なぜ、彼は急に退職するなんて言い出したのだろう。


 同期の永田隼人は、私にとっては苦手な人間だった。
 
 背が高く整った顔立ち、すぐに人と打ち解けられる優れたコミュニケーション能力。誰しもが羨むものをいろいろ持っていて、いつでも羨望の眼差しで周りから見られる男だ。

 私はそんな彼に業績で一度も勝つことが出来なかった、哀れな女。

 同期といえども、気が強くて人に甘えることが苦手な私とはタイプが違うので、あまり関わることはなかった。まあ、永田は優しくて誰にも平等なので、いろいろ声を掛けてはくれるが、素直になれなかったのは私だ。永田は同期である前に、ライバルだと思っている。

 毎回彼に負けては悔しさに唇を噛みしめ、永田の横顔を盗み見ていた。

 そんな彼がしばらく前から何かに悩んでいることを、私は気づいていた。

 いや、部署の人間みんながそうだろう。ここ最近、彼はらしくないミスを繰り返していた。それが一つ、二つなら「疲れているんだろう」と笑って見過ごせたが、彼のミスはどんどん増えた。

 あの仕事が出来る完璧人間が、どうして? みんな首を傾げるばかりだ。

 本人はと言えば、自分の犯したミスに誰よりショックを受けていた。必死に頭を下げて謝り、フォローに走った。元々人望も実績も誰よりある人なので、ミスは大事にならずに済んでいるのは幸いだ。
 
 誰かが永田に聞いた。「なんか悩みでもあんの?」
 
 彼は答えた。「なんでもない」

 だが、永田はある日ついに会社を辞めることを決めた。しかも、かなり急な話。そのニュースは一気に部署内を駆け巡り、彼に想いを寄せる女子社員の中には泣き出す子がいたくらいだった。