太陽騎士団。フランス革命直後、フランスで生まれた宗教団体。創世の女神ソレイエドールを崇める。かつて、この教団が絡む事件に遭遇したことで、一通りどんな組織か、流雫と澪は知っている。
 その教典に出てくる女神のうち、唯一異端なのが破壊の女神テネイベール。悪魔に陵辱された炎の戦女神が産み落とし、最後はソレイエドールのために凄惨な死を遂げる。
 教典に描かれた絵によると、その瞳も紅と蒼のオッドアイ。流雫のそれと同じだった。無論、彼が現代に転生した女神だから……ではなく、単なる偶然に過ぎないのだが。
 そのテネイベールに関する解釈を巡っては、信者同士でも大きな論争にもなっている。
 そして彼女は、破壊の女神を忌むべき存在とする見方の持ち主。そうでなければ、恩人と云うべき流雫へ見せた態度の説明がつかない。
「……もし、彼女が狙われた理由が、信者だとするなら……」
「信者どころか、教団の重要人物……」
と流雫は言う。
 見た目は自分たちとほぼ同世代。それが、国際線のファーストクラスに1人で乗っていた。その時点で普通ではない。そして、普通じゃないから狙われた……。
「流雫に懐けば、色々聞き出すのは簡単だろうけど……」
「拒絶されてるからね……」
そう言った2人は、同時に深く溜め息を吐くと、取調室へ戻ることにした。

 空港島を後にした2人は、渋谷へ向かった。渋谷駅前のハチ公広場、その片隅に慰霊碑が建っている。流雫と澪はその前に立つ。
「美桜」
「美桜さん」
2人は同時に、或る少女の名を口にした。
 欅平美桜。流雫のかつての恋人。同級生と2人で東京に出掛け、渋谷でトーキョーアタックに遭った。その同級生は無事だったが、美桜はほぼ即死だった。
 流雫がその一報を耳にしたのは、空港襲撃の目撃者として連行された、空港島の警察署を出た直後だった。あの狂ったように泣き叫んだ日を、流雫は今でも思い出す。
 澪は夢で、美桜に逢ったことが有る。トーキョーアタックから1年が経とうとしていた日の夜のことだ。
 人の死の上に成り立つ恋愛を喜ぶべきなのか……。流雫を愛していると断言しながらも、その悩みを抱えていた澪を肯定した美桜は、彼女に流雫を託した。
「流雫のこと、頼むよ。澪」
と。その言葉を、澪は鮮明に覚えている。忘れられない、忘れられるワケがない。いや、忘れてはいけない。
 彼女にそう言ってほしい、その願望から生まれた言葉に過ぎないとしても、その言葉が何時も澪を後押しした。だから、今までテロの脅威に屈すること無く戦ってきた。
 ……事有る毎に、2人はこの場所に立つ。そして、美桜に誓う。互いにとっての生きてきた証と生きる希望を、明日からも護ると。
 同時に頷いて、踵を返す2人。不意に、その並んだ背中に微笑む彼女の気配を感じた気がした。

 恋人を地元に残したブロンドヘアの少年は、モンパルナス駅からの直行バスの人混みに、早くも疲労困憊の様相を露わにした。
 ブルターニュ地方の中心都市からTGVに揺られ、バスに乗り換え、漸くロワシーに建てられた巨大空港、シャルル・ド・ゴールまでやって来た。そして数時間後には飛行機に乗る、それも12時間。
 彼がよく知る元フランス人の少年は、その長旅を毎年続けているのだから、それが地味に凄いことだと思い知らされる。
 ブルーの瞳で見上げた、シエルフランスのロゴが並ぶ出発便案内。その中程、東京のスペルに目が止まる。
 ……朝のニュースで、その東京の空港で殺人未遂事件が起きたと報じられていた。彼は無意識に、ルナと名乗る少年にメッセージを入れる。飛行機が定刻通りなら、遭遇している頃だからだ。すぐに返事が返ってきた。
「無事だよ、僕もミオも」
そのフランス語の文字列に安堵したが、しかし空港で白昼堂々と犯行に及ぶ連中には呆れるばかりだ。尤も、自分には無関係な話だが。そう思いながらも、一言毒突かなければ気が済まない。
「相変わらず、厄介な国だな……日本と云うのは」
と。
 キャリーを預ける必要が有る少年は、シエルフランスのカウンターでアプリのデジタル搭乗パスを開く。パリ発東京行き、その下に表示される名は、日本風にはこう読めた。
 アルス・プリュヴィオーズ。

 レンヌの街で生まれ育ったアルスは、太陽騎士団から派生した宗教、血の旅団の信者。そしてルナ……流雫とはレンヌで知り合った。彼が里帰りしている最中の話だ。
 今は、流雫を誰より信頼している。その日本人にとって、アルスは澪の次に、そして男同士としては誰より仲がよい。尤も、流雫の交遊関係そのものが、手で数えきれるほどだが。
 日本に帰る流雫と同じ飛行機でもよかったが、生憎の満席。だから翌日のフライトにせざるを得なかった。
 搭乗ゲート前のベンチに座るアルスは、腕時計に目を向ける。出発まで、あと1時間。この待ち時間が妙に長いことに軽く疲労を感じていると、スマートフォンが鳴った。

 流雫は今日は、澪の家に泊まる。両親も恋人を歓迎している。
 2人きりで過ごす夜。しかし、昼間のことを忘れることはできない。
「あの少女……誰だったんだろ……?」
と言った澪に、スマートフォンを握った流雫は、時計を見て言った。
「専門家に話してみようか」

 「アリス・メスィドール」
空港のベンチでコーラを飲んでいた、流雫曰く専門家は、通話相手にそう答えた。しかし、先に一言言わなければ気が済まない。
「どうして日本はこうも危険なんだよ?」
と。
 「僕と同世代の少女で、太陽騎士団の上の立場で、フランス人。それらしい人、いる?」
と流雫から投げ掛けられた問いに、アルスは数秒もしないうちに誰を指しているか判った。
 アリス・メスィドール。太陽騎士団の西部教会を統べる名家の長女として、レンヌで生まれ育った。流雫や澪、アルスと同い年。学校には通わなかったが、自宅で英才教育を受けていた。だから、同い年ながらアルスやアリシアは会ったことが無い。
 そのメスィドール家は今では総司祭となり、アリスは聖女として崇められている。
 「……何か気になるのか?」
そう問われた流雫は、簡単に経緯を説明する。その滑らかなフランス語は、彼のルーツがフランスであることを象徴していた。
「お前への態度は、仕方あるまい。感心しないがな」
とアルスは言った。だが、それより引っ掛かることが有る。そもそも……。
「金色と赤のネックレス……?まさか、聖女メスィドールが日本にいるのか!?」
 教団の上級職だけが身に着けられるネックレス、その色で階級が判る。そして赤は、最上級……総司祭一家の証しだった。
 ニュースでは、犯人はその場で毒に接触してほぼ即死だったと報じられている。しかし、その被害者については報道されていない。だから、聖女が狙われたことは今流雫からの連絡で初めて知った。このフランス人にとっては、不可解でしかない。
 「……じゃあ、先刻見たのは誰だ……!?」
と言ったアルスに、流雫は
「……え?」
と声を上げた。
 アルスは先刻、上級会員専用ラウンジに向かうアリスとすれ違った。スーツを着た男を2人、秘書兼ボディーガードとして連れていた。それも、確かに聖女の証のネックレスを着けていた。
 ……メスィドール家の娘はアリス1人だけ。1歳下に弟がいる。弟が変装して来日することは、まず有り得ない。そうする理由が無いからだ。
「……誰なんだよ……」
とアルスは呟く。彼の困惑は、流雫にとっても珍しいことだった。
 不意にフランス人の耳に、東京行きの搭乗案内開始のアナウンスが聞こえた。
「……今から飛行機だ。明日、東京でな」
と言ったアルスに、流雫は
「うん、明日ね」
と滑らかなフランス語で返し、スマートフォンを耳から離し、思わず口に出す。
「……聖女が2人……?」
 澪はその声に、先刻のフランス語の会話の中身が、僅かながら判った気がした。
「……同じ人が、2人いるってこと……?」
「昼間の少女、アリスと云うらしいんだ。数時間前、アルスも彼女をパリの空港で見てる」
「……聖女って、宗教の最重要人物だよね?影武者だったりして……」
と澪は言った。影武者だとしても疑問は有る。ただ、恋人の部屋で頭を抱えても何かが判明するワケでもない。
「……明日、アルスも来るから、全てはその時かな……?」
と流雫は言った。そう、明日も空港に行くことになっている。それも、出迎えるのは2人だけではない。

 「澪!流雫!」
と2人の名を呼ぶ、ダークブラウンのショートヘアの少女に、澪は
「詩応さん!」
と呼び返して手を挙げた。品川駅で合流した3人は、これから空港へ向かう。
 伏見詩応。名古屋に住む太陽騎士団の信者。同い年の2人とは、彼女の姉の死をきっかけに知り合った。そして、その真相を追って共闘してきた。澪が同性で誰より慕う相手でもある。
 元陸上部で、ボーイッシュな風貌にその名残が有る。デニムパンツにシャツの服装が、そのことを引き立たせていた。
「流雫も相変わらずだね」
「伏見さんも」
と言葉を交わした2人に、澪は微笑む。
 消える命を看取ることしかできなかったと嘆く流雫は、詩応を苛立たせた。吹っ切れたと思っていたかった悲しみを、吹っ切れていない……その現実を突き付けたからだ。
 流雫に何時かの自分を見ているようで、だから流雫のことは苦手だった。ただそれも、次第に相容れるようになる。そして今は、普通に話せるだけの間柄だ。それが、シルバーヘアの少年の恋人にとって喜ばしい。
「それじゃあ、行く?」
と流雫は言った。

 パリからの飛行機は、30分遅れで着いた。それでも、1万キロ近い長距離国際線なら遅れなかった方だと、流雫は思っている。
 見覚えが有るブロンドヘアの少年を
「アルス!」
と最初に呼んだのは流雫だった。
「ルナ!」
と名を呼び返して近付くアルスに、流雫は
「3日ぶりだね」
と声を弾ませる。普段滅多に会えない間柄だから、3日ぶりでも嬉しい。
 その様子を、澪と詩応は微笑みながら見つめる。何だかんだで、流雫も年頃の少年なのだと。
「プリンセスと騎士様か」
アルスが英語で言うと、口角を上げる詩応の隣で澪は
「プリ……」
とだけ呟きながら、一気に顔を真っ赤にする。
 ……そうだ、アルスは人を撃沈させるのが得意だった。澪はそのことを忘れていた。
 自分から恋人だの何だのと言うのは平気だが、他人から言われることに耐性が全く無い。そして、集まった3人全員がスナイパーだ。そう、最愛の流雫でさえも。
 「ところで、シノは何故トーキョーへ?」
とアルスは問う。撃沈したままの澪の隣で、詩応は答えた。
「聖女様が来日すると云うから」
 今日と明日、聖女アリス・メスィドールが東京で演説するのだ。自分と同い年で教団の最高峰の地位に立つ者を一目見たい、と云う興味本位から、詩応は1人早朝の高速バスで東京へ出向いた。

 血の旅団は、太陽騎士団の過激派をルーツとする。
 流雫の人生を大きく変えたパリクリスマス同時多発テロ、通称ノエル・ド・アンフェルを太陽騎士団の仕業に見せ掛けて引き起こした。
 今はパンデミックによる国家の危機を機に、祖国フランスのためにと互いに手を取り合っているが、その歩み寄りを批判する者は互いに少なくない。
 詩応はアルスに最初こそ敵意を向けたが、彼に力を貸してほしいと頼まれ、その手を取った。真の敵が同じで、その思惑を潰すことが日本のため、そう言われると、詩応に選択肢は無かった。
 そして今は真の敵と戦った者同士、蟠りは無い。それどころか、互いに味方だ。
「昨日僕が此処で見たのは聖女」
「俺がド・ゴールで見たのも聖女」
その2人の男子が続くフランス語に、怪訝な表情を浮かべながら詩応が英語で
「は?……どっちかが見間違いなんじゃ?」
と被せる。
 ……見間違い。ネックレスの件は別として、それが最も簡単な理由だ。ただ、どうしてもそうは思えない。流雫は
「そう思いたいけどね……」
と答えるのが精一杯だった。

 4人は空港のフードコートで手頃なランチを堪能した後、渋谷へ向かった。詩応だけが出席できる大教会でのイベントの前に、4人で行きたい場所が有ったからだ。
 流雫がアルスに、東京のトゥール・モンパルナスと紹介した地上230メートルの屋外展望台、シブヤソラ。流雫と澪が東京の夜景と云う名のイルミネーションに祝福されながら、恋人同士として結ばれた場所。それだけに、このカップルにとっては一種の聖地のようなものだった。
 大都会の景色を見下ろす4人、その右端にいるアルスは
「シノ」
と隣のショートヘアの少女を誘い、2人から離れる。
 ……例えるなら、静かに灯り続ける、しかし何が有っても消えないキャンドルの火。流雫と澪の恋愛を火に例えるとそうなる。詩応もアルスも、その点は同じだった。2人を見ているだけで、何か微笑ましく羨ましくなる。
 だがそれより、アルスは彼女に話さなければならないことが有る。
「……何だい?」
と、英語で詩応が話を切り出した。
 「先刻の話だ。……俺とルナが見たのは確かに聖女だ。どっちも、あの一家だけのネックレスを着けてたからな」
「護衛がいなかったなら、ルナが見たのが偽者じゃ?ネックレスも精巧な贋作……」
「そうだとして、何故そうする必要が有る?しかも日本に1人でいるんだ」
と問うたアルスに、詩応は何も言えなかった。
 普通じゃ有り得ないから疑いたい、しかし見間違いなんかではないことは、2人の表情から判る。
「もし影武者なら、同じ国にいる必要が無い。日本にいるべき理由が有り、片方がスピーチしている裏で、もう片方が本来の目的を果たそうとしている……、それなら説明が付くがな」
「だが、本来の目的が何にせよ、あの装束じゃ目立つ。まるで自分を狙えと言っているかのようだ」
と続けたアルスに、詩応は
「……何が、どうなって……」
と困惑の表情を露わにする。数秒だけ言うのを躊躇ったが、アルスは口にした。
「日本ではどう伝わっているか知らないが、太陽騎士団は、今フランスではちょっとした問題になっている。その影響だとしても不思議じゃない」