テーブルの上に置いていたスマホが着信を知らせたのは、夜の十時過ぎのことだった。猿渡幸哉(さわたりゆきや)は、適当に流していたテレビからスマホへと視線を移動させ、四角いそれを手に取り相手の名前を確認する。朝倉楓磨(あさくらふうま)とあった。その名前を見てどきりと胸が弾むも、声で悟られないよう深呼吸をしてから指先で画面をタップした幸哉は、スマホを耳に当てがった。
「もしもし」
「朝倉です。こんな時間にごめん。今、大丈夫?」
 久しぶりに聞いた、柔らかく静かな楓磨の声。耳に心地良いと感じる楓磨の落ち着いたその声が、幸哉の鼓膜を優しく揺らす。声を聞くだけで胸がぽかぽかと温かくなり、自然と顔が綻びそうになった幸哉は、咄嗟に首を振って顔を引き締め、感情が乗りすぎないよう努めて冷静に言葉を返した。
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「何でもいいから、幸哉と話がしたいなと思って」
「俺と?」
「うん」
 壁の隅に設置しているテレビが、その時間帯に放送しているドラマのオープニングを流し始めた。ぐわっ、とボリュームが大きくなったような気がして、幸哉は音量を下げようとリモコンに手を伸ばす。親指でマイナスを数回押し、テレビを大人しくさせた。
 スマホを耳に当てたまま、気に入っている座椅子に凭れかかる。テレビの音量は手動で下げられても、不思議と高鳴っている胸の鼓動を手動で下げることは言わずもがなできなかった。
 幸哉と話がしたいなと思って。
 楓磨は、誰か、とは言わなかった。はっきりと、幸哉、と言った。思わず確認してしまった幸哉の問いにも、楓磨は即座に頷いた。取るに足らないような些細な言葉ではあるが、数多くあるだろう連絡先の中から自分を選んでくれたことが、幸哉には胸が弾んでしまうほどに嬉しかったのだ。
 楓磨の交友関係は、決して狭くはないはずだ。何せ高校卒業後は東京の専門学校に進学し、その大都会の中で就職をしたのだ。住み慣れた田舎での生活を続けている幸哉とは比べ物にならないほどに、日々多くの人の顔を見ているに違いない。専門学校で仲良くなった人もいるだろう。職場でもまた然り。楓磨の友人は、何も自分だけではないのだ。そんな中で、連絡すればすぐに会えるような相手ではなく、遠方にいる同級生の自分と話がしたいと思ってくれたのだと考えると、嬉しくないわけがなかった。
「仕事は順調?」
 スマホの向こう側にいる、頬が緩みそうになっている幸哉の顔など見えていない楓磨が、当たり障りのない雑談を始める。今一度顔を引き締めた幸哉はスマホを握り直し、リモコンで少しばかり大人しくさせたテレビを瞳に映した。医師が患者の手術を行っており、画面の向こう側では緊張感が漂っている。流れているのは、毎話ラストは感動するという医療ドラマだった。
「うーん、順調、っていうか、いつも通りだよ。レジして品出しして発注して返品して、みたいな。職場の人もお客さんもみんな良い人たちだから、凄く平和に仕事ができてる」
 幸哉は書店員だった。前の職場を数ヶ月で辞めて、一回目の転職である。前職には、高校の時の就職担当の先生に勧められるがまま面接を受け、合格し、正社員として入社していた。しかし、仕事内容も人間関係も自分には合わないと感じてしまい、辞めたい、辞めてもいいか、と親に相談してから早々に退職を選択したのだ。その後、二ヶ月ほど無職となり、そろそろ次の職場を考えなければと重たい腰を持ち上げた時に、たまたまスタッフを募集していた近くの書店を見つけ、特に深く悩むこともなくそこに決め、面接を受け合格し、今に至っている。正社員ではなく契約社員ではあったが。前の職場よりも給料は少ないものの、やりがいがあるし一人暮らしも何とかできている。良い仕事に就けたと幸哉は満足していた。
「楓磨はどう?」
「やっぱり動物は癒されるなっていつも思う」
「そっか。動物が好きなのはずっと変わらないね。楓磨にぴったりの仕事だよ」
「それ、前も聞いた」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
 通話口から、微かに笑う声がする。寡黙でポーカーフェイスな楓磨の貴重な笑い声だ。幸哉の胸は簡単に跳ねてしまう。楓磨の表情は見えないが、きっと柔和な顔つきをしているに違いない。そのような柔らかい眼差しで動物を見ているのだろうかと思うと、優しい楓磨の手によって清潔にしてもらっている動物が羨ましく感じられた。幸哉は楓磨に触れてもらえるような、所謂恋人のような関係性ではないのだ。なれるものならそうなりたいと願っているのは、きっと幸哉の方だけだろう。
 楓磨は、ずっと憧れていたというトリマーだった。上京し、そこで夢を叶えた楓磨は、既に退職の経験がある上に、これといって大きな夢も理想も何もない幸哉よりも遥か先を歩いている。幸哉はいつだって追う側だ。追い抜くことなどできない。追われる側にはなれない。この先何年も何十年も、遠く離れた楓磨の背中を追い続けてしまうに違いない。少なくとも、幸哉はそう思っていた。楓磨とまだ僅かに繋がっている友情の糸を切りたくはない。長年培ってきた楓磨に対する想いも、簡単に消えるとは思えない。楓磨に彼女ができたと知っても、諦められないのだから。もう大人なのに、幸哉がいつまでも拗らせていることなど、楓磨は知る由もないだろう。
 見もせずただ流しているだけのテレビがCMを映し出していた。少し前に目にした手術は成功したのだろうか。したような気はするが、集中して見ていたわけではないためよく覚えていなかった。何より今は、ドラマよりも楓磨との通話の方が大事だ。
 一つのCMが終わり、続けて、酒の宣伝CMが流れ始めた。美味しそうに飲む俳優を見て、煽られるように幸哉も飲みたくなってくる。喉が渇いていた。酒で水分補給をするのは良くないだろうが、久しぶりに飲みたくなったのだから仕方がない。それにまだ通話を切るつもりもない。長電話をするのなら、飲酒をしながらでも怒られないのではないか。飲みながらでも楓磨と時間を共有したかった。今この時だけは、楓磨を独占できているのだ。手放したくない。
「楓磨、ちょっと飲んでもいい?」
「飲む?」
「お酒」
「ああ、うん。幸哉が飲むなら俺も飲むよ」
「ありがとう。取ってくるね」
 スマホを耳から放し、スピーカーに設定して座椅子から腰を持ち上げる。床を踏んで冷蔵庫へと向かい、扉を開け、そこから漏れる冷気を感じながら、いつか飲もうと買っていた缶の酎ハイを手に取った。CMではビールを飲んでいたが、幸哉はまだビールは飲めなかった。いつの日か試したことはあるものの、あの苦さを美味しいと感じることができなかったのだ。もう少し歳を重ねたら、美味しく飲めるようになるだろうか。
 酎ハイ片手に戻る途中で、それと一緒に買っていたつまみも手にして座椅子に腰を下ろした。缶の蓋を開ける。早速飲もうと飲み口を唇に近づけた時に、確か楓磨も飲むと言っていたことを思い出した幸哉は、せっかくなら乾杯でもするかとその手を止めた。僅かに生活音の聞こえるスマホに向かって話しかける。
「楓磨、一緒に飲むなら乾杯しよう」
「うん、いいよ」
 酒を手にして戻ってきたらしい楓磨が、返事をしながらその蓋を開けたような軽快な音がした。楓磨も酎ハイだろうか。幸哉と同じでビールはまだ飲めないと以前言っていたような気はするが、すっかり都会の人間になっているであろう楓磨だ。環境や周りの人間の影響で、あの苦いビールが飲める口になっているかもしれない。もしそうだったならと考えると、少しだけ寂しさを覚えた。だから、何を飲んでいるのかは聞かなかった。幸哉も自らは言わなかった。互いの持つ缶の種類が視覚で分かってしまうようなビデオ通話にはしていない。そうしようとは、幸哉も楓磨も提案しなかった。
 幸哉の性格も楓磨の性格も、何も変わっていないはずなのに、日に日に楓磨が遠くなるのを感じる。追いかけても追いかけても、差は開くばかりで追いつけない。楓磨が幸哉を振り返ることも、心なしか随分と少なくなっている。いつ自然消滅してしまってもおかしくない関係で、楓磨からコンタクトを取ってくれたこの時間を、幸哉は終わらせたくなかった。酎ハイを飲み終えるまでは、楓磨は幸哉のものだ。楓磨に彼女がいようとも、今は幸哉のものなのだ。
「準備オッケー?」
「うん」
「それじゃあ、乾杯」
「乾杯」
 缶の酎ハイを緩く持ち上げる。飲み相手はスマホの向こう側にいるが、幸哉は対面に楓磨がいることを想像して乾杯をした。楓磨も同じことをしてくれていればいいのにと心の奥底で期待しながら、幸哉は缶に口をつけ、炭酸で割られた酒を少しずつ胃に流し込む。一気飲みをするようなタイプではないし、早く飲み終わってしまうと楓磨との時間がすぐに終わってしまうかもしれない。ごくごくと数回だけ喉を上下させ、ゆっくりと飲み口から唇を離した。小さく息を吐いて缶をテーブルの上に置く。
 テレビのCMは既に終わっており、先程と変わらず医療ドラマを放送していた。毎週追っているドラマではないため、内容はよく分からない。他に何か面白そうな番組はないかとリモコンを手にしてチャンネルを変えてみたが、パッとするものは何もなく、結局ボタンを一周して医療ドラマに戻ってきてしまった。都会にいる楓磨は何を流しているだろうか。
「楓磨、今、何のテレビ流してる?」
「テレビ? 点けてないよ」
「え、点けてないの?」
「点けてないよ」
「……もしかして、俺の声、楓磨の静かな部屋に響いてるの?」
「イヤホンつけてるから俺にしか響いてないかな」
「は、え、イヤホン?」
 どきりとした。自分と同じようにただスピーカーにしているだけかと思えば、どうやらそうではないらしい。外界からの音をイヤホンで遮断して、両耳で自分の声を独占されている。都合の良いように捉えればそうなってしまうのではないか。幸哉は途端に激しく意識してしまった。イヤホンで話し声を聞かれていると思うと、変に緊張してしまう。些細な音も、それこそ僅かな吐息すらも聞かれているのではないかと心臓が早鐘を打ち始めた。とりあえず、向こうは点けていないというテレビは消すことにする。楓磨の声に被さってしまい、気が散るような雑音にしか聞こえなくなっていたのだ。
 幸哉はリモコンの電源ボタンを押し、テレビ画面を暗くさせた。その瞬間、何かを話していた役者の声がぷつりと途切れ、部屋がしんと静まり返った。楓磨の存在感が大きくなる。自然と目がイヤホンを探す。楓磨の声を両耳でしっかりと拾って、没入してしまいたいと思った。今だけは、きっとそれが許される。彼女持ちだろうがなんだろうが、今は通話をしているだけなのだ。相手の声を聞き逃さないようにするために、そのために、両耳にイヤホンをつけるだけだ。そこに他意なんてものはない。
 脳内で誰にともなく言い訳を並べて、幸哉は少し雑多なテーブルの上に置いていたイヤホンに手を伸ばした。軽く結んでいたケーブルを解き、一度ピンと伸ばしてからプラグをスマホに差し込む。感じていた楓磨の気配がイヤホンの外からでは何も感じなくなった。幸哉は半ばドキドキしながら両耳にイヤホンを装着し、楓磨の声を一時的に自分だけのものにした。
「楓磨」
「ん?」
「俺もイヤホンつけてみた」
「……俺の声、よく聞こえるようになった?」
「……」
「……幸哉?」
「……耳が気持ちいい」
「耳が気持ちいい?」
「うん。楓磨の声、優しくて、落ち着く」
「……初めて言われた」
「あれ、俺、言ったことなかったっけ?」
「ないよ」
「でも、俺以外の誰か……、例えば、付き合ってる彼女とかには、言われたことあるんじゃないの?」
「彼女……」
「彼女だよ」
「……」
「……楓磨?」
 自嘲気味に楓磨の彼女のことを口にすると、楓磨の反応がどこか鈍くなった。空気が張り詰めたものに変わる。彼女と何かあったのだろうか。上手くいっていないのだろうか。想像して、胸がざわざわと騒ぎ始めた。楓磨を諦めきれない自分にとって、それは朗報かもしれないなどと期待に胸が膨らんでしまう。
 楓磨の前では害のない親友として善人面をしているが、幸哉の心の中ではドロドロとした大きな悪魔が棲みついているのだった。でなければ、親友である楓磨の恋に暗雲が立ち込めているかもしれない状況で、もっと悪化することを望むはずがなかった。幸哉は楓磨を応援していながら、彼女との関係が破局を迎えることを望んでいるのだ。決して善人だとは言えないのだった。
 深刻な雰囲気のある沈黙の中、幸哉は一人でに逸る気持ちをどうにか抑えようと酎ハイを掴み取った。ほぼ炭酸のようなそれを喉に通す。私情で親友の不幸を望むなど、自分はどうかしている。楓磨が彼女と険悪な間柄になったとて、幸哉との関係が変わるわけではないのだ。万に一つでも、楓磨と恋仲になれるとは思えない。楓磨は同性に恋などしない。楓磨のことをよく知っているがために、一生報われない想いに辛くなってしまう。それでも、幸哉は楓磨と距離を置きたくはなかった。今更離れることなどできなかった。この気持ちは、墓場まで持って行くつもりだ。
 酎ハイをテーブルの上に置き、一緒に持ってきていたつまみの封を開けた。個包装されているため、それはいつでも気軽に食べられるものだった。手に取り、一口放り込む。もぐもぐと咀嚼しながら、幸哉は気を紛らわせようとした。悪いことを望まないように思考を無理くり操作しようとした。自分の中に潜む魔物が、完全に姿を表さないように。楓磨に何を言われても、親友らしいリアクションを示せるように。楓磨に本音を悟られるわけにはいかないのだ。
 幸哉は無心になってつまみを食べ続けた。食べて、食べて、食べ続けた。まだ何も喋らない楓磨を急かすこともなく、一人で暴食のようなことをし続けた。水分補給の代わりに酎ハイもしっかりと飲んだ。残り半分くらいになっていた。
 空のゴミがテーブルにこんもりと山を作り始めた頃、僅かな咀嚼音の隙間に滑り込むように、話す言葉がまとまったのか、話をしようと決心したのか、冷静で落ち着きのある楓磨の声が鼓膜を擽った。そこでようやく幸哉の手が止まった。
「彼女とは、幸哉に電話をかける少し前に別れた」
「……え、別れたの?」
「うん。向こうから、別れを切り出された」
「な、なんで……」
「好意が伝わってこない。いつまで経っても何を考えているのか分からない。心を開いてくれている気がしない。普段の時もデートの時も自分を全然見てくれない。別の人のことを考えてるんじゃないかと気が気じゃない。笑ってくれない。自分に関心を示してくれない。こっちがいくら誘ってもキスもセックスも全くしてくれない。性欲の欠片も感情の欠片も一切ないマネキンと付き合ってるみたい。……鬱憤が溜まってたのか、最後にいろいろボロクソに言われて、後味の悪い別れになった」
「……楓磨は、引き止めなかった?」
「いつかはこうなる予感がしてた。彼女とはなんとなく付き合って、なんとなくデートを重ねてただけだから。別に好きじゃなかった。付き合えば好きになるようなこともなかった。キスもセックスもやる気にならなかった。それが伝わって、向こうに限界が来たんだと思う」
 恋人と別れたことを他人事のように淡々と口にする楓磨に、幸哉はその後なんと返答すればいいのか分からず窮してしまった。破局を迎えることを願ってはいたが、それが現実になるとは思いもよらなかったのだ。しかもそれは今夜の出来事だという。楓磨は恋人と別れたばかりの男であり、別れたばかりで幸哉のスマホを鳴らしたようだった。
 こうなる予感がしていた、好きではなかった、やる気にもならなかった、と躊躇いなく吐露するくらいのため、別れた彼女に未練なんてものはほとんどないのかもしれない。なかなかに冷たくあっさりしているが、そのおかげで、楓磨は誰のものでもなくなったのだ。楓磨の良さに気づきもせずに侮辱の言葉を並べ立てたらしい相手には憤りを覚えてしまったが、好きで付き合っていたわけではない上に、キスもセックスもやる気にならなかった、という楓磨の言葉を聞いたことで少しだけ溜飲が下がった。幸哉の中にある悪の部分がチラチラと顔を覗かせていた。
「ごめん、こんなどうでもいい話して」
「いや、大丈夫だよ。俺がそういう流れを作ってしまっただけだから」
「……彼女と別れて、幸哉と話して、肩の荷が下りた気がする。ありがとう」
「お礼を言われるようなことなんて何もしてないよ。でも、そっか、楓磨は別れたてほやほやなんだね」
「……なんか、嬉しそう?」
「え」
「少しだけ声が弾んでる」
「き、気のせいだよ」
「……ねぇ、幸哉は、彼女とか好きな人とか、いるの?」
 声が弾んでいると指摘され動揺してしまいながら誤魔化したものの、突拍子もなく放たれた質問に幸哉は思わず噎せそうになった。胸を押さえ、咄嗟に酎ハイを掴んでこくこくと飲んだ。心臓が暴れている。まだ一缶も飲み終えていないのに身体が火照っていた。酔いが回っているのだろうか。会話の内容に緊張しているだけなのだろうか。もしかしたらそのどちらも当てはまっているのかもしれない。幸哉は必死に頭をフル回転させた。
 彼女はいない。いないが、好きな人なら、いる。それが楓磨だとは、言えない。ならば、彼女も好きな人もいないと答えるのがベストだ。嘘を吐いてしまうことにはなるが、今まで隠し続けてきたことである。今更本音とは違う言葉を口にしたところで、罪悪感などに苛まれることはない。自分には彼女も好きな人もいない。いないのだ。幸哉は強く言い聞かせるようにして、ゆるゆると唇を開いた。
「そういう人は、全然、いないよ」
「本当?」
「……うん、本当」
 妙な間を作ってしまったが、楓磨がそれ以上の追及をしてくることはなかった。それにホッと胸を撫で下ろす。あまりしつこく問い詰められるとボロが出てしまうかもしれない。ただでさえ、幸哉は嘘を吐くのが上手ではないのだ。楓磨と顔を合わせていたら全て筒抜けだっただろうと思うくらいには、動揺と、それなりの好意が、熱を持った顔面に表れてしまっていた。ビデオ通話にしていなくて良かったと心底そう思う。今の自分の顔は見られたくない。
 幸哉はつまみを一つ手に取り、包装を裂いて口に放り込んだ。噛み潰しながら、中身が取られたことでただのゴミと化したそれを、幾つも重なり山になった同じゴミの上に乗せるように置く。口内で粉々になったものを早々に飲み込み、続けて酎ハイを胃に流し込んで一息吐いた時、イヤホン越しに楓磨の声が届いた。幸哉、とただ優しく名前を呼ばれただけであるはずなのに、その声がやけに真剣味を帯びているように感じ、幸哉の背中に妙な緊張が走った。ごくりと唾を飲む。楓磨が淡々と話し始める。
「幸哉、これから俺が言うこと、笑わないで聞いてほしいんだけど」
「……うん?」
「俺、別れたばかりの彼女とデートとかしてた時、よく幸哉のことを考えてたんだ」
「……ん? え? 何? 俺?」
「うん、幸哉。幸哉とここに行ってみたいな、とか、幸哉とここに食べに行きたいな、とか、幸哉とここに泊まってみたいな、とか。頭の中、幸哉のことばかりだった」
「え、あの、楓磨……」
「彼女のこと、好きになれなかったのも、彼女使って性欲処理すらしなかったのも、頭の片隅にいつも幸哉がいたからだなって最近になって気づいて、気づいたら、妙に腑に落ちて。俺が好きなのは幸哉で、キスもセックスも幸哉としたかったから、誘われてもその気にならなかったのかな」
「え、ま、待って、待って、楓磨。今、なんて……? ごめん、あの、いきなりすぎて、いろいろ、追いつかないんだけど……」
「うん、ごめん。幸哉、好きだよ。今日はこれを言いたかっただけなんだ。俺が幸哉のことを好きだってことだけ理解してくれればいいよ」
「え、ふ、楓磨が、俺のことを、す、好き……? え、うそ、ほ、ほんとに……?」
「うん、好きだよ。本当だよ。今日は久しぶりに幸哉の声をたくさん聞けて良かった。今度はどこかで会って話したい。また連絡するね。おやすみ」
 呼び止める間も、返事をする間もなく、照れ隠しなのか何なのか、口早に話し終えた楓磨にぷつりと通話を切られた。楓磨の気配が一瞬にして消えてなくなる。沈黙とは異なる夜の静寂の中に幸哉は一人取り残され、暫し呆然としてしまった。一方的で衝撃的だった楓磨の言葉が脳内をぐるぐると駆け回っている。
 よく幸哉のことを考えてたんだ。
 頭の中、幸哉のことばかりだった。
 キスもセックスも幸哉としたかった。
 幸哉、好きだよ。
 何度も何度も反芻して、そうすればするほどに、顔から火が出そうになった。楓磨は幸哉が高校時代からずっと想っていた人である。密かに恋をしていることを隠し続けていた相手からの突然の告白に、とてもではないが幸哉は動揺を隠せなかった。これは夢か。勘違いか。聞き間違いか。でも、耳がしっかりと、楓磨の声を、言葉を、聞いている。覚えている。現実だ。アルコールを摂取してはいるが、泥酔とまではいっていない。意識もはっきりしている。それは楓磨も、きっと、そうだ。
「楓磨と、両想い……?」
 呟いて、意識して、そうだと肯定せんばかりに心臓が暴れ出す。幸哉は長年抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ出すのを感じ、その衝動のままに楓磨にメッセージを送ろうとスマホを握って指を動かした。文字を打ち込み、送信のマークをタップする寸前でハッと我に返った幸哉は、打ち込んだばかりの短い文を慌てて消去した。冷静になれ、と深呼吸し、身につけている意味のなくなったイヤホンを外す。日付が変わっていない今日はまだ、楓磨が彼女と別れた日だ。そんな日に付き合うような話になってしまうのは避けたかった。楓磨がどう思っているのかは知らないが、それが幸哉の拘りであり考えだったのだ。
【近々絶対会おう。約束だよ。その時に、俺も言いたいこと言うから。それまで絶対に誰にも目移りしないでほしい。じゃあ、またね。おやすみ】
 決まりきっている告白の返事を無難な文章に変更し、送る。既読がつくのを確認する前にスマホを閉じた幸哉は、楓磨と直接会った時に好きだと伝えることを決意した。もう楓磨への恋心を隠さなくていいのだ。遠慮もしなくていいのだ。諦めることもしなくていいのだ。これからは堂々と、楓磨が好きだと言えるのだ。自信を持って、言っていいのだ。
 近い将来、ずっと追いかけ続けていた楓磨の隣に並べる日が来るかもしれない。幸哉は唐突に訪れた楓磨との未来に高揚感のようなものを覚えながら、酎ハイの残りを柄にもなく一気に飲み干した。身体を流れるアルコールの力も相俟ってか、不思議と心地良さを感じる夜であった。