「……お、はようございます。本日からこちらで研修させて頂く高瀬尚です」
「あ、高瀬さんだ」
「……っと、相川(あいかわ)さん?」
「うん。よろしくー。来た人からこの名札つけて席についてって」
「あ、ありがとう」

研修場所の会議室に来ていたのはひとりだけだった。
同期とはリモートで顔を合わせているから初対面ではないけれど、マスクをしていると顔の見分けに少し戸惑う。
一番乗りだった相川さんは受付役を任されてしまったらしく、後から来る人達に逐一同じことを説明していた。
これだと手間じゃないかな、と名札をかけつつ部屋を見渡すと、ホワイトボードが置いてある。

「……ね、ねえ、相川さん。そこのホワイトボード、使ってないみたい。名札と席順のこと書いて、入口に置いておく?」

そう提案すると、相川さんは大きな瞳をまあるくして「そっか!」と手のひらをぱちんと叩いた。

「高瀬さんたら頭いい! そうだね、そうしよう。研修が始まる前に喉がカラカラになるとこだったよ」

弾む声にこちらもホッとしてマスクの中で息をついた。

「私、書いちゃうね。名札が置いてある机、少し移動してもらえる……かな」
「うん!」
「あ、わたし手伝うよ」
「俺もー」

私たちの会話を聞いていた数人が相川さんの机移動を手伝ってくれるようだ。こういうのはリモートじゃ有り得ないシチュエーションで、ぎくしゃくしてしまう。

力仕事をお任せして、ぱぱっと流れを書いたホワイトボードを入口近くに移動させようと、キャスターのロックを外す。

「すみません、ホワイトボード通ります……」

声をかけながら目の粗い絨毯の上を転がしていると、進行方向にいた誰かが誘導してくれた。

「あ、ありがとうございます」
「うん、工夫してるな」

聞き覚えのある声に顔を上げる。
スピーカー越しでなくてもわかる。
どこまでも通る、太陽みたいに溌剌とした声音。
研修の後に設けられた座談会では、よく周りの雰囲気を弾ませていた──

加納(かのう)、先輩……?」
「お、あったりー。リアル高瀬さんだ。気が利くね」

マスク越しでもわかる笑顔で挨拶してくれたのは、同じ課に所属している二つ上の加納修一(かのうしゅういち)先輩だ。
新入社員とのリモートコミュニケーション係として、何度も画面上で顔を合わせて話を聞いてもらったことがある。
座談会ではこの役に就いたおかげで、自宅用のヘッドセットまで経費で新調できて棚ぼただったと得意げに話していたっけ。

自分の名札を探していた加納先輩は、残っているものを見て「お」と小さく声を上げた。

「何か……ありましたか?」
「んー。いや。こっちは俺がやるから、高瀬さんは座ってなよ」

そう促されて席を探せば、相川さんが手招きしてくれていた。加納先輩に会釈してから席へ向かう。

「加納先輩、来てたんだ」
「そうみたい」
「座談会メンバーの名札もちらっと見えたから、知ってる人に会えるといいね」

緊張しながらはにかむ相川さんに、こちらもなるべく柔和な印象を与えられるように頷いた。


そうして始まった研修は、リアルでの対面が初めてということもあり、自己紹介から始まった。
分割された小さな画面でのみやりとりしていた面々が、生身の体で立ち上がり名乗っていく。
見知った文字の羅列と見覚えのある顔を見ると「このひと、本当に存在してたんだ」と感慨深い。
私も彼らにとってはその一部なんだろうな、と俯瞰しつつ、強ばった顔を自覚しながら挨拶を済ませた。

「それではコミュニケーション係からも。初めまして……ではないですが、加納修一です。わからないことがあればなんでも聞いてください。でも今朝当たったコンビニおむすびのクーポン番号は教えませんっ」

バツ印を組んだ腕を胸の前でアピールした加納先輩に、半笑いの人事課長が首を横に振った。

「そうやって後生大事にしてるから期限切れになっててレジで泣くんだよ」
「だから! それは1回だけ! もう、何度も蒸し返すんだから〜俺は物持ちがいいんですッ」
「残念ながら俺は物覚えがいいからな」

どっと笑った会議室が和やかになる。
オンラインでもリアルでも、加納先輩は変わらないようだ。
次に立ち上がったのは同じくコミュニケーション係の先輩だ。初めて見る顔だった。
ひとつ結びの髪がさらりと揺れる。

佐伯美優(さえきみゆ)です。皆さんの力になれたらと思ってます。加納くんからクーポン番号をゲットしたらぜひご一報くださいね」

かすかに微笑んだ目元が涼やかだ。隣からの不意討ちを食らった加納先輩は、財布が入っているポケットをあからさまに握りしめてガードを固めている。

「佐伯は先日まで客先に出向していたんだ。これからは顔を合わせることが増える。加納がわからんことは大抵彼女が知ってるから、頼りにしていいぞ」

課長の追撃に、とうとう加納先輩は撃沈した。
佐伯先輩は新入社員達の羨望の眼差しを一手に引き受けて、はにかみがちに肩をすぼめていた。