コンクールの出番待ちの時みたいに緊張しながら、スマホの時刻を見る。
 6月18日、18時30分。
 通知欄には『未来からの手紙』という流行りのアプリの通知がある。
 「変な通知を送ってくるのが面白い」と同僚が勧めてきたアプリだ。
 
 『未来からの手紙』は、「詩音さんへ。世の中はチャンスの奪い合いです。他人に譲ってはいけません」と知らせていた。
 メッセージに首をかしげた私に、男性が声をかけてくる。
 
「すみません。並んでますか? この駅ピアノでのストリートピアノの動画撮りたくて――明日には海外に行くから、ラストチャンスなんです。弾くの無理かな……」
「あ――いえ。どうぞ」
    
 声の主に視線を向けた私は、目を疑った。
 
 相手は、美男子だ。オーバーサイズの黒ジャケットとパンツの装いが似合っている。
 私は、彼を知っている。たぶん彼は私のことがわからないだろうけど、中学卒業まで同じピアノ教室で、コンクールにも一緒に出たことがあった。
 
 名前は、火乃朗(ひのうら) 大河(たいが)さん。24歳。
 12歳で全日本学生音楽コンクール大阪大会2位になったのを皮切りに、音楽事務所ピアノオーディションなどで優勝。
ハンガリー国立リスト音楽院ピアノ科に留学。
 留学中に、マスタープレイヤーズ大賞国際コンクール、マリア・カナルス国際コンクール、ヴィオッティ国際コンクール、カントゥ国際ピアノコンチェルトコンクールなどで上位に入り、聴衆賞も受賞している。
 ――天才ピアニストだ。

 通行人も彼に気付いて、ざわざわしている。
 
火乃朗(ひのうら) 大河(たいが)だ」
「本物? これから弾くの?」

「演奏楽しみにしてます。では……」  
 離れようとした私の腕を彼が掴んで、名前を呼ぶ。

「詩音さん?」
「え……」
 どきりとする。大河さんは、私を覚えていたようだった。
「ピアノ教室で一緒でしたよね? 大阪大会で1位になった鏑木(かぶらぎ)詩音さん……違う?」
「……人違いです」

 咄嗟に嘘をついたのは、成功して有名になった彼と自分の現状に、あまりにも差があると感じたから。
 
「人違い……? 失礼しました」
「いえ。演奏がんばってください」
「あ、待って……一緒に弾きませんか?」
「はっ……?」
  
 挨拶して去ろうとすると、彼は私をピアノの前に引っ張って行った。
 そして、大きな黒袖から覗く白い指先で鍵盤を叩いた。連弾の誘いだ。
 
 ポーン、と低く響く音は、浮ついた私の心を引っ掴まえて、静かで美しい物語世界の入り口を見せてくれた。
 たった1音で心を掴んでしまう、鮮やかで奥深い音だった。
 
 曲は、組曲マ・メール・ロワ、第1曲、眠れる森の美女のパヴァーヌ。
 連弾相手の返事を待つように、出だしのメロディが奏でられる。
 
 ――弾く……? 
 
 私が続きを奏でないと、進まない。
 静寂を恐れて音を紡げば、指は動いた。

 ――弾ける。
 
 ワクワクした。

 ――私、弾ける。指が動く。覚えてる……!

 宝石の粒を溶かして固めたような、きらめく音が耳をくすぐる。
 
 現実がどこかに吹き飛ばされて、彼の音楽が鮮やかに優しく私を包み込む。
 自分の音が彼の音と一緒に響き合うのが、奇跡のよう。

 心地よい音楽に体が自然と揺れて、数日前にカットしたばかりの栗色の髪が頬にかかる。
 指が滑らかに鍵盤の上で踊るのが、嬉しくて仕方ない。

 雨だれのように音が連なって、世俗に縮こまって乾いていた心が潤っていく。 
 すぐ隣にいる彼の息づかいに――ドキドキする。
 
 ――ワァッ……、
 
 曲を終えると歓声と拍手が湧いた。

 まだ夢から覚めたくないと思った。

 でも、気づけばもう19時。駅ピアノの演奏可能時間は、終わりだ。

「ばっちり撮れましたよ、大河さん」

 カメラを持っている人が、大河さんに話しかけてくる。マネージャーさんだろうか。
 大河さんは大人っぽく品のある微笑みを湛えて、私に頭を下げた。
  
「突然の申し出を引き受けてくださって、ありがとうございました。楽しい連弾でした。後日、配信サイトに動画を載せてもよろしいですか?」
「あ……は、はい」
 
 お礼に食事にも誘ってくれる。いい人だ。
 それに、耳元で「食事場所にピアノがありますよ」と囁いてくる。
 私がまだ日常に戻りたくないのを理解されているみたいだ。

「いらっしゃいませんか?」
 
 誘われた声は、柔らかで耳に心地いい。
 ずっと話していたくなる。

 高級車に促されるまま乗り込むと、覆いかぶさるようにしてシートベルトを留めてくれる。距離が近くて、少し緊張した。

「詩音さん、でいいんですよね? 見えてしまってるのですが、これ、なんですか?」
「え?」
  
 大河さんは、私のスマホに目を瞬かせた。また通知が来ていた。

『詩音さんへ。仕事が終わったら、明日の仕事に備えて早く寝ましょう』

「彼氏ですか?」
「ああ、大河さん。これ、アプリなんですよ。人間じゃないんです」
「へえ……このアプリ、面白いんですか?」

 画面を覗き込む大河さんの顔が、吐息が感じられるほど近い。
 バイレードのブランシュに似た、透明感ある香りがする。

「面白くないかも、しれませんね」
「あっ。近かったですね、すみません」
 
 視線を逸らしてスマホを胸に伏せると、彼はハッとした顔で距離を取った。 
 照れている彼を見ていると、私も恥ずかしくなってくる。耳が熱い。
 
 車が動き出すと、低めの車高ならではの振動が心地よかった。