菅谷くんの家の最寄り駅に着くと、自分の最寄り駅とは少し違う雰囲気がする。私はスマホにもう一度菅谷くんの住所を入れて、場所を調べた。
歩いたことのない道が続いていた。たった一駅先でもこんなに知らないものなんだなと不思議な感覚がする。
菅谷くんの家の近くまで来たら、表札を確認しながら歩いていく。
「菅谷」と書かれた綺麗な白い外壁の家が立っている。
スマホで時間を確認すると「9:56」となっている。10時に約束なので、ちょうど良い時間だろう。
すぐにチャイムを鳴らそうと思ったが、一瞬だけ押すことに緊張して躊躇ってしまう。しかし、緊張より菅谷くんの体調が気になった私は勇気を出してチャイムを押した。
「はーい」
女性の声が聞こえて、菅谷くんのお母さんらしき人が扉を開けてくれる。
「あ……こんにちは。私、菅谷くんと同じクラスの……」
私の自己紹介が終わる前に、菅谷くんのお母さんが「川崎さんでしょう?柊真から聞いているわ」と笑顔で教えてくれる。
「ごめんなさい。本当は柊真が出迎えられたら良かったのだけれど、調子が悪いみたいで代わりに私に出て欲しいって……」
「っ……!菅谷くん、そんなに調子が悪いんですか……!?」
ついそう聞いてしまった私に、菅谷くんのお母さんは悲しそうに微笑んだ。
「私たち家族とは話してくれるのだけれど、他の人が怖いみたい。丁度10時くらいに別の人がチャイムを鳴らすことなんて滅多にないのに、別の人が出たら怖いって」
いつもクラスの中心にいる菅谷くんからは考えられないほど弱っているのかもしれない。
「だから、友達が来るって聞いて私も心配でつい聞いたの。『大丈夫なの?』って。そしたら、『俺の病気のこと知ってる人だから』って……川崎さん、本当にありがとう」
悲しそうな笑顔のまま、菅谷くんのお母さんは私に縋るような言い方でお礼を言った。
菅谷くんは自分がそんな状況になっても「俺の病気を知っている人だから」と自分のお母さんに伝えた。「同じ病気の人だから」とは言わずに。
私の病気を明かさないでくれた。菅谷くんがどれだけ優しい人か分かっていたはずなのに、また私は菅谷くんの優しさを感じるのだ。
私は勇気を出して、菅谷くんのお母さんに自分の病気を説明する。
「私も同じ病気なんです……」
私の言葉に菅谷くんのお母さんはとても驚いた様子だった。頻発性哀愁症候群は稀な病気で、同じクラスにいるとは普通は考えない。
菅谷くんのお母さんは「そうだったのね」と私と目を合わせて、言葉を返してくれる。
きっと菅谷くんのことが心配なはずなのに……同じ病気の私に聞きたいことは沢山あるはずなのに、菅谷くんのお母さんはそれ以上何も聞かなかった。その優しさが菅谷くんにそっくりだった。
階段を上ってすぐに菅谷くんのお母さんが足を止める。
「ここが柊真の部屋」
菅谷くんのお母さんが部屋の扉をノックした。
「柊真。川崎さんが来てくれたわよ」
それだけ言って、菅谷くんのお母さんは私に会釈をして階段を降りていく。
私はもう一度菅谷くんの部屋の扉をノックした。
「菅谷くん、入っても大丈夫?」
「うん。川崎さん、来てくれてありがとう」
私が入る前に菅谷くんが部屋の扉を開けてくれる。出てきた菅谷くんは、風邪を引いているかのように体調が悪そうだった。
「大丈夫……!?ベッドに横になったままでもいいよ!」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
いつもより菅谷くんの「ありがとう」が多い気がした。きっとそれは菅谷くんなりの防御なのかもしれない。
私は菅谷くんの部屋に置かれているローテーブルの隣に座らせてもらう。菅谷くんはローテーブルの反対側にゆっくりと腰掛けた。
「川崎さん、急に呼んでごめんね」
「ううん、それは全然大丈夫けど……本当に体調大丈夫?」
「……えっと……」
「大丈夫」と口癖のようにいつも無理をする菅谷くんが「大丈夫」と言えないほど体調が悪いのだろう。
「頻発性哀愁症候群のせいだよね……」
ポツッとそう呟いた私の声に菅谷くんは体育座りで丸まるように顔を俯けた。
「俺、もう壊れたかも……」
菅谷くんの壊れるはもう過去形で、その言葉に胸がギュゥっと苦しくなって目が潤んでしまう。
「学年集会の時、症状が出て……いつもより酷くて、無理やり耐えても呼吸が荒くなって……視界が歪んだと思ったら、もう倒れてた」
菅谷くんはオリエンテーションの夜に会った時と同じで顔を上げなかった。
「病院で目が覚めた時、馬鹿みたいだけど安心したんだ。ああ、もういっかって。もうどうでもいいやって。自分が自分を諦めたことに酷く安心した」
菅谷くんが今どんな気持ちで話しているか想像するだけで涙が頬を伝っていく。
「ねぇ、川崎さん。俺、死んでもいい?」
「菅谷くん!」
気づいたら、私は大きな声で菅谷くんの名前を呼んでいた。なんて声を掛ければいいかも分からないくせに。
「ごめん、冗談。本当に俺、何言ってるんだろ」
いつも無理をする菅谷くんが無理を出来ないほどに壊れかけている。いや、もう壊れているのかもしれない。
私も寂しさでおかしくなって死にたくなる時はある。それでも、人にそう言ってしまったことはなかった。どうしよう、本当に菅谷くんが壊れてしまう。
焦っても言葉は出てこなくて。
「なんかさ、寂しくても死なないはずなのに、死にたくて堪らなくなる時ない?」
あるよ。分かりすぎるくらいある。
「それにどうせ誰に言っても理解されないし。『寂しくなる病気』ってなんだよって。誰だって寂しい時くらいあるって言われるに決まってる」
知ってるよ。分かるよ。私もずっとそう思っている。
「どうしよ、もう高校行きたくない。この状態じゃ笑えない」
菅谷くんにかけられる言葉が見つからないのに「菅谷くん」と名前を呼んでしまう。
「ん?」
「あ、えっと……」
「こんなこと言われても困るよな。ごめん」
「ちがっ……!そうじゃなくて……!」
私は早くなる心臓をなんとか抑えながら、言葉を紡いでいく。
「菅谷くん、寂しい時どうしてる?」
「え……?」
「前に言ったでしょ。私はぬいぐるみと手を繋いだり、『寂しくない。大丈夫』って言い聞かせるって。菅谷くんはどうしてるのかなって思って……」
「俺は川崎さんにそう教えてもらってから、家では小さなぬいぐるみを握ってる。学年集会の時はぬいぐるみを持ち込めなかったから『大丈夫。寂しくない』って」
「じゃあ、一緒だ」
「……?」
「私もその時、『大丈夫。寂しくない』って心の中で唱えてたの。だから一緒だよ。あの時、菅谷くんも一緒に『寂しくない』って自分に言ってたんだね」
自分が何を言っているのか分からないのに、私は目からポロポロと涙が溢れていく。
「私たちはこんな病気だけど、二人とも寂しがり屋で、寂しさに悩まされてる。一緒にこの病気と闘ってる。本当は菅谷くんが前に進んでいるように感じて、焦る時もあるの。でもそれ以上に菅谷くんがいて助けられてる」
涙が止まらなくて、段々言葉に嗚咽が混じって言葉が詰まってしまう。
「私が体調が悪い時は真っ先に気づいてくれて、周りのクラスメイトを笑顔にして、頑張って高校を楽しもうとしてる菅谷くんに助けられてる……憧れてる、の……無理に笑わくていいから……弱音を吐いたっていい、から……死なないで……欲しいだけなの」
言葉に詰まりながらでも、この気持ちが伝わっただろうか。涙でぐちゃぐちゃの顔をなんとか拭っても、全然涙は止まらない。
「菅谷くん、菅谷くんの気持ちが全部分かるなんて言わないから……そんなこと言わないから……だって菅谷くんの本当の気持ちはきっと菅谷くんにしか分からないから……だから、教えて欲しい……」
菅谷くんは気づいたら、もう顔を上げていた。涙でぐちゃぐちゃの私の顔を見つめている。
「川崎さん、俺が笑顔じゃくてもいいの?こんな病気でもいい……?」
「笑顔なんかじゃなくていい……それに病気なのは私も一緒。『寂しがり屋仲間』」
菅谷くんはしばらく何も言わなかった。私は涙を拭こうと、バッグからポケットティッシュを取り出す。それに気づいた菅谷くんがティッシュ箱を私の前に差し出してくれる。そして、そのまま私の隣に座った。
「川崎さん、ちょっと昔話してもいい?俺の中学の頃の話」
菅谷くんの言葉に私は小さく頷いた。
菅谷くんはカーテンの閉まっている窓を見つめながら、過去を思い出しているようだった。
「俺、中学の頃から友達が多い方でさ。部活の友達も同じクラスの友達もどっちもいたんだ。サッカー部の友達もクラスの友達も良いやつばっかで……まぁ草野見てれば分かると思うんだけど」
友達のことを話す菅谷くんはいつも教室の真ん中にいる時のような雰囲気を感じた。
「ずっと楽しくて、アホなことばっかやって笑ってた。でも部活でちょっとへこむことがあった時があって、ついクラスのやつに愚痴を言っちゃったんだ。そしたら、『大丈夫だって!菅谷の明るさならどんなことも倒せる!』って」
菅谷くんが見つめているカーテンの隙間から光が少しだけもれていた。
「そいつは慰めてくれただけだし、勿論嬉しかったんだけど……『みんな明るい俺が良いんだ』っていうことを意識したら、ズンって心が重くなったのを感じた。それから、あんまりうまく笑えなくて……そしたら教室で友達が話しているのが聞こえたんだ」
「『最近、菅谷が菅谷らしくねぇよな』って。『一緒にいても楽しくない』って。勿論そいつらは中学の友達で草野じゃないんだけど……なんかその日から誰も信頼できなくて、ずっと『明るい』まま生活してる」
「誰も暗い部分の俺は求めてないって気づいたら、周りに誰もいない感じがした。それから『寂しい』って感情が頻繁に起こるようになったんだ。でも、ずっと認められなくて無理をし続けてた。それで入学式の時、ついに限界が来て川崎さんに出会ったんだ」
菅谷くんが窓に向けていた視線を私に向ける。
「さっき川崎さんが言ってくれたでしょ。『笑顔じゃなくてもいい』って。入学式の日も今も俺を助けてくれるのはいつも川崎さん」
菅谷くんの言葉は真っ直ぐで、嘘がなくて、そんな菅谷くんの苦しみにいま私は触れている。
「川崎さん、もう一回あの言葉言ってくれる?」
私は涙を拭くことも忘れたまま、菅谷くんの方を向いてもう一度あの言葉を唱えた。
「寂しくない。大丈夫」
菅谷くんが下を向いて、嗚咽を堪えているのが分かった。
「寂しいんだ。俺、本当に寂しい」
泣きながら、菅谷くんはそう繰り返した。
「寂しくて息が出来ない」
「うん。私も寂しくていつもぬいぐるみと手を繋いでる」
「こんな症状のせいで高校では部活も入れない。本当に息が苦しくなるんだ。もう死ぬんじゃないかって不安になる」
菅谷くんが何とか顔を上げた。
「川崎さん、でも俺、死ぬんじゃないかって不安になるってことは死にたくないのかな……?」
菅谷くんの絞り出したような言葉に私は気づいたら菅谷くんの手を握っていた。ただ握ることしか出来なかった。
「川崎さん、また症状が出たら俺の手を握ってくれる?」
震えた菅谷くんの問いに私は頷いた。拭いたはずの涙がまた頬に伝ったのが分かった。
どれくらいそのまま手を繋いでいただろう。しばらくして、菅谷くんが立ち上がった。
「川崎さん、月曜日の授業に数学ってある?」
「……?確かなかったと思うけど……」
「やった。じゃあ、行こ」
菅谷くんのその言葉がどれほどの勇気がいる言葉なのか私には想像もつかなかった。
「川崎さん、今日は本当にありがと」
「ううん、全然。また月曜日ね」
「また月曜日」と言えることの喜びを噛み締めたかった。
菅谷くんの部屋を出て、階段を降りると菅谷くんのお母さんがリビングから出てくる。
「川崎さん」
「長居してしまってすみません」
「全然大丈夫よ。今日はありがとう」
「いえ、お邪魔しました」
私は菅谷くんのお母さんに会釈をして、菅谷くんの家を出ようとした。
「川崎さん……!」
菅谷くんのお母さんに呼び止められて振り返る。
「これからも柊真をよろしくね」
菅谷くんのお母さんの言葉に私は「はい」と頷くことしか出来なかった。
菅谷くんの家を出た後の駅までの道のりは早く感じて、すぐに駅に着いてしまう。電車に乗っている間も携帯を触る気分になれなくて、電車の窓から外の風景を眺めていた。
月曜日、私が登校して教室に入っても菅谷くんはまだ来ていなかった。ホームルームが始まるまであと15分。
一秒一秒がとても長く感じながら、菅谷くんが登校するか不安で心臓がバクバクとなっているのが自分で分かった。気持ちを落ち着かせるために、少し俯いて呼吸を整える。
「あ!菅谷!」
クラスの男子の声に私はパッと顔を上げた。教室の扉のところに菅谷くんが立っている。
「え!菅谷じゃん!もう大丈夫なの!?」
男子生徒の数人が菅谷くんに駆け寄っている。
「もう復活!マジで寝過ぎたわ」
菅谷くんはいつも通りの雰囲気で質問にノリよく返事をした。
「あはは、マジで大丈夫かよ」
「ていうか菅谷、いつぶり!?」
「一ヶ月ぶりくらいじゃね!?」
「アホだろ。まだ五月の終わりだぞ」
菅谷くんの友達は菅谷くんを囲むように笑っている。その見慣れた光景をもう一度見れることが嬉しかった。
「で、菅谷って何で倒れたの!?熱中症?」
その問いに菅谷くんは一瞬だけ固まったが、何と答えるか決めてきているようだった。
「熱中症じゃないけど、ちょっと寝不足もあって暑くて倒れたっぽい」
「うわ、やば。寝不足って大丈夫なん?」
「勉強しすぎたわ」
「嘘つけ!」
「あはは、バレた?ゲームしすぎたわ」
「馬鹿だろ!」
友達に囲まれている菅谷くんを見ていると、私の席に草野くんが近づいてくる。
「菅谷、学校来れてよかったな」
「うん」
「川崎さんも色々ありがと」
草野くんのお礼に私はうまく返事が出来ない。きっと草野くんは菅谷くんにお見舞いに行っていいか私が代わりに聞いたことに対してお礼を言ってくれている。だけど私は草野くんに病気のことを秘密にしたまま、一人で菅谷くんに会いに行った。それは「頻発性哀愁症候群」の私と菅谷くんの二人の秘密。それがどこか心苦しく感じたが、この秘密を明かすわけにはいかなくて。
「川崎さん?」
「あ、ごめん。何でもない」
草野くんは友達に囲まれている菅谷くんの方を見ていた。
「草野くんは菅谷くんのところ行かないの?」
「うーん、今は他の友達に囲まれてるから。次の休み時間にでも声をかけるよ」
「そっか」
菅谷くんに視線を向けてそう話す草野くんが少しだけ大人びて見えた。
その時、川北先生が教室に入ってきて「ホームルーム始めるぞー」と呼びかけると生徒がぞろぞろと席に座り始める。
「じゃ、また。川崎さん」
草野くんがそう言って、自分の席に戻っていく。私がもう一度菅谷くんに視線を向けると、菅谷くんはもう自分の席に座っていた。
金曜日まで空いていた菅谷くんの席が埋まっていることが嬉しくて、それだけでもう十分だった。
その日の授業は何故か早く感じて、あっという間に放課後になってしまう。私がスクールバッグに教科書をしまって帰る準備をしていると、スマホに通知が来ていた。
スマホを開くと、菅谷くんからメッセージが入っている。
「案外、来てみたら大丈夫だった」
私はパッと顔を上げて、菅谷くんの席に目を向ける。菅谷くんと目が合うと、菅谷くんが少しだけ笑ったのが分かった。
同じ教室にいても、顔を合わせて話すわけじゃない。スマホ越しのメッセージなのに、届いたメッセージの内容を見るだけで嬉しくて堪らない。
私は菅谷くんに「良かった」と短いメッセージを返した。菅谷くんがスマホの通知音に気づいて手に取ろうとした瞬間、菅谷くんの後ろから草野くんが声をかけた。
「菅谷、今度遊びに行かね?復帰祝い!」
菅谷くんと草野くんはそのまま二人で楽しそうに話している。私はその光景を微笑ましく思いながら、帰り支度を終わらせた。
しかし、スクールバッグを持ち上げた瞬間に聞こえた草野くんの声に私は固まった。
「折角だし、オリエンテーションの班で遊ばね!?」
ドッと心臓が速くなっていく。自分でも何でこんなに緊張しているのかすぐに分からない。
ああ、そうか。
私はまだ教室の中で「傍観者」でいたいんだ。周りの人に迷惑をかけたくなくて、まだ人と関わるのをどこか恐れている。
草野くんが私と美坂さんに声をかける前に私は草野くんの声が聞こえなかったふりをして、教室を飛び出した。
家に帰ってすぐに着替えてベッドに横になると、いつものぬいぐるみが枕元に座っている。
家に帰って一人で部屋にいるだけでその症状はまた顔を出すのだ。
寂しい。
壊れるくらい寂しい。
新入生オリエンテーションの前に私はこのぬいぐるみに弱音を吐いた。
「知ってる?人間って寂しくても死なないんだよ。こんなに辛いのに」
「このまま死ねたらいいのに」
その言葉を思い出すだけで頬に涙が伝って、シーツに少しだけシミが出来た。病気の症状も重なって、涙は止まらなくてシーツのシミは大きくなっていく。病気になってから、前よりずっとずっと泣き虫になった。
菅谷くんは前に進んだのかな。まだ無理をしてるのかな。
それでも、今日も菅谷くんの周りには沢山の友達がいた。周りに迷惑をかけないために「一人」を選んだのは私なのに、すぐに寂しさは顔を出す。
その時、スマホがピコンと鳴った。私はいつも家に帰るとすぐにスマホの通知音をオンにする。一瞬の気の紛らわしにしかならない通知音すら、寂しさを埋めてくれる道具の一種なのだ。
スマホを開くと、オリエンテーションの班のグループに草野くんがメッセージを送っている。
「今度、四人で遊びにいかない?」
私はそのメッセージにすぐに返信することが出来なかった。
いつも使っているメモ帳を見返せば、いつでも入学前に決めた目標を見返せる。
・「頻発性哀愁症候群」を治すこと
・周りの人にこれ以上絶対に迷惑をかけないこと
・高校を無事卒業すること
良くなっていない「頻発性哀愁症候群」、周りの人に迷惑をかけたくないくせに新入生オリエンテーションで私は菅谷くんに保健室に連れて行ってもらった。カレー作りを手伝うことすら出来なかった。
何も達成できていないまま、周りの優しさを返せないまま、周りからの優しさだけが降り積もっていく。
私は四人のグループに表示されたメッセージをただ見つめていた。
「今度、四人で遊びにいかない?」
他の三人の返信は早くて、すぐに決断出来ない自分がもどかしかった。草野くんのメッセージに一番早く返したのは菅谷くんだった。教室で話を聞いていたのもあったのかもしれない。
「行く!」
それからすぐに美坂さんもメッセージを返した。
「行きたい!でも、今週の土日だったら厳しいかも……!」
美坂さんのメッセージに草野くんが「まだ日程決まってないから平気!」と送っている。言葉は思いつかないのに、早く返したいと思う気持ちで焦ってしまう。
その時、もう一度通知音が鳴った。
「川崎さんは来れそう?」
返さないと。周りの人に迷惑をかけないために誰とも関わらないと決めたのなら、断らないと。そう思うのに何故かすぐに文字を打つことが出来ない。
その時、スマホの着信音が鳴った。画面には「菅谷 柊真」と表示されている。私は何が起こっているかよく分からないまま、電話に出た。
「もしもし、川崎さん?急に電話してごめん。今ちょっと大丈夫?」
「うん……」
「班で出かける話さ、無理しなくていいから。川崎さんの病気の状態もあるだろうし、本当に無理しなくていいよ」
菅谷くんが電話をかけてきてくれた理由に私はひどく安心してしまう。
「川崎さんはどうしたい?」
菅谷くんの問いに私は返事が出来ず、黙ってしまう。
「やっぱり症状が出るのが怖い?」
違う。症状が出るのが怖いのもあるけれど、一番は人と関わって周りの人に迷惑をかけることが怖かった。菅谷くんは私の返事が遅れたことで、私が症状が出ることを怖がっていると思ったようだった。
「川崎さん、もし出かけるのが嫌じゃないなら遊ぼ。症状が出たら真っ先に俺に言って。お互い助け合えば大丈夫だよ」
菅谷くんの優しさにうまく返事が出来なくて。
「川崎さん?大丈夫?」
「あ、うん……ごめん」
「全然。俺の方が川崎さんに助けてもらってるし。今日、高校に行けたのも川崎さんのおかげ」
「ちがっ……!」
「ん?」
「それは菅谷くんが頑張ったからだよ。菅谷くんが勇気を出したから……」
私の言葉に菅谷くんはしばらく何も言わなかった。しばらくして菅谷くんが少しだけ嬉しそうに笑った声が聞こえた気がした。
「川崎さん。遊ぶ日程が決まったら連絡するから、もし来れそうだったら来て。当日、来れそうだったらでいいから。勿論無理しなくていいよ。基本的に来ないと思って遊んでる。草野と美坂さんには俺から上手く伝えとくから」
私は菅谷くんの言葉に返事が出来ないまま、菅谷くんは「じゃあ、また明日」と言って電話を切ってしまう。
翌日の夜、菅谷くんから「6月2日10時」と送られてきた後、集合場所に最寄り駅の前が指定されている。最後に「一応送っとく」とメッセージが届く。
きっとこの「一応」は私が断りやすいように書いてくれている。その優しさが嬉しくて、はっきり断ろうと思っているのに決断を後回しにしてしまっている自分がいた。
6月2日9時。
約束の時間まで一時間。私は自分の部屋で座ることも出来ずに、立ち上がってウロウロと部屋を歩き回ってしまう。
チッチッと時計の秒針の音がいつもより大きく聞こえる気がする。でも、頻繁に時計を確認しても時間は全然進んでいない。
「どうしよ……」
焦る気持ちはあるのに、部屋の扉を開けることすら出来ない。その時、コンコンと部屋の扉がノックされてお母さんの声が聞こえる。
「奈々花、一緒にショッピングモール行かない?そろそろ涼しめの服を買いたくて」
「えっと、今日は……」
「何か用事あるの?」
お母さんがそのまま「開けるわよ」と言って、扉を開いた。
「あら、もう着替えてるの?」
お母さんの言葉に私はキュッと胸が痛くなった。いつもならお昼頃までパジャマでのんびりしている時もある。
「どこかお出かけ?」
「……ちょっとオリエンテーションの時の班で遊ばないかって……」
私の言葉を聞いた瞬間、お母さんの顔をパッと明るくなった。
「そうなの……!それはいいわね。楽しんでいらっしゃい。もう出かけるの?」
「一応10時に約束……」
「じゃあ、そろそろ出ないとじゃない!ほら、早く一階に降りましょ」
お母さんにつられるように私は階段を降りていく。開けられなかった自分の部屋の扉をあっという間に飛び越えて。
バッグを持って、いつの間にか靴を履いて玄関に立っている。
「ゆっくり楽しんでおいで」
お母さんはもう一度、私にそう言ってくれる。私は「行ってきます……」と行って、家を出た。
家を出た後に戻るわけにもいかず、私は集合場所にゆっくりと歩いていく。15分ほど歩くと、すぐに集合場所の駅前に着いていた。
駅前は少し人混みが出来ていたが、見渡せばすぐに美坂さんを見つけることが出来た。まだ約束の時間まで10分はあるので、二人はまだ来ていないのだろう。私が近づくと、美坂さんがすぐに私に気づいた。
「川崎さん!」
美坂さんが私に駆け寄ってきてくれる。
「来られたんだね!菅谷くんから用事が入るかもで、来れないかもしれないって聞いてたから」
「えっと、用事がなくなって……」
「そっか!来られてよかった!」
美坂さんと話しているとすぐに草野くんと菅谷くんがやって来る。草野くんが私を見つけて指を差した。
「川崎さんいる!やった、四人揃ったじゃん」
「草野、声でかい!」
菅谷くんが草野くんの頭をペチンと叩きながら、私と目を合わせて少しだけ笑った。草野くんは「よっしゃ。じゃあ、行こ!」と言って歩き出そうとする。私はつい呼び止めてしまった。
「あ……どこに行くの?」
「え!菅谷、教えてないの!?」
「やべ、忘れてた」
「お前、馬鹿だろ!」
菅谷くんが私に「ごめん」と謝った。
「近くにめっちゃ綺麗な景色が見える川があってさー、そこ見た後にショッピングモールでお昼食べる予定!」
「草野ってマジで水好きだよな」
「どういう意味!?」
「いや、海の時も喜んでたから」
「誰だって嬉しいだろ!」
そんな話をしながら、私たちは草野くんの教えてくれた場所に向かって歩いていく。途中でバスに乗ったが、バスは空いていて全員座ることが出来た。
「なぁ、草野の言ってる川ってどんな場所?」
「俺も友達に綺麗だって教えてもらっただけで、行ったことないんだよな」
「行ったことねーの!?」
草野くんと菅谷くんが小声でも分かるくらい楽しそうに話している。その時、隣に座っている美坂さんが私の肩をトントンと叩いた。
「川崎さん、今日来てくれてありがとね」
美坂さんが私に少し近づいて、さらに小声で話す。
「本当は川崎さんが来なかったら、ちょっと気まずいなって思ってたの。男子だけと遊ぶことなかったから。だから川崎さんの顔を見た時安心しちゃった。でも、それ以上にまた四人で集まれたことが嬉しい」
美坂さんが私と目を合わせて笑ってくれる。美坂さんはいつも優しくて素直で、そんな所に救われている。でも美坂さんが嘘をついていないことが分かるから、「また四人で集まれて嬉しい」という言葉が本心だと分かるから……自分の醜い部分がさらに見苦しく感じてしまう。
バスに乗っている時間は短く感じたけれど、時計を見ると15分ほど乗っていたようだった。
「着いたー!ていうか暑くね!?」
「草野、もう半袖じゃん」
「半袖でも暑いんだよ。ていうか美坂さんと川崎さんは大丈夫?ちょっと休憩してから川まで行く?」
「ううん、私は大丈夫だよ」
「私も大丈夫」
バス停から草野くんが言っていた場所までは歩いて10分程だった。ちょっとした山道を抜けていくと、すぐに川は見えてくる。
「え!めっちゃ綺麗じゃん!」
草野くんは川が見えると、先に走り出して川の方まで行ってしまう。
「おい!菅谷、早く来いって!」
「なんで俺だけ呼ぶんだよ」
「女子に走れって言えないだろ」
「草野ってそんな気遣い出来るんだな」
「うるせー」
菅谷くんはそう言いながらも、草野くんの方へ早足で向かっている。少し遅れて私と美坂さんは草野くん達に追いついた。
「わ!本当に綺麗」
美坂さんがそう呟いたのが聞こえた。今日は晴れていて、何より川の後ろに見える橋や木々が綺麗にはっきりと見えていた。橋は青色のペンキで塗られていて、それがよく映えている。
美坂さんはスマホを取り出して、その風景を写真に収めていた。草野くんもスマホで写真を撮っている。
「木下に送ろ」
「木下って二組のバスケ部のやつ?」
「そうそう。この場所教えてくれたから、来たって報告送ろうと思って」
草野くんと美坂さんが写真を撮っているのを見ていると、菅谷くんが私のそばまで歩いてくる
「川崎さんは写真撮らないの?」
「私、写真のセンスなくて……」
「俺も」
菅谷くんはその後は何も言わなくて。「どうして来れたのか」も「来れてよかった」も言わないでくれる。いつもの菅谷くんの優しさだった。
すると、草野くんが美坂さんに何かを話しかけた後に私たちの方へ駆け寄ってくる。
「今、美坂さんと話してたんだけど、お昼ご飯ショッピングモールで食べるんじゃくて近くのコンビニで買ってきて、そこら辺座って食べね?」
草野くんはそう言って、川沿いの道に設置されているベンチを指差している。二つ並んだベンチで、二人ずつ座れば丁度四人座れるだろう。
「めっちゃ景色いいから、あそこで食べたら最高かなって」
「俺は全然いいよ。むしろ賛成」
「私も賛成」
「じゃあ、早速近くのコンビニ行こーぜ。調べたらここから5分くらいであるっぽい」
スマホで道を調べながら、歩いていくとすぐにコンビニが見えてくる。コンビニに入ると冷房が効いていて、火照った身体が冷えていって気持ちいい。
「俺、暑いから冷やし中華にしようかな。菅谷は?」
「悩み中。ていうか、それよりまず飲み物選びたいかも」
「あー、確かに」
草野くんと菅谷くんが飲み物の置かれている方へ歩いていく。
「川崎さん、私たちも先に飲み物選ぼ!」
美坂さんはスポーツドリンクとお茶で悩んでいたが、お昼ご飯と一緒に飲むのでお茶を選んだようだった。私も500mlのお茶のペットボトルを手に取った。
お昼ご飯を選んでいると、草野くんがお菓子の棚からポテトチップスの袋を持ってくる。
「ポテチも買わね!?」
「どうやって食うんだよ」
「普通にみんなで食えば良いだろ」
「絶対、外で食ったら落とすって。やめとけ」
菅谷くんが止めているが、草野くんは「じゃあ、俺一人で食うから!」と言って結局レジに持っていく。そんな光景を見ていると、ふと中学の頃の光景を思い出した。
「奈々花ちゃん、放課後、希美の家いくんだけど一緒に来ない?」
「みんなでお菓子持ち寄ろ!」
「私、チョコ持ってく!」
まだ病気を発症するずっと前の記憶。中学に入ってすぐの記憶。そんな懐かしい記憶が蘇ってくる。それからすぐに諦めた光景が今、目の前にあって。
「川崎さん?どうした?」
「あ、ごめん!行こ!」
コンビニを出ると、また蒸し暑い空気に戻ってしまう。6月とは思えない暑さだった。
川辺に戻ると、先ほど見つけた二つのベンチに四人で座る。それぞれのお昼ご飯を食べ始めた。
「にしても暑くね?まだ6月だぞ」
「もう6月の間違いだろ」
「あー、確かに。ていうか、この冷やし中華うま!」
「まじ?今度、俺も食べてみよ」
「この後、どうする?なんかしたいことある人いる?」
草野くんの問いに美坂さんが何かをスマホで調べてから、私たちに画面を見せてくれる。
「近くの美術館でトリックアート展がやってるんだけど、もし良かったら見に行かない?」
美坂さんの見せてくれている画面には「トリックアート体験を楽しもう」と書かれたホームページが表示されている。草野くんが「良いじゃん!」と言いながら、美坂さんと一緒にスマホの画面を見ている。私と菅谷くんも美坂さんの案に賛成だった。
「じゃあ、ここにしよ!調べた感じバスで行けば、乗り継ぎなしで行けそう」
美坂さんがそう言って、バスの時間も調べてくれる。
「あ!あと15分でバス出発する!急いで食べよ!」
美坂さんの言葉に私たちは終わりかけの昼食をすぐに食べ切り、バス停に向かった。バス停に着くと丁度バスがやってくる。
バスに乗って30分ほどで目的の美術館に着いた。
「うわ、俺、美術館とか小学生ぶりなんだけど」
「草野でも美術館行ったことあるんだな」
「どういう意味!?」
「いや、なんかイメージなかった」
「菅谷、お前もっと俺に遠慮しろ!」
草野くんと菅谷くんは楽しそうに話していたが、美術館に入るとすぐに静かになってトリックアート展の開かれている場所まで歩いていく。トリックアート展なこともあり、美術館では珍しく「写真撮影OK」と書かれている場所も多かった。
美術館の中でもトリックアート展は家族連れも多く、少しなら話している人もいる。
「菅谷、この場所で写真撮ろーぜ。そこ立って」
草野くんが菅谷くんをトリックアートの上に立たせて、写真を撮っている。私と美坂さんも何枚か写真を撮っていると、美坂さんが小声で私に話しかけた。
「川崎さん、私、別のブースでやってる油絵のコーナーも見たくて……ちょっと行ってくるね」
美坂さんが高校で美術部に入っていることもあって、本当に絵が好きなようだった。美坂さんがトリックアート展を出ようとして、私の方を振り返った。
「川崎さんも良かったら油絵を見に行かない?」
「うん、行こうかな」
私たちは草野くんと菅谷くんに油絵のブースに行くことを伝えて、トリックアート展を先に出た。油絵のブースは子供連れも少なく、誰も小声でも話していなくて静かだった。美坂さんと私はそれぞれのペースでゆっくりと油絵を見ていく。
小さい頃は美術館が好きだった。美術部に行けなくなった後は自然と美術館に行くこともなくなったけれど、やっぱりこの雰囲気が落ち着いてしまう。
油絵を見終わってブースに出ると、美坂さんはもう見終わっていた。
「ごめん!待たせちゃった?」
「ううん、全然。私も今、見終わったところ」
私たちはそのまま菅谷くん達がトリックアート展から出てくるまで、エントランス付近の休憩所で休むことにした。
「川崎さんって油絵が好きなの?」
「うん。割と美術関係はなんでも好き」
「そういえば中学は美術部だったってオリエンテーションの時に言ってたね」
中学の頃の部活のことを思い出すと、美坂さんの言葉に上手く返事をすることが出来なかった。
「高校は美術部入らないの?」
「あ、えっと……帰宅部にしようかなって」
「そっか。川崎さんが美術部入ってくれたら嬉しいなって思って、ちょっと聞いちゃった」
美坂さんはなんで帰宅部がいいかとかそんなことは何も聞かないでくれる。
「今ね、美術部に先輩も入れて11人しかいなくてね。小さい部活だから、みんな部室で一人一個机使えるの」
美坂さんは楽しそうに美術部の話をしてくれる。その話の中には今書いている絵の話もあって、それがとても眩しく感じた。
「今度は水彩画を描こうと思ってて……あ、ごめん。面白くない話しちゃった」
「ううん、楽しいよ。本当に」
「……」
「美坂さん?」
「川崎さんって絵が本当に好きなんだね」
美坂さんはそう言って、嬉しそうに笑ってくれる。
「私の描いてる水彩画の話ね、この前クラスの友達にしたら、楽しそうに聞いてくれたけどすぐに別の話題に移っちゃって……なんか申し訳ない気持ちになったの。でも今の川崎さんがとっても楽しそうに聞いてくれるから、いっぱい話しちゃいそう」
美坂さんの言葉に私はぎこちなく笑い返すことしか出来なかった。私の本心を見透かされた気がした。
その時、菅谷くんと草野くんがトリックアート展から出てくる。
「ごめん、二人とも。遅くなった。菅谷と全部のトリックアート制覇しようぜって話になって」
「おい、言い出したのは草野だろ」
「菅谷もノリノリだったじゃん」
草野くん達と合流して美術館を出た後も、美坂さんの言葉が頭に残ったままだった。
バスで駅まで戻ると、もう時刻は3時を過ぎていた。草野くんもスマホで時間を確認している。
「まだ3時だけど、どうする?」
「俺は疲れたし、そろそろ帰りたいかも」
「確かに。今日は解散にするか」
その時、菅谷くんがちらっと私の顔色を確認した気がした。きっと私の体調を気遣って解散しようと言ってくれたのかもしれない。
「じゃあ、また月曜な」
草野くんと菅谷くんは電車なので駅の中に入っていく。美坂さんも駅から見て私と反対方向の家なので、その場で別れた。
帰り道、一人になると急に寂しさが襲ってくる感じがした。症状というほど酷くはないけれど、どこか物寂しくて。きっとこれはさっきまでの時間が楽し過ぎたせいだ。
先ほどまでの楽しかった余韻が抜けきらない感じがする。でもぬいぐるみを握りしめたいような、いつもの症状ではなくて……なんて言ったらいいのか分からないけれど、嫌な寂しさじゃなかった。
家に帰ると、オリエンテーションの時のようにすぐにお母さんがリビングから出てくる。でもオリエンテーションの時と違って心配そうではなくて、私がクラスメイトと出かけたことが嬉しいようだった。
「おかえり」
お母さんの「おかえり」にどこか安心して、私はいつも通り「ただいま」と返した。
四人で遊びに行った日の夜、ある夢を見た。
小学校低学年くらいの小さな女の子が、両親と楽しそうに遊んでいる。ああ、あの子は昔の私だ。
女の子はブランコを父親に後ろから押してもらい、母親はその光景を笑顔で見ている。こんな時期もあったんだ。もうずっと前に忘れてしまっていた。
「奈々花、そろそろ帰りましょ」
「やーだ!もっと遊びたい!」
「もう、我儘言わないの」
そう怒りながらも両親は、どこか幸せそうだった。
場面が変わり、リビングで家族三人で話している。
「奈々花、一人でお留守番出来る?」
「出来るよ!奈々花、もう大人だもん!」
「あら、奈々花はまだ子供でしょう?」
「ちがーう!もう奈々花、小学生だよ!大人だもん!」
そう大きな声で言う私を見て、両親は安心したように家を出ていく。
……しかし暫くして、家に一人の私は泣き出すのだ。
「寂しい」
両親が帰ってくるまで、私は泣き続ける。
「奈々花、ただいま……って、どうして泣いているの!?」
「寂しかったのー!」
「あらあら、仕方ないわね。じゃあ、お母さんと手を繋ぎましょ」
お母さんが私に手を両手で包み込むように握る。
「大好きよ、奈々花。寂しくなんかないわ。お母さんとお父さんは奈々花が大好きだもの」
っ!
目が覚めると、目から涙が溢れていた。
今のはただの夢?それとも、昔を思い出したの?
分からない。でももう一度、今の夢が見たい。今の夢が昔の私でも、ただの夢でも、どっちでもいいの。ただ、もっと幸せを味わわせて。もっと幸せを感じさせて。
目を瞑っても、同じ夢など見れはしない。それでも、目を瞑る。だって、今ならきっといつもよりぐっすり眠れる気がするから。
四人で遊びに行った日の次の週のこと。
その日は日曜日で、翌日の学校のために私は早めにお風呂に入って寝る準備をしていた。その時スマホの着信音が鳴って、スマホを開くと菅谷くんの名前が表示されている。
菅谷くんから電話は四人で遊ぶ前にかかってきたきりで、どこか緊張してしまう。
「川崎さん。急に電話してごめん」
「ううん、大丈夫。何かあった?」
「実は、サッカー部に入ろうか悩んでて……」
何故か心臓が少し速くなったのが分かった。四人で遊びに行った日から部活の話に敏感になっているのかもしれない。
「いや、悩んでるんじゃないかも。入りたいのに勇気を出しきれないだけ。俺、小学生の頃からずっとサッカー部だったんだけど、この症状のせいで高校は部活を諦めるつもりだったから」
菅谷くんの声色はいつも通りで、声だけで菅谷くんの感情を読み取るのは難しかった。
「でも、やっぱり諦めたくないなって」
私も菅谷くんと同じで病気の症状のせいで部活を諦めた部分もあって。でも菅谷くんとの大きな違いは、菅谷くんはちゃんと前に進もうとしている。
「周りの人に迷惑をかけたくない」と思って、前に進めない私とは違う。ううん、本当は「周りの人に迷惑をかけたくない」っていう気持ちを言い訳にして、人と関わるのを避けているのかもしれない。
それでも、菅谷くんを応援出来ないような人間にはなりたくなかった。
「菅谷くんなら大丈夫だよ。応援してる!」
この気持ちも紛れもない本心だから、どうか伝わってほしかった。
「なんか川崎さんには弱音ばっかり吐いてるね」
「それは私も」
「でも、なんか勇気出たわ」
菅谷くんが自分から私を頼ってくれることは本当に少なくて。菅谷くんが勇気を出すために私に電話してくれたことが嬉しかった。
「ごめん、こんなことで電話かけて。ありがと」
「ううん、全然」
菅谷くんと電話が切れた後も、しばらくスマホの真っ暗な画面を見ていた。
その時、急に症状が顔を出した。
寂しい。
私は慌てて、枕元に置かれているぬいぐるみと手を繋いだ。さっきまで菅谷くんと話していたからだろうか。急に一人になって寂しくなったのかもしれない。
そう思うのに、いつもと違ってぬいぐるみと手を繋いでも中々症状が治らない。
なんで。なんで。早く治って。
先ほどの菅谷くんの言葉が頭をよぎったのが分かった。
「実は、サッカー部に入ろうか悩んでて……」
「やっぱり諦めたくないなって」
段々と息が苦しくなっていく感じがする。
「置いていかないで」
気づいたら、そう呟いていた。どれだけ私は最低なんだろう。自分だけ前に進めないのが「寂しい」なんて。置いていかれるのが「寂しい」なんて最低すぎる。だって、自分も前に進めばいい話。進もうとすればいいだけの話。
「怖い、だけ……なんだけどな……」
そう呟いた自分の声が部屋に響いた気がした。
それからの半月くらいはとても早く感じて、いつの間にか教室で放課後に聞こえる会話が変わっていく。
「菅谷、今日も部活?」
「おう」
「マジか、土曜は遊べそう?」
「土曜も部活だわ」
「サッカー部忙し過ぎね!?」
「あはは、やべーよな」
菅谷くんは放課後、すぐに草野くんと部室に走って行く。放課後に校庭ではサッカー部の声が響いていた。
窓の外を見ればユニフォームに着替えた菅谷くんと草野くんが校庭を走り始めている。クラスメイトが帰って誰もいなくなった教室で私だけ文字通り取り残されたようだった。
「川崎」
名前を呼ばれて振り返ると担任の川北先生が教室の扉の所に立っている。
「帰らないのか?もう皆んないないぞ」
「あ、すみません。すぐに帰ります」
私は急いでスクールバッグを肩にかけようとする。
「最近どうだ?」
川北先生は病気のことを知っている。きっと心配してくれているのだろう。
「変わらず……ですね。でも、病気にも大分慣れたので」
「病気に慣れた」なんて悲しい言葉を吐きたくなんかないのに、その言葉は当たり前のように零れ落ちてしまう。先生はそれ以上は聞かずに「何かあったら相談してくれ。無理するなよ」と言って教室から離れていく。
もう一度窓の外を見るとサッカー部は運動場の端に集まって顧問の先生の話を聞いている。私はすぐに窓の外から視線を外して、教室を出た。
家に帰って玄関の扉を開けると誰もいない。両親はまだ仕事から帰ってきていないようだった。お母さんは私の病気が分かった後に、夕方ごろには家に帰れる仕事に転職した。
「前の職場にも不満があったから、ちょうど良かったわ」
転職した日にそう話したお母さんの言葉を今でも思い出すことが出来る。どれだけ迷惑をかけているか想像するだけで泣きそうになった。それでも結局オリエンテーションの最終日は平日なのに、家に帰ってお母さんがいることに安心した。
寂しい。
急にその感情が顔を出したのが分かった。私は靴を脱いで、玄関のすぐ前の廊下でうずくまる。
「大丈夫。寂しくないよ」
一体、人生で何回この言葉を言えばいいのだろう。その時、四人で遊びに行った日の夜に見た夢が頭をよぎった。
「大好きよ、奈々花。寂しくなんかないわ。お母さんとお父さんは奈々花が大好きだもの」
あの夢の言葉を思い出すと、症状が治っていく感じがした。それでも、まだ寂しくて。
その時、玄関の扉が開く音がして振り返るとお母さんが立っていた。
「おかえり、お母さん……」
「ただいま、奈々花。どうしたの?症状が出た?」
お母さんはうずくまっている私に合わせて、廊下に腰を下ろした。
「大丈夫よ。お母さん、奈々花が大好き。寂しくなんかないわ」
私の症状が出た時はいつもお母さんも「寂しくない。大丈夫」と言ってくれる。それが私が一番安心する言葉だと知っているから。
いつもの言葉。いつもの症状を和らげるための言葉。でも、何故か同じ言葉でもあの夢の言葉の方が安心出来た。
「お母さん、本当に私のこと好き?」
「え……?」
「こんなに……こんなに、迷惑、かけてる……のに?」
涙が溢れ、言葉が途切れる。
ずっとずっと不安だった。本当は嫌われているんじゃないかって。
それでも、嘘でも「大好き」と言って欲しかった。何で、夢の中の言葉が嬉しかったのか。理由は簡単だ。その言葉を純粋に信じられたんだ。
お母さんも何故か泣きそうになりながら、うずくまる私を抱きしめる。
「どうしたの?奈々花。大好きよ、当たり前じゃない」
「こんなに迷惑をかけて、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
呪文のように「ごめんなさい」を繰り返してしまう。
「ごめんなさい、寂しくても死なないのに。どうして、こんなに迷惑かけてるんだろう」
お母さんは泣きながら、私をぎゅうっと抱きしめ返した。
「ねぇ、奈々花。寂しくても死なないかもしれない。それでもね、心は弱るの。お母さんね、ずっと後悔してたわ。もっともっと奈々花に『大好き』って伝えてあげれば良かったんじゃないかって。そしたら、奈々花は病気にならなかったんじゃないかって」
「っ!違う!……これは本当にただの病気だから!」
「そうね、でも、今、奈々花の心は寂しいって悲鳴をあげてる。お母さんは、奈々花の悲鳴を抑えてあげることしか出来ない」
お母さんが私を抱きしめながら、私の背中をゆっくりと撫でた。
「奈々花、大好きよ。本当に愛しているわ。ずっとずっと寂しいって言い続けてもいい。お母さんが何度だって、奈々花に愛を伝えるから」
声にならないほど涙が溢れていくのが分かった。
「全然、病気も良くならないっ……!」
「奈々花、大丈夫。焦らなくていいの。奈々花は奈々花なりのペースで進めばいい」
お母さんが私の背中をトントンと優しく叩いてくれる。「私なりのペース」ってなんだろう?
気持ちばかりが焦って何も出来ていない気がしてしまう。
「お母さん……私、少しは進んでる?」
「ええ、絶対進んでるわ。だって、笑顔が増えたもの。高校に行く時も前よりずっと嫌そうじゃなくなった」
私は自分が気づいていないだけで、笑うことが増えていたのだろうか。
お母さんは私が泣き止むまで私を抱きしめてくれていた。しばらくして、私は顔を上げる。
「ごめん、お母さん。もう大丈夫……」
「そう。良かった……奈々花、お母さんは心配しすぎかもしれないわね」
「え……?」
「今、奈々花に『絶対に進んでる』と言ったのは私なのに、まだ心配性が抜けなくて……」
お母さんは恥ずかしそうに笑った。
「大丈夫だよ。本当に大丈夫」
気の利いたことが言えなくて、私はそう返すことしかできなかった。それでもお母さんは嬉しそうに笑って、「さ、そろそろ夕飯の準備しないとね」と言って立ち上がった。
私が自分の部屋に戻ると、スマホにメッセージが来ていた。オリエンテーションの班のグループに菅谷くんがメッセージを送っている。
「今度サッカー部の練習試合があるんだけど、川崎さんと美坂さん見に来ない?」
いつもならすぐに出来ない返信をその日はすぐに「行く」と返していた。