「おい。今日もそこにいるのだろう」

 木の上にいた神はそんな男の呼び掛けで下を覗き込む。昨日の男が竹包と竹筒を手に立っていたのであった。
 
「神饌を持って来なかったということは諦めたということか」
「これが神饌だ。食してみろ」
 
 男は本殿の前に竹包を供えると竹包みを綴じる竹紐を解く。竹包の中からは塩で握ったと思しき三角形のおにぎりが二個現れた。

「これは?」
「見ての通り、おれの手作りむすびだ。神饌に使っている米、清水、塩で握っている。神酒はこの竹筒の中だ」

 そうして男は腰にぶら下げていた巾着から布包みを取り出したかと思うと、塩らしき白く細かい結晶状のものをおにぎりに振りかける。仕上げのつもりなのだろう。男の手から降り注ぐ塩の雨が陽光を反射して光り輝いていた。

「握り飯なのは赤子でも分かる。だが何故握り飯なのだ。いつもの神饌はどうした」
「昨日言った通りだ。あの後帰宅して古文書を読み直したが、神饌については必ずしも生饌(せいせん)でなければならないという記述は無かった。父上に聞いても同じ答えだ。それなら熟饌(じゅくせん)でもいいかと思ってな。いつも供している神饌を使って塩むすびを作ってみた。長い間同じものを渡されたら、さすがに神でも飽きるだろう」

 神によっては神饌には素材をそのまま出す生饌に加えて、調理をした熟饌を好むものもいる。この地の神に関しては清酒、新米、清水、塩の四種類が揃っているのなら神饌にこだわりは無かった。それを捧げるのが清き乙女であれば。
 
「母上に作り方を教わったから味は確かだ。味見をしに来た父上や兄上たちにも概ね好評だったからな」
「身内の評価が入っている時点で当てに出来そうにないが……」
「文句は実食してから言え」
「この姿で食えると思っているのか?」
 
 男の期待するような眼差しから逃れようと、神は適当な理由をでっち上げる。いつも神饌を食す時は人型である神の姿を取る。その方がじっくり神饌を味わえるからだ。だがどうしても自分の神としての姿をむさ苦しい男どもに見せたくなかった。
 神饌と同じで相手が清き乙女なら躊躇うことはなかっただろう。汚らしい男どものために、わざわざ神力を消耗してまで姿を現すのが億劫だった。

「まあいい。そこに置いていけ。後で食す」
「これまでの神饌のように、明くる日も手付かずで残っているというのは無しだからな。神だからと言って神饌を粗末に扱っていいわけがない。清水はいいかもしれないが、米を作る農家、酒を醸造する杜氏、そして塩を製造する塩職人の苦労を蔑ろにするのは良くないと常々思っていたのだ」
「神に説教をするつもりか。それならその握り飯はキサマが持ち帰って食すがいい」
「これはお前の神饌だ。おれが食らうわけにはいかない。それにおれはお前が神だから説教をしているわけではない」
「神じゃないなら何だというのだ」
「友だ。太古の昔、神々と人間は深い信頼関係で結ばれていたと聞いている。信頼関係というのは友情も同然。おれはお前に仕えると同時に、お前を理解する最も近い友でありたいと思っている」

 男があっけらかんと述べた言葉に神は魂消てしまう。
 神に向かって、この男は友情を育みたいと言った。神と人の関係性が希薄になっているこの文明開化の世に。
 この男は余程のおめでたい頭をしているのか、それとも怖いもの知らずと言える。

「神を友として対等な関係を築きたいというのか。あまりに馬鹿げている。キサマは宮司の嗣子でありながら、神を敬うということを知らないようだ」
「お前が敬われたいのならそうしてやる。これまでお前に仕えてきた女人たちと同じように。地に這いつくばって、額を擦りつけよう。それでお前の気が済むのなら、おれに出来ることなら何でもする。だが、お前はそれで本当に満足なのか」
「なんだと……」
「神々の間での関係性がどうなっているのかは知らないが、敬うというのは一種の主従関係だ。おれには学友や同胞といった対等で結ばれた横の繋がりがある。だが、お前には胸襟を開ける友や、全てをさらけ出してもいいと思える相手はいるのか? 心を許し、本音を語れる者はいるのか? お前が頑なに清き女人の神饌しか受け取らないのも、そこに理由があるのでないか。誰かに自分の心に深く踏み込んで触れてほしいという真の想いが……」
「詮索は不要だ! 天罰が下る前に早く消えるがいい!」

 神の怒声に虚を突かれたのか、男はたじろぐと喉元に触れる。表情を見られたくないのか、顔を隠すように学生帽を被り直したのだった。

「……また来る」

 男は去って行くが、その背はいつもと違って意気消沈しているようだった。無理もない。神がにべもなく男が差し出した手を払いのけたのだから。
 咄嗟とはいえ、図星を隠すにはこの方法しか思いつかなかった。今更やり過ぎたと後悔しても遅い。