まぶたに光が刺さって、目が覚めた。ぼんやりとした視界の真ん中、彼のふぬけた寝顔に、ゆっくりと手をのばす。
 頬はすべすべなのに、あごは少しチクチクして。時折動く唇からはむにゃりという効果音が聞こえそうで。少し顔を近づけるとひだまりみたいな匂いがして。
 彼のすべてに、胸がきゅっとなる。
「幸せ」
 彼に触れて少し熱を帯びた手を引っ込めると、ベッドのヘッドボードにこっそり置いていた海色のイヤリングをつまんだ。
 朝の光にかざすとキラキラ光るそれを見て、私は彼と過ごしたあの夜を思い出した。

***

 それは、涼しすぎる夏の終わりの夜。バイトの初出勤日に高価なグラスを2つも割って店長に叱られた私は、俯きながらうす暗い道を歩いていた。ノースリーブから露出した腕が、ひんやりとした風によって冷やされていく。
「私ってダメだな……」
 ふり返ると、私の人生は失敗続きだった。大会前日に練習しすぎてけがをしたり、受験当日に試験会場を間違えて第一志望に落ちたり、好きな男の子に彼女がいることを知らずに告白したら女子たちから総スカンを食らったり。
 私はもっと、正しく生きたいのに……。
 胸が痛くなって、瞳が涙の膜で覆われていく。
「きゃっ」
 下を向いて歩いていたら、前から来た人と肩がぶつかってしまった。ごめんなさいとつぶやきながら顔を上げると、目の前にいたのは――
「先輩……」
 ぶつかった相手は、バイト先の男の先輩だった。すらりとした長身で、髪は明るいブラウン。猫目で色白で飄々とした雰囲気の人。今日は軽く挨拶をしたけど、名前は覚えていない。あわてて記憶をたぐりよせていると、彼はぶつかった私の肩をやさしくなでた。
「新入りの子だよね? ごめん、痛かったでしょ」
 夜風で冷えた肩に、彼の手のぬくもりが伝わる。心臓を直接なでられたような心地がして、心拍数が一気に上がった。
 この人きっと、女慣れしてる。頭でわかっていても、ドキドキは止まらない。
「忘れ物したから急いでたんだよね……あれ、泣いてる?」
 先輩に指摘されて、私は慌てて目をこすった。
「な、泣いてません」
 必死に取りつくろっていると、今度はお腹がぐぅと鳴って……私はいつも間が悪い。恥ずかしくて再び俯くと、先輩が顔を覗きこんできた。
 長いまつ毛と透き通った瞳が、私を逃がさない。
「なんか食べよっか」
「えっ」
「こっちおいで」
 先輩は手招きすると、バイト先とは反対方向へ歩き出した。断ることはできなかった。
 先輩の少し後ろを歩きながら腕時計を確認すると、23時25分。今からご飯を食べたら、終電に間に合わなくなる。もしかしたら先輩は、いつもこうやって女の子をお持ち帰りしているの?
 不安な気持ちがふくらんで「やっぱりいいです」という言葉が喉元までせり上がってきたとき、先輩はコンビニに入った。
「ちょっと待ってて」
 戸惑いながらもコンビニの前で待っていると、数分後に小さなレジ袋を持った先輩が戻ってきた。何を買ったんだろう? もしかして夜のためのアレ――
 嫌な予感がして体がこわばる。先輩は無言。沈黙が不安な気持ちを醸造させていく。頭の中で必死に断る言葉を考えているうちにいつの間にか繁華街を抜け、たどりついたのは人気の少ない河川敷。
「危ないからつかまって」
 河川敷の土手を少し下りた先輩は、私に手を差し出してきた。驚きながらも彼の手のひらにそっと指を置くと、いきなりきゅっと握られた。その力強さにドキッとする。ご飯を食べに行く話がどうなったのかも、なんで川に来たのかもわからないけど、もう完全に先輩のペースに呑まれてしまって何も言えない。
 おまけに、急な土手を下る不安定さと草を踏むと香る夏の匂いで、軽く酔ったみたいに胸のあたりがふわふわしはじめた。
「けがしてほしくないから、この手は絶対に離しちゃだめだよ」
 こんなときに少女漫画のヒーローみたいなことを言うのは、ちょっとずるい。
 それから下につくと、川べりに座った先輩は商品を取り出して空になったレジ袋を自分のすぐ横に敷いた。
「ここに座ったら汚れないよ」
 細やかな気遣いをありがたく思いつつも、レジ袋の位置があまりにも先輩に近くてどぎまぎしてしまう。おずおずと座ると、露出した肩が先輩のシャツに触れた。爽やかな柑橘系の香水の匂いが漂ってきて、少しくらっとする。
「涙はもう乾いた?」
「はい」
「あはは、やっぱり泣いてたんだね。さっきは否定してたけど」
「そ、それは……」
「でも元気が出てよかった! どっち食べたい?」
 そういうと、先輩は私の前に商品を2つ差し出した。
 ソーダ味のアイスキャンディーとアメリカンドッグ。
 なんだ、夜のためのアレじゃなかった。
 緊張が一気にほどけると、先輩が全然違う系統の2つをチョイスしたことがおかしくて、思わず吹き出してしまった。
「なんで笑ってるの?」
「すみません、真逆の食べ物だから、つい」
「甘いのもしょっぱいのも、冷たいのもあたたかいのも選べるようにしたんだ」
「やさしいですね」
「やさしさが俺の売りだからね」
 にっと笑った先輩はどこか得意げで、あどけなさを感じた。最初は飄々として女慣れしている雰囲気に不安を覚えていたけど、一気に親近感が湧いて心がほぐれていく。
 きっと最初の先輩の印象は全部私の思い込みで、女慣れしてるわけじゃなくて純粋にやさしい人なんだろうな。
 警戒心が消えたら、またお腹が空いてきた。
「アイスが食べたいです」
「だと思った! あげる」
 受け取ったアイスキャンディーを開けると少し溶けていたから、慌ててぺろりとなめた。爽やかなソーダ味が口の中を甘やかに刺激する。
「猫みたいでかわいいね」
「……茶化さないでください。恥ずかしいです」
「ふふっ、もう俺と普通に話してくれるの?」
「えっ?」
「さっきはしゃべりかけないでオーラがあったから」
 その言葉を聞いてはっとした。私は不安になるあまり先輩のことばかりを気にして、自分が相手にどういう印象を与えるかまでは考えられていなかった。
「すいませんでした」
「いいよ。それより、どうして泣いてたの?」
「実はバイトで高価なグラスを2つも割ってしまって、店長に怒られたんです」
「それで?」
「それだけです……」
「たったそれだけであんなに落ち込んでたの?」
「はい……失敗しちゃったから」
「そんなの気にしなくていいよ」
「でも、初めてだったし……」
「初めならなおさら失敗するって。それに、失敗っていつか幸せになるための種なんだよ。今日の失敗のおかげで、きっときれいな花が咲く」
 そういうと、先輩は私の頭をポンポンした。むずがゆい感覚が広がって、全身がほわっと熱くなっていく。失敗をポジティブに捉えるところも、手のぬくもりで私の傷を癒してくれるところもすごく魅力的で……だけど、先輩にこんなに早く溺れそうになる自分が怖くなって、とっさにネガティブな言葉が口をついた。
「でも、私ずっと引きずっちゃうんです……」
 これ以上先輩の引力にひっぱられないように、名残惜しさをかみつぶしながら頭ポンポンをかわす。沈黙をごまかすように食べ終わったアイスキャンディーの棒を舐めると、ちょっとだけ甘さが残っていた。
 そう、ずっと失敗に捉われているのが、いつもの私。
「顔上げて? どんなに辛くても元気が出るおまじないを教えてあげる」
「おまじない……?」
「『幸せ』。以上!」
「えっ……それおまじないなんですか? 本当に辛さが消えるんですか?」
「消えるよ! ほら、一緒に言ってみよ。幸せ!」
「し、幸せ……」
 それから私たちは、一緒に「幸せ」を何度も繰り返した。最初は半信半疑だったけど、その効果は抜群で、いつの間にか今日の辛さは夜風に溶けていった。
 でも辛さが消えた事実よりも、先輩といるこの時間のほうが、幸せ。
 その事実には、もうあらがえない。
「元気になった?」
「はい!」
「じゃあ川辺を歩いて駅まで行こっか。終電近そうだし」
 先輩がひょいっと立ったから、私も慌てて立ち上がった。汚れたレジ袋とまだ味のするアイスキャンディーの棒をバッグにしまうと、内ポケットに買ったばかりの海色のイヤリングが入っていることに気づいた。いまつけたら、先輩は気づいてくれるかな? ちょっとはかわいく見えるかな?
 私はこっそりイヤリングをつけると、先輩の背中を追いかけた。
「大丈夫? 服、汚れてない?」
「先輩のおかげできれいなままです」
「よかった」
 最初は終電をわざと逃して女の子をお持ち帰りする人だと思ってた。でも先輩はやさしくて、人思いで、ちゃんと終電を気にしてくれる。
 それが、今はちょっと切ない。
 今日の終わりに向かって歩き出すにはまだ早いから、もう少しだけ一緒にいられる口実が欲しい。
「そういえば先輩、忘れ物は取りに行かなくて大丈夫ですか?」
「平気だよ」
「でも急いでましたよね。なにを忘れたんですか?」
「財布」
「大変じゃないですか! 私も一緒にバイト先に――」
「泣いてる子、放っておけないでしょ? 君が元気に帰れることの方が、財布よりも大事」
 生活に必要なものよりも私を優先してくれたことが嬉しくて、心臓がドクンと鳴った。
「ポケットに千円しかなかったから、ちょっとしか買えなくてごめんね。今度おごるよ」
 先輩が「今度」を約束してくれたから、さらに心臓が早鐘を打った。そうやって、彼のひとつひとつの言葉が心に染み込んでいく。
「次も楽しみです」
 それから私たちは、たわいもない会話をしながら虫の声だけが響く川沿いを歩いた。
 店長の攻略方法を教えてくれる頼もしさ。
 笑ったときに指で頬をかくクセ。
 野良猫とじゃれたときのデレた表情。
 怖がりな私を急に驚かす、少年みたいないたずら心。
 ふとした沈黙のときに見せる、色気のある横顔。
 今日初めて会った名前も知らない人なのに、彼の一挙手一投足に感情が揺れ動いてしまう。
「着いたね。終電間に合いそうで良かった! 何番線?」
「2番線です」
「逆方向だね。俺の電車の方が後に来るから、ホームまで送ってくよ」
 先輩のやさしさは嬉しいけれど、私の胸は足を一歩踏み出すごとにきゅっと締まった。改札を抜けたくない、階段を上りたくない、ホームに行きたくない……でも、そんな心の抵抗を言葉にすることはできなくて、あっという間にホームに着いてしまった。電車が来るまで、あと2分。
 もどかしい沈黙の中で最後に何を話せばいいかを必死に考えていると、先輩はあくびをした。眠くなるのは、きっと私と同じ感情を抱いていないからだ。
 先輩は私のことを女の子として見てくれてないのかな? そういえば、たわいもない会話ばかりで彼女がいるかを聞くことができなかった。
 ホームに向かって減速する終電とは反対に、私の焦りはどんどん加速する。
 でも大丈夫。これからバイトでゆっくりと関係を深めていけば――
「俺、明日でバイトやめるんだ」
「えっ?」
 私、次の出勤は明後日だよ……。
「俺の代わりに頑張ってね、新人ちゃん」
 その言葉を聞いた瞬間、私の期待がはじけた。
 先輩は私を「新人ちゃん」としか思ってなかった。
 連絡先も交換してないから、「今度おごるよ」もきっと社交辞令。
 だから、今日は先輩と私の、最初で最後の日――
 電車のドアが開いた。
「早くしないと終電逃しちゃうよ」
 最初は終電を逃すように仕向けられるのが嫌だった。
 今は終電に乗ることを勧められるのが辛い。
『扉が閉まります。ご注意ください』
 アナウンスが流れる。
 人が車内に吸い込まれていく。
 ドアが閉まるまで、あと2秒。
 先輩とお別れするまで、あと――
「あっ」
 私はとっさに、耳から海色のイヤリングを落とした。
 それをしゃがんで探しているうちに、電車のドアが閉まった。
 イヤリングを拾って立ち上がったときには、終電はもう出発していて。
 ふり返ると、先輩が困ったように笑った。
「もう帰れなそう?」
「はい……」
「そっか……じゃあ、俺の家来る?」
 そのとき先輩と目が合って、2人の間の時が止まった。
 男女がなにかを決意するときの、妙な緊張感。
「あ、俺はソファで寝るから安心して」
「あ、ありがとうございます」
 それから先輩の終電に乗って、部屋に入って、体を重ねるまでに時間はかからなかった。
 さっきまで手のひらからしか得られなかったぬくもりが体中にこびりついて、中に入ってきて、私の体温とまざりあう。
 あ、好き。
 先輩が果てたとき、私は完全に恋に落ちた。
「気持ちよかった」
 そういって、先輩はすぐに寝てしまった。
 私はほてった体を持て余しながら、先輩の顔に触れた。
 頬はすべすべなのに、あごは少しチクチクして。時折動く唇からはむにゃりという効果音が聞こえそうで。少し顔を近づけるとひだまりみたいな匂いがして。
 彼のすべてに、胸がきゅっとなる。
 そして彼を触った手で、自分の耳に触れた。
 先輩にかわいいって言ってほしくてつけたイヤリング。
 先輩ともっと一緒にいたくてわざと落としたイヤリング。
 私は今日、失敗しなかった。
 だからきっと、先輩の彼女になれるよね?
 そんな甘やかな期待を抱きながら外したイヤリングをぎゅっと握りしめた瞬間、先輩の電話が鳴った。彼がもぞもぞと起き上がる気配がしたから、慌てて寝たふりをする。先輩はか小さなキッチンまで移動したけど、1Rだから声は丸聞こえ。
「あーうん、女の子といるから無理だわ、ごめん」
 たぶん、相手は男友達。
「違う、彼女じゃない。……彼女候補? ……違うかも」
「えっ?」
 思わず声がもれた。気づかれないように慌てて両手で口を塞ぐと、イヤリングがシーツに落ちた。
「かわいいよ。でも、恋愛って始まるまでが一番楽しいじゃん?」
 両手が小刻みに震え出す。
「その楽しさが長ければ長いほど、付き合ってからも大切にしたいって思えるんだよね。だから俺、終電逃してほしくなかったんだよ、その子に」
 そんなこと言われたって、もう遅い。
 したからもう、好きになっちゃったよ。
「したらなんか、冷めちゃったわ」

***

 あの夜を思い出すと、胸が苦しくなる。外が曇って朝の光が途絶えると、指でつまんだ海色のイヤリングもキラキラと光らなくなった。
 感情もイヤリングも、あの夜と同じ色には戻らない。
「幸せ」
 もう一度つぶやくと、涙腺が痛くなった。あのときの先輩のおまじないは、もう効かない。
「幸……せ……」
 涙があふれてきてとっさに背を向けると、テーブルの上に未開封のアイスキャンディーとアメリカンドッグの棒があった。私が寝てる間に先輩が買ってきたのかもしれない。でも、一緒に食べられなかったから、きっとアイスキャンディーだけがどろどろに溶けている。しかも、ソーダじゃなくてぶどう味……ちゃんと覚えてるの、私だけなんだね。
 こらえきれなくて、鼻をすする音が部屋中に響き渡る。すると、背後の先輩がもぞもぞと動く気配がした。
「ん? まり……どしたの?」
 寝ぼけながら私の背中に抱きつく彼。だけど、欲しいのは私じゃなくて女のぬくもり。
 だって、まりって私の名前じゃないから。
 私はただの、名無しのセフレだから。
「しよ」
 ねぇ、あの日イヤリングをわざと落とさなければ、終電にちゃんと乗っていれば、私はあなたの彼女になれた?
 失敗はいつか幸せになるための種なのかもしれない……だけど私は、いつかじゃなくて今あなたと幸せになりたいんだよ。
「好きだよ」
 彼の言葉は、あの夜の失敗がなければきっと――

 あと2秒で、正しい恋だった。


End.