東京の空には、星がない。
よく聞く言葉だけれど、今空を見上げてみて、あの言葉は本当にそのとおりだったのだと実感する。
真冬で空気が澄んでいるはずなのに、藍色の空に瞬く光はひとつも見つからない。
空から地上――渋谷の街に視線を戻すと、眩しいくらいの人工の光が瞬いている。
店の華やかなネオン。オフィスビルの明かりや、マンションのあたたかなオレンジ色の電気。それから街灯。
夜だというのに、私は目を細めた。
東京の夜は、真昼のように明るい。
渋谷駅を出て、自宅までの歩き慣れた街の中をとぼとぼと歩く。歩きながら、そういえば、と数年前のことを思い出した。
かつてこの辺りで、たまたま地元、宮城の幼なじみに再会したのだ。
ただの偶然とは思えない再会だった。
というのも、その幼なじみは小中が同じ学校で、中学時代、私がひっそりと恋心を抱いていた初恋のひとだったからである。
まさか、この大都会東京で再会できるなんて思いもよらなかったし、すごく驚いた。
運命かもしれない、なんて考えもよぎったくらいだ。
私たちは再会した記念に、飲みに行くことになった。
昔話が盛り上がった末に、私は幼なじみから、
『実は俺、中学のとき、おまえのこと好きだったんだ』
と、カミングアウトされた。
すごく、動揺した。だけどうれしい動揺だった。
もちろん、当時私には付き合っているひとがいたし、彼にも家庭があったから、今さらどうなろうとかそういう話ではなかったけれど。
ただ、新鮮な気持ちが湧いたことはたしかだった。当時付き合っていた恋人とはもう付き合って長くなっていたから、すっかり関係に慣れ切ってしまっていて、甘酸っぱいときめきなんて、まるでなかったのだ。
それでも、彼のことはちゃんと好きだったし、別れる気もなかった。きっと、こうやって歳を重ねていくことが正しいのだと、信じていた。
……でも。
もし、またあの夜に戻れるとしたら?
私は、彼にはっきりノーと言えるだろうか。
これまでのじぶんの人生を回顧して、目を伏せる。
きっと言えない。たぶん、「私も好きだった」と言って、その手にすがりついている気がする。たとえその手を振り払われたとしても、そんなじぶんのほうが、きっと今よりずっと愛せていた。
***
彼は、大学時代に知り合ったふたつ歳下の男の子だった。
同じサークルで知り合った私たちの恋は、彼に告白されたことから始まった。
もともと私も彼のことが気になっていたから、告白されたときはすごく嬉しかった。
大学生カップルだった私たちのデートは、自宅での映画鑑賞だとか散歩という質素なもので、高級ホテルのディナーだとか海外旅行だとか、そんな華やかなデートとは無縁のものだったけれど、ただ彼といっしょにいられるだけで幸せだった。
二歳差である私たち。院へ進む予定の彼とは違って、私は大学四年を修了したところで、一足先に就職した。
私は区役所に就職した。区役所は、とにかく飲み会が多い職場だった。
就職してから私は、同期会やら青年部会やら総会やらと、なんだかんだ理由をつけて飲みに行くことが多くなった。
そのことに対して、彼からはいつも不満を言われた。遊んでるんじゃないか、と私を疑っているようだった。もちろん私は、そんなつもりはなかった。
飲み会と言えど、仕事だ。彼を不安にさせるのは本意ではなかったけれど、仕事が絡んでくるわけだから行かないわけにもいかないのだと、毎回不貞腐れる彼に、私は丁寧に説明した。
けれど、飲み会のたびに文句を言われるものだから、喧嘩になったこともある。でも、喧嘩をしても彼はぜったいに謝るひとではなかったから、毎回私が折れなければならなかった。
高価なプレゼントをねだられたり、ストレートにお金がほしいと言われて、仕方なくお小遣いを渡すこともあった。
いやなことを我慢してくれているのだから、と、私は毎回そのわがままに付き合った。
飲み会のたびに機嫌を悪くする彼には呆れたけれど、だからといって飲み会に出席しないという選択肢は、私にはなかった。半分、意地のような気持ちもあったのだと思う。
それに、私にとってはまっすぐ家に帰るより、飲み会の場のほうが心安らぐ場所になりつつあったのだ。
彼は、じぶんは束縛されることをきらうくせに、私のことは激しく束縛した。
スマホを見せろとすごんだり、機嫌が悪いときは、男の匂いがするとか勝手ないちゃもんをつけて殴ってきたこともあった。
一方で職場の男性たちは、みんな穏やかで優しくて、彼よりも大人だった。
新しくしたネイルや服に気付いて可愛いと言ってくれるし、私の性格を知った上で仕事についてのアドバイスをくれたり、失敗を慰めてくれたり、フォローの言葉をくれたりもした。
彼に服を褒められたことなんて、あっただろうか。そもそも変えたメイクにすら気付かないひとだ。怒っていても、落ち込んでいても、優しい言葉をかけられたことなんて一度もない。むしろ、気が滅入ると怒鳴ってくるくらいのひと。
……あれ?
彼って最初からこんなひとだったっけ?
そもそも私、なんで彼と付き合ってるんだろう。
……好き、だから?
彼のどこが好き?
職場の先輩のほうが男前だし、優しいし、頼りにもなる。
それでも彼を選ぶ理由って、なに?
彼じゃなきゃいけない理由は?
彼と職場の男性陣を比べそうになるたび、いけない、と首を振った。
彼らはみんな自力でお金を稼いでいる大人で、私の彼はただの大学生だ。
比べること自体間違っている。考えちゃいけない。そう、何度もじぶんに言い聞かせた。
***
幼なじみの彼に再会したのは、社会人一年目の冬の夜だった。
こんなにもひとの多いこの東京で、初恋のひとに再会できたという喜びと驚き。
けれど、感じた思いはそれだけじゃない。
変わらない彼の姿を懐かしく思う反面、彼の現在の近況とじぶんの今を比較して、じぶんが情けなく、そして惨めになった。
ひとつじゃないいくつもの感情がごちゃ混ぜになって、私は、堪えていないと涙が出てしまいそうだった。
それでも、必死に強がった。好きだからとかではなく、もう意地になっていたのだと思う。
私は幸せ。
そうじぶん自身に言い聞かせることで、なんとか私はじぶんを保っていた。
――でも。
そうまでして守ってきた関係だったのに、壊れるのはあっという間で。
彼と付き合って、記念すべき六年目の夜。
無事、彼の大学院卒業が決まった日の夜。
春から社会人カップルとして、これからはもっと精神的にも安定した関係を築かなくちゃなんて思いつつ、就職祝いにどこか旅行に行こうかな、なんて考えていた夜。
「別れたい」
唐突に告げれらたその言葉に、私は一瞬、理解ができなかった。なにかの冗談だと思った。そう思わずにはいられなかった。
だって、そうでなければ、なんだというのか。
これまで私が守ってきたものは、いったいなんだったのか。
不平も不満も、文句も、言いたいことはいっぱいあったけれど、ぜんぶ飲み込んで。でも、彼のわがままや文句は聞いて、聞いて、聞いて、ぜんぶ受け止めてきた。
何度も別れようと思ったけれど、それでも私は彼より歳上なんだから、と我慢してきたのに。
『別れたい』?
言われたとき、悲しみなんてなかった。怒りすらなくて、もはや呆れていた。
この六年、どんなにいやなことがあってもどんなに泣いても我慢してきた私を差し置いて、あなたがその言葉を言う?
さすがにそのまま別れるという選択肢を選ぶことはできず、もう一度ちゃんと話し合いたいと言ったら、それきり彼とは連絡が取れなくなった。
メッセージを送っても電話をしても、既読にすらならない。
どこまでも子どもで、卑怯なひとだと、思った。
時間が経って冷静になればなるほど、通り越していた怒りがぶり返してくるようだった。
このまま引き下がるなんて、ぜったいに我慢できない。まだひとことの文句も言えていないし、どうして別れたいという結論に至ったのか、その理由すら聞けていないのだ。
私は、ぜったいにその理由を聞いて納得するまで帰らない。
そう心に決めて、今日、私は彼に会いに行った。
けれど――。
彼の家まで出向いたら、タイミングがいいのか悪いのか、ちょうど彼が見知らぬ女性と連れ立って帰ってきたところに出くわした。女性の鞄には、マタニティマークがついていた。
「どういうこと?」と問い詰めたら、彼は迷惑そうな眼差しを私に向けた。
彼女を先に部屋に入れると、
「彼女が妊娠したから、近々結婚する。もううちには来んな、迷惑だから」
ぼそっとそれだけ言って、彼は家の中へ入っていった。
開いた口が塞がらなかった。
浮気? いつから?
しかも子どもって。
突然彼が就活を始めた意味が、今になって分かった。
涙どころか、声すら出ない。
六年ものあいだ、苦楽を共にしてきた私たちの絆は?
一生懸命作ってきた砂の城が、さらさらと崩れていくような心地だった。
私が信じていたものは、いったいなんだったの?
……なにそれ。ばかみたい。
こんなひとを愛していたなんて。
こんなひとにずっと執着していたなんて。
もう、なにもかもがどうでもよくなった。
私はなにも言わずに彼の家をあとにした。
メトロの振動に揺られながら、彼の連絡先と写真をすべて削除した。
最寄り駅につく頃には、空はすっかり暗くなっていた。
***
ぼんやりと空を見上げる。晴れているはずなのに、星はひとつも見当たらない。
東京は空気が悪いから、星が見えないのだ。
そういえば、なにかの本で読んだことがあった気がする。いや、歌詞かなにかだったかもしれない。よく覚えていない。
地上に視線を戻して、足を踏み出す。すれ違うカップルや家族連れを横目に、帰路に着く。
彼らの笑い声は、今の私の心にはしみた。
ふと、雑踏の中に幼なじみの背中が見えた気がした。ハッとして、目をこらす。違うひとだった。小さくため息を漏らして、人の波を見やる。
子どもの無垢な笑顔。子供を見つめる母親の優しげな眼差し。若い男女の笑い声。
しばらく目の前の光景を眺めていて、思う。
まるで、星みたいだ。
眩しくて、目にしみて、涙が出そう。
東京に星はない。
そう思っていた。
でも、違う。東京にも星はちゃんとある。大切なひとの笑顔や笑い声こそが、この街の星なのだ。
東京は明るい。星の瞬きによって。
星が見えていなかったのは、私だけだった。
涙が込み上げてきた。
もし……もし、中学時代、好きだった幼なじみに想いを伝えていたら、こんな未来じゃなかったのだろうか。
もし、彼ともっと早く別れていたら、また違った今があっただろうか。
考えたって分からない。過去は変わらない。変えられない。
変えられるとすれば、それは……。
私は今日、思い知った。
彼にとって、私はいつの間にか、大切な女ではなくて、都合のいい女になっていた。
私はずっと、私を大切にしてくれないひとのために生きていたのだ。
……なんて、ばかだったんだろう。
今思えば、彼は私の人生において星ではなく、山だった。私は、登山家でもないのに、立ちはだかる山に一生懸命登っていたのだ。無理して、高山病になって、凍傷になりながらも、星が瞬く山頂を目指して。
……ばかみたい。
あんな山、登る必要なんてなかった。登ったってきっと、星なんて見えやしなかった。だから、避けてよかったんだ。だって私は、登山家じゃない。
これからはもうなにも我慢せず、自由に生きよう。
もっとじぶんに甘く生きよう。必要のない山は迂回して、ゆっくり歩こう。
それで不満を言うひとがいても、聞かなくていい。私の未来を考えてくれないひとなんて、私の人生に必要ない。
私を大切にしてくれないひとなんて、我慢を強要するひとなんて、私が愛する価値はない。
……だから。
泣くのは今夜だけ。この涙が止まったら、私は。
空を見上げ、決意する。
ぜったいこの東京で星になってやる。
いつか彼と再会したとき『あぁ、別れなきゃ良かった』って思わせてやるんだ。ぜったい。
だって……私だって、この東京の星なんだから!



