その後は軽い説明を受け、実際にそれぞれの部署に挨拶に出たりと慌ただしく午前中は過ぎていった。

「あれ高瀬さん、お昼は?」
「え……っと」

昼休憩に入り、一旦荷物を取りに戻った会議室で不意に声をかけられた。
加納先輩だ。
部屋に電気がついていたので様子を見に来たのだろうか。

「ええと、ダイエット中でして」

マスクの下で頬がひきつった。

嘘。
緊張しっぱなしで、ものが入るどころじゃない。
飲み物だけどこかで買って、ひとりで休憩できればそれで良かった。
声をかけてくれた加納先輩に有難いと思う反面、放っておいてほしいと罰当たりなことも考える。
どっちつかずのマーブル模様を描いているうちに胸焼けが酷くなってくる。

「そ。女子は大変だねえ」

意外なほどあっさり加納先輩は退いた。

「午後からは第二研修室に移動だから、そこはよろしく」
「は、い」

会議室の電気を消して、廊下の奥にある小さな休憩スペースへ向かう。近くに自販機があったから、そこでお茶でも買おう。

「お茶、安い」

街中の自販機で買ったら2割くらいは高くつく。
社割というやつだろうか。
取り出し口の向こうで紙コップに注がれていく緑茶をぼうっと眺めていると、控えめな足音が近くで止まった。

「安いよね。部署ごとにお菓子とかジュースとかのサブスク契約してるから、正式配属されたらそこも使えるよ」

柔らかく声をかけられて振り向くと、佐伯先輩がいた。
目を瞬きながら会釈すると、佐伯先輩が取り出し口のドアを開ける。
促されて取り出せば、紙コップが熱いくらいだった。
佐伯先輩が備え付けのホルダーをさっと取ると、下から受けるようにはめ込んでくれる。流れるように持ち手を向けられて、恐縮しながら受け取った。

「すみません、気を遣って頂いて」
「いいのいいの、熱いから気をつけてね」

ひらりと手を振った佐伯先輩は肩にかけたポーチからスマホを取り出すと決済を終えて紅茶のボタンを押した。

「半日居て疲れたでしょう」
「あ……はい。皆さん、よくしてくださって」
「みんな通った道だもの、気にしないで」

給茶が終わったアラームが鳴る。
佐伯先輩が紙コップを取り出すのを見て、さっきやってもらったように、見よう見まねでホルダーを差し出した。

「わ、物覚えがいい。ありがとうございます」

マスクを外した佐伯先輩がふうふうと冷まして紅茶をすする横顔を、そっと見つめる。
ひとすじ滑った前髪を、そっと指にかけて直す仕草がとても大人っぽい。

「おへそを意識しながら呼吸すると、気分転換になるらしいよ」
「え?」

やってみよう、と促されて、隣に立つ佐伯先輩を見ながら自分のおへそあたりに手を当てる。

「吸ってー、吐いてー」

お腹のへこみ具合を意識しながら深呼吸を繰り返す。
5回ほどこなすと、佐伯先輩はうんと伸びをした。

「うん、いい感じかも。お手軽リラックスタイムってね。きっと加納くんも安心するよ」
「加納先輩?」

いきなり名前が出てきて声が上擦ってしまった。どうして加納先輩が出てくるんだろうか。

「さっき、加納くんに声をかけられたの。高瀬さんが緊張で白い顔してたからほぐしてやれって。こういうのは女子同士がいいだろーってさ」
「そう……だったんですね」

「ひとりがラクなのもわかるよ。私もそうだし。だけど、加納くんみたいに頼って欲しい人もいるからさ。そこらへんをうまく使うといいんじゃないかな」

ね? と照れ臭そうに微笑む佐伯先輩に、じんと胸が熱くなった。

「……あ、ありがとう、ございます……!」

震えてしまった声に、佐伯先輩は触れずにいてくれた。そのまま静かにもう一度紅茶をすすった彼女は、ふうと息をつく。

「……似たもの同士、わかるのかもね。つい構いたくなるのかも」
「誰と、ですか?」
「んー? 誰だろうね」

誤魔化すように残りをあおった佐伯先輩がマスクをつける直前に、ふっと遠くを見た。
一瞬、泣き出しそうな顔に見えた。
何故か、それは違う、と断じた無意識が第一印象にモヤをかけてマスキングしてしまう。
それでも残った、静かにすべてを飲み込む横顔は、夜空にひとつ、ぽっかりと浮かぶ月に似ていて──
胸の奥が、不思議とざらついた。

「そうだ、甘いもの平気かな」

頷くと、佐伯先輩がポーチから何かを取り出して手のひらに乗せる。
ミルクティー味のキャンディだった。

「糖分補給もしっかりね」

紙コップとホルダーをそれぞれ処理して行った佐伯先輩の背中を見送る。
右手に冷め始めたお茶、左手にキャンディ。
昼休憩が終わる今頃になって、空腹を覚えた気がして、慌ててキャンディを口の中に放り込む。
持て余しかけて一気に飲んだお茶は、キャンディと混ざって妙に甘かった。