流雫が祖国の地を踏んだ次の日、レンヌで事件が起きた。発端は、その3ヶ月前から燻っていた、太陽騎士団の内部問題だ。
 メスィドール家の当主が総司祭に就任したのは、新年を迎えたと同時だった。しかし、就任をよく思わない連中も当然ながらいる。大きな理由は、一家の名誉とプライドだ。それが、宗派同士の確執として表面化したのだ。
 西部教会の中心となるレンヌでは特に、それが激しかった。メスィドール家のルーツだからだ。血の旅団の穏健派の信者であるアルスとその恋人の一家も、同じ街に住む身としてその一件は気になっていた。

 「ハイ、ルナ」
アルスの隣で、セミロングの赤毛の少女はそう言った。一度だけビデオ通話で顔を見た、アルスの恋人だ。
 アリシア・ヴァンデミエール。アルスとは幼馴染みから発展した。 オリーブカラーのシャツを着ている。流雫は彼女とは初対面だが、最初に
「サンキュ、アリシア」
と言った。彼女の助けが有ったから、宗教を隠れ蓑にした日本乗っ取りを阻止することができた。その恩は、今でも忘れていない。だから、ハイよりサンキュが先に出てくる。
 3人はカフェに入り、デッキでラテを口にする。前々からそうだとは思っていたが、やはりアルスはアリシアに敵わない。それは2人の遣り取りを見ていて判る。

 2歳の頃にパリからレンヌに引っ越した流雫には、幼少期から何度か遊んだ少女が1人だけいた。ブロンドヘアのボブカットが印象的だった。名前も覚えている。雨を意味する、プリィだった。
 ただ、4年後日本に移住して以降、流雫は美桜と知り合うまで同世代と話すことは皆無だった。だから、昔から仲睦まじい目の前のフランス人カップルが少しだけ羨ましく感じる。だが、それ以上に今は澪がいる。

 流雫の視界の端で、何かが動く。
「どうした?」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
とアルスが問うと同時に、ラテを飲み干して席を立つ少年。その目線の先を追ったアルスは、道路の反対側に建つ太陽騎士団の教会に目が止まる。
「最近、少し不穏な動きが有る。ブルターニュ一帯、注目している」
とアルスが言った、と同時に目の前に止まった黒いタクシーがオレンジ色に光った。
「伏せ……っ!!」
とフランス語を叫ぶより早く、爆発音が周囲の空気を切り裂く。
 悲鳴と怒号が飛ぶ中、流雫は店の消火器を手にすると踵を返した。
「ルナ!!」
と叫びつつも、アルスとアリシアはそれに続いた。

 微風でも風向きは判る。その風上に立つ流雫は消火器のハンドルを一気に引く。
「ルナ!!」
2人の声が聞こえる。同じように消火器を持って近寄る。
「自爆テロ……?」
「そこまでやるか……!?」
とフランス人2人が声を上げながら、消火剤をひたすら掛けていく。
 教会から、ネイビーのスーツを着た数人の男が飛び出してくる。その瞬間、数発の銃声が聞こえた。
「フランスでも……!」
流雫は日本語で呟き、音が聞こえた方向に目を向ける。道路を逆走する黒いワンボックスからだ。流雫は道路に飛び出すと、クラクションを鳴らすワンボックスに対峙する。
「ルナ!!」
アルスが叫ぶ。オッドアイの瞳に怒りが宿る少年にとって、それがシグナルだった。
 「たぁぁっ!!」
消火剤が尽きた消火器を、ハンマー投げの要領で投げながらカフェへ向かって走る流雫。ワンボックスのフロントウィンドゥに弾かれたが、避けようとしてタクシーの手前の街灯柱に突き刺さって止まった。
 車のドアが開き、1人の男が飛び出してくる。黒いジャケットを羽織っている。
 此処はフランス、銃を持てない。だから丸腰で戦うしかない。武器は簡単なパルクールと、咄嗟の判断力だけ。
「タクシーもお前のグルか?」
そう問う流雫への答えは、服装に似つかわしくない機関銃の銃口だった。
「ルナ!!」
と叫んだアリシアに、男は銃口を向ける。流雫は地面を蹴り、ショルダーバッグを振り回した。ダメージは軽いが、そもそも自分で仕留める気は無い。
 「このガキ……!」
男が声を張り上げるのと、流雫がステップを刻むのは同時だった。
 小柄な流雫の武器は、その身軽さ。車に例えれば、コンパクトな軽量スポーツカー。そして、俊足の詩応でさえも撹乱される上下の動き。だが、銃を持った男相手に1人だけは不利だ。
「ルナ!!」
アルスはアリシアから消火器を奪い、飛び出す。
「アルス!?」
その声は、ブロンドヘアの少年には届いていない。

 「アルス!?」
視界の端に現れる少年に一瞬驚く流雫は、手首に唇を当てる。ブレスレットへのキス、それは無事への祈り。
「ルナ!!ほら!」
アルスは言いながら、消火器を流雫に渡す。
「もうすぐ警察が来る」
とアルスは言った。それまでの時間稼ぎだ。
「誰だ!?」
その声にアルスは、
「ルージェエールに護られし戦士」
とだけ答えた。
 血の旅団が崇めるのは、炎の戦女神ルージェエール。太陽騎士団の教典では、悪魔に陵辱されテネイベールを産み落とし、最後は処刑される。その名は、一部の信者にとって忌むべきものだ。
「ルージェ……!?この邪教が!!」
そう声を張り上げた男の銃口が、アルスに向けられる……より寸分早く、銃身の先端を金属の筒が殴った。鈍い音が響き、機関銃の向きが変わる。
 「俺にとっちゃ、お前こそ邪教だ」
と言い放つアルス。相手の怒りを焚き付けるには手段を選ばない。
「まずはお前からだ!!」
そう叫んだ男は、アルスに銃口を向ける。
「アルス!!」
「気にするな!!」
アルスが流雫に叫び返した瞬間、男が引き金を引く。リズミカルに鳴るハズの銃声は、閃光と爆発音に掻き消された。
「うぉあああ!!」
男が銃を手放し、右手を強く押さえる。
 アルスの一撃で、機関銃の先端が僅かに凹んでいた。それが弾詰まりを招いたのだ。
 しかし、男の目から殺意は消えない。流雫が動いた。ワンボックスのフロントを使って跳ぶ。
「後ろだ!!」
と、アルスが叫ぶ。その声に振り向く男の顔面を、消火器が捉えた。
「はぁっ!!」
「ごっ……!!」
鼻を砕かれ、首の骨が折れそうなほどに頭を後ろに飛ばされた男は、そのまま倒れた。馬乗りになったアルスは、両手を喉仏に押し付ける。
 「がっふっ……!」
「この国に泥を塗る奴は、同胞だろうと容赦しない」
悶える男にぶつけられるアルスのフランス語には、軽く殺意さえ感じられる。
 警察車両のサイレンが聞こえたのは、その直後だった。警察官が駆け付けると、アルスは意識が朦朧とする犯人を引き渡す。
「……くそ……っ」
と声を上げたアルスは、唇を噛む。
 その隣に立つ流雫は険しい目付きで、連行される犯人を見つめている。
 ……着ていたのは太陽騎士団の信者の制服、ネイビーのスーツではなかった。信者であることを隠そうとしたのか、或いは誰かが雇ったヒットマンなのか。だが後者だとすると、高校生2人に簡単に叩きのめされるほど弱い理由の説明が付かない。
「……アルス」
と名を呼んだ流雫は、思わずその身体を抱き寄せた。
 ……アルス・プリュヴィオーズは、少し生意気が似合う。ただ、今は祖国と故郷の安全を脅かすテロへの怒りに囚われている。2人が無事だった完全勝利をハイタッチで喜ぶ気になどならない。
 何時かの自分を見ているような気がした流雫の身体は、無意識に動いていた。今の彼を受け止めてやれるのは、アリシアを除けば自分しかいないからだ。
 そのアリシアは、元フランス人の少年を見つめながら安堵の溜め息をつく。ブロンドヘアの恋人が、この少年の味方だと断言する理由が判る。
「アルス!ルナ!」
と呼んだ赤毛の少女は2人に近寄り、2人の肩を軽く叩いた。

 「……ニュースで少しだけは知っていたけど……」
と詩応は言った。まさか流雫も遭遇していたとは知らなかった。
「もし本来の目的が日本に有ったとして、それが何か。フランス国内での問題を解決する鍵が、日本に有るのか……?」
とアルスは言う。
 ……聖女を生で見ることができるのは光栄なこと。だがその裏で、大きな問題が蠢いている。
「……シノの楽しみに水を差すことになったが……」
「いいさ。ルナやアルスが遭遇しているのなら、アタシも黙っていられないから」
と詩応は言った。
「……頼む」
と言ったアルスは、詩応から展望台の端にいる2人に目を向ける。詩応もそれに続いた。

 澪は流雫から、フランス滞在中に何が有ったか、一通り聞いていた。詩応とアルスが話していることは、当然知っている。ただ、2人の答えは決まっていた。何が起きても屈しない、4人の誰も殺されない。
 ブレスレットが手首を飾る2人の手、その先端で指が絡む。東京の景色を映す4つの瞳の深淵には、押し寄せる悲壮感すら打ち消す凜々しさが宿っていた。

 スーツの男を連れた聖女アリスは、他の乗客とは別の到着口から出ると、止まっていた黒い高級車に乗って、空港島を後にする。目的地は渋谷、太陽騎士団日本支部の大教会。
 男からこの後と明日の予定を聞かされる聖女は、終始無表情のままタブレットに並ぶ文字に集中する。今夜の原稿だ。
 簡単な修正を終えたアリスは、シャルル・ド・ゴールで見たブロンドヘアの少年を思い出した。
 ……同じ飛行機に乗り合わせ、そして東京の空港でシルバーヘアの少年と会った。隣にいる少女2人が誰かは知らないが、恐らくはグルだろうか。
「……血の旅団が日本にいる……厄介だわ……」
アリスはそう呟き、タブレットの画面をオフにした。不意に、押し殺した感情が押し寄せる。聖女としての立場では制御できない感情が。
 ……プリィ、お前は何処にいる……?