朝。ガラリとリビングの窓を開けるとさらりと風が舞い込んだ。夏の香りを少しはらむその風は同時にまだ少しの涼しさも運んでくる。梅雨があけたばかりの空は今日も青く澄み渡っていた。
 俺の家は高台にある。開けた窓から見える景色は駅に向かってなだらかに下り、真正面にそびえ立つ辻切(つじき)のビル群にザワザワと砂粒のような人波が吸い込まれていく。まぁ、俺もあと30分もすればあそこに交じるわけだが。

 ふと振り返るとキングサイズのベッドにはうっすらと2人分のくぼみだけ残り、そこにいたはずの女はすでに姿を消していた。
 昨日バーで会った女。艷やかな髪の妙に線が細い女だった。酔った勢いで連れ込んで、あとはあまり覚えていない。今日は平日だ。おそらく俺が起きる前に家を出たのだろう。なんとなくその残滓を追って玄関に向かうとやはり鍵は開いていた。そして置き土産のようにノブに薄く淡いライラック色のハンカチがふわりと巻かれていた。
 広げれば同じような薄く淡い薄紫の色の口紅で何か書いてあった。昨日の夜を思い出す。あの唇からも少しライラックの香りがした。目を凝らしてみたけれどもライラックに薄紫。薄すぎて暗い玄関では読めない。
 ベランダに戻って初夏の明るい日差しにかざす。目をすがめると、口紅の油分がテラテラと光を反射し、目を細めるとかすかに文字が読めた。約……束……

 約束を覚えてる?
 ヒントは全部で3つ。
 最初のヒントはあなた。
 その次は?
 昨日のことは覚えているかな?
 運命の車輪から奇跡を見つけて。

 昨日……どうだったかな。何か約束しただろうか。結構飲んでいて、正直あまり覚えていない。
 ヒント、ヒントは俺か。ううん。頭を働かせようとしたら微かに頭痛が響く。昨日の酒がまだ少し残っている。ベランダから吹き込む暖かな風がそろそろ時間だと背中を押す。
 仕事にいかないと。
 そう思ってワイシャツに袖を通した時、小さな違和感があった。なんだろうと袖や肩をひねって見回して初めて、持ち上げたその指に気がついた。
 俺の右手の小指の丁度外側に赤いペンで文字が書いてあった。

『19番目』

 妙なおかしさがこみ上げる。この探偵のような試みはなんだか少し面白かった。子供に戻ったようで。
 それにしても、見つけさせるつもりはないんだろうな、と思う。一番外側の指の側面なんて普通は確認しようとも思わない。水性ペンのようだから、先に顔を洗ってしまえば消えてしまうだろう。起きて最初に玄関を確かめてすぐに自分を探したからようやく気づけたこと。普通は出かける時にようやく気づいて、気づいたときにはもうヒントはない。
 気づいてしまったこと自体が、なんだかまんまと罠にかかった気分だ。

 マンションを出て緩やかな坂を下りながら昨日の女のことを考える。正直酔っ払っていてあまり覚えてはいなかった。妙にひんやりと体温が低かったような気はするが、恐らく酒のせいで俺の体温が高かっただけだろう。
 Bar Heri nocte(エイリ ノクテ)。駅からは少し離れたところにある静かなバー。その落ち着いた雰囲気が良くてたまにいく。店名は確か『昨日の夜』という意味。おあつらえ向きだ。
 昨日の夜、何を話したけっな。

 あの女の名前はなんだった。聞いたような、聞いてないような、それもすでに曖昧だ。
 昨日、か。俺は酒を飲んでる時に仕事の話はしないタチらしいから、恐らく趣味の話でもしたのだろう。写真の話とか。写真、そういえばそんな話をしたような記憶が頭の底からふわりと浮き上がってきた。休日は出かけていって写真を撮る。雨男だから都合が悪い。そんな話を。
 それから確か休日にいく場所の話をして、確かあの女は食べ歩きが好きだと言っていた気がする。美味い飯屋や甘味処、カフェ。そんなような。
 そんな連想を頭の中から引きずり出している間に会社に着いた。朝の日差しの中、昨日の夜ことをぼんやりと考えながら仕事をしていると、いつのまにか昼が訪れる。

 19番というのは恐らく駅前にある『number19』というハンバーガーショップのことだろう。辻切では有名らしく、俺も噂は耳にしたことはあったが入るのは初めてだ。昨日の女の話にも薄っすらと出ていた気がする。
 カウンターに沿って並び、店員にバンズと具材、それからソースを指定する。分厚目のパテに濃厚なチーズと香ばしいローストオニオン、新鮮なトマトとレタスとアクセントにぴりりと辛味の効いたマスタードとピクルス。昨日、あの女が美味かったと言っていたセレクト。どうやら先週これを食べたらしい。そんなことが、ふわりふわりと記憶の底から浮かんでくる。
 大口をあけて齧りつくとジューシーな肉汁が口の中にあふれた。ローストされたチーズの香りに少しのバルサミコが口に残る。セットのポテトも端っこまでカリッと揚がって食感が心地良い。少し高めの値段に満足できるほどの味だと思うが、高いハンバーガーというのは食べづらくて仕方がない。

 さて、俺はここで何をすればいいのかな。
 店内を見回す。賑わっている。若者、主には二十前後のカップルや単独女性が多い。やはり俺は不似合いだ。そういえばあの女は二十代後半くらいに見えたから、ここには合うのだろう。 
 ウッディな内装にところどころ置かれた観葉植物。天井にはゆったりと大きなファンが回っている。壁にかけられたメニュー表。その周囲にはたくさんのバーガーのスナップ写真。まるで湯気が出ているような、今にも匂いが漂ってきような美味そうな写真ばかりだ。垂り落ちる肉汁とチーズのシズル感。
 手元に目を落とす。匂いは確かに手元から出ていた。あの女がこのバーガーを褒める副音声が重なり、妙に面白く感じる。
 このバーガーよりあの写真はふうわりしてみえる。確かバーガーを奇麗に撮るために、プロは中心に串をたてて潰れないようにしているのだったかな。それから粘性の有る液体を塗布して光沢を作っているとか。奇麗に撮ろうとするとやはり本物からは離れていく。あの写真もおそらくそのように撮られたのだろう。

 そういえば昨日、写真の話をしたっけ。ふと気がついて、食べ終わったバーガーの包装を片付けその写真に近づく。パテ、オニオン、チーズ、トマト、レタス。さっき俺が頼んだセレクトの写真を見つけた。少し期待しながらピンで止められた写真をそっとめくると予想通り次へのヒントがあった。けれども困惑した。

 『魔女のいるところ』

 魔女? 魔女と言われてもなぁ。そういえばあの女はどこか魔女っぽかった気がする。
 19番はすぐにわかったけれど、今度はちっとも思いつかない。ここまでか。
 路がふつりと途切れてしまった。ふわりと手にしていた羽をなくしてしまったような、子どもの頃の宝物をどこかに落としてきてしまったような、妙に心寂しい気持ちだ。名残惜しいような。
 いつのまにか俺はこの謎解きに執着していたことに気がついた。

 初夏の日差しを抜けてザワザワしたオフィスに戻る。今日は少し蒸し暑い。太陽がきちんと仕事をして真っ黒なコンクリートを温め続けている。エアコンを入れるかどうかで女性陣と男性陣が争っている。バタフライ効果だ。
 そうこうして書類を片付けているとお茶会が始まっていた。
「部長代理もどうですか?」
「そうだな、たまには。何を食べてる?」
「お中元で頂いたお菓子ですよ。マカロン。保たないんで」
 ふうん、と思って1つかじると上下の生地はカシュリと空気のように溶けて、中からオレンジとミントの爽やかな香りが溢れ出た。
「へぇ、美味いもんだな」
「でしょう? これ1つ500円もするんですよ」
「そんなに?」
「西街道のHexen häuser(ヘクセン ハウザー)っていう有名なお店なんです。自分で買うのはちょっと無理かな」

 ふいに昨夜のことを思い出す。あの女は細い指でチョコチップをつまんだ後に少し残念そうな顔をして、ここのチョコチップはいまいちだと言っていた。それから辻切にとびきり美味しいケーキ屋があると。それからグラスの細い首を持ってシャンディ・ガフを傾けて、コポコポと小さな泡が口の中に消えていった。
「何ていう店だって?」
「ヘクセンハウザーですよ」
「つづりは?」
「ちょっと待って下さい。どこかに書いてあるはず、ほら」

 Hexen häuser

 茶色のリボンをもらって検索をするとドイツ語で魔女の家。見つけた。
 全く。わかりにくすぎるだろ。ため息とともに乾いた音が出る。というか、謎を解かせる気が全くないな。ドイツ語なんて知ってるわけがないじゃないか。
 ……だがそれでこそ謎だ。記憶の中の女が意味ありげに微笑む。それなら是非ともといてやろう。妙に愉快な気分になった。

 さっきの社員に店の場所を聞いて就業後に魔女のいるところに向かう。ヒントは3つ。あの女は魔女っぽい。とすれば、そこで会えるだろうか。心かわずかに浮き立った。
 西街道は繁華街から少し外れてもの寂しい。このだんだんと人通りがなくなる様子は魔女の森に迷い込んでいっているようだ。けれども暫く歩くと地図アプリに示された場所にオレンジ色の光をその窓から溢れさせる古い店があった。どうやら魔女と言ってもおどろおどろしい悪い魔女ではなく、オズの魔法使いに出てくるようないい魔女のようだ。
 不思議の香りの漂う暖かで重そうな木のドアを押すとその内側でカラリとカウベルが鳴り、ショーケースに色とりどりの菓子が並ぶのが目に入る。それでこれからどうしたらいいのかな。

 昨日のことは覚えているかな。

 昨日の会話ではチョコチップがいまいちでうまいケーキ屋があるとしか記憶がない。いや、俺が覚えていないのか。もう一度店内を眺め回してみてもピンとくるものはなかった。そしてカウンターの奥を覗いてみても、あの女の影はない。
 わかりにくい謎を出すあの女の『昨日』とはおそらくBar Heri nocteでのことなのだろう。けれどもこれ以上何も浮かばない。もう、思い出せないのか。謎がそこにあるなら探し出してやると思っていたが、ヒントを失ってしまってはもうどうしようもない。
 苦笑がこぼれる。せっかくここまでたどり着いたのに。仕方がない。一夜の妙な思い出だ。これはこれで面白かった。もともと謎が気になって追いかけていただけで、あの女と会ってどうこうという気もなかったし。
 少し残念な心持ちとともにケーキを見渡す。記念に何か買って帰ろう。あの女が好きな店だ。あの女の謎に負けた記念に。店の中で一番謎めいて見えたくるくるとテンパリングされたチョコが乗ったザッハトルテを1つ小さな箱に詰めてもらい、レジで支払いを済ませようと財布を開くとレジ脇に置かれた薄緑色のフライヤーが目に入った。
「これは?」
「ああ、それはこの店がスイーツを下ろしているレストランのショップカードですよ」
 見つけた。思わず唇の端がゆるむ。
 その店の名前は『リストランテ miracolo(ミラコロ)』。イタリア語で奇跡。
 ザッハトルテを1つ追加した。

 リストランテmiracoloは西街道の少し先の目立たない場所にあった。目立たなさすぎだろ。本当に見つけさせる気はないらしい。だが俺は見つけたぞ。
 そして俺はその頃には思い出していた。昨日の約束を。
 『明日晩ご飯を食べましょう』
 『昨日の夜』に俺の体で始まった謎は『19番』と『魔女の家』を通過してようやく『奇跡』に至ったわけだ。それなら記念に飯を食おうじゃないか。

 少し得意気な気分でカラリと奇跡の扉を開けると、卵色の柔らかくて明るい照明が溢れた。
 幸いにも夕食はまだだ。席に座ってメニューを眺める。眺めながらふと思う。左右を見回しても昨日のあの女はいない。それに奇跡の場所がここだとしても、いったい俺はどうやってあの女に会えばいいんだろう。
 そもそも時間の指定はなかった。営業時間は17時から23時と書いてある。あの女もこの店の営業中、ずっとここで待っているわけにはいかないだろう。そう思い至ってため息がでる。やはりからかわれていたのか。落胆に少し心がちくちくした。
 でもまあ、楽しかった。これはこれでいい。せめて飯を食って帰ろうと思ってメニューを検める。ケーキが1つ無駄になったけれども。

 パスタ。肉や魚よりも軽くパスタがいいな。そう思ってメニューをめくる。
 イタリアンは俺も好きだ。家でもたまに作る。メニューには定番から始まりこの店にしかなさそうな珍しい料理もいくつかあった。そうして末尾に小さく書かれている文字に気がついた。

-パスタはお好みのものをお選び下さい。
スパゲッティ、スパゲッティーニ、タリアテッレ、リングイネ、ペンネ、コンキリエ、ファルファッレ等、お申し付け下さい。

「あの、ルオーテはありますか?」
「ございますよ。どちらのメニューに致しましょうか」
「では本日のオススメを」
 しばらく待つ。
 なんだか妙にソワソワと心が浮き立つ。
 最初にアンティパストとサラダが運ばれる。
 ホッキ貝のグリルとトマトと舞茸のマリネ。グリルの香ばしさとマリネの優しい酸味が鼻に満ちる。口に含むとひやりとした貝に閉じ込められた濃厚な旨味があふれ、添えられたマリネの酸味が心地良く口中を洗い流す。美味いな、この店。それから白いモッツァレラと赤いトマトをカットして交互に並べてオリーブオイルをかけたカプレーゼ。チーズとトマトの不思議な歯ごたえが混じり合って美味いし色味もいい。なんとなく昨日の夜を思い出していると足音が聞こえた。メインのパスタのサーブだろう。
「お客様、お待たせ致しました。運命のポモドーロです」
 皿の上には車輪型のたくさんの小麦色のパスタにたっぷりと甘いトマトソースがかかり、散らされた緑のバジルが鮮烈な香りを放っていた。その皿をコックコートを羽織った昨日の女がにこやかに微笑んで捧げ持っていた。
「約束、覚えていてくれたんですね」
「ああ、確か、『明日晩ご飯を食べましょう』だったかな。そういえば『一緒に』とは言われなかった」
「そうそう」
「わかりにくすぎる」
「でも、見つけてくれた」
「デザートを買ってきたから後で食べないか」
「よろこんで」

Fin.