「──また浩志から呼び出された!?」
 「それってさ、もう一回皐月に告白するためなんじゃない?」

 毎月第二金曜日の仕事終わり。『華金女子飲み会』と呼び合っている月に一度の飲み会で、ビールを片手に梨沙子と結衣がそう言った。

 大学を卒業して、社会人という立場になってもうすぐ三年が経とうとしている。高校時代から仲の良かったこの二人と、今月も無事にこの会を開催することができていることに感謝しながら、お通しで出された枝豆を口の中に二粒入れて、私は『うーん』と頭を傾げた。

 「いやぁ、違うんじゃない?」
 「いやいや、だって浩志ってば皐月と別れたあともずっと好きだったじゃん」
 「実際に何回かまた付き合おうって言われてきたんでしょ?」
 「まぁ、そうだけど」

 頬杖をついて、カラになった枝豆のお皿を見つめながら、私は浩志のことを思い出した。

 浩志は私が高校二年のときに付き合っていた元彼だ。はじめて同じクラスになって、半年が経ったときに彼のほうから告白してくれたことがキッカケだった。

 お互いに初めての恋人で、当時の私にはまだ、好きだとか愛だとか、そういった気持ちがどんなものなのか分からないまま、正直『告白されたからなんとなく付き合った』程度の軽い気持ちからはじまった恋だった。

 けれど彼のほうは、あのときの告白を『一生分の勇気とか運を使い果たしたと思うわ、俺』と言っていた。

 浩志は別に派手なグループに属していたわけでも、性格がチャラチャラしているわけでもなくて、むしろどちらかといえば私よりも真面目なタイプだと思う。

 出された宿題は必ず期限内に提出するし、授業中は絶対に眠らなかったし、制服を着崩している姿は一度だって見たことがなかった。

 それどころか、よく忘れ物をしたり、宿題をしてこなかったりしていた私のことを『嘘だろ?』と若干引いた目で見てきたあと、それからはこまめに提出物の連絡をしてくれるようになり、ときには手伝ってくれたり、お互いの家で勉強するようにまでなっていた。

 今ではすべて、懐かしい思い出。私はそれらを思い出して、ふっと笑みがこぼれた。

 「でもさ?浩志って確かあの製薬会社の研究職に就いてるんだったよね」
 「うわ、超エリートじゃん」

 梨沙子と結衣とは大学から別々の道を歩むようになっても、疎遠になることは愚か、ずっとなんでも言い合える友達で居続けられた。

 だから私は二人のことならなんでも知っているし、逆に二人には私のあらゆることを隅々まで知られている。もちろん、浩志との関係や、そのほかの恋愛歴についてもすべて。

 「お待たせしました。チョレギサラダとチャンジャ巻き、三種のナムルになります」

 若い金髪の店員さんが運んでくれた料理を受け取って、テーブルの中央へ置いていく。

 梨沙子はすかさず角度を変えながら写真を撮りはじめて、結衣はすばやくサラダを三人分に取り分けてくれた。

 「「「いただきまーす!」」」

 学生のころは家に一人でいることなんてほとんどなくて、授業が終われば誰かしらと遊び、家に帰れば両親がいて、温かいご飯とお風呂が無条件で用意されていた。

 けれど社会人になって一人暮らしをはじめた今、平日はほとんどが家と会社の往復で、仲のいい友達とも休みが合わなければ何ヶ月も会うことさえままならなくなった。だからこうして、月に一度でも梨沙子と結衣と会えるこの時間が、たまらなく嬉しいと感じる。

 「てかさ、浩志とはどうして別れたんだっけ?」

 梨沙子のふとした問いかけに、私は一瞬体の動きを止めた。

 「二人は大学違ったよね。浩志が通ってた大学、超有名どころだったはず」
 「うん、頭良かったから。浩志」

 結衣の言葉に頷きながら、彼と別れたときのことが脳裏をよぎった。今思い返してみても、あれは一方的に私が悪かったんだと思う。

 浩志と別れたのは、大学生になってすぐのときだった。私は地元から通える大学の法学部に入り、浩志は日本でも有数の名のある大学に合格し、都内で一人暮らしをはじめるようになった。

 それから彼は途端に課題や研究に追われるようになり、私と会える時間はどんどん減っていく一方だった。会えないことに不安がって、連絡すら何時間経っても返ってこないことに不満を募らせた私が放った一言は、本当に単純だった。

 『ごめん、別れて』

 当時はもっと、浩志と大学生らしいことがしたかった。高校生では成し得なかった、大人の付き合いがしたかった。

 大切にされていなかったわけじゃない。浩志はずっと私を気にかけてくれていた。友達と課題をしに行くときも、同じ学部の仲間と飲みに行くときも、そういった連絡は欠かさずしてくれていた。

 隠しごとなんてされたことはない、浮気なんてもってのほかだ。今ならそれがどれだけ貴重なことだったのか身に沁みて分かるけれど、あのときの私はまだまだ幼稚で、浩志のその優しさが物足りないと感じていたんだ。




 「──はぁ。食べた!語った!ストレス発散した!満足!」
 「絶対また来月集まろうね?第二金曜日に残業したりデート入れたら呪うから」
 「結衣、怖すぎだから!」

 十九時に開始したはずの飲み会も、気づけば日を越えようとしていた。

 食品会社の事務をしている梨沙子と、法律事務所のパラリーガルとして勤務している私は土日が定休日だけれど、ジュエリーショップの店員をしている結衣は、明日も午後から出勤することになっていることもあって、今日はこれでお開きとなった。

 「あ、そうだ。でさ、結局皐月は浩志と会うことにしたの?」

 駅まで三人で歩きながら、再び話題にあがってきたのは浩志のことだった。

 「うん。日曜日の夜、会うことになってる」
 「もう一回付き合っちゃえば?」
 「えぇ?……なんで?」
 「皐月が一番分かってきたんじゃない?浩志の良さってもんがさぁ?」

 結衣は程よく酔いが回ってきているのか、真上に登っている月を見上げながらそう言った。梨沙子も同じように上を向いて、少しずつあたたかくなってきている三月の夜空に大きく息を吐き出した。

 私はそんな二人を見て笑いながら『付き合うとか、そんなの今さらよく分かんないよ』と軽く返事をした。

 けれど、どうしてだろう。
 頭の中で、浩志の顔が何度も繰り返し思い描かれていくのは──。




 「遅くなってごめん、皐月」
 「ん?あぁ、お疲れ浩志。急に上司に呼ばれたんでしょ、気にしないで?」

 日曜日の、二十時を少し過ぎたとき。

 カランッとお店の扉が開く音がしてすぐ、店内を小走りでやって来たのは浩志だった。彼が指定してきた、夜になるとオープンする夜限定のスイーツ専門店『真夜中のプリシュ』。

 どうして浩志がこんな場所を知っているのか分からないけれど、「このスイーツ店には似つかないな」というのが一年ぶりに会った彼に対する最初の感想だった。

 「本当にごめん、かなり待ったよな。同じ研究職のお偉いさんからの連絡だったから、顔を出さなくちゃいけなくて、それで挨拶とかいろいろ長くなっちゃって」

 「いいって。私もこのお店に来てみたかったし、店内でゆっくりさせてもらってたから。浩志が予約してくれてたから並ばずに入れてラッキーだったよ」

 そう言うと、浩志はジャケットを脱ぎながら席に座った。そしてメニューを取り出して、私のほうへ向けてそれを広げてくれる。

 「お詫びにはなんないけど、今日は俺が出すから。好きなの選んでよ」
 「んもう、律儀だなぁ。気にしないでいいのに」
 「ここ、前に皐月がSNSで行ってみたいって書いてたから予約してみたんだけど、電話予約ができずにSNSからのみ可能ですって言われたときはだいぶ焦った」
 「アッハハ!相変わらずSNS音痴は治ってないんだね」

 浩志は頭が良いくせに、SNSの類だけは一向に不慣れだった。付き合っていたとき、無理やりアカウントを作らせてみたはいいものの、結局彼は一度も投稿せず、フォローもフォロワーも私だけのまま、そのアカウントは今も細々と生き続けている。

 「じゃあ私、プリンアラモードにしようかな。あとアイスカフェラテ」
 「それだけでいいの?せっかく来たのに?」
 「最近太ってきたから、ちょっとは自粛しないとね」
 「どこが太ってんだか。前会ったときより痩せて見えるから心配しなくていいよ」

 メニューを見ながらさりげなくそんなことを言った浩志は、店員さんに私のオーダーと自分のブラックコーヒーのほかに、チーズケーキとホイップ最中を追加して注文した。

 ……あぁ、どうしてだろう。いつもなら取るに足らない会話なはずなのに、今日は変に浩志の一言一句に意識してしまう自分がいる。

 梨沙子や結衣から『もう一度付き合えば?』と言われたから?それとも、一ヶ月前まで付き合っていた元彼と無意識のうちに比較してしまっているとか?

 「……っ」

 浩志と別れて、私は三人の男性とお付き合いをしてきた。

 一人は大学三年生のとき。あとは社会人になって出会った人や、友達からの紹介で知り合った人と仲良くなり、そのまま付き合うという関係に発展していった。

 けれど、いずれの人とも長く続くことはなかった。一人目の彼は三つ年上の大学院生で、情報商材を扱った詐欺に加担していた。二人目の人は同い年で、仕事を辞めてから無職の期間が続き、その間にお金を貸してくれと言われたまま、結局貸した十万円と共に行方を眩ませてしまい、最後の人は浮気が原因で別れるに至った。

 梨沙子も結衣も、口を揃えて『クズ男三人衆』と呼んでいたことを思い出して、自分がどれほどロクな恋愛をしてこなかったのかと恥ずかしくなった。

 ……思えば、純粋に私を愛してくれていたのは、今、目の前にいる浩志だけだった。

 彼は私と付き合うことに対して、メリットやデメリットを考えることなんて一切しなかった。まだ愛というものを知らなかった私が、『なんで私と付き合おうと思ったの?』と聞いたとき、浩志は間髪入れずに『そんなの、好きだからって以外に理由ある?』と即答した。

 当時は『ふーん』と簡単に聞き流していたけれど、大人になった今、あの言葉を頭で考えるよりも先に言葉に出せるということがどういうことなのか、馬鹿な私にだって理解できるくらいに、浩志は本当に私を愛してくれていた。

 「……」
 「なぁ、皐月?ボーッとしてるけど大丈夫?眠い?」
 「あ、ううん。ごめん、ちょっと考えごとしてた」

 大人になって、それなりに人生を経験したからこそ分かるのかもしれない。
 浩志のあのときの優しさと、愛が、どれだけ特別なものだったのかということが。

 そしてたった今、私は無性にもう一度その愛に触れたいと思った。燃え上がるような恋愛も、大学生になったばかりのころに思い描いていた理想の恋も、もうしなくていい。ただ、浩志の無償の愛に包まれたくなった。

 私が別れを切り出したとき、浩志ははじめて私に怒った。

 『なんだそれ。まずは話し合うべきだろ』

 『ただ一言、“別れよ”って言われて“ハイそうですか”ってなるヤツなんかいねぇよ』

 『絶対別れてやんない』

 『俺、皐月のことが本気で好きなんだよ。じゃなきゃ高校の時、あんなに勇気出してお前に告ったりしないだろ』

 『皐月を不安にさせたことは本当に悪かったと思ってる。これからは連絡もちゃんと返すし、どっか遊びに行ける時間だって作るようにする。だから簡単に別れよって言葉を使うな』

 あとから聞いた話では、当時、浩志は大学の教授たちからかなり期待されていて、『いずれこの縁が将来の役に立つから』と言われて講義や研究以外にもたくさんの場所に連れて行かれていたそうだ。

 だから私との時間を作るなんて、本当はできるはずなかったんだ。それでも彼は、本気で教授たちの誘いを断りはじめ、私との時間を作ってくれようとしていたらしい。浩志はそういう人だった。

 あんなふうに必死になって私との時間を設けてくれようとした人は、他には誰もいなかった。

 体調が悪くてデートを断ったとき、『お前のために一日空けてたんだけど』と容赦ない言葉を投げかけられたことはあっても、下手をすれば自分の将来にまで影響してくるかもしれない大事な誘いを断ってまで、私との時間を作ってくれようとした人なんて、きっともう、後にも先にも浩志以外にはいないだろう。

 「(私、浩志のこと……好きなんだ。ずっと、好きだったんだ)」
 どうしてこんなことにずっと気付かなかったのか、自分で自分が不思議でたまらない。

 別れてからも、浩志はずっと私のことを想ってくれていた。何度か復縁を持ちかけられたことだってあった。それでも私は、それを受け入れることをしてこなかった。

 だからもしも、梨沙子や結衣の言うとおり、今日もう一度告白されたなら、私はこの首を縦に振るつもりでいた。もう一度、浩志とやり直したいと思っていたんだ──。

 「だからさ、今日呼び出した件なんだけどさ?」
 「あ、うん。そうだね、何かあった?」
 「俺さ──……、やっと皐月以外に好きな人ができたんだよな」

 けれど、どうやら私はその気持ちに気づくのが遅過ぎたみたい。

 「……好きな、人?」
 「うん。同じ職場の同期なんだけど、今やってる研究開発のチームが一緒になってさ。少しずつ打ち解けていって、なんかいいかもって思えて」
 「へぇ。そう、なんだ」
 「皐月が言ってたでしょ?本当にほしいものは自分から行動しないと手に入れられないって」
 「……うん。言ったね」
 「俺さ、あの言葉に結構背中押されたんだよな」
 「ハハッ、じゃあ私のおかげだ」

 スラスラと出てくる口先だけの言葉とは裏腹に、頭の中が真っ白になっていく。今、浩志に他に好きな人ができたって……聞かされたんだっけ。

 うまく作り笑いができない。顔が引き攣っているのが自分でも分かった。店内は適度な空調のはずなのに、私の体温はどんどん失われていって、指先の感覚がなくなっていく。

 少しずつ呼吸が浅くなった。吸って、吐いて、また吸って、また吐いて──。心の中で何度も繰り返しそう言い続けながら、私に笑顔を向けて話す浩志に必死の平静を装った。

 私は馬鹿だ。大馬鹿だ。どうして浩志が今も私のことを想ってくれているだなんて、そんな甚だしい勘違いを当たり前のように思っていたんだろう。

 何がっ、何が今日告白されたら付き合おうよ。自分のとんだ高飛車な考えが恥ずかしくてたまらない。

 「今までごめんな」
 「……何が?」
 「俺さ、みっともなくお前にしつこかっただろ?俺たちもう五年も前に終わってたのに、ずっと皐月のこと諦められなかったから」
 「……っ」
 「今考えれば、好きでもない男から何回も声かけられるって結構な苦痛だったよな。本当ごめん」

 ──違うよ、浩志。そうじゃない。

 ただ、私は本当に馬鹿だから、浩志以外の人と付き合うたびに傷ついて、泣いて、別れを繰り返してきて、やっと浩志の優しさや愛が特別なものだったんだって気付いたんだよ。

 それにね、私って卑怯な女なの。たとえ浮気されて他の女の元へ去って行かれても、浩志だけは何があっても私のことを好きでいてくれるんだっていう勝手に謎の安心感に包まれて、優越感にすら浸ったこともある。

 だから、これはきっとそんな私に下った罰だ。

 「でももう安心してよ。俺、これからは普通に皐月と友達として接していけると思うから」
 「あはは。友達、ねぇ」
 「実はここの店の予約も彼女が手伝ってくれてさ。皐月みたいにSNS得意なんだって」
 「ふぅん」
 「あ、そうだ。今度夜ご飯誘われたんだけどな?」
 「……」
 「俺マジで皐月以外と滅多に夜ご飯なんて行かな──……」
 「──ごめん浩志。私、帰る」

 あぁ、ダメだ。心が痛い。抉られていく。

 嬉しそうに話をする浩志に相槌を打って、適当に質問を返したり、気になっているという彼女がどんなの子なのか聞いたりして、なんだったらアドバイスなんてしてあげたりもして。

 それがこの場の最適解だ。分かっている。けれどどうしてもこれ以上聞いていられなかった。

 「皐月?どうした?」
 「……っ」
 「皐月!」

 勢いよく店内を出て、夜の風に当たりながら帰路を辿る。いきなりどうしたのかと理解が追いついていない浩志は、走って私の腕を引いて引き留めた。下ろしたてのヒールが仇となって、私はそれ以上走ることができなかった。

 強引に引き留められて浩志と向かい合ったとき、頭をよぎったのは最後に付き合った元彼のことだった。浮気が発覚してそれを問い詰めたらあっさりと認めて、あろうことか今度はふんぞり返った様子で逆ギレしはじめた彼を置いてお店を出たとき、引き留めてはくれなかった。

 追いかけて来る気配すらなくて、自分から振り返ったときに見えた彼は、誰かと電話をしながら笑っていたんだっけ。こんなふうに名前を呼んで掴まえに来てくれる人なんて、一人もいなかった。

 「皐月?お前、どうしたんだよ」
 「……」
 「怒ってるのは見たら分かるけど、何に怒ってるのか言わないと分からないだろ」
 「……」
 「言いたいことがあるなら言って。俺聞くから」
 「──抱いて、浩志」

 浩志、今の私に優しくしないで。私は馬鹿で、卑怯な女だから、その優しさに漬け込んでしまいそうになるの。

 「は?皐月、お前酔ってる?」
 「私、浩志が好き」
 「はぁ!?おま、何言って……」
 「五年かけて、やっと気付いたの」
 「……」
 「浩志の、私に対する優しさが特別なものだったって少しずつ理解していったの。浩志が私に向けてくれてた愛が、どれだけ純粋できれいなものだったのか、私やっと分かった」
 「……」
 「あれだけ私のこと好きって言ってたのに、どうしてもうやめちゃったの?他の人を好きになったなんて報告してくるの?」

 捲し立てるように早口で、息つく暇もなくそう言いあげた。言いたいことがあるなら言っていいと言った、浩志のせいだと心の中で付け加えた。

 お店の中から溢れてくるライトと、街灯と、それから月明かりが二人を照らしている。それらに照らされた浩志の表情は、俯いていてよく見えなかった。

 「皐月、何言ってんの?」

 途端に静まり返った空間に、ぽつりと浩志の言葉が耳に届いた。
 掴まれていた手は、サッと離される。

 「お前さ、さすがにそれはない」
 「……」
 「俺がどんな思いでこの五年間過ごしてきたか知ってる?」
 「……」
 「五年かけてやっと気付いた?俺はこの五年間で、やっとの思いで皐月を諦めてきたんだけど」

 一歩、また一歩と浩志は私と距離を取った。軽蔑されたのだろうか。まぁ、無理もないよね。私が逆の立場だったら、きっともっと激しく怒り散らしていただろう。

 『ふざけるな!』って。『何それ、馬鹿にしてるの!?』って。

 好きと言われていたときは振り向かなかったくせに、他の人の元へ行こうとした途端に自分のものにしたがるなんて、とんだ悪女じゃない。

 ……でも、いいや。どうせ悪女なら、今日だけはとことん悪女になってみせる。

 「抱いてよ」
 「皐月、頭冷やせって。お前なんかおかしいよ」
 「そうしたらもう、終わりにするから」
 「おい、おま……っ!」

 私はそう言って、無理やり彼の腕を引いて、浩志が乗ってきた車のドアを開けて後部座席へ押し倒した。

 外のざわつきも、夜風の音も一切遮断されて、聞こえてくるのは二人の吐息だけ。明らかに動揺している浩志は、無理やり体制を変えようと力を込めるけれど、上から押し付けている私がそれをさせなかった。

 きっと、浩志が本気で私を押し退ければ身動きは取れるだろう。けれど彼はそれをしない。そういう人なんだ、浩志っていう人間は。

 「皐月、退けて」
 「嫌だよ」
 「こんなことしたって後悔すんのはお前だって分かってるよな?」
 「後悔しない」
 「まずは話し合おう、な?」

 “まずは話し合おう”。
 どこか聞き覚えのあるその言葉に、私はふっと笑った。

 必死になるとすぐに話し合いに持っていこうとするところも、変わってはいない。

 いつか、彼が気になっているという彼女と喧嘩をしたときも、そうやって話し合いを持ちかけて、相手の気が済むまで何時間もかけて話を聞いてあげて、そして最後は自分が折れて謝って、その大きな手で頭を撫でてしまうのだろうか。

 いつか、彼女の心が不安定な揺らぎを見せた時、浩志はたとえどんなに大事な用事が入っていたとしても、それらを平気で断って、大急ぎで彼女の元へ駆けつけてあげるのだろうか。

 かつて私にしてくれたように。あのとき、私を一番大事にしてくれいたときみたいに。

 「お願い浩志……っ。浩志の中に、少しでも私に対する愛が残っていないのか確認させて」
 「……」
 「一欠片も希望がないんだって分かったら、私、ちゃんと諦めるからっ」
 「皐月」
 「私を、拒まないで──」

 後悔は微塵もなかった。人生の汚点だとも、隠したい黒歴史だとも思わない。
 だってこれは私の罰であり、失恋という名のはじまりでもあるのだから──。




 「──浩志、車停めて」

 彼が運転する車の後部座席の窓に頭を凭れさせながら、等間隔に立っている街灯を、一本、二本、三本……と数えていると、懐かしい公園が目に留まった。

 すでに時刻は二十四時を超えている。明日は仕事だというのに、どうしても家に帰る気分にはなれなくて、私はその公園に足を運んだ。

 「ここ、高校のときにたまに通ってた公園か」
 「ふっ、よく覚えてるね」
 「……まぁな」

 私がブランコに座ると、浩志も同じようにとなりのそれに跨った。

 ゆっくりと地面を蹴って漕いでみると、油の足りていないぎこちない音が真夜中の空を駆けっていった。あまりに小さいこの公園には街灯が一つもなくて、真上に登った月明かりだけが頼りだった。

 「ねぇ、浩志。どうやって私のこと、忘れていったの?」
 「やだね、言いたくない」
 「いいじゃん、教えてよ。あと、失恋したときの乗り越え方もさ」
 「……」
 「これから私が経験していくことになるんだから、経験者である浩志が教えてくれたっていいじゃん」

 ブランコを思いきり漕ぎながら、茶化すようにそう言った。
 すると浩志もまた同じように勢いをつけてブランコを漕ぎはじめる。

 「苦しいよ。喪失感とか、孤独感とか、それから絶望感も。立ち直るのに三年かかった」
 「へぇ」
 「好きにならなきゃよかったとか、他の人を好きになってたらこんな思いはせずに済んだのにとか、そんなことまで考えてしまうくらいしんどかった」
 「そっか」
 「でもやっぱり思うんだよ。どれだけ苦しい思いをしても、お前以外のやつを好きになれないんだろうなって」
 「……」
 「できることなら、皐月にあんな思いはさせたくなかった」

 そう言って、浩志はブランコを漕ぐのをやめた。その横で私は、未だにスピードを衰えさせることなく風を切り続けている。

 きっと今の私はひどい顔をしているから、見られたくなかった。こんな私だけれど、最期くらいは極力きれいに終わりたかったから。

 私は五年という月日をかけて、少しずつ浩志のことを特別だと思うようになった。

 浩志は五年という月日をかけて、少しずつ私を愛さないよう努めて、時間をかけて私を忘れていった。

 「愛してるよ、浩志」
 「めちゃくちゃ愛してたよ、皐月」

 この月が眠りについて、私たちを照らさなくなったころには、もう……二人がこうして隣り合わせになることもないのだろう。

 私もいつか、あなたのことを忘れてみせるよ。それがいつになるのか、まだ分からないけれど。

 「帰ろっか」
 「あぁ、そうだな」

 さようなら、特別な人。
 ようこそ私、失恋という名の地獄へ──。

【完】