倒れてしまった日から約1週間がたった。
あのあと病院に行ったけれど体は健康で、原因はやはり心にあるだろうという診断結果だった。
悩んでいるものすべて解決したわけじゃないけれど、あの日みんなに助けてもらって、話を聞いてもらえたおかげか、体調はもう良好だ。

そしてこの一週間でずっと考えていたことがある。
それは、今まで隠していたことを七瀬ちゃんたちに全部話す、ということだ。
今までも頭の片隅では考えていたけれど、それはふわふわとした『できたらいいな』というものだった。

だけど今は違う。
七瀬ちゃんたちに話したい、聞いてもらいたいという明確な意思がある。
もちろん今も話すのは怖い。
でも心がずっと叫んでいるのだ。
本当の私のことを知ってほしい、って。



ガラガラっと扉を勢いよく開ける音で意識が戻る。
目線を向けるとそこには目当ての人物がいた。


「遅刻だぞー」
「せんせ~ごめんねえ、今回は許して!」


そう言って瑠々ちゃんが教室に入ってきたと同時に始業のチャイムが鳴る。
ガタガタとみんなが席に戻る音がうるさく響く中、七瀬ちゃんとひまわりちゃん、瑠々ちゃんを集めて少し小さな声で話す。


「あの、みんなに話したいことがあるの。今日の放課後って空いてる?」
「空いてるよー!」
「あたしも」
「瑠々もヒマだよ~」


みんなの返事にほっと安心する。
こうして宣言するのも心臓が痛いくらい緊張しているけれど、もう覚悟を決めたんだ。
自分が変わるためには自分自身が行動するしかない。


「それじゃあ今日の放課後に――」
「え! 文化祭の劇、人魚姫すんの!」


ガタンッ。
偶然聞こえてきた言葉に動揺して、机が音をたてる。
そんな私を見て七瀬ちゃんやひまわりちゃんは不思議そうに見ているのに対して、瑠々ちゃんは心配そうに私を見ていた。


「えっ……と、ごめんね。放課後にどこかカフェでも行かない?」
「いこいこー!」
「あたし新作のやつ飲みたい」
「じゃあ駅前とかがいいかな~」


そんな話をしていると、そのあとすぐに先生の言葉によってお開きになった。





「じゃあこの時間は文化祭の劇について話し合いまーす!」


七瀬ちゃんたちと話す時間が近づいてドキドキしているなか、配られたプリントを見てドキンと心臓が嫌な音をたてた。


「えーと、うちらの学年は全クラス演劇発表ね。それで演目は人魚姫がいいなって勝手に決めました!」
「それってクラスみんなの意見聞いて多数決するもんじゃないの?」
「だって人魚姫やりたかったんだもーん!」


そう憎めない笑顔で話すのは通称あっちゃん。
声が大きくて明るくて、舞台を見るのが趣味な女の子。
文化祭係になりたいと自ら手を挙げた、やる気満々の舞台オタクだ。

「まあなんでもいいけど。劇とかしたくないし」
「模擬店がいいよね~、3年生羨ましい」


あっちゃんとは対照的にクラスのみんなのやる気はゼロに等しい。
もともと行事ごとはなんでも盛り上がる生徒が多いけれど、今回はモチベーションがないのだろうか。


「はーいはい! そう言うと思ってさあ、ストーリーは面白いやつにしといたよ!」


クラスの空気なんてなにも気にしていないあっちゃんは、3枚目のプリント見て~とみんなに呼びかける。
私もその言葉に従って紙をめくると、そこにはたくさんの文字が書かれていた。


「まずテーマは笑って泣けるラブストーリーね! 最後の終わり方なんだけど、原作とはだいぶ変えてるの。それからクラスのみんな全員が役者として出ることは難しいから、ミュージカル風にしてダンスとか取り入れてみたよ!」


ダンス、と聞いて何人かが反応する。
それはやっぱりダンス部のみんなだった。
そして他にも、役者は嫌だけれどダンスなら踊りたいという子たちがはしゃぎだす。

クラスの反応を見て「うんうん」と嬉しそうに笑ったあっちゃんは、焚きつけるように大きな声を出した。


「やっぱうちらって花のJK、DKじゃん? イケメンも美女も恋愛も大好物じゃん!? だから主人公はこの人たちしかいないよねってことで、独断と偏見で決めちゃいました! 王子様役は桐谷智明で、人魚姫役は早坂結衣でーす!」
「えっ」
「はあ?」


名前を呼ばれた私と桐谷くんの声は、すぐにクラスのみんなにかき消された。


「きゃー! 最高じゃん!」
「ふたりがいちゃいちゃしてんの見るってこと!? ウケるんだけど!」
「なあ脚本見て! これ智明が言うと思ったら腹いて―わ」


あははっと一気に盛り上がりだしたみんなを見て、私の血の気はサーッと引いていく。
人魚姫だと聞いたときから嫌だったのに、まさか自分が主役に選ばれてしまうなんて。
それも相手は桐谷くんだ。

思わず視線を向けると、彼も不快そうな、心配そうな顔で私を見ていた。
それはまるで、私が昔に彼を傷つけてしまったときの表情に似ていて、目が離せなかった。

その原因となったのは幼稚園の生活発表会。
演劇は同じ、人魚姫だった。





私、早坂結衣は、同じクラスの桐谷智明と幼稚園のころからの幼馴染だ。
でもドラマや漫画でよくある、仲のいい幼馴染なんかではない。
幼稚園から高校まで、意図せず偶然同じになった。
本当にただそれだけだ。

だから高校受験のとき、まさか彼も同じところを受けるとは思わずとても気まずかったのを覚えている。
受験校ごとに分かれて話を聞くときも入試のときも、受験結果が発表された日だって、一言も彼とは話していない。

友だちよりもずっと遠い縁で結ばれているのが幼馴染の桐谷くんだった。

だけどそんな私たちも仲がよかった期間がほんの少しだけある。
それが幼稚園のときだった。
いや、厳密に言うと、そのときを境目にお互いがお互いを避けていた。
なぜならとんでもない喧嘩をしてしまったからだ。


『このあとしたいと思った役を聞いていくから、どの役がしたいか考えながらお話を聞いてね』


年長のときの担任の先生がそう言って絵本を読んでいる間、私は近くにいた桐谷くんに話しかけた。


『ちあきくん、おうじさまやってよ! わたしにんぎょひめする!』
『うん、いいよ』


私の要求を二つ返事で引き受けてくれた桐谷くんはあっさりと王子様役に決まり、私はじゃんけんで人魚姫役を勝ち取った。
発表会の練習は楽しくて、特に大きな問題もなく進んでいっていたと思う。

しかし最悪なことに一番大きなトラブルが起きてしまったのが、発表会本番だった。


『もしもうまくいかなかったら、どうする?』
『そのときはおれがたすけてあげる』


桐谷くんのその言葉に甘えてしまっていたのか、私は舞台の上でセリフを全部忘れてしまった。
あんなに練習していたのに何も言葉が出てこない。
沈黙の時間が長くなれば長くなるほど焦って、余計に頭が真っ白になって。

きっと桐谷くんと同じ場面だったら彼は約束通りに助けてくれていたと思う。
だけど悲しいことに王子様は舞台袖で、登場するシーンではなかった。
結局担任の先生が助けてくれたけれど、それまでの間の、保護者たちのくすくすと笑う声が頭から離れない。

今思えば、あれは小さな子どもが頑張っているという笑いだったのだろうけれど、あのときの私には恥ずかしくて怖くてたまらなかった。
だから、自分の失敗だったのに彼に八つ当たりしてしまったのだ。

『どうしてたすけてくれなかったの!』と。

そのときの桐谷くんの表情は、怒っているのか悲しんでいるのか、心配してくれているのかよくわからない顔だった。


『……ごめん、やくそく守れなくて』


だけど彼が口にしたのはこれだけ。
私たちはそれから話さなくなった。




だから同じ中学に通っていても、私の人間関係なんて知る機会もなかっただろう。
なぜなら私も桐谷くんのことなんて何も知らなかったから。


中学生になると途端に友だち関係が上手くいかなくなった。
思春期は不安定になるというけれど、私はそんな世界で生きることが上手ではなかったんだと思う。

いじめられていたわけではないし、ひとりぼっちだったわけでもない。
だけど友だちから『結衣の悪口言ってたよ』と聞かされることが多くなって、実際にクラスメイトが自分の悪口を話している場面に遭遇して。

『意地悪』
『ノリが悪い』
『なんか暗い』

そんな言葉は私の好きなものにまで広がっていった。
今みたいに嘘をつくことも、愛想をふりまくこともしていなかった当時の私は、『趣味は?』と聞かれて『ジェットコースターに乗ったり、お化け屋敷に行くこと』なんて変な回答をしてしまった。
それからは余計バカにされるようになった。

好きなものを笑われて、心がすり減って、苦しくなって。
同級生たちが絶対に行かないような高校に行こうと決めたのに、彼だけは一緒だったのだから本当に変な縁で結ばれている。

そして私は決意した。
理想の自分になりきって、高校では嫌われないようにしようと。

意地悪だと言われたからひとには人一倍優しく。
ノリが悪いと言われたからノリは良く。
なんか暗いと言われたから笑顔で明るく。

自分でもよくわからないけれど、あまり悩むこともなくすぐに演じられるようになった。
変な才能があったのか、また同じようなことにはなりたくないという焦りでできたのかはわからない。

それでも結局、自分を偽らなければよかったと後悔する日が来てしまうのだけれど。



「俺たちに断る権利はあるよな?」


桐谷くんの声で記憶の海から意識が戻る。
黒板の前に立っていたあっちゃんは困ったように笑った。


「まあそりゃね! でもできればやってほしいな~!」


にこっとアピールされて焦る。
推薦してもらえるのは嬉しいけれど正直絶対にやりたくない。
嫌な記憶がよみがえってくるし、またやらかしてしまうのではないかという不安もある。
だけどあっちゃんやクラスメイトの空気的にはとても断りにくい状況だ。

どうしよう……

困って視線を動かすと桐谷くんと目が合った。
彼はやりたいのかやりたくないのかどっちなんだろう。
さっきのセリフ的には断るつもりなのかな。
そんなふうにぐるぐると考えていると桐谷くんが口を開いた。


「早坂はどうしたい?」
「えっ、ええと……」


私の答えを聞くために教室が静かになる。
それがまた心臓を焦らせる要因のひとつになってしまう。

そりゃやりたくない……けど。
この空気、この大人数の前ですぱっと断る勇気も私にはない。
ああもう、どうしたらいいんだろう……

ここは嫌でも引き受けるべきか、きっぱりと断るべきか――


「ねえ。瑠々、魔女役やりたい」


突然の声にみんなが視線を向ける。
私だったらそれだけで萎縮してしまうのに、瑠々ちゃんは全く気にする様子はない。


「いいの!? 立候補してくれるのありがたいよー!」
「うんっ。だってゆいぴーが人魚姫役なら、同じ場面に出てくるのが多い魔女役がやりた~い。魔女ってかわいくてかっこいいしい。それにゆいぴーなら、瑠々が舞台の上で困ったときに助けてくれるでしょお?」
「え……」


ふわりと微笑む瑠々ちゃんはとても優しい表情をしていた。
間違いない、私のことを気遣ってくれているんだ。
瑠々ちゃんには桐谷くんとのことを全部話したから、幼稚園の発表会のことも知っている。

『ゆいぴーが舞台の上で困ったら瑠々が助けてあげる』

彼女はきっとそう言ってくれているんだ。
それが嬉しくて苦しくて、やりたくないと思っていた心の針が逆側へと動く。


「えー! それならわたしお姉ちゃん役やるー! 七瀬も一緒にしようよ!」
「ええ……」


ひまわりちゃんはやる気満々だけれど、対して七瀬ちゃんはやりたくなさそうだ。
でも七瀬ちゃんは案外甘いところがあるから。


「まあいいけど……ひまわりは結衣のお姉ちゃんって感じしないよね」
「え!? ひどくない!?」
「はいはーい、じゃあふたりも決定ね!」


あははっと教室が笑いの渦に包まれる。
私が返事できない間に、みんなの役が先に決まってしまった。
それも瑠々ちゃんたちは私が人魚姫役をするという前提で立候補しているのに。

だけどみんなと一緒なら、桐谷くんと一緒なら、今回はもしかしたら――


「早坂がやるなら俺もやるよ」
「えっ」
「困ったら助けるよ。俺が困ったら早坂に助けてもらうけど」


にこりと笑う桐谷くんはやっぱりキラキラして見える。
それはやっぱりかっこいいからなのか、私が好きだからなのか。
きっと全部合ってるんだろう。

私はずっと自分のことが嫌いだった。
だけどここ最近は、桐谷くんやみんなのおかげで少しづつ変われている気がする。
自分を変えたい。
自分のことを好きになりたい。
そして偽りのない私で、自信を持ってみんなと向き合いたい。

だから頑張らなくちゃ。
ここはきっと一番の踏ん張りどころだ。


「私、やります」
「やったー! じゃあ桐谷もいい!?」
「おう」


あっちゃんが文化祭の話を進めていく中で、ちらりと桐谷くんを見る。
すると彼も私を見ていたようで目が合った。
にこりと微笑まれて、私も思わず笑い返す。

今度こそは素敵な舞台にしたい、いや、するんだ。
みんなと一緒に。





約束の放課後。
みんなに声をかけようとしたとき、あっちゃんがクラスに呼びかける。


「役ある人さ、できれば放課後残ってくれない? 一回読み合わせして、言いにくいところとかセリフ直したいんだよね」
「あ、そっか……」
「それ授業時間中じゃダメなの?」
「そりゃもちろんいいんだけどさ、練習できるならたくさんしときたいんだよね。やっぱりいい舞台にするには授業時間だけじゃ足りないし!」


たしかに、七瀬ちゃんの言うこともあっちゃんの言うこともわかる。
だけど今日はみんなに話をしたいと決めた大切な日だ。
でも練習することで、本番に失敗するリスクが少なくなるなら――


「んー……練習って大事だもんねえ」
「えっ! 瑠々がそういうこと言うの珍しくない!?」
「も~、からかわないでよお、ひまちゃん」


瑠々ちゃんは私に気を遣ってくれているみたいだ。
とても嬉しいけれど申し訳ない。
こういうときはやっぱり、みんなを誘った私自身がどうするか決めた方がいいだろう。
でもこういった場面で決断力や勇気に欠けてしまう。


「結衣、今日の話って今すぐ聞いたほうがいいやつ?」
「あ、ううん。そんな緊急を要する内容ではないの」
「そう。そしたら文化祭が終わったらにしない? その方が結衣もゆっくり話せるんじゃない」


七瀬ちゃんはやっぱりかっこいい。
みんなに気を配ったうえで、すぱっと決められる決断力もあるし、それを迷いなく相手に伝える勇気もある。
だけど彼女はきっと、それができるのが普通なのだ。


「……うん。じゃあそうさせてもらおうかな」
「それじゃ残ってくれるってこと!?」
「うん、よろしくお願いします」
「こちらこそー! じゃあじゃあ早速、1回読んでもらっていい?」


そうして始まった練習は、初日から完全下校時刻まで続いた。


練習終わりにガレージを覗くと、そこには先に桐谷くんがいた。


「お疲れ。練習大変だったな」
「桐谷くんもお疲れ様。あっちゃんってほんとすごいよね」


ただ舞台が好きなだけかと思っていたけれど、知識もたくさん持っている彼女はとっても頼りになった。
やはり、好きこそものの上手なれといったところか。

いつものように彼の隣に座って、目の前の景色を見る。
とっくに日が暮れている空には星が瞬いてきれいだ。


「……ほんとによかったのか、人魚姫役やって」
「え?」
「いや、だってあんまやりたくなさそうだったし。昔のこととか、いろいろあんだろ」
「……桐谷くん、幼稚園のときのこと覚えてるの?」
「当たり前だろ。俺のことなんだと思ってんだよ」


驚いた。
いやたしかに、桐谷くんの反応を見るに覚えているのかもしれないとは思っていたけれど、まさか本当に忘れていなかったなんて。
遠い昔のことなんて、彼の実りある経験やキラキラした思い出によって薄れて消えてしまっていると思っていた。

でもそうではないなら、いやそうではなくても。


「……桐谷くん、あのときはごめんね。ずっと謝ろうって思ってたのに、ずっと言えなかった」


やっと口にできた言葉は案外すぐに言い終わってしまう。


「んなのいいよ。俺もあのとき約束守れなかったし、ごめんな」


そしてすぐに過去になって、新しい未来をつくっていく。
桐谷くんの表情は悲しそうでも嬉しそうでもない。

だけど優しくて温かい雰囲気だった。
でも目は鋭くて、視線を向けられてドキッとする。


「次こそはちゃんと守るから」


そんなことを真っすぐ言える彼はやっぱりかっこいいな。
素直にそう思う。

そういうところが好きで、憧れていて、やっぱりどこか恐ろしい。


「……ありがとう。私も桐谷くんのこと守れるように頑張るね」
「ん、頼む」


守られてばかりの女なんて私の理想ではない。
それならば強くならないと。

彼も、友だちも、そんな人たちが好いてくれている自分自身も、守れるくらいに強くならなければいけないのだ。
覚悟を決めた夜、猫は静かにその様子を見守っていた。