千鳥桜には、しばしば見る夢がある。
美しいけれど、少し悲しさを感じる夢だ。
その夢のなかで、桜はじぶんではない少女になっていた。鏡を見ずにじぶんではない、と分かるのは、じぶんのなかにじぶんのものではない感情が流れてくるからだ。
夢の舞台は、神社だった。
桜の蒼ざめた瞳には、まるでカメラを切ったときのようなフラッシュとともに映像が弾ける。
大きな注連縄に、紫陽花の花が浮かんだ手水舎。大銀杏に能舞台。
それから――大きな桜の木。
神社の入り口にある鳥居には、紫之宮神社という文字がある。
鳥居をくぐり、参道を抜けた少女は桜の木へ向かう。
木の下に、ひとりの少年がうずくまっていた。
『なにしてるの?』
声をかけると、少年がゆっくりと顔を上げる。が、少年の顔は、水面に映った人影のようにぼやけて見えないままだった。だが、桜には彼がよりどころない表情をしていることが分かった。雰囲気だろうか。
少年は今にも消え入りそうな声で、
『ごめんなさい』
と呟く。何度も、何度も。
当惑した。少女も、桜も。
どうして謝るのか、分からなかったのだ。戸惑っていると、少年が立ち上がる。
『あっ……どこ行くの?』
再び呼び止める少女に、少年はわずかにためらってから言った。
『どこか……ここじゃない場所』
そのまま、少年は去っていく。
どんどん小さくなっていく背中を見つめる。思い詰めているのは、表情が見えずとも明らかだった。
無性に、はらはらした。
このまま彼をどこかへ行かせてしまってはいけないと強い思いが沸き立ち、彼の手を掴みたい焦燥に駆られた。
『ねぇ、待って!』
狼狽しながら、少年を呼び止めた。
呼び止めてから考える。
なんと言えばいいのだろう。
わからない。でもなにか言わなきゃ。なんでもいいから、なにか。
『これ、あげる!』
差し出したのは、桜の花びらだ。一輪ではない。散って、地面に落ちていた花びら一枚だ。
桜は傷をつけるとそこから腐ってしまう。だから桜の枝は手折らずに、その代わりに落ちていた花びらを差し出した。
『桜の花びら……?』
少年が興味を示したことに、少女は嬉しくなった。
『そう! 桜ってね、もともとたった一本の木だったんだって。でも、今は日本中にあるの! これってすごいことだと思わない!?』
だれかがこの花を見つけて、愛でて、増やしていったの。
少女は必死に言った。
『私、この花大好きなんだ!』
少年が桜を見上げる。
『……僕も、桜だったらよかったな』
少年が悲しげな声で呟くとなりで、少女は首を傾げる。
『どうして?』
『……だって、愛されてるから。みんなに見上げられて、受け入れられて』
『君は違うの?』
少女の問いに、少年は言葉を詰まらせた。
『……僕は、違うよ。だれにも愛されてないし、必要ともされてない』
苦しげな声だった。
『……そっか。君はまだ、だれにも見つけられてないんだね』
『え?』
『君はまだ、みんなに愛される前の小さな桜なんだ。でももう大丈夫! 今、私が君を見つけたから!』
君はもうひとりじゃないよ。
少女が少年に笑いかける。そのとき、ようやくぼやけていた少年の顔が明瞭になった。
桜の蒼ざめた瞳には、静かに涙を流す少年の姿が映っていた。
これは、桜が生まれるずっと前の記憶である。