日本最大の空港、東京中央国際空港。混雑する出発ロビーで、行き交う誰もが1人の美女に目を奪われる。彼女の名はアリス・メスィドール。隣の従者セブと、3時間後の飛行機でフランスへ帰るのだ。渋谷での惨劇から、もう1週間が経った。
 プリィとセバスは、ヴァイスヴォルフの病室にいる。漸く意識を取り戻したが、退院は当面先。その間の世話係を引き受けた。その代わりと云うワケではないが、4人の男女は聖女を見送るべく、空港にいた。河月から来た流雫やアルス同様、詩応もそのためだけに名古屋から駆け付けた。
 「シノ。誰にでも公平に接する、その信念を忘れてはダメよ」
聖女の流暢な日本語に、詩応は頷く。
「仰せのままに」
詩応なら心配無いが、最後に確かめたかった。その言葉にアリスは安心する。
 「アルス・プリュヴィオーズ。血の旅団も偉大な教団よ。何時かは過去を清算し、手を取り合える日が来る。その光景、この目で見たいものだわ」
「その片方は、アリス・メスィドールだ。……俺はそう望む」
と言葉を返すアルスに、アリスは彼に初めて微笑みを見せた。
 邪教の傀儡と周囲は呼ぶだろうが、母国を愛する限り絶対的な味方だ。彼こそ、次の血の旅団の指導者に相応しいと思える。叶わないこと……とは思わない。
 アリスは最後に、1組の男女に身体を向ける。教会で自分のために戦った2人だ。破壊の女神テネイベールに似た流雫のオッドアイも、今は尊く思える。
「……ルナ、ミオ。その献身を忘れないわ」
と言った聖女は、セブから渡された小さな箱を、2人の目の前に差し出す。澪が恐る恐る開けると、そこには小さな指輪が2つ入っていた。
「私の守護を宿した指輪よ」
とアリスは言った。
 ウェーブ状のデザインが施されたシルバーリングの裏には、フランス語で祈りの言葉が刻まれている。
「勇敢なる騎士に久遠の守護を捧ぐ」
そう声に出す流雫。
「結婚指輪にするのも有りよ」
とアリスが言うと、澪は頬を紅くする。聖女からその言葉が出るとは思っていなかった。
 しかし、撃沈しなかった。詩応やアルスによって耐性が付いたからではなく、そうなることに相応しいと云う自信が生まれたからだ。

 トーキョーアタックの直後、澪は銃との向き合い方に頭を抱えていた。刑事の娘であるが故の悩みでしかない、だからよく遊ぶ2人の同級生にも言えなかった。
 そして、SNSで偶然流雫を見つけた。ルナと名乗る少年は銃を持つことを肯定していた、しかし深い理由を抱えていると思った。だから澪はアプローチした。それが全ての始まりだった。
 ……流雫には悪魔であってほしい、澪はそう思っている。孤独なファウストに人生をやり直させ、喜怒哀楽の全てを味わわせた末に、その対価として魂を支配するメフィストフェレスのように。
 澪も或る意味では孤独だった。しかし今は流雫がいる。だから今、迷うこと無く立っていられる。
「あたしは、アリスの味方ですから」
と澪は言った。その優しくも凛々しい目に、聖女は吸い寄せられた。

 アリスとセブを乗せたシエルフランスの飛行機は、駐機場を離れて滑走路へと走る。
「……今からどうする?」
とアルスは詩応に問う。
「あの2人に従うだけだ」
と答えたフランス人は、2人分離れて飛行機を眺めるカップルを親指で指す。
 2人から見ても羨ましいが、それぞれ思うことが有るだろう。今は2人きりにさせたい、と思った詩応とアルスは、敢えて目を逸らした。
 「……行っちゃうね」
と澪は言い、流雫は
「でも、また会える」
と答える。その時には、今までより存在を肯定されていてほしいと願う。
 アリスの目の前で、薬指に通してみた指輪は2人に相応しく見える。詩応やアルスにとっても、そう思えた。
 2発のエンジンが吼え、トリコロールの尾翼が映える白い機体は空に浮く。1万キロ近く離れたパリを目指して、飛行機は雲一つ無い青空に溶けていく。しかし、2人は其処から動こうとしない。
 ……アリスが生きて日本を離れることで、全てに平穏が訪れようとしていることを、2人は感じていたかった。

 今日までを生きてきた証と、明日からを生きる希望。その最愛の存在に、目を向ける2人。
 無意識に指を絡めると、不意に拭き始めた風が肌を撫でて遠ざかる。あの日リンクした想いが、これから続く2人の未来を導くような気がした。