翌朝。
 分厚いカーテンが朝日を透かして部屋を明るく染める中、私は彼が起きる前にそっと部屋を後にした。

 連絡先は受け取らなかった。

 皺になった服と寝ぐせのついた髪を撫でつけて自宅に向かう。
 そして、会社に電話をかけた。

「退職しようと思うんです。実は、母が入院すると聞きまして。実家に帰って、母の世話をしながら働ける仕事を探そうと思っています」

 電話を終えたワンルームの自室に静寂が訪れる。

 午前中の爽やかな太陽の光に包まれた室内でスマホを開くと、昨夜の連弾の動画が公開されていた。
 そこに映る私は他人みたいに生き生きしていて、楽しそうで、隣に特別な人がいる。

 きらきらしていて、存在感があって、努力に裏付けされた自信を感じさせる演奏で。
 眩しい彼を見つめていると、私の脳裏に上司の声が再生される。

 ――『違いは何だと思う?』ああ、笑っちゃう。

「違いがありすぎ……。ああ、母に連絡もしよう。帰るって言ったら、喜ぶかな?」

 ピアノを弾かないのが当たり前になったように、やがて今日の想いも色褪せるだろうか。

 ――みんなと同じ。普通。模範的。
 地に足をつけてこんな風に人生を続けた先に、何が得られるのだろう?

 ぼんやりとベッドに寝ころぶ私に、スマホの通知が『未来からの手紙』を見せてきた。

「詩音さんへ。あなたが前へと歩くのをやめなければ、ゴールは必ず見えてきます」

 ――『前』ってどっちだろう? ゴールってなんだろう?
 考えているとおかしくなってきて、私はひとりで笑った。
 
 むなしさが部屋を支配するまで笑って『未来からの手紙』を削除すると、少し気持ちがスッキリした。
 
「母さん? うん。私。あのね、そっちに帰るから。仕事もそっちで探すよ。うん。うん……ああ、――――泣かないで……」

 母に電話をかけると、なんだか優しくて綺麗な自分になれた気がした。
 
 ――私の『前』は、こっち。さよなら、ピアニストさん。
 
 そう思って笑顔を作ると、明日も頑張れる気がした。

 

 ――FIN.