僕は逃げた。
兄の日常的な暴力には慣れてはいたが、今日はなんだか逃げたい気分だった。
薄暗くなってきた道をヨロヨロと歩いて、近くの川沿いに向かう。

草が生い茂っている場所へ腰を下ろすと、かられていない草は僕の座高と同じくらいあった。

おそらく兄が追ってきても上手く隠れられるだろう。


「ヨウくん?」


後ろから声が聞こえ肩をびくりとあげた。そしてその声が星子のものだと分かるのにそんなに時間はかからなかった。

彼女は僕より幾分か上の方から僕を見下ろしており、目が合えば「やっぱり!」と星子は笑った。


「こんなところで何してるの?」


こちらに駆け寄ってきた星子の手にはおつかいを頼まれたのか買い物袋とその中には何やら食材らしきものが入っている。そして手の甲には僕たちにしか分からない下手くそな星が描かれている。

あれからも僕たちは星が薄くなってはまた上からかき、消えないようにこの『あと』を守っていた。
必死なのは僕の方だけれど。


「かくれんぼ」

「誰と?」

「化け物」

「ええ!こわーい!」

両手を反対の肩において変な顔をしてそう言った星子に僕はクスクスと笑う。


「冗談だよ、ちょっと散歩してただけ。星子は?」


「お母さんにおつかい頼まれたの」


「へえ」


はやく帰った方がいいんじゃない。そう言おうと思ったけれど言わなかった。


「ワンドとペリクが戦う場所の名前を決めようと思って」


そう言うと、星子は「ほええ」と変な相槌をうって買い物袋からお菓子を取り出して一口食べた。
ごはん食べる前に大丈夫なのかな。


「ヨウくん、小説家にでもなったら?」


「なんでだよ」


「物知りだし、書くの上手いし!」


どうせ僕はろくな大人にならない。
お母さんにも、兄にもよく言われている言葉だ。呪いのようにその言葉はこびりついている。
そんな僕に星子は腐ったヘドロの道を無理やり掃除をして、綺麗に彩っていくような、夢みたいなことを言ってくる。
そういうところが好きなんだ。


「そうだね」と感情を込めないように押し殺した返事をして、目の前で流れる川を視界に入れた。


「古手川、か」

「なに?」

「ここの川の名前だよ」

「そうなんだ!」

「あそこ書いてあんじゃん」

川を挟んで向かいのところに小さな看板があり、そこに『古手川』とかいてある。
黒色で書かれているそれは薄くなっており、目を凝らさないとよくみえない。
星子は「わー、ほんとだね!」と僕に近寄ってその看板を目を細めてみた。

僕の頬に星子の髪の毛がさらりとあたる。


「星子」


「ん?」と僕に顔を向ける。僕に度胸なんてなくすぐに目を逸らしてしまった。
そして恥ずかしさを紛らすように自らの手の甲の星と川を視界に入れた。


「僕、もうすぐここを離れるよ」


星子は「え」と小さな声を出す。


「中学は遠いところに行くんだ」

「…なんで?」

「引っ越すから」

「なんで?」

「色々あるんだよ」

星子の泣きそうな顔は初めてみた。
心臓が痛くなった。僕だって離れたくないよ。


「なんかさ、僕たちこうやって物語に逃げてるけど」

「っ、」


堪えきれなくなった星子の瞳から溢れ出た涙を手で拭いとる。


「たぶん、大人になるにつれ逃げ道なんてどんどん狭くなるよ」


「どういうこと、ヨウくん」


「難しいけどさ、僕は『アイマイ』みたいにひと暴れしたいって思ってる」


「悪党じゃん」


「いいじゃないか、悪党が正義になる瞬間だってある。それに暴れないと、『僕はここにいる』って証明できないだろう」


僕は言葉にしてやっと分かった。

僕がつくった、悪党集団『アイマイ』は、『ペリク』は僕のそのものなんだ。


「でも、でも、リンデルはきっとワンドを選ぶよ。わたしはそのつもり」


「ざんねん、最後は僕が終わらせる。ペリクが勝つかも」


「ええええ、ダメだよ!あ、うーん、でもペリクイケメンだからなあ」


そう言って困った顔をして笑った星子。
僕はいつだってさよならの準備をしているけれど、星子はまだまだ子供で、目の前の僕が遠くに行った時のことなんて今はまだ考えていないのだろう。

物語にはいつか終わりがくるんだよ、星子。