午後も生産ラインの見学などで、右も左もわからないうちに過ぎてしまった。
お腹が鳴った気はするけれど、機械の駆動音で掻き消されたので誰も気づいてはいないはずだ。

「──では、明日からはそれぞれの部署での研修に入ります。忘れ物などないように」

退室する人事課長に揃って礼をしたら、本日の業務終了だ。
別部署になった相川さんはそちらに呼ばれているようで、挨拶をする間もなく慌ただしく部屋を出ていった。
彼女の背中を見送り、ふっと窓の外に目をやればすっかり暗くなっていた。日が伸びていく時季とはいえ、まだまだ夜の訪れは早い。

帰り支度をしていると、ふと見覚えのあるものを感じて顔を上げる。自分の文字だった。今朝書いた、ホワイトボードの中身が消されずに残っていたのだ。
自分が書いたものだから後始末をしておかねばとクリーナーを滑らせていると、加納先輩が部屋に入ってくる。

「あれ、まだ帰ってなかったのか」
「あ……今、帰ります。ホワイトボード、書いたの私なので」
「そっか、高瀬さんはやっぱ律儀だな」

ふんふんと軽く頷いた加納先輩は、おもむろにスーツの胸ポケットに手を突っ込むと、小銭入れから折りたたまれたレシートを差し出した。

「……え」
「朝も機転利かせてくれてた高瀬さんにご褒美」

両手で受け取り開いてみると、それは今朝、散々ネタにされていたおむすびのクーポンだった。

「これって」
「高瀬さん、緊張してたでしょ。ちゃんとお米食べて力出しな」
「で、でもこれ、加納先輩の大切なものじゃ」

ぎゅうと力が入った指先からレシートがくしゃりと歪んでしまい慌てて直す。
その様に、加納先輩は噴き出した。

「大丈夫だって。俺、クーポンなくてもおむすびくらい買えるから。そこまでウチの会社薄給じゃないから。せっかくだからいいカッコさせてよ、ね?」

返そうとする手を遮る手のひらは、私よりずっと大きくて分厚い。おずおずと畳み直した私に、加納先輩はよろしいと芝居がかった仕草で頷いた。

「……有難く、頂きます」
「ん。そのクーポン明後日までだから必ず使って。ついでに何の具を買ったか教えてよ。今後の参考にするからさ」
「は、はい!」

太陽みたいなまなざしが、私だけを見ている。
分割された画面越しではなく、生身の加納先輩の笑顔は刺激が強すぎるようで──顔が、マスクに隠れた頬が、熱い。
少し目の前がぐらついた。
お腹の中が空っぽなのだ。
お昼に佐伯先輩から頂いたキャンディは、やっぱり気休めでしかない。
けれど加納先輩にこれ以上心配も迷惑もかけたくなくて、手のひらに爪を立ててやり過ごす。

「高瀬さん?」
「い、いえ。あ……あの、お昼」
「お昼?」

まろびでてきた単語から、連鎖的に昼休憩の記憶が蘇る。

「……っ、あ、あのお昼休み、佐伯先輩が、加納先輩に頼まれたって……」

お礼を言っておかねばと焦るあまりに、こぼれ出てくる言葉がとりとめのないものばかりになってしまう。
そんな私の並べた単語でも何かしらの意味を汲み取ってくれた加納先輩は、少し首を傾げてから「ああ」と声を上げた。

「なんだ、佐伯さんバラしちゃったのか」
「ご心配おかけしたようで、すみません……! 佐伯先輩にも良くして頂いて、本当に何とお礼を言えばいいか」
「あー、大丈夫大丈夫。ただのお節介。好きでやってることだから」

照れ隠しなのか、後頭部を乱暴にがしがしと掻く加納先輩は、大股で窓辺に歩いていくとブラインドを無意味に上げ下げした。
さっきまで先輩風を吹かせるような太っ腹なところをアピールしておきながら、子どもっぽい乱暴さに口元が緩む。

「……あ、笑ってくれた」
「……え」
「今朝の顔合わせでも半笑いだったろ? 俺の体を張った課長とのコント、だいたいにはウケてたから余計に気になって」
「す、すみません」

あれはコントだったのか。素だと思ってた。
そう口に出しそうになって無意識に覆おうとした時、マスクに遮られてはたと気づく。

「表情、わかります?」
「そりゃわかるよ。目が柔らかくなる」

さらりと返されて、問うたこちらが言葉に詰まった。

「作り笑顔ってのはわかるよ。マスクで口元が見えないから余計にごまかしがきかない。だからこそ、今みたいに高瀬さんが和んだなーっていうのがわかってホッとする時は、喜びが倍以上かな」

そう語る内容に、今までの自分がどんな顔をしていたか思い返して、逆にどんな表情を作ればいいかわからなくなってしまう。
面白くもない百面相を見せたくなくて俯いた私に、加納先輩は額に手のひらを当てて首を振った。

「あー、この言い方は良くなかったな。ごめん。意識しすぎて困るよね。だから俺は……」

そこで語尾を濁した加納先輩は、ブラインドを上げて外を見た。
夜を映す窓ガラスが、俯いた加納先輩の目元を影で隠している。

「あれこれ気ぃ遣って倒れそうになってるの見るとほっとけなくてさ。俺のクセみたいなもんだ。ウザかったら言って」
「そんなこと……私、すごく嬉しかったです。佐伯先輩に頼んでくれたことも、今こうしてお話してくださってることも」
「…………そ。佐伯さん、優秀だろ。俺なんかメじゃないくらい。でもたまにポキッと折れそうでさ、誰か側に居てやらないとダメじゃないかって思ったり……まあ、あっちはどう思ってるか、知らないんだけど……」

ふっと、加納先輩が僅かに顔を上げた。
向かいの建物がワンフロアごと一気に点灯したらしく、横一列の光が彼の目元を照らし出す。

泣き出しそうな顔を、していた。

加納先輩の言う通り、目元だけくっきり浮かび上がったそれは、顔全体を見るよりも雄弁だった。

佐伯先輩の横顔と、同じだった。

──似たもの同士、わかるのかもね。

佐伯先輩の声が、鼓膜に柔らかく触れて胸に落ちる。
あの時見つめた、滑り落ちるひとすじの髪と同じように、あるべきところに落ちた答えを静かに拾い上げて、ポケットにそっとしまった。
そう。おむすびのクーポンのように、大切に。

「……加納先輩」
「ん?」

こちらに顔を向けた彼は、もう知っている加納先輩の顔だった。

「今日は本当にありがとうございました。クーポン、よく吟味して使います。……期限切れにならないように」
「そこ強調する? 高瀬さんたら隠れSか? ん?」

つんと唇を尖らせた加納先輩に、謝罪と感謝を込めて頭を下げる。
やっぱり頭の奥がぐにゃりとぬかるんだけれど、これは空腹のせいにしておこう。
お疲れでした、となるべく明るい声で挨拶をして素早く後ろを向いてドアを開けた。
加納先輩なら──まなざしひとつで見抜きそうだから。

エントランスから出て駅へ向かう途中、ビルとビルの間に月が見えた。
雲がかかってもミルクティー色に輝く月を見上げて目を細める。

「まぶし……」

マスクの中で頬を引き攣らせて、口角を上げる。
目尻に滲んだ生ぬるい雫は、滴ることなく弾けて消えた。