高校生の頃、淡い恋に溺れた。
三年生になって初めて同じクラスになった、瀬戸内悠真。
180センチ近くある高い背に、細すぎず太すぎない均整の取れた身体はしなやかな雄々しさがあり、高校生にしては同年代と比べものにならないくらいの色香を漂わせる男子だった。
彼と同じバスケ部の面々は、明るい色に髪を染める者が多いなか、彼だけは最後まで純粋な黒だった。
スタイル剤で髪型をセットする男子が多いなかでも、やっぱり彼だけが、素直な髪型のままだった。
真顔はクールなのに、笑うと年相応の爽やかさが滲む。
暗記系の科目は苦手だけれど、文系のくせになぜか理数系科目は得意なのだと笑った君。
バスケは得意だけど、卓球は苦手だと苦く笑った君。
ピーマンが嫌いなんて子どもっぽいから、誰にも内緒なんだと恥ずかしそうに教えてくれた君。
恥ずかしいついでに甘いものは好きだと告白した君に、わたしはつい笑ってしまった。大人っぽいと人気の君が、意外と繊細で、たまにかわいくて、甘え上手だということは、きっと、あのときはわたししか知らなかった。
さも恋人なんて途切れたことありませんという顔をしているのに、わたしが初めての彼女だと知ったときは、感動よりも驚きが勝ってしばらくフリーズしたのを覚えている。そんなわたしを彼は心配そうに見つめていたっけ。
クールで、女慣れしていそうで、いつも余裕そうに見える君。
でも本当は純粋で、堅実で、触れるだけのキスで顔を赤くする君。
そんな悠真が大好きだった。
本当に、本当に好きだった。
「――ままならないなぁ」
過去の恋を思い出して、ぽつりとこぼす。
あれから六年。二十四歳になった。大学も卒業して、なんとか社会に出て二年目。
わたしの隣に悠真はいない。
悠真の隣にも、わたしはいない。
結局悠真とは、高校の卒業と同時に別れた。わたしは地元の大学、悠真は東京の大学に進学することになり、単純に遠距離恋愛を厭ってのことだ。
わたしは特別にかわいいわけじゃない。きれいでもない。
真っ黒とは言えない色素の薄い長い髪は、生まれつき地味な焦げ茶色。鼻も小さく、はっきりしない奥二重は少しだけコンプレックスだ。初対面の人にはだいたい実年齢より下に見られがちな童顔も好きじゃない。高校生の頃は恋愛対象にされることが少なく、大人になった今は、ただただ舐められる。
だから、わたしは自分に自信なんて持っていなかった。今も持てないまま。
遠距離恋愛になると決まったとき、悠真は別れたくないと言ってくれた。嬉しかった。
けれど、わたしが耐えられなかった。
遠距離でない当時ですら、わたしは悠真の周りに嫉妬していた。うまく誤魔化せていたとは思う。嫉妬しても悠真に抱きしめてもらえれば、すぐに切り替えられたから。
ただ、これからはもう、そんな簡単に会えなくなる。
飛行機で片道三時間。進路を変えれば外国にだって行けちゃう時間。
だから別れを告げた。醜いわたしを知られたくなくて。悠真に迷惑をかけたくなくて。
この決心を揺らがさないために、悠真の連絡先は全て消した。悠真の情報が入ってきそうなSNSもアカウントを消した。
そうしてようやく忘れられたと思ったのだ――同窓会の連絡が来るまでは。
わたしがそれを受けたのは、残業が終わって、さあ家に帰るかと準備を始めたときだった。
悠真も同じだった高校三年生のときのクラスは、クラス全体で仲が良く、文化祭や体育祭などのあとにはみんなで打ち上げをするほどだった。
どうやら当時の級友同士が偶然東京で再会を果たしたらしく、他にも上京組を集めて同窓会をやろうという話になったらしい。
わたしの地元は、就職で上京する人間が多い。かく言うわたしも、大学は地元だったけれど、就職は東京でした。
家を出て一人暮らしがしたかったのだ。でも地元だと親がそれを許してくれず、いっそ遠い場所で就職すれば親も観念するだろうという企みで白羽の矢を立てた土地。
就職場所を選ぶ際、悠真のことが頭に過らなかったといえば嘘になる。もしかしたら会えるかも、と淡い期待をしなかったわけでもない。
いや、本当のことを言うと、期待した。はっきりと。なんだかんだと言って、結局わたしは忘れられていないのだ。
初めての恋人を。
お互い恋愛に初心者で、触れるだけのキスしかできなかった、青い春を。
(まあ、付き合ったの、高三の秋からだしね。清い関係のまま終わっても変じゃないはず。……たぶん)
そろそろ冬を迎える今時期は、夜ともなれば風が身体にしみる。家の最寄り駅から自宅までの十五分間が、残業の疲労も相俟って地味に辛い。
まだ白くはなりきれない息を、はあと吐き出した。
大人になった今、あのときの自分たちが、いかにかわいい恋愛をしていたのかがよくわかる。
恋の駆け引きなんてものは知らなくて、ただただ相手が好きだった。その想いしかなかった。
(悠真も、大人になっちゃったかな)
夜風で冷えた手を唇にもっていき、彼のキスを思い出す。
何度も忘れようと思って上書きしたはずなのに、ついぞ上書きできなかったそれ。
「どうしよう……」
その声には、困惑の言葉に反して、仄かな期待が滲んでいた。
*
「うわ、久しぶり~!」
「久しぶり~! やだ全然変わってな~い」
「そっちこそ」
わはは、と賑やかな笑い声が響く。
同窓会に集まったのは七人。なかなかの参加率だ。
場所はチェーンの創作居酒屋で、幹事が半個室を予約してくれたらしい。
開始時間が近づき次々とやってくる同級生たちと、みんなが久々の再会を喜んだ。
今日は花金。心がそわそわして落ち着けなかったわたしは、幹事と同じくらいの時間に集まるほど気が急いていた。
先に座って、待ち人をまだかまだかと入り口から目を離さない。
悠真が参加することは、幹事から共有された出席者リストで確認済みだ。その名前を見つけただけで走り出した鼓動が、今も止まらずに走り続けている。
やがて開始時刻一分前になって、ようやく待ち人が現れた。
「お、悠真やっと来た~。久しぶり」
「いや、遅刻はしてないだろ。てか、おまえとは先週も飲んだ記憶があるんだけど」
「あれ、そうだっけ?」
悠真と幹事の男が楽しそうに半個室の入り口で話している。
その心を震わす甘い声に、心臓がきゅっと縮んだ。ああ懐かしい。悠真の声だ。大好きだった、穏やかで包み込むような声。
太ももの上で、耐えるように拳を握る。
相変わらず見た目はクールなイケメンで、けれどより精悍さが増し、同級生というよりは大人の男の人、という感じだ。仕事帰りなのかスーツを着ていて、知っているのに知らない人みたいにも見える。
変わっていないのに、変わった。
(悠真……)
そのとき、こちらの内心の声が聞こえたように、悠真がゆっくりと振り返ってきた。
彼の瞳がわずかに見開く。わたしは彼に縫いとめられたように視線を外せなくて、彼が足を進めるところをじっと目で追いかけてしまう。
気づけば、悠真が隣に来ていた。
「久しぶり、紬希。元気してた?」
「……うん。悠真は?」
「俺も元気。びっくりした、上京してたの知らなかったから」
「就職でね、上京したんだ」
「そっか」
微妙な沈黙が落ちる。気恥ずかしいような、もっと話したいのに言葉が迷子になってしまったような、そんな幕間。
しかしすぐに乾杯の飲み物の注文をとる幹事の声が聞こえてきて、二人とも生ビールを頼んだ。今夜は飲み放題のコースらしく、二杯目以降は適当に自分で好きなものを頼むよう幹事が説明している。
「紬希、ビール飲めるんだ?」
「う、うん。最初は苦くて好きじゃなかったけど、付き合いで飲んでたら飲めるようになって」
「え、それって大丈夫? アルハラとか受けてない?」
「受けてないよ。ほら、わたしって断れない性格だから……」
そう言うと、悠真が苦笑した。
「そういうところは変わってないね、紬希。お人好し」
「いや、これは単純にノーと言えない日本人なだけだよ」
「ははっ、なにそれ。でも、本当に嫌なときは言えよ? 何かあってからじゃ遅いんだから」
「……そうだね。悠真も、そういうところ変わってない」
「え、どういうとこ?」
――そういう、心配性なところ。
でもなんとなくそれを言うのは憚られて、「さあね」と曖昧に誤魔化した。
それからは、かつての級友たちとの交流を存分に楽しんだ。高校生だった当時は恋バナやテスト、進学の話が多かったけれど、社会人ともなると話題は就職先のことや仕事のことに取って代わる。優秀な同期がいて辛いだったり、上司が頭の固い人でうんざりするだったり、もう転職を考えているなんて声も聞こえてくる。
みんな、大人になったのだ。
お酒やおつまみを片手に、あの頃よりも具体的に将来の話をする。
みんなの近況を聞けるのは楽しかったけれど、メンバーが学生の頃の面子だったからか、少しだけ寂しさのようなものも感じた。
こうやってこれから先もどんどん年を取っていくんだなと思うと、哀愁さえ迫り上がってくる。
だから、一次会が終わり、希望者だけの二次会へ移行するとなったとき。
ふいに腕を掴まれ、振り返った先で絡んだ視線にあの頃の名残を見出して、わたしは何を訊かれるよりも先に首を縦に振っていた。わたしを見つめる悠真の瞳の中に、高校生だったわたしが映っていたのは、たぶん、気のせいじゃなかったから。
心臓が、ここ最近で一番激しく鳴っている。
さっきまでいた、居酒屋の陽気な騒々しさにも負けないくらい。
悠真の手に引かれながら、その背中をじっと見つめた。
あの頃は、悠真はいつも隣にいた。こんなにまじまじと彼の背中を眺めることはなかったように思う。
外は昨日と変わらない気温のはずなのに、昨日は感じた肌寒さを感じない。かといって、別に暑くも、熱くもない。とにかく全身を叩く心臓の音に全ての意識を持っていかれているせいで、五感が正しく機能していないのだろう。
悠真が立ち止まる。
ラブホなんて大学生の頃以来だ。
現実は漫画や小説のようにきれいでも純粋でもいられなくて、恋を忘れるためにたくさんの恋をした。
大学生のときは入るのを躊躇ったそこへ、今、忘れられなかった恋の相手と来ている。
悠真はいったいどういうつもりなのだろう。
わたしはいったい、どういうつもりなのだろう。
忘れたくて、忘れたはずだった。
やっと日常の中で思い出さなくなってきたのに、一線を越えてしまえば、きっともう、二度と忘れられない。
「紬希……」
入る前に、悠真が最終確認のように名前を呼ぶ。
ここで「やっぱり帰ろう」と言えば、悠真は聞き入れてくれるだろう。そういう人だ。
けれど――。
「悠真……行こ」
わたしは彼の腕を、くいっと引っ張った。
部屋に入れば、全部彼がリードしてくれる。付き合っていた頃はしなかった深いキスだって、彼は慣れた調子で仕掛けてくる。
わたしだって、あの頃とは違って驚くことなく受け入れている。
変わっていないようで、やっぱり変わった。
肌を這う指の感触も、蕩けるようなお互いの熱も、あの頃は知らなかった。
でも。
わたしの名前を呼ぶ甘い声も、なだめるようなキスの仕方も、あの頃のまま。
「――紬希、俺の知らないところで大人になっちゃったんだね」
残念そうな、少しだけ悲しそうな、しかし受け入れてもいるような表情で彼が言う。
「それ、お互い様……」
翻弄さながらも反論すれば、悠真がふっと笑みをこぼした。
「あれから、六年だもんね」
「うん。六年、だよ」
「今日さ、久しぶりに紬希見てびっくりした。紬希、あの頃もかわいかったけど、ますますかわいくなってるから」
「そんなわけ……悠真の目が節穴」
「じゃないよ。かわいいよ。かわいい、紬希――」
それから散々甘い刺激を与えられ、彼を刻まれ、最後のほうはアルコールのせいもあって記憶が曖昧だ。
絵に描いたような朝帰りをしたけれど、後悔はしていなかった。
連絡先は聞いていない。悠真も聞かなかった。
大人の恋は、学生の頃よりビターな味がする。
駆け引きなんて知らなかったあの頃には、もう戻れない。
悠真がどういうつもりなのか、一夜限りのタイムスリップをしたかったのか、それとも単純にお酒の勢いだったのか。
聞かなかったのは、言わなかった悠真と同じく、わたしも大人になってずるさを覚えたから。
家に着き、ベッドにダイブする。
目を閉じれば、鮮明に悠真の熱を思い出せる。
あの頃は知ることのできなかった、彼の堪えるような吐息も。
(これはもう、忘れられないなぁ)
それでもいいと思ったから、悠真について行った。
完全に忘れようと足掻くことを諦めて、彼を受け入れた。
だって、きっともう二度と、彼より好きになれる人なんて現れないような気がしたから。
なのにこの恋をまた掴もうとしなかったのは、あの頃よりももっと、臆病になってしまったから。
年齢を重ねるにつれて、傷つくことが怖くなってしまった。
仕事も、恋も、無難がちょうどいい。
(わたしの、意気地なし……)
仮眠をとったあと、スマホで時間を確認しようと思ってかばんを漁った。
すると、見覚えのない紙切れを見つける。
彼のまっすぐな人柄を表したような文字が、臆病な恋でも構わないと後押ししてくれたような気がした。
三年生になって初めて同じクラスになった、瀬戸内悠真。
180センチ近くある高い背に、細すぎず太すぎない均整の取れた身体はしなやかな雄々しさがあり、高校生にしては同年代と比べものにならないくらいの色香を漂わせる男子だった。
彼と同じバスケ部の面々は、明るい色に髪を染める者が多いなか、彼だけは最後まで純粋な黒だった。
スタイル剤で髪型をセットする男子が多いなかでも、やっぱり彼だけが、素直な髪型のままだった。
真顔はクールなのに、笑うと年相応の爽やかさが滲む。
暗記系の科目は苦手だけれど、文系のくせになぜか理数系科目は得意なのだと笑った君。
バスケは得意だけど、卓球は苦手だと苦く笑った君。
ピーマンが嫌いなんて子どもっぽいから、誰にも内緒なんだと恥ずかしそうに教えてくれた君。
恥ずかしいついでに甘いものは好きだと告白した君に、わたしはつい笑ってしまった。大人っぽいと人気の君が、意外と繊細で、たまにかわいくて、甘え上手だということは、きっと、あのときはわたししか知らなかった。
さも恋人なんて途切れたことありませんという顔をしているのに、わたしが初めての彼女だと知ったときは、感動よりも驚きが勝ってしばらくフリーズしたのを覚えている。そんなわたしを彼は心配そうに見つめていたっけ。
クールで、女慣れしていそうで、いつも余裕そうに見える君。
でも本当は純粋で、堅実で、触れるだけのキスで顔を赤くする君。
そんな悠真が大好きだった。
本当に、本当に好きだった。
「――ままならないなぁ」
過去の恋を思い出して、ぽつりとこぼす。
あれから六年。二十四歳になった。大学も卒業して、なんとか社会に出て二年目。
わたしの隣に悠真はいない。
悠真の隣にも、わたしはいない。
結局悠真とは、高校の卒業と同時に別れた。わたしは地元の大学、悠真は東京の大学に進学することになり、単純に遠距離恋愛を厭ってのことだ。
わたしは特別にかわいいわけじゃない。きれいでもない。
真っ黒とは言えない色素の薄い長い髪は、生まれつき地味な焦げ茶色。鼻も小さく、はっきりしない奥二重は少しだけコンプレックスだ。初対面の人にはだいたい実年齢より下に見られがちな童顔も好きじゃない。高校生の頃は恋愛対象にされることが少なく、大人になった今は、ただただ舐められる。
だから、わたしは自分に自信なんて持っていなかった。今も持てないまま。
遠距離恋愛になると決まったとき、悠真は別れたくないと言ってくれた。嬉しかった。
けれど、わたしが耐えられなかった。
遠距離でない当時ですら、わたしは悠真の周りに嫉妬していた。うまく誤魔化せていたとは思う。嫉妬しても悠真に抱きしめてもらえれば、すぐに切り替えられたから。
ただ、これからはもう、そんな簡単に会えなくなる。
飛行機で片道三時間。進路を変えれば外国にだって行けちゃう時間。
だから別れを告げた。醜いわたしを知られたくなくて。悠真に迷惑をかけたくなくて。
この決心を揺らがさないために、悠真の連絡先は全て消した。悠真の情報が入ってきそうなSNSもアカウントを消した。
そうしてようやく忘れられたと思ったのだ――同窓会の連絡が来るまでは。
わたしがそれを受けたのは、残業が終わって、さあ家に帰るかと準備を始めたときだった。
悠真も同じだった高校三年生のときのクラスは、クラス全体で仲が良く、文化祭や体育祭などのあとにはみんなで打ち上げをするほどだった。
どうやら当時の級友同士が偶然東京で再会を果たしたらしく、他にも上京組を集めて同窓会をやろうという話になったらしい。
わたしの地元は、就職で上京する人間が多い。かく言うわたしも、大学は地元だったけれど、就職は東京でした。
家を出て一人暮らしがしたかったのだ。でも地元だと親がそれを許してくれず、いっそ遠い場所で就職すれば親も観念するだろうという企みで白羽の矢を立てた土地。
就職場所を選ぶ際、悠真のことが頭に過らなかったといえば嘘になる。もしかしたら会えるかも、と淡い期待をしなかったわけでもない。
いや、本当のことを言うと、期待した。はっきりと。なんだかんだと言って、結局わたしは忘れられていないのだ。
初めての恋人を。
お互い恋愛に初心者で、触れるだけのキスしかできなかった、青い春を。
(まあ、付き合ったの、高三の秋からだしね。清い関係のまま終わっても変じゃないはず。……たぶん)
そろそろ冬を迎える今時期は、夜ともなれば風が身体にしみる。家の最寄り駅から自宅までの十五分間が、残業の疲労も相俟って地味に辛い。
まだ白くはなりきれない息を、はあと吐き出した。
大人になった今、あのときの自分たちが、いかにかわいい恋愛をしていたのかがよくわかる。
恋の駆け引きなんてものは知らなくて、ただただ相手が好きだった。その想いしかなかった。
(悠真も、大人になっちゃったかな)
夜風で冷えた手を唇にもっていき、彼のキスを思い出す。
何度も忘れようと思って上書きしたはずなのに、ついぞ上書きできなかったそれ。
「どうしよう……」
その声には、困惑の言葉に反して、仄かな期待が滲んでいた。
*
「うわ、久しぶり~!」
「久しぶり~! やだ全然変わってな~い」
「そっちこそ」
わはは、と賑やかな笑い声が響く。
同窓会に集まったのは七人。なかなかの参加率だ。
場所はチェーンの創作居酒屋で、幹事が半個室を予約してくれたらしい。
開始時間が近づき次々とやってくる同級生たちと、みんなが久々の再会を喜んだ。
今日は花金。心がそわそわして落ち着けなかったわたしは、幹事と同じくらいの時間に集まるほど気が急いていた。
先に座って、待ち人をまだかまだかと入り口から目を離さない。
悠真が参加することは、幹事から共有された出席者リストで確認済みだ。その名前を見つけただけで走り出した鼓動が、今も止まらずに走り続けている。
やがて開始時刻一分前になって、ようやく待ち人が現れた。
「お、悠真やっと来た~。久しぶり」
「いや、遅刻はしてないだろ。てか、おまえとは先週も飲んだ記憶があるんだけど」
「あれ、そうだっけ?」
悠真と幹事の男が楽しそうに半個室の入り口で話している。
その心を震わす甘い声に、心臓がきゅっと縮んだ。ああ懐かしい。悠真の声だ。大好きだった、穏やかで包み込むような声。
太ももの上で、耐えるように拳を握る。
相変わらず見た目はクールなイケメンで、けれどより精悍さが増し、同級生というよりは大人の男の人、という感じだ。仕事帰りなのかスーツを着ていて、知っているのに知らない人みたいにも見える。
変わっていないのに、変わった。
(悠真……)
そのとき、こちらの内心の声が聞こえたように、悠真がゆっくりと振り返ってきた。
彼の瞳がわずかに見開く。わたしは彼に縫いとめられたように視線を外せなくて、彼が足を進めるところをじっと目で追いかけてしまう。
気づけば、悠真が隣に来ていた。
「久しぶり、紬希。元気してた?」
「……うん。悠真は?」
「俺も元気。びっくりした、上京してたの知らなかったから」
「就職でね、上京したんだ」
「そっか」
微妙な沈黙が落ちる。気恥ずかしいような、もっと話したいのに言葉が迷子になってしまったような、そんな幕間。
しかしすぐに乾杯の飲み物の注文をとる幹事の声が聞こえてきて、二人とも生ビールを頼んだ。今夜は飲み放題のコースらしく、二杯目以降は適当に自分で好きなものを頼むよう幹事が説明している。
「紬希、ビール飲めるんだ?」
「う、うん。最初は苦くて好きじゃなかったけど、付き合いで飲んでたら飲めるようになって」
「え、それって大丈夫? アルハラとか受けてない?」
「受けてないよ。ほら、わたしって断れない性格だから……」
そう言うと、悠真が苦笑した。
「そういうところは変わってないね、紬希。お人好し」
「いや、これは単純にノーと言えない日本人なだけだよ」
「ははっ、なにそれ。でも、本当に嫌なときは言えよ? 何かあってからじゃ遅いんだから」
「……そうだね。悠真も、そういうところ変わってない」
「え、どういうとこ?」
――そういう、心配性なところ。
でもなんとなくそれを言うのは憚られて、「さあね」と曖昧に誤魔化した。
それからは、かつての級友たちとの交流を存分に楽しんだ。高校生だった当時は恋バナやテスト、進学の話が多かったけれど、社会人ともなると話題は就職先のことや仕事のことに取って代わる。優秀な同期がいて辛いだったり、上司が頭の固い人でうんざりするだったり、もう転職を考えているなんて声も聞こえてくる。
みんな、大人になったのだ。
お酒やおつまみを片手に、あの頃よりも具体的に将来の話をする。
みんなの近況を聞けるのは楽しかったけれど、メンバーが学生の頃の面子だったからか、少しだけ寂しさのようなものも感じた。
こうやってこれから先もどんどん年を取っていくんだなと思うと、哀愁さえ迫り上がってくる。
だから、一次会が終わり、希望者だけの二次会へ移行するとなったとき。
ふいに腕を掴まれ、振り返った先で絡んだ視線にあの頃の名残を見出して、わたしは何を訊かれるよりも先に首を縦に振っていた。わたしを見つめる悠真の瞳の中に、高校生だったわたしが映っていたのは、たぶん、気のせいじゃなかったから。
心臓が、ここ最近で一番激しく鳴っている。
さっきまでいた、居酒屋の陽気な騒々しさにも負けないくらい。
悠真の手に引かれながら、その背中をじっと見つめた。
あの頃は、悠真はいつも隣にいた。こんなにまじまじと彼の背中を眺めることはなかったように思う。
外は昨日と変わらない気温のはずなのに、昨日は感じた肌寒さを感じない。かといって、別に暑くも、熱くもない。とにかく全身を叩く心臓の音に全ての意識を持っていかれているせいで、五感が正しく機能していないのだろう。
悠真が立ち止まる。
ラブホなんて大学生の頃以来だ。
現実は漫画や小説のようにきれいでも純粋でもいられなくて、恋を忘れるためにたくさんの恋をした。
大学生のときは入るのを躊躇ったそこへ、今、忘れられなかった恋の相手と来ている。
悠真はいったいどういうつもりなのだろう。
わたしはいったい、どういうつもりなのだろう。
忘れたくて、忘れたはずだった。
やっと日常の中で思い出さなくなってきたのに、一線を越えてしまえば、きっともう、二度と忘れられない。
「紬希……」
入る前に、悠真が最終確認のように名前を呼ぶ。
ここで「やっぱり帰ろう」と言えば、悠真は聞き入れてくれるだろう。そういう人だ。
けれど――。
「悠真……行こ」
わたしは彼の腕を、くいっと引っ張った。
部屋に入れば、全部彼がリードしてくれる。付き合っていた頃はしなかった深いキスだって、彼は慣れた調子で仕掛けてくる。
わたしだって、あの頃とは違って驚くことなく受け入れている。
変わっていないようで、やっぱり変わった。
肌を這う指の感触も、蕩けるようなお互いの熱も、あの頃は知らなかった。
でも。
わたしの名前を呼ぶ甘い声も、なだめるようなキスの仕方も、あの頃のまま。
「――紬希、俺の知らないところで大人になっちゃったんだね」
残念そうな、少しだけ悲しそうな、しかし受け入れてもいるような表情で彼が言う。
「それ、お互い様……」
翻弄さながらも反論すれば、悠真がふっと笑みをこぼした。
「あれから、六年だもんね」
「うん。六年、だよ」
「今日さ、久しぶりに紬希見てびっくりした。紬希、あの頃もかわいかったけど、ますますかわいくなってるから」
「そんなわけ……悠真の目が節穴」
「じゃないよ。かわいいよ。かわいい、紬希――」
それから散々甘い刺激を与えられ、彼を刻まれ、最後のほうはアルコールのせいもあって記憶が曖昧だ。
絵に描いたような朝帰りをしたけれど、後悔はしていなかった。
連絡先は聞いていない。悠真も聞かなかった。
大人の恋は、学生の頃よりビターな味がする。
駆け引きなんて知らなかったあの頃には、もう戻れない。
悠真がどういうつもりなのか、一夜限りのタイムスリップをしたかったのか、それとも単純にお酒の勢いだったのか。
聞かなかったのは、言わなかった悠真と同じく、わたしも大人になってずるさを覚えたから。
家に着き、ベッドにダイブする。
目を閉じれば、鮮明に悠真の熱を思い出せる。
あの頃は知ることのできなかった、彼の堪えるような吐息も。
(これはもう、忘れられないなぁ)
それでもいいと思ったから、悠真について行った。
完全に忘れようと足掻くことを諦めて、彼を受け入れた。
だって、きっともう二度と、彼より好きになれる人なんて現れないような気がしたから。
なのにこの恋をまた掴もうとしなかったのは、あの頃よりももっと、臆病になってしまったから。
年齢を重ねるにつれて、傷つくことが怖くなってしまった。
仕事も、恋も、無難がちょうどいい。
(わたしの、意気地なし……)
仮眠をとったあと、スマホで時間を確認しようと思ってかばんを漁った。
すると、見覚えのない紙切れを見つける。
彼のまっすぐな人柄を表したような文字が、臆病な恋でも構わないと後押ししてくれたような気がした。