を流して紙に書き起こしても構いません。大事なのは巫を一つに集め、正しい図柄を作ることです」
――巫とは「神を招く」を語源とする言葉。対して戟とは三叉の矛のこと。
戟はそのままで強力な武器となりますが、ひ弱な人の力である巫ではそうはいかないんです。
空や大地、水に火に風に、あらゆる物や生き物、そこかしこに宿る神から力を借りてようやく、病や妖魔に対しての武器となるのです――
師匠らしく甚兵衛が良庵せんせにそれを伝えますが、ふふっ、なんだか笑っちまいますねぇ。
だって甚兵衛の師匠である甚坊にあたしが言ったそのままなんですもの。
「さぁ。巫を一つに集める練習を行いましょう。夜明けまでにそれさえ出来れば、あとは独学でも大丈夫でしょう」
分かってんのかどうだか分かりませんが、フンフン頷いたなっちゃんがトテトテ歩いて近付いて、良庵せんせの膝をタシタシ叩きました。
「なっちゃんも応援してくれてるみたいです。夜明けまでもうひと頑張りですねぇ」
「なっちゃんもお葉さんもありがとう! 僕がんばります!」
そして空が白み始めた頃――
「さ、良庵先生。やってみせて下さい」
「はい!」
ふぅぅと一つ深い息を吐き、右掌だけに巫の力を集めた良庵せんせがそっと野巫三才図絵に触れ、虫食いだらけの図柄を完全な形へと浮かび上がらせました。
ここまではばっちりです。
文机に置いた三椏の紙に向き合って、徐に筆を取って右掌に集めた巫を筆へ、そしてゆっくりと慎重に図柄を描いていきます。
「――……ふぅ。どうでしょうか」
額の汗を手の甲で拭い、立ち上がって文机の前を甚兵衛の為に空けた良庵せんせ。
入れ替わりに甚兵衛が座り、じっと呪符を見詰めて口を開きました。
「……まだ少し巫が粗いですが、充分効果が期待できます。合格にしましょう」
「ありがとうございます! これも甚兵衛殿のお陰です!」
完璧に整った巫であれば、ただ墨で描いただけの呪符と見比べても全く見分けはつきません。良庵せんせの呪符は確かに巫が少し粗いもんですから、ほんのり淡く輝いちまってるんですよ。
けどね、あたしだって合格にしちまうよ!
たった一晩でここまでやれたんだからね!
嬉しそうに微笑む良庵せんせが、あたしやなっちゃんにもありがとうって礼を言って頭を下げちまいます。
あたしら何にもしてません。ずぅっと三才図絵に向き合ってきた良庵せんせの努力が実っただけです。
あたしがした事って言や、く、口、口付け……しただけ、だものね。
それでも自分のことの様に嬉しくってしょうがありませんねぇ。
「では申し訳ないですがもう時がない。今夜の夜回りに向けて、そうですね……ここと、ここ、それにこの頁だけでもソラで描ける様にしておくと良いと思います」
その言葉を最後に、たった一晩だけの野巫の講義は終わりとなりました。
「甚兵衛師匠、誠にありがとうございました」
「師匠はやめて下さいよ。『甚兵衛殿』で結構ですってば」
甚兵衛が弟子である良庵せんせを『良庵先生』で呼ぶのは、せんせは曲がりなりにも野巫医者で自分はただの妖魔退治が生業だから、だってんですよ。
ま、呼び方なんてどうだって良いですよね。
師と仰ぐ気持ちと、弟子を慈しむ心がそれぞれにあればさ。
あたしにとっちゃ、弟子の弟子と、弟子の弟子の弟子にあたる二人だもんね。
「甚兵衛これ。道中で食べなよ」
「お弁当ですか? これはありがたい」
「けど大したもんじゃないよ。ただのお稲荷さんだもん」
「あ――あの睦美先生の稲荷寿司! 祖父から聞いてます! 嬉しいです!」
甚坊の奴ったら余計な事ばっかり孫に言い残しやがって嫌んなるねぇ……ってのは冗談です。
「ばか、声が大きいよ」
せんせは甚兵衛に礼と別れを済ませた直後、巫の力を使い過ぎたせいか糸が切れた様に眠っちまったから、聞こえちまうって事はないと思うけどね。
「でもま、ホント助かったよ。ありがとね。甚坊のお墓にも伝えてやっておくれよ」
「お役に立てて良かった。上方での用が済んだら帰りにまた顔出します。では、また」
夜が明けてすぐの誰もいない通りを歩いていく甚兵衛の背を見送りながら、甚坊の事をちょいとだけ思い出しちまったよ。
さ、戻って繕い物の続きでもしよっかねぇ。
ちょいと書斎を覗いたら、畳の上で大の字んなった良庵せんせが可愛らしい寝息を立てていました。
このままじゃお腹冷やしちまうかしらと思ったんだけどさ、よく見りゃ袷のお腹んとこが膨らんでてね。
その中からも一つ可愛い寝息が聞こえてたのさ。
なっちゃんの柔毛はモフモフしてて不思議となんだか暖かいからね。
なら平気だね、って事でそのままにしといて道場へ戻って繕い物の続きに集中し始めました。
暫くそのまま繕い物に精出してたんだけどね――――
――はあーぁ。
なにもこんな日に――ついに良庵せんせが巫覚えた目出度い日にさ、バレなくっても良いんじゃないかい?
もうちょいとでも良いからさ、空気読んで欲しいよねぇ、本当にさ。
まだ途中だったお針を八つ当たりするように針山にぶっ刺して、それでも良庵せんせの服を乱暴に扱うのはなんか嫌だったからきちんと畳みました。
道場から直接お庭に出て、そのまま門屋まで歩きます。
はぁ……、気が重いねぇ。
気分どころか足取りだって重いけど、ここがバレちまっちゃ逃げる訳にもいかないよね。
せんせとの口付けの余韻がまだ残ってた、そんな幸せな気分が吹っ飛んじまったよ。
「あはははは! なにやってんのさシチ! みっともない! あははは!」
門屋をこちら側に潜ったとこではしゃぐ男が一人。
「うぐぐ……、そ、そうは言ってもヨル様……」
さらに潜る途中、ちょうど門のとこで呻く女が一人。
バカみたいにはしゃいでんじゃないよ、ったく。
「うるさいよアンタら。まだ朝早い、近所迷惑だ」
「――ヨーコ! 逢いたかった!」
しつっこい奴だねぇホント。あたしはこれっっぽっちも会いたくなかったっての。
「見ない間により一層綺麗になったね!」
はいはい、ありがとさん。
あたしの見た目はどこもかしこも昔のままさ。綺麗になったってんならさ、あんたの目が悪くなったのさ、きっと。
あたしが一つも喜んでないのを悟ったのか、あっさり話題を変えてきました。
「ねぇヨーコ?」
「なにさ」
「どうしてシチだけ捕まったんだい? このボクはなんともなく通れたんだよ?」
「んなこたどうでも良いけどさ、どうしてここが分かったんだい?」
「あの若い妖魔退治を尾けたのさ! 賢いだろう?」
ふふん、と胸を反らして鼻高々で言いやがったよ。
……甚兵衛のせいだってのか。
あたしがいた町の、さらに妖魔退治が生業だもんね、よく考えりゃ張っててもおかしかないか。
甚兵衛は悪かないんだけど、妖魔退治が妖魔にあと尾けられてんじゃないよ。まったく。
「そうかい、それは分かったよ。けど、そのキモチ悪い話し方なんとかなんないのかい? それにその見た目だってなんなのさ一体」
あたしの言葉にヨルの顔からスッと表情が消えました。
ちょいとビクッとしちまったけどね、どうせならその方がらしいってもんだよ。
今のヨルはさ、どこか良いとこのお坊っちゃんがそのまま大人になったって感じ。
年のころなら二十五、六、ぱっちり二重でさわやかに微笑んで、お肌は白くて肌理細かくて、真ん中で分けた茶色い髪はふんわり波打って耳のあたりに流してさ。
服だって白系統で揃えた洋装――ボタンで留める襟付きシャツ、細袴とベストはほんのりさりげなく黄味がかって……
憎ったらしいくらいにサマになってんのがムカっ腹だよホント。
「ヨーコの好みに合わせたつもりだった。許してくれ」
はんっ。
素で喋り出した途端に平坦じゃないか。分かっちゃいたけどやっぱりこの青瓢箪がヨルだってのかい。参っちまうねぇ。
「どこで聞いたか知らないけどさ、あたしの好みはそんななのかい?」
「違ったか? 以前のオレ――ただ人に化けただけのオレの姿は好ましくなかったのだろうと考えたのだが」
確かに以前のヨルとは真逆の姿だねぇ。
それになによりさっきのにこやかな笑顔なんて一体誰なんだお前はって感じさ。
「勘違いしないでおくれ。あんたの見た目なんざどうだって良いんだよあたしは」
「……? なら何故逃げた?」
分かんないかねぇ、このうすらとんかち。
「悪いけどはっきり言うよ。あたしはあんたを好きじゃないんだ、察しなよバカ」
「別に構わない。オレもそうだ」
…………。
そこが一番嫌なんだよバーカ!
…………でもま、それは分かっちゃいたんだ。
今更そんな事言ったって始まらないってのも分かってんだから。
「――で、なんだっけ? なんでこのシチとか言うのだけが捕まってるかだっけ? あたしのこの結界はさ、強い敵意に反応してるのさ。この家の者に対してのね」
よく見りゃこの女、蝮の三太夫んとこで見掛けたあの女だよ。敵意ぷんぷんでキッとあたしを睨んでるじゃないか――
って、ぼんやり考えてるとヨルがいつもの平坦な表情でシチって女を睨みつけ、襟を掴んで力任せに引っ張りました。
「あぁ! ヨ、ヨル様! お、おやめ下さい! あァ、あぁぁああ゛!」
あたしの結界に囚われたままの女を内側に引っ張るもんだから、ばりばり音立てて女の体を結界が焼いちまってるよ。
「敵意だと? ヨーコはオレの子を産む大事な女だ。分かっていないのか?」
って事は何かい? ヨルの奴ってば自分の尾っぽが言うこと聞かないって怒ってるって事か。笑っちまうねそれ。
「内輪揉めは後でやりな。うるさいって言ってるだろ」
どんっ、とヨルが女を結界の外に突き飛ばし、先に帰れと言い付けて、勿体つけながらこっち向いて偉っそうに言いやがった。
「行くぞ。さぁ」
「…………」
なに吐かしてやがんだこいつは。行くわきゃないだろ。
「何か未練があるのか」
「…………」
あるに決まってるじゃないか、このすっとこどっこい。
「分かった。ならこうしよう」
ヨルがゆっくり片手を上げて掌を母屋へ向けて、立てた四本指を撫でるように小さく下へ。
すると四本の薄赤い光の線が空中に浮かんで――
「ば、バカ! 何する気だい!?」
慌てて巫戟で小さく星を描き、それを掴んで打ち振るい、ヨルが作ろうとしていた図柄をボカンと殴ってぶち壊してやったよ。
ざまぁみやがれってんだ。
「星の図……ヨーコもオレと似たような術を使うのか。尚良い」
ちっとも良かないっての。
良庵せんせに手を出したら容赦しないよ!
こんのバカ、なに考えてんだよ。
良庵せんせが寝てる母屋に向かってなんて事しようとしやがるのさ。
さっきのヨルが作ろうとした図柄、ありゃあたしの星形とたぶん同じようなもの。
さまざまな呪符の効果を得られる簡易な図柄。
もちろん効果は数分の一になっちまう筈なんだけどさ……
……こりゃ、駄目だねぇ。
「ヨーコもオレと同じような術を使えるのは喜ばしい」
喜ばしくも嬉しくもないよこっちは。
「しかしどうする? そのちゃちな術とその折れた手でまだ駄々をこねるか?」
あたしの野巫はちゃちなんかじゃあないよ。
けど――悔しいけど右手の甲が折れちまったのはホントなんだよねぇ。
ヨルの図柄はあたしのと違って戟しか籠められてなかったのに、その戟の力がダンチだよ。
まさか図柄をぶち壊してやっただけでこっちの手が折れちまうとはね。さすがのお葉さんもびっくりさ。
けどね、痛がってなんかやらないよ。
左手で一本プツンと髪を引き抜いて、巫戟を籠めてぐにゃりぐにゃりと蠢かせ、治癒の図柄であっという間に癒してやった。
これでもちゃちだなんて言うのかい?
「駄々をこねたとて変わらん。行くぞ」
「…………」
あたしの野巫については無視かい。腹の立つ奴だねぇ。
黙って睨んでたらヨルの奴、ふぅ、と一つ呆れたようにため息ついて足元から仄かに戟の力を立ち上らせました。
立ち上った戟が頭上を超えて消え去ると、そこには以前のヨルの姿。
灰褐色の肌、すらりと長い手足、青みがかった黒の長髪。特に特徴的なのが、白目のところが黒い黒白目に赤で縁取られた瞳。
裸足に雪駄履きで黒の着流し姿、さらに 朱殷色の羽織り。腹が立つけどよく似合ってる。
さっきのチャラけた洋装の姿とは真逆だね。
「昔はもっと芋助だったのにさ、ずいぶんと小粋なお洒落さんになったもんじゃないか」
「ふっ、そうだろう。では未練を断ってやろう」
無造作に持ち上げた右手に、薄赤い戟の光を再び集め始めたヨル。
あたしの張った結界は何やってんだい、どう考えたって良庵せんせに敵意を向けてるじゃないか、そう思いはしたんだけど、どうやらちゃんと仕事してるらしいね……。
ぱりっ、ぱりっとヨルの体をあたしの巫戟が焼いてるらしいけど、痛みどころか足枷にすらなってやしない。さっきのシチとかいう女とは役者が違うよ。
……こりゃ、……駄目……かな。
「もう一度だけ聞いてやる」
「…………」
「未練はあるか?」
……ある、よ。そりゃ。
――でも……
「………………な……い、さ」
――あたしはどうせ妖魔だよ。
良庵せんせと末永くいたい、なんて言ったところで一緒に歳も取ってやれない。
よく考えなくっても分かる――分かってたじゃないか。
どうせ良庵せんせも甚坊とおんなじ、あたしを置いて先に死んじまうんだ。
「そうか。ならば良い。行くぞ」
戟を籠めた赤く光る手を下ろし、淡々と、興味なさげにヨルが言いやがる。
「ちょ、ちょっとだけ待っておくれ! い、一刻――いや、半刻でも良いからさ!」
「……四半刻だけ待つ。余計な事を考えるなよ」
より一層重たくなっちまった足取りで母屋に戻り、そぉっと障子を開いて書斎に入って腰を下ろしました。
すーすー、くかーくかーと規則正しいせんせとなっちゃんの寝息が小さく響く中、しーちゃんだけがウサギの姿ですり寄ってきます。
「ごめんねしーちゃん、あたし見つかっちまったよ。悪いけどせんせのこと頼むね」
このままここで自分の腹掻っ捌いて死んでやろうかと思わないでもないけど、んな事したら良庵せんせがどんな目に遭わされるか分かったもんじゃない。
出しっぱなしのせんせの筆を取り上げて、何か一言だけでも書き残そうと文机に向かうんだけど、一体なに書きゃ良いかちっとも浮かんでこないよ。
結局なにも思い浮かばなかったから――
ありがとうございました 葉子
――それだけ書いて筆を置いちまった。
せんせ、驚くかも知れないけど、何のことだか分かんないだろうね、きっと。
でも、あたしのほんとの気持ちだよ。
半年だけだったけど、良庵せんせ、ありがとうね、楽しかったよ。
寝息を立てる良庵せんせに顔を近付けて、最後にもう一度口付け……したかったんだけど起こしちゃ拙いから、おでこにそっと口付けて――
けど、やっぱりどうしても口付けたかったから、前にやったのと同じように、巫戟を籠めた吐息をせんせにふぅっ。
これでちょっとやそっとじゃ起きません。
だから……せんせにそっと口付けて、ちょいと調子に乗って舌入れてみたりして……
せんせ、ずっと一緒に居たかった、ごめんね、なんか、最期の口付けが……塩っぱくなっちゃって……
ぐいっと目元を袖で拭い、もう一度しーちゃんに「頼むね」とだけ伝えてそっと書斎を離れました。
せんせ、さよなら。
またどっかで逢えると良いね。
「ちょうど四半刻だ。行こう」
門屋のとこで大人しく、じっと待ってたらしいヨルが腕を開いてそう言った。
ぐいっと乱暴に抱き抱えられ、ヨルの戟に包まれ空へと――
ヨル……
あたしはこいつの……こいつの子を産むのかい……。
良庵せんせの子を……産みたかったねぇ――
※ 朱殷色:時間がたった血のような暗い朱色