ミーコが消えた。
 開けっ放しにされた窓から、逃げ出してしまったのだ。

 ミーコは私の猫だ。
 元々は野良だったから、年齢はわからない。でも、少なくとも十歳になる。私が小学校五年生の時に拾った猫だから。
 小学校の帰り道にある素朴な公園の滑り台の下で蹲っていたミーコが、ふと顔を上げた時、私たちは出会った。にゃあ、と鳴いた瞬間、私に電流が走ったのを覚えている。彼女は私の人生に必要な存在だという確信は、そのころからなにも変わらない。
 ミーコは、私にとっては世界で一番の猫だった。
 温かくてしなやかな虎縞の身体、緑色を帯びたアンバーの目、甘える時だけ出す声、全てが私をうっとりさせた。
 我が家の陳腐な窓を背景になにげなく佇んでいる時でさえ、窓枠が世界から彼女を額縁のように切りわける。芸術品じみた美しさが宿る彼女の横顔を見るのが私は大好きで、同時に、とても恐ろしかった。家の外から忍び込む何者かの腕が、彼女を連れ去ってしまうような気がしたのだ。

 いつも怖れていた通り、ミーコは消えてしまった。
 あんなに、あんなに何度も、「窓を開けっぱなしにしないで」と母に頼んでいたのに。
 彼女は面倒くさそうに、それでも「わかったわよ」と答えていたのに。
 私との約束なんて、「ああ、洗濯物取り込んだ時に締めるの忘れちゃってたわ。今日、いい天気だったでしょ」と、彼女は悪びれもせずにいって、「なによ、ただの猫でしょ。もともとノラだったんだから、外の方が性に合うんじゃない? きっと帰ってこないわよ」と続けた。

 どうして、約束したことを守ってくれないんだろう。
 どうして、私に謝ってくれないんだろう。
 どうして、私を傷つけて平気な顔をしているんだろう。

 母の言葉を理解できたことなんて、一度もない。

 私は黙って鞄を放り投げ、母には何も答えずに、家を出た。
 ミーコはまだ近くにいるかもしれない。諦めることなんてできなかった。
 大学を卒業したら、ペット可の物件を探して、ミーコと二人で暮らそう。
 そう思っていたのに。
 でも、遅すぎたなんて思いたくない。時計の針はどんどん進み、私の肩や足には疲労がこびりつく。

「ミーコ……ミーコ、どこにいるの」

 私の声は、家と家の間に広がる奈落に似た闇に消えていく。
 祈るような気持ちで生垣を覗き込み、絶望がそこに蟠っているのを確認する。
 猫の声が聞こえた気がして駆け出しても、それが、温かな家の中から聞こえてくる他人の猫のものであることに気づいて、ただ茫然とするしかなかった。

「ミーコ……ミーコ」

 きっと帰ってこないわよ。
 母の言葉が呪いのように私の胸裏で繰り返される。
 どうしようもなく苦しかった。
 いつ思い返しても、母の言葉は私を窒息させる。彼女の前で深呼吸などできたためしがない。
 それでもあの家で私が暮らせていたのはミーコのおかげだった。
 そのミーコが、もしも母の言う通り、帰ってこなかったら。

「……ミーコ」

 返事が来ないとわかっていて名前を呼んでいることを自覚した時、身体から一気に力が抜けた。
 足がアスファルトに吸い付いてしまったかのように、重い。
 身体が言うことを聞かず、もうどこにも行けそうになかった。
 私が目を閉じた時、瞼の裏が一瞬で白く染まった。
 バイクのハイビームだ。

「わ……わっ! わっ!」
「………」

 私ではなく、乗っていた男性の方が大声をあげる。彼は的確にブレーキをかけて、鉄の馬は私に鼻先を擦りつけられるほどの距離で停止した。

「だ……大丈夫?」

 彼はヘルメットを脱ぎ捨てて、私に尋ねた。
 黒い長めの前髪の奥に、知性の輝きが宿る瞳。スーツを着ているから、多分年上の社会人。でも今は焦っている。私を見て、「けがはない?」と尋ねる彼を前に、私の意識は半分だけ、現実に立ち戻った。

「……平気です。ぶつかってないので」

 平静な声が出せたと思う。それでも彼はうろたえて、私の前から離れようとしなかった。

「え、でも……本当に? どこか痛くない?」
「……どこも痛くありません」
「でも、……だって」

 彼はバイクを路肩に寄せて、私におそるおそる近寄って来た。それがいかにも誠実そうな表情であったとしても、私の強張りを解いてはくれなかった。彼の目は黒く、アンバーではなかった。

「……きみ、泣いてるよ」
「………」

 言われて初めて気づいた。私は服の袖で乱暴に涙をぬぐい、ため息を吐いた。

「……飼っている猫がいなくなったんです。見つからなくて、……それで」
「……そっか」

 彼は頷くと、顔をあげて、何かを探した。視線は高かったから、ミーコを探しているのではない。彼が駆け寄ったのは、夜の中でも明るい光を放っている自動販売機だった。スマートフォンをかざして、彼は機械からジュースとお茶を一本ずつ買って、私のところに戻って来た。そして、それを両方私に差し出した。

「よかったら、好きな方選んで」
「………」
「水分補給。……俺、二本も飲めないから、どっちか飲んでくれると助かる。驚かせちゃったから、そのお詫び」

 彼はやけに早口だった。驚かせたのは私の方ではないか、と思いながら、私はお茶を選んだ。私がペットボトルを受け取った瞬間、彼はあからさまにほっとした様子を見せた。

「良かった」
「………」
「家族がいなくなって、……大変だと思うけど、でも、少し休憩したほうがいいよ」

 彼は私の目の前でジュースを開け、口をつけた。
 私は両手でお茶のペットボトルを握り締め、彼の背景で輝く街灯を見つめる。

「……ミーコは、私の」

 私が呟くと、彼が黙って耳を傾けてくれるのがわかった。
 好奇心でも義務感からでもない関心のことを優しさと呼ぶのだと、そのまなざしが教えてくれた。

「家族っていうより……私の、手足みたいな……もっと大切な……ただの猫なんだけど、でも……」
「ただの猫じゃないよ。そんなに一生懸命探してるんだから、そんな風に言わないでいいんだ」
「………」

 癖のように混ぜてしまった自虐を優しく訂正された時が限界だった。私の瞳からは涙が零れ落ち、息の塊が喉をふさいだ。
 声を殺して泣く私の背中を、躊躇いがちに彼が撫でてくれる。「嫌じゃない?」と尋ねられて、頷くのが精いっぱいだった。
 彼の手は暖かかった。冷たい夜の中でも、まるでミーコみたいに。
 私の嗚咽が落ち着いてきたころ、彼がぽつりと言った。

「あのさ……あそこに猫がいるよ」

 私はばっと顔をあげた。涙で腫れたみっともない顔のことなんて一瞬で忘れていた。
 確かに彼の言う通り、ブロック塀の上には猫がいた。でも、それはミーコではなかった。誰のものでもない黒猫は、私たちをちらりと見て、退屈そうにあくびをした。

「違う……ミーコじゃない」
「そっか」

 彼は私から離れると、一歩だけ黒猫に近づいた。そうして神仏に祈るように両手を合わせると、なめらかな調和が感じられるフルートのような声で、こういった。

「お願いします、ミーコさんを見かけたら、おうちに帰るように教えてあげてください。家族がとても心配しています。どうかお願いします」
「………」

 誠実な祈りの後、彼は振り返って、肩越しにはにかんだ。

「………猫は集会を開いてて、情報交換してるって聞いたことがあるんだ。家出した猫がいたら、帰るように説得してくれることもあるって。ただのおとぎばなしっていうか、都市伝説だろうけど……でも、猫同士の方が話は通じるって、ありえそうな話だって思っちゃうんだよね」

 黒猫は彼の言葉の途中で、塀の向こうにぴょんと跳んで姿を消してしまった。
 振り向くなり、彼は恥ずかしそうに笑った。

「他の猫を見かけたら、同じこと頼んでみるよ。俺、この辺住んでるし、結構野良猫見かけるから」

 またぼやけはじめた景色をまばたきでリセットしながら、私は、

「ありがとう」

 と言った。ようやく正しいことが言えた、という気がする。
 いつから感じ始めたのかすらわからなくなっていた、重苦しい空気だけを閉じ込めた灰色の泡のなかにいるような窒息感が、その瞬間、少しだけ和らいだ。私のために、本気で祈ってくれる誰かがいる。それだけで、私は深呼吸が出来た。

「………それじゃ、俺はそろそろ行くけど、……君もあんまり無理しないでね」

 彼が一歩下がった時、私は思わず二歩歩み寄っていた。所在なく持ち上げた手が空虚を掴むより前に、彼の手が寄り添った。
 その瞬間、素晴らしいものを見つけた気がした。自分と同種の生き物だ。
 どうして彼がこんなに私のことを理解してくれると思えるんだろう。彼の言動の一つ一つが、私の欲しかったものだと確信できてしまうんだろう。それらの疑問に、たった一つの簡単な答えがあった。彼はきっと、私と同じことを気にして生きてきた人間なのだ。私たちは、誰かから望まれる存在でありたい。直接口に出すのは躊躇われるような、深刻で鬱陶しくて、でも切実な渇きが、いつまでも癒えない。

「待って………」

 縋るような声が出た。彼はもうどこにも行こうとしてなかったのに。

「どこにもいかないで、……」
「うん……」

 指と指が絡まりあうと、私たちの間にある語られずに残ったものが徐々に解けていった。それとともに、私が流す涙の勢いは増していく。世界から私を隠すみたいに彼が私を抱きしめる。その時間が一秒、一秒と延びるたび、自分が抱いている悲嘆や不満を隠すことを誇りだと思っていた自分が過去のものになっていくのを感じた。







 家に帰ると、母はまだ起きていた。深夜の通販番組を見ながら、そっけない口調で私に言う。

「洗濯籠の中にいたわよ、ネコ」

 私は直ぐに洗面所に走った。取り込まれたまま、無造作に突っ込まれている衣類の奥に、確かに見慣れた茶色い毛皮があった。おそるおそる手を伸ばす。ミーコがそこにいた。

「よく寝てたから起こすのかわいそうで出来なかったのよ。あんた、代わりにそれ畳んどいて」

 リビングから聞こえてくる母の言葉は私を通り過ぎていく。私はミーコを抱き上げた。
 ふわふわした温かな頬毛を優しく愛撫する。さっき、彼が私の髪を撫でてくれたみたいに。
 私は自分の感覚が闇夜からひきもどされて、しっかりと整っていくのを感じた。それも、さっき家を出ていく前よりもずっと強く。私にはもう必要なものがあった。充分に満ち足りていた。