ツヴァイベルク。アルスはその名前を思い出す。何度か耳にしたことが有ったからだ。
 「20年前、後に血の旅団を結成する過激派の連中を、片っ端から追放したことでも知られている。異名はムッシュ・エピュラシオン。ミスター粛清と云う意味だ」
とアルスは言う。彼が生まれる2年前から、その異名は変わっていない。
「今度は、クローンと云う反乱分子を粛清しようとした?」
「アデル失脚の報復として。そうとしか思えない」
と詩応に答えるアルスは、流雫との通話をキープしたままアリシアへのメッセージを打つ。
「ツヴァイベルクが怪しいと言われている」
その返事がポップアップで画面に踊ったのは、1分後のことだった。脳が痺れるような感覚に襲われるアルスは、流雫との通話を解除し、アリシアのスマートフォンを鳴らす。
「アルス!?」
何が起きているのか判らない詩応に、アルスは言った。
「ツヴァイベルクが刺されたらしい」
それと同時に、アリシアとの通話時間のカウントが始まる。
 「速報が出てる。ダンケルクは大騒ぎよ」
「まさか……!!」
一種の焦燥感を浮かべるアルスに、赤毛の少女は一呼吸置いて答えた。自分もそう陥りかけていたからだ。
「犯人はアデルの使用人。父レロワの仇……その可能性が有るわ」
 通話の隣で詩応は、フランス発の出来事に襲われながら
「……シンジュクスクエア……?」
と呟く。
 この界隈で、日本人3人にとって最も思い入れが有る場所。流雫が1人で整理したいなら、選ぶのは先ず其処だろう。
 今なら渦中の男もいる。行くしかない。
「アルス、行くよ!」
と詩応は言い、アスファルトを蹴った。

 トラッカーは本来、プリィを見守る目的でネックレスに仕組まれた。しかし、ツヴァイベルクはその情報を盗み、背振と小城に渡した。信者でない背振を経由したのは、政界に近い立場とのパイプのためだ。そして、プリィの家族はそのことを知らないまま、ネックレスを娘に渡した。
 情報を盗んだのは、既にアリスの正体を知らされていたツヴァイベルクの報復だった。アデルを聖女に復帰させることは不可能だが、その身内を聖女に選出させることは可能。だから次に推すのはマルグリット。
 そのために、アリス失脚を至上命題とし、そのオリジナルもメスィドール家に揺さぶりを掛けるために狙うことを画策した。
 「プリィ襲撃の成否は判らない。奴らにとっては、外見上無事であっても、揺さぶれた時点で成功だろう」
と言ったヴァイスヴォルフの前で、唇を噛む流雫と澪の耳に
「澪!流雫!」
と呼ぶ声が聞こえる。その後ろからアルスも追ってくる。
「詩応さん!?」
「アルス!?」
声を重ねる2人に
「緊急事態だ!」
と言ったアルスは、ヴァイスヴォルフに目を向ける。
 「お前は血の旅団の……」
「ルナのフレンドだ、ルートヴィヒ・ヴァイスヴォルフ」
とだけ言ったアルスは、一呼吸だけ置いて続ける。
「ダンケルクでツヴァイベルクが刺された。アデルの使用人が犯人らしい」
同時に、詩応は同じ事を澪に告げる。
「……どう云うこと……なの……?」
突然のことに頭の整理が追い付かない澪の隣で、流雫は言った。
「父を殺したのはツヴァイベルクだと、確証を掴んだ……?そして使用人が代わりに……」
 「……マルティネス家に、サン・ドニに行くよう指示したのは俺だ。そして現地での同伴者も手配した。目論見通りなら、アリスの証拠を掴ませ、ダンケルクで話し合いになり、今頃は聖女の是非を巡る審議が進められていただろう、平穏裏に」
「だが、同伴者にツヴァイベルクが近寄り、マルティネスを殺害するよう指示した。アリスが日本で公開処刑される舞台を整えるために」
とヴァイスヴォルフに続く流雫の後に、アルスはドイツ人を睨みながら言った。
「才能と敬虔さは認めるが、遣り方に問題が有ったな。総司祭の座を急いだ結果か?」
「問題だと?」
 「ツヴァイベルクは自業自得だ。だが結果としてアリスは撃たれ、ルナまで死ぬところだった。我がルージェエールの守護で生き延びたが」
と、崇める戦女神の名を強調したアルスは、ヴァイスヴォルフの頭を鷲掴みにする。
「ぐっ!?」
「混乱を招いたお前に、総司祭の資格は無い」
アルスの声は、生意気を通り越して殺気を感じさせる。
「アルス……放してやるんだ」
と流雫は制する。
 澪を殺されかけた恨みは有る。だが、生きている以上それは後回しで構わない。今はもっと大事なことが有る。
 ……ルナがそう言うのなら、今は黙る。そう決めたアルスは、ヴァイスヴォルフの頭を突き放した。
「ルナの慈悲に免じてやる。今回だけはな」
 流雫はそれに言葉を被せる。
「……セフリの刺客が僕を狙うだろう、トラッカーを追って。逃げ延びたいなら、戦うしか無い」
昨日使い果たした銃弾は補填した。6発、弾倉に収まっている。それだけが武器だ。教会の扉を壊そうとした時のような真似は、二度とできない。
「でも殺さない。全てを吐かせたい」
と言った流雫に、アルスは続く。
「だから俺はルナの味方だ」
 私刑には走らない。あくまでも、犯人を警察に引き渡し、その口から真相を明らかにさせたい。アルスが流雫に好感を持つ理由でもある。流雫とアルスの後ろにいる2人の女子高生も、表情は同じだ。
 過度な自信は、何時か足下を掬うことを知っている。だから、自信は控えめにしか持たない。しかし、希望だけは絶対に見失わない。今までも、そうやって戦ってきた。
 「鎮魂の儀の時、いなかったのは何故だ……?」
と流雫が問う。ヴァイスヴォルフは数秒置いて
「セフリに会っていたからだ」
と答えた。

 マルティネスの死が知れ渡った直後のことだった。
「折角だし会わないか?」
と、背振に呼び出されたヴァイスヴォルフは、指定された都心の貸会議室に向かった。父の秘書と云う仕事を午後だけ休むことにした文殊と、1対1だ。尤も、相手にとっては或る意味仕事の話だが。
 「色々大変だ、君の教団も」
それが本題の切り出しだった。
「マルティネスの死は想定外だったが……」
「教団にとっても大きな損失だろう。人の死は、何時だって居たたまれないものだ」
と文殊は言い、濃いめのコーヒーを啜って続ける。オートクチュールの黒いスーツを着熟す男は、政治家の息子らしい威厳を見せびらかしているように、ドイツ人には思えた。
 「居たたまれないと言えば、ミヤキが殺されたことは知っているか?」
「ああ」
「アリスのクローン計画は、これからどうなるのか……」
と背振は言った。小城からオフレコだと言われているが、目の前のドイツ人は或る意味当事者で、唯一の例外だ。
「俺は帰国後が怖いな。慌ただしくなる」
とヴァイスヴォルフは言い、自分とほぼ同世代の男に鋭い視線をぶつける。
 「誰がミヤキを殺したのか」
「通り魔だろう。白昼堂々人殺しなんて、それ以外有り得ない。可哀想なものだ」
と背振は答える。確かに、ネットニュースでも通り魔の犯行と云う見方が強い、と報じられていた。
「……ミヤキが残したノウハウと遺志を、オギが受け継ぐ。クローンは人々を、社会を救う。何のために、政府が金を出していると思う?」
と言った背振の目には、国益の先に有る私益しか映っていない。
 私益のために、税金と云う他人の金を好きなだけ投入できる、或る意味では聖なる職業。その地位に立つことが、背振の目下の目標だ。
 総司祭の座を狙う自分を見ているように思えるヴァイスヴォルフは、思わず目を細める。
「この過渡期を乗り越えれば、日本は必ず再生する。俺はどんな批判にも打ち克ち、やがて賞賛される」
と背振は言い、無限に湧き上がる自信を不敵な笑みとして露わにする。
 ……その自信が落とし穴にならなければいいが。ヴァイスヴォルフはそう思いながら、コーヒーカップを空にした。
 三養基を殺した犯人の自供と教会での混乱は、会議室を出ると同時に知った。部下からの連絡で、今は教会に戻るべきではないと言われ、急遽ホテルを確保した。
 アリスの失脚は不可避、それだけは実現した。しかし、望まない形だった。部屋では少し高い酒も開けたが、上質な酔いを味わうことができなかった。予想外の事態への苛立ちが駆逐していた。

 「頭痛い……」
とアルスは呟く。
 耳障りがよくカッコいいことを並べているが、実態は単に私利私欲に塗れているだけだ。日本で政治に携わる連中は、どうしてこうも腐っているのか。

 新宿の雑踏に紛れるのは、フランス語だけではない。
「……?」
澪は目線をずらす。右奥に不穏な視線を感じたからだ。詩応もそれに続く。
「流雫!」
ボブカットの少女が叫ぶと同時に、大きな銃声が響いた。ヴァイスヴォルフの目が見開かれ、身体が前に崩れ、そのままマネキンのように倒れる。
「が……っ……!!」
「ルートヴィヒ!!」
アルスが名を叫び、ヴァイスヴォルフに駆け寄る。流雫は目を見開きながらも、奥に目を向ける。怪しい男が1人。
「待て!!」
流雫は叫び、地面を蹴る。
「流雫!!」
澪がそれに続く。
 「シノ!救急車!!」
アルスが叫ぶと同時に、詩応はスマートフォンを耳に当てる。その隣でアルスは名を呼ぶ。
「ルートヴィヒ!!」
背中を血で染めるヴァイスヴォルフは、敵対する教団の信者に身体を仰向けにされるが、その声に反応しない。苦悶の息を吐くだけだ。
 ……澪の声が響き、ヴァイスヴォルフは撃たれた。最初から狙う気でいた……つまり新宿にいることを知っていた……!?
「シノ!撃て!!」
アルスは、ヴァイスヴォルフの首から外し、地面に置いたネックレスを指しながら、詩応に言う。
「は!?」
「撃て!!」
アルスは叫ぶ。
 何か有る……本来の目的外だが仕方ない。詩応は銃口をネックレスの真上に向け、八芒星のチャームの中心を狙って引き金を引く。
 火薬が爆ぜる音と同時に、音を立てて跳ねるチャーム。抉れた金属にプラスチックの薄い板が見えた。
「基板……やはりか……!」
「どう云う……!?」
と問う詩応に、アルスは答えた。更なる混乱の気配と戦いながら。
「ルートヴィヒも、トラッカーで監視されていたんだ……!」