ヴァイスヴォルフは一命を取り留めた。そう父親から聞いた澪は、そのことを流雫に告げる。2人揃って安堵の表情を浮かべた。
……敬虔さが裏目に出たとは云え、或る意味ではあのドイツ人も被害者。誰もが被害者、澪が言った言葉が流雫の脳に焼き付いている。
「でも」
と澪が声に出す。
「これで全てが上手くいくといいな……」
「上手くいかないと……プリィやアリスの未来は無いからね」
と流雫は言った。
あの空港から始まった、一連の真相を巡る戦い。全ては幼馴染みや聖女が理不尽な死を遂げないためだ。そのためなら、手段は問わない。
「……母さんに言われたんだ。澪の手を離すなと」
「流雫がそうするとは、思ってないわ」
と澪は言い返す。今までもそうだったし、今からもそうだと思っている。この手を離すことはない……今は。
病院の応接室で、背振は頭の整理に躍起になっていた。
父が倒れたのは2時間前の話。背振の目の前でのことだ。既往症は有ったが、再発したようだ。
慌てて呼んだ救急車で近くの大学病院へ搬送されたが、現職大臣の一報を聞き付けた報道関係者まで押し寄せてきた。混乱を避けるべく、応接室へ通された。
エントランスでは、今も報道陣がカメラを待機させている。報道の自由は厄介だ。
容態次第では優先順位が全て変わる。だが、三養基と小城が絡む件は常に最優先でなければならない。父親から譲り受けたクローンの権益は、死守しなければならない。自分の手中に有るからこそ、日本は再生するのだ。
しかし、新宿で会った4人の男女が目に付く。ヴァイスヴォルフと一緒にいたが、一体何者なのか。警戒するに越したことは無い。特にあのボブカットの女。
背振のスマートフォンが鳴る。小城からだ。
「お前、何をしでかした?」
と最初の一言から既に怒り心頭だ。
「任意同行させられた!」
「何!?」
「研究が忙しくて拒否したが、奴らはハイエナだ。お前が何か洩らしたとしか思えん!」
と小城は、額の血管を浮き上がらせて言った。
弥陀ヶ原は、ヴァイスヴォルフの足取りを遡る中で、府中の研究施設に辿り着いた。そして常願と2人で任意同行に乗り出したのだ。
「クローンの事業はお前がいなくては話にならん。それは父の言葉でもある」
と背振は言う。小城が唯一逆らえない相手の名、それは背振文殊としてもそうだった。
「……お前にとって邪魔だった三養基はもういない。これで心置きなく功績を手に入れられる。違うか?」
「その功績を失わないように最大限支援するのが、お前の仕事だろう?大臣の容態より、俺の身の安全を優先しろ。三養基を殺したことがバレれば、俺もお前も全て終わるんだぞ」
と言い残し、小城からの通話は切れた。
人のことは言えないが、恩人の命よりも自分の身が大事らしい。小城をどうにかしなければ、自分の身も危うい。しかし、あまりにもタイミングが悪過ぎる。動くに動けない。
再度スマートフォンが鳴る。
「俺だ、ミスター・セフリ」
と、初老の低い声が聞こえる。少し癖が有るドイツ語だ。
「お前は何処にいる?」
そう言った男に、背振は場所と現状を伝える。とある男が今から来るらしく、持て成せとのことだった。事態が事態だが、一応は迎え入れなければ。
背振は黒い腕時計に目を向ける。……今日と云う日は既に残り数時間。しかし、今からが長い1日になりそうだ、と背振は思った。
アルスと詩応から話を聞いたアリスは、ベッドの隣に座るプリィに目を向ける。
「私はオリジナル、でも影武者。何か起きた時は、私が盾になるわ」
とプリィは言う。
メスィドール家とフリュクティドール家の間での取り決めによって、フリュクティドール家はアリスの身に何かが起きた時に、プリィに聖女の座を譲ることになっていた。その分、小さくない額の手数料も中央教会に渡っているが。
だが、それが行使されることは無い。何か起きた時は、プリィが身代わりになる。彼女はそう思っていた。
アルスのスマートフォンが鳴る。アリシアからだった。
「モンドが日本に飛んだわ!」
通話時間のカウントが始まると同時に聞こえた声に、アルスは
「何だと!?」
と返す。アリシアは答えた。
「聖女アリスが日本にいるからだと思うわ。フランスと日本で起きている一連の混乱で、アリスが聖女を退くことを要求する気ね」
モンドリヒト・ツヴァイベルク。ハイリッヒの兄で、流雫やアルスより6歳上。ツヴァイベルク家の長男で、ダンケルクで司祭を目指して日々信仰に励んでいる。
当初の目的は、アリスの退任宣言に立ち会うためだっただろう。失脚であろうと、退任時には宣言を出さなければならず、アデルもそうしたからだ。
禁断の存在であることを前面に直接要求して退任させ、あわよくば、次期聖女にハイリッヒを指名させたい。彼女が地方教会に属さない以上、聖女に選出されるには現聖女からの直接の指名が必要だからだ。
しかし、アリスの続投が決まった。ツヴァイベルクも最終的には同意したが、政治的な駆け引きの一種でしかない。本音は、一刻も早く退任に追い込みたいハズだ。
ダンケルクで起きた事件を活用し、同時に起きた東京での騒ぎの元凶として、アリスを断罪し、新たな聖女の名を口にさせたい。それも、渋谷の大教会で。当初の目論見とはやや異なるが、結果が同じならば問題は無いだろう。
全ての元凶がツヴァイベルクだとすれば、その前提が有るが、外れているとは思わない。
「そうだとしても、司祭本人じゃないのか」
「アリスの言葉を受けて、ダンケルクで総司祭の就任を宣言する気よ。だからモンドを寄越した、そう見ることができるわ」
「モンドか……何故同じ名前なのに、天地の差が有るのか」
とアルスは毒突いた。
月光を意味するドイツ語のモンドリヒト、通称は月を意味するモンド。一方ルナは、月を意味するラテン語。アルスにとっては比較するまでもなく、流雫の方が立派に映る。尤も、流雫への贔屓目も大きいのだが。
「ただ、アリスは入院中でしょ?どうするの?」
とアリシアは問う。
「肩を撃たれただけだ、最重要公務と言えば教会に引き摺り出せる。衆人環視の元で宣言さえ出させれば、後は罪人を護送するかの如く病院へ送り返せばいい。奴らなら、そうするだろ」
とアルスは答えた。必要なのは、日本での宣言だけだからだ。
「ソレイエドールは何と思うのかしら」
「頭を抱えて倒れる」
とアルスは言う。連中は人の命など何も思わない。そもそもクローンである時点で、人の命ではないと言う可能性も有る。
……容赦しないどころの話ではない。ツヴァイベルクの顔を1発は殴らないと気が済まない。
「警察沙汰にならない程度なら、アタシは止めないわよ」
とアリシアは言う。思っていることは見透かされていた。
「ルージェエールの守護の下に」
と、恋人の言葉に声を重ねて通話を切ったアルスは、2人の目の前に跪く。
「……ルージェエールの名の下に願う。創世神ソレイエドールに絶対の勝利を。2人の聖女に、祝福と安寧を」
その優しくも力強いフランス語は、病室に張り詰める緊張感を解いていく。
……女神の守護が有る。だから怖れるものは無い。ただ勝利のために、最善を尽くすだけだ。
モンドリヒト来日をアルスから聞いた流雫の目は、悲壮感に満ちている。しかし、オッドアイの奥底には確かな光が宿っている。
……アリスとプリィを助ける。ヴァイスヴォルフも助けてみせる。その意志が見て取れるからだ。その甘さが危ういことは判っているが、それでも澪は流雫の味方でいる。
それは最愛の人の隣に立ち、背中を預かって戦うために必要な意志。それだけは揺るがせてはいけない。
「あたしは、流雫を護る……」
今まで何度、そう呟いたか判らない。しかし、澪はまたしても呟いた。その言葉で自分を縛り付けるように。
……敬虔さが裏目に出たとは云え、或る意味ではあのドイツ人も被害者。誰もが被害者、澪が言った言葉が流雫の脳に焼き付いている。
「でも」
と澪が声に出す。
「これで全てが上手くいくといいな……」
「上手くいかないと……プリィやアリスの未来は無いからね」
と流雫は言った。
あの空港から始まった、一連の真相を巡る戦い。全ては幼馴染みや聖女が理不尽な死を遂げないためだ。そのためなら、手段は問わない。
「……母さんに言われたんだ。澪の手を離すなと」
「流雫がそうするとは、思ってないわ」
と澪は言い返す。今までもそうだったし、今からもそうだと思っている。この手を離すことはない……今は。
病院の応接室で、背振は頭の整理に躍起になっていた。
父が倒れたのは2時間前の話。背振の目の前でのことだ。既往症は有ったが、再発したようだ。
慌てて呼んだ救急車で近くの大学病院へ搬送されたが、現職大臣の一報を聞き付けた報道関係者まで押し寄せてきた。混乱を避けるべく、応接室へ通された。
エントランスでは、今も報道陣がカメラを待機させている。報道の自由は厄介だ。
容態次第では優先順位が全て変わる。だが、三養基と小城が絡む件は常に最優先でなければならない。父親から譲り受けたクローンの権益は、死守しなければならない。自分の手中に有るからこそ、日本は再生するのだ。
しかし、新宿で会った4人の男女が目に付く。ヴァイスヴォルフと一緒にいたが、一体何者なのか。警戒するに越したことは無い。特にあのボブカットの女。
背振のスマートフォンが鳴る。小城からだ。
「お前、何をしでかした?」
と最初の一言から既に怒り心頭だ。
「任意同行させられた!」
「何!?」
「研究が忙しくて拒否したが、奴らはハイエナだ。お前が何か洩らしたとしか思えん!」
と小城は、額の血管を浮き上がらせて言った。
弥陀ヶ原は、ヴァイスヴォルフの足取りを遡る中で、府中の研究施設に辿り着いた。そして常願と2人で任意同行に乗り出したのだ。
「クローンの事業はお前がいなくては話にならん。それは父の言葉でもある」
と背振は言う。小城が唯一逆らえない相手の名、それは背振文殊としてもそうだった。
「……お前にとって邪魔だった三養基はもういない。これで心置きなく功績を手に入れられる。違うか?」
「その功績を失わないように最大限支援するのが、お前の仕事だろう?大臣の容態より、俺の身の安全を優先しろ。三養基を殺したことがバレれば、俺もお前も全て終わるんだぞ」
と言い残し、小城からの通話は切れた。
人のことは言えないが、恩人の命よりも自分の身が大事らしい。小城をどうにかしなければ、自分の身も危うい。しかし、あまりにもタイミングが悪過ぎる。動くに動けない。
再度スマートフォンが鳴る。
「俺だ、ミスター・セフリ」
と、初老の低い声が聞こえる。少し癖が有るドイツ語だ。
「お前は何処にいる?」
そう言った男に、背振は場所と現状を伝える。とある男が今から来るらしく、持て成せとのことだった。事態が事態だが、一応は迎え入れなければ。
背振は黒い腕時計に目を向ける。……今日と云う日は既に残り数時間。しかし、今からが長い1日になりそうだ、と背振は思った。
アルスと詩応から話を聞いたアリスは、ベッドの隣に座るプリィに目を向ける。
「私はオリジナル、でも影武者。何か起きた時は、私が盾になるわ」
とプリィは言う。
メスィドール家とフリュクティドール家の間での取り決めによって、フリュクティドール家はアリスの身に何かが起きた時に、プリィに聖女の座を譲ることになっていた。その分、小さくない額の手数料も中央教会に渡っているが。
だが、それが行使されることは無い。何か起きた時は、プリィが身代わりになる。彼女はそう思っていた。
アルスのスマートフォンが鳴る。アリシアからだった。
「モンドが日本に飛んだわ!」
通話時間のカウントが始まると同時に聞こえた声に、アルスは
「何だと!?」
と返す。アリシアは答えた。
「聖女アリスが日本にいるからだと思うわ。フランスと日本で起きている一連の混乱で、アリスが聖女を退くことを要求する気ね」
モンドリヒト・ツヴァイベルク。ハイリッヒの兄で、流雫やアルスより6歳上。ツヴァイベルク家の長男で、ダンケルクで司祭を目指して日々信仰に励んでいる。
当初の目的は、アリスの退任宣言に立ち会うためだっただろう。失脚であろうと、退任時には宣言を出さなければならず、アデルもそうしたからだ。
禁断の存在であることを前面に直接要求して退任させ、あわよくば、次期聖女にハイリッヒを指名させたい。彼女が地方教会に属さない以上、聖女に選出されるには現聖女からの直接の指名が必要だからだ。
しかし、アリスの続投が決まった。ツヴァイベルクも最終的には同意したが、政治的な駆け引きの一種でしかない。本音は、一刻も早く退任に追い込みたいハズだ。
ダンケルクで起きた事件を活用し、同時に起きた東京での騒ぎの元凶として、アリスを断罪し、新たな聖女の名を口にさせたい。それも、渋谷の大教会で。当初の目論見とはやや異なるが、結果が同じならば問題は無いだろう。
全ての元凶がツヴァイベルクだとすれば、その前提が有るが、外れているとは思わない。
「そうだとしても、司祭本人じゃないのか」
「アリスの言葉を受けて、ダンケルクで総司祭の就任を宣言する気よ。だからモンドを寄越した、そう見ることができるわ」
「モンドか……何故同じ名前なのに、天地の差が有るのか」
とアルスは毒突いた。
月光を意味するドイツ語のモンドリヒト、通称は月を意味するモンド。一方ルナは、月を意味するラテン語。アルスにとっては比較するまでもなく、流雫の方が立派に映る。尤も、流雫への贔屓目も大きいのだが。
「ただ、アリスは入院中でしょ?どうするの?」
とアリシアは問う。
「肩を撃たれただけだ、最重要公務と言えば教会に引き摺り出せる。衆人環視の元で宣言さえ出させれば、後は罪人を護送するかの如く病院へ送り返せばいい。奴らなら、そうするだろ」
とアルスは答えた。必要なのは、日本での宣言だけだからだ。
「ソレイエドールは何と思うのかしら」
「頭を抱えて倒れる」
とアルスは言う。連中は人の命など何も思わない。そもそもクローンである時点で、人の命ではないと言う可能性も有る。
……容赦しないどころの話ではない。ツヴァイベルクの顔を1発は殴らないと気が済まない。
「警察沙汰にならない程度なら、アタシは止めないわよ」
とアリシアは言う。思っていることは見透かされていた。
「ルージェエールの守護の下に」
と、恋人の言葉に声を重ねて通話を切ったアルスは、2人の目の前に跪く。
「……ルージェエールの名の下に願う。創世神ソレイエドールに絶対の勝利を。2人の聖女に、祝福と安寧を」
その優しくも力強いフランス語は、病室に張り詰める緊張感を解いていく。
……女神の守護が有る。だから怖れるものは無い。ただ勝利のために、最善を尽くすだけだ。
モンドリヒト来日をアルスから聞いた流雫の目は、悲壮感に満ちている。しかし、オッドアイの奥底には確かな光が宿っている。
……アリスとプリィを助ける。ヴァイスヴォルフも助けてみせる。その意志が見て取れるからだ。その甘さが危ういことは判っているが、それでも澪は流雫の味方でいる。
それは最愛の人の隣に立ち、背中を預かって戦うために必要な意志。それだけは揺るがせてはいけない。
「あたしは、流雫を護る……」
今まで何度、そう呟いたか判らない。しかし、澪はまたしても呟いた。その言葉で自分を縛り付けるように。