トリコロールが尾翼に踊る白い飛行機が、東京中央国際空港に降り立ったのは、11時のことだった。
 最後列の窓側の席に座っていた少年の、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳には、12時間の長旅の疲れは見えない。年に1回だけながら、日本とフランスを往復するのは、既に10回を超えた。
 トリコロールのシャツにネイビーのUVカットパーカーを羽織り、手には紅い三日月のチャームのブレスレット。最後に降りた、シルバーの外ハネショートヘアの少年は、スマートフォンを開いてイミグレーションに並ぶ。
「着いたよ」
とメッセージを打った少年が取り出したパスポート、それに刻まれた名前はLUNA。

 こうして空港に迎えに行くことは初めてのこと。展望デッキに立つ少女は、最愛の少年を乗せた飛行機が、轟音を立てて着陸する光景に安堵する。
 シンボルと云える、ダークブラウンの肩丈ボブカットを揺らしながら、デニム調のミニスカートとセーラー服、その上からデニムジャケットを羽織った彼女は、オレンジ色のティアドロップのチャームを遇ったブレスレットに一度視線を落とすと、踵を返した。

 到着口の自動ドアが開くと、最愛の少女が見える。
「澪!」
「流雫!」
2つの声が重なり、そして距離が一気に近付いた。

 少年の名前は、宇奈月流雫。流雫と書いてルナと読む。日本人の父とフランス人の母の間に生まれ、ラテン語で月を意味する名前を付けられた。
 パリで生まれた後、フランス西部のレンヌに引っ越し、今は理由有って自分だけ、日本人として帰化した上で日本にいる。両親はレンヌで旅行代理店を営み、多忙な日々を送っている。
 その時に当てられた字は、ルナが生まれた日に因む。パリは雨が降っていて、窓ガラスを雨粒が流れていたことに着想した、と母アスタナ・クラージュは言っている。
 そして今は、故郷フランスからの帰り。2週間ぶりに踏んだ日本の地で、最愛の少女、室堂澪の出迎えを受けた。
 複雑で特殊な経緯で知り合った2人は、今や相思相愛の恋人同士。一言で言えば、互いに安心して背中を預けていられる。
「おかえり、流雫」
「ただいま、澪」
と、微笑みながら言葉を交わした2人は、空港でランチタイムにしようと決めた。レストランフロアへ踵を返そうとする流雫は、しかし立ち止まる。
「流雫?」
と澪が名を呼ぶが、流雫は
「あれ……」
とだけ声に出す。
 ……ブロンドヘアを左右で三つ編みにした少女。青のブラウスに白ケープを羽織っている。恐らくは、2人と同じぐらいの年齢か。
 流雫の席はエコノミークラスだったから、最後に乗る上に機内の最後列。それ故、それより前に乗った全ての人の顔を、一通り見ている。そして、ファーストクラスに座っていて、一瞬だけ目が合った。蒼い瞳が印象的で、それはフライトの半日前に別れた母を思い出させた。
 しかし、その周囲で些細な違和感が漂うことに気付く。
「……待ってて」
とだけ言い残して踵を返す流雫の目に、寸分前までの優しさは無い。それが、端的に今の日本を表している。
 待ってて。そう言われた澪は、しかしその後を追うべく、踵を上げた。

 ……2023年8月、その最後の週末に起きた東京同時多発テロ事件、通称トーキョーアタック。空港と渋谷を標的とした惨劇は、日本の安全神話が最早過去のものである現実を、1億人に突き付けた。
 それは流雫と澪にとっても例外ではないが、特に流雫には今でも忌まわしい記憶として焼き付いている。かつての恋人を殺されたからだ。ただ、それがきっかけで2人は出逢い、今この瞬間が有る。
 人を愛することに戸惑い、ようやく愛することを覚え始めた矢先に襲われた悲しみ。その絶望に沈む僕を救済するために、あの日この世界から切り取られた少女が掛けた、最初で最後の魔法……流雫にはそう思える。

 少女の背後にいる男女の観光客は、折り畳まれたタオルを持っている。ショートヘアの女の方が先に足を速め、距離を狭める。その挙動に流雫は気付いていた。
 人形のように整った少女の顔に、タオルが押し当てられる。声を上げ、その場に崩れる少女。
「誰か!」
その英語ではない言葉に条件反射を示すように、
「待て!!」
と、流雫は声を張り上げた。
 少女から離れた女はそのまま走り去ろうとする、しかし地面を蹴った澪の方が速く、目の前に現れる。
「ちぃっ!!」
大きく舌打ちする女は、咄嗟にショルダーバッグから黒い銃を取り出す。それの動きに反応した澪は、黒いショルダーバッグから、シルバーの銃を取り出した。

 ……トーキョーアタックを機に、日本国民に銃の所持と使用が認められるようになった。条件は、高校生以上。そして、正当防衛が成立する場合にのみ、護身目的であること。
 今では、国民の半数以上が銃を持っている計算になる。だが、テロや凶悪犯罪の抑止力としての手段は、時には犯罪を起こす武器になる。そして、今。
 6発のオートマチック銃と云う統一の仕様だが、銃そのものは3種類から選べる。違いは見た目とサイズと口径だ。そして、澪が持つのは最も小型で軽量のもの。火薬の量も少なく、威力は最も弱いが、反動も小さく扱いやすいのが最大の特徴だ。
「あの子に何をしたの!?」
と澪は問う。その返答は銃声だった。
 大口径特有の爆発音が反響する、しかし標的の少女は倒れない。2人分右を飛び、澪の背後の壁に銃弾が刺さる。そして女が反動で腕を後ろに持って行かれる、その瞬間を刑事の娘は逃さなかった。
「はっ!!」
一気に懐に飛び込んだ澪は、銃身をがら空きの脇腹に叩き付ける。
「ぐっうっ!!」
その呻き声と同時に女が落とした銃を蹴飛ばす澪は、腕を掴んで後ろに回し、後ろ首に銃を突き付ける。
「何をしたの!?答えなさい!!」
睨む目付きでの問いに、返事は無い。一瞬だけずらした澪の視界に、最愛の少年が映る。
 ……流雫の出国直前、澪は彼から銃を預かっていた。銃を持つ資格証さえ有れば、撃たなければ他人の銃に触っても問題無い。澪はガンメタリックの銃身を取り出し、
「流雫!!」
と叫びながら宙に投げた。

 ジャンパーを着た男は、予想外の邪魔者にタオルを投げ捨てる。湿った音を立てた白いフェイスタオルに、少女が近寄る。顔を拭きたい。
「触るな!!」
流雫はフランス語で叫び、同時に飛んできた銃身をビーチフラッグスの要領で掴むと、その流れに乗せてスライドを引き、タオルを銃身で弾く。
「流雫!?」
その様子に澪は驚きの声を上げる。
「澪!バイナリー!!」
流雫は声を張り上げる。その言葉に、澪は一瞬身震いする。それと同時に、女が無理に力を入れ、澪を押し退けて立ち上がった。
「何すんだ!!」
そう叫んだ女が、フェイスタオルに向かう。
 「触るな!!」
そう叫んだ流雫は、咄嗟に女の足下を撃つ。火薬の量は少なく、威力には劣るが静音性に優れる。しかし威嚇は通じず、ついに女がタオルを掴んだ。
「邪魔するな、ガキ!!」
男は言い、大口径の銃を手にする。しかし、流雫は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。それは、銃を向けられたからではない。
 「っ!!」
澪は女の手に銃を向け、撃った。小さな銃声の直後に
「ぎぃぃっ!!」
一際低い声を上げながら、タオルを手放した女はその場に崩れる。銃弾が刺さった手の甲からは地が滴り、手放したタオルが汚れていく。
「てめぇ!!」
男が叫ぶが、流雫は
「洗面所へ!!このままじゃ死ぬ!!」
とだけ叫び返した。その瞬間、女は
「がふっ!!」
と血を吐き、その場に倒れる。
 「……助からない」
そう言った流雫に、澪は足を震わせる。
「澪!!」
そう叫んだ流雫は、仕方なくケープで顔を拭くブロンドヘアの少女に
「離れて!!」
と叫びながら、澪の手を掴んで引っ張る。しかし、ボブカットの少女は力が入らず、その場に崩れる。
「澪……!」
と名を呼びながら抱き寄せ、胸板で最愛の少女の視界をシャットアウトさせる流雫。
 何が起きたか判らない男は
「おい!!」
と叫び、女に近寄る。
 触るな、と流雫が怒鳴る前に、男は女の手を掴んだ。不快な湿り気がその皮膚に触れる。
「やめっ……!!」
叫んだ流雫の声が途切れ、虚しく反響する。……男の発症は、その数秒後だった。
 ……帰国早々、最悪。しかし、自分と澪が無事だったことに、流雫は辛うじて安堵する。そして、謎の少女も。
 半目を開ける少女が視界の端に映るが、その光景にその場で気を失う。騒然とする空港で、流雫は澪の頭を撫でながら、新たな脅威と謎に纏わり付かれる予感を抱いていた。

 空港署に連行されたカップルに
「帰国早々、災難だな」
と声を掛ける中年の刑事は、室堂常願。澪の父親で、テロ専従の刑事として普段は臨海副都心の臨海署にいる。事件の一報を受けて空港へ駆け付けると、愛娘がいたのだ。
「どうして……」
とだけ声を上げる。
 数時間前、リビングでは微笑を絶やさかった一人娘は、今恋人の隣で数時間後に訪れる世界の終わりを知らされたように沈んでいる。
 机の下で手を握る2人の手首を、改めてブレスレットが飾る。3日だけ離れた互いの誕生日プレゼントは、2人にとっての御守りのようなものだ。
 ……それだけで、何が有っても屈しないと誓える。だが、人が悶える様子を目の当たりにするのは、流石にダメージが大きい。
「……バイナリー兵器……」
と流雫は言った。
 バイナリー兵器。猛毒の化学物質の前駆体をそれぞれ持ち運び、犯行直前に混合する。危険物質を安全に持ち運べるメリットが有る。一国の重要人物が暗殺された際にも使用された。
 あの不審なタオルの持ち方から、流雫はそうだと直感した。そして、男女の反応を見る限り当たっていた。
 恐らくは、タオルに塗られたものが何かも知らないまま、ただ何者かの命令のままに犯行に及んだ。そして手に付着した物質が化学反応を起こし、何が何だか判らないまま絶命した。
 澪が銃を撃って手放させたが、それでも手遅れだったほどの即効性を持っていた。あの時、フランス語で叫んでいた少女がタオルで顔を拭いていれば、既に彼女はこの世にいない。
 ……誰でもいいなら、自分も澪も狙われていたって、当然他の人が標的だって不思議ではない。だが、ピンポイントであの少女が狙われた。逆に言えば、狙われるだけの地位が有る。
「彼女、何者なんだ……?」
と流雫は呟く。
 あの場所に居合わせたから、彼女は死ななくて済んだ。だが、自分たちは無関係ではいられなくなった。
「病院で手当を受けているが、命に別状は無い。だが、通常じゃ有り得ない手口で狙われた。……彼女はもうすぐ署に送られてくる。悪いが、同席してやってほしい」
そう言った恋人の父親に、流雫は頷いた。正しくは、頷くしかなかった。

 自分たちの取調が終わり、隣の部屋に入った流雫は、少女と目が合う。1秒、互いの瞳を見つめ合う……何処かで会ったような気がした。しかし、少女は
「近寄るな……!」
と声を上げる。
 怪訝な表情を浮かべた流雫の目に、首のネックレスが映る。チャームは、金と赤の八芒星。……その瞬間、彼女の拒絶の理由が判った。
「……同席は無理だ、澪だけならできるけど」
と言って踵を返した流雫に、澪が頷く。その理由を察したベテラン刑事は、休憩所の場所を教えられた。
 紙コップに注がれたアイスココアを口にする2人。
「……近寄るな、か」
と話を切り出した流雫に、澪が続く。
「あのフランス語?」
ボブカットの少女は、あの三つ編みの少女の態度が引っ掛かっていた。助けた相手を威嚇する態度……誰から見ても異様だと判る。
 「あのネックレスを見れば、仕方ないとは思うよ」
と頷きながら言った少年の言葉に、澪は声を上げる。
「え?」
「……あのネックレス、太陽騎士団のだから」
と流雫は言った。