「ただいま……って、誰もいないのわかってるのに、いつも言っちゃうんだよね……」
誰も聞いていないのに声を出してしまうのは、寂しさを紛らわせるため。「おかえり」と迎えられた記憶は、幼い頃に見た祖母の笑顔とセットだ。そんな祖母も、私が小学生の時に亡くなった。
現在18歳の私、森永花は人生の岐路に立っている。高校三年になって、この先の進路を決めなくてはならないのだ。勉強は嫌いでないし成績も上位だけど、進学できる家庭環境ではない。
私の母は、いわゆる恋多き女。一人の人と一生添い遂げるなんて考えはなく、物心ついた時には父親はいなかった。そして、恋人として何人紹介されたことか。
何も知らない幼い私は、紹介されるたびに父親ができるかもしれないと喜んだものだ。当時の私は、決して多くを望んだわけではない。
休日に公園でお父さんと遊んでいる子が羨ましかった。
ただ、肩車をしてもらいたかった―― それだけだ――
祖母が亡くなっても、母が変わることはなく私は常にひとりぼっち。
学校から帰ると、テーブルの上にお金が置いてあるだけ。私という存在を忘れたわけではないけど、だからといって気にしている素振りはない。
テレビではたびたび虐待されている子供のニュースを目にする。私はその子達よりはマシなのだと言い聞かせて今まで生きてきた。暴力を振るわれることも、餓死するようなこともなく、毎日学校へ行っている。自分よりも可哀想な子を見て心を保っている時点で、かなり病んでいるのだという自覚はあった。
だって同級生達の会話を聞いていたら、私の想像できない世界が広がっているのだから……
当たり前に掃除や洗濯をしてもらえて、温かいごはんが食卓に並んでいる。学校へは母の手作り弁当を持参して、文句を言いながらも美味しそうに食べていた。
彼女達の当たり前が、私にとっては憧れで……。羨んでもどうすることもできないから、『親ガチャ』のハズレを引いた私のくじ運が悪かったのだと思うしかない。
私からしたら恵まれている彼女達も、親や学校、友達関係など色々なことに不満を言っていた。彼女達からしたら恵まれた環境が普通で、私の世界は理解できないのだろう。理解してもらおうとも思わないけど、分かり合えるとも思えない。
人とのコミュニケーションがどちらかというと昔から苦手な私は、考えすぎてストレスを溜めてしまうのだ。
クラスの子達が恋愛話で盛り上がっていても、興味がないというよりも価値観が違いすぎて入れない。長年母を見ているだけに、恋愛なんて一時的なものだと思ってしまうのだ。そんな一時のことに、一喜一憂している姿をどうしても冷めた目で見てしまう。
でも、全く興味がないといえば嘘になる。
中学から生理が始まって、心と身体のバランスが崩れやすくなった。身体が怠かったり、イライラしたり、落ち込んだり……
これを思春期と言うのだろうか――
◇◇◇
高校生になるころには、初体験を済ませた子の話がチラホラと聞こえ出す。一歩先に大人になった子の話は、私にとって漫画や小説の中だけだったことが、現実味を帯びて感じたのだ。少女漫画では描かれていない、そのリアルな場面が気になって想像してしまう。
ホルモンバランスなのか興味本位なのか、身体の疼きを感じることがあった。
キスって気持ちいいの?
セックスって気持ちいいの?
人肌が恋しい……
妄想だけがどんどん膨らんで、興味の域を越えたくなる。
「昨日、彼氏とラブホに行っちゃった」
「マジで!? どうだった?」
「凄かった」
「何が?」
「何もかも!」
教室で恥ずかしげもなく会話している声が聞こえてくる。いや恥ずかしさよりも、友人達より先に大人の経験をしたことを自慢したいのだ。
そんな彼女達の会話に、聞き耳を立ててしまうのは許して欲しい。
「真奈美の彼って年上だよね?」
「うん、大学生。初体験は、絶対に経験豊富な人がいいよ!」
「えー、遊ばれそう」
「確かに」
「そんなことないもん!」
彼女が遊ばれようがどうでもいいから、詳しく話を聞きたい。素知らぬ顔で本を読んでいる振りをしているけど、しっかりと耳を傾けていた。
「でもさぁ、痛いんでしょ?」
「まあ……」
「痛いのやだなぁ」
「私も」
「でも、最初は痛いもんなんだよ」
「真奈美、なんか大人の発言」
「で? で?」
「愛されてるって感じたよ」
「「いいなぁ」」
愛されてるの言葉を聞いた途端に、興味が失せていく……
母の口から何度聞いた言葉か……
愛してる――
言葉だけなら簡単に言える。だって、毎回違う恋人を愛してるって言っていた。
愛だの恋だの、目に見えない不確かなものは信じない。これは、長年の経験から培われた感情だ。
恋人はいらない。でも、身体を繋げることには興味があるのだ。いっそ、知らない人と経験してみる? なんて考えてしまう。
でも、さすがに初めてでおじさんだと嫌だなぁなんて、考えてみたり。きっと女子高生ってだけで相手には困らなそうだ。
学校では目立たない私が、そんな不純なことを考えているなんて誰も想像すらしないだろう。
◇◇◇
「ただいま……って、えっ……」
いつもはいない母の派手なハイヒールが玄関にあった。しかも、男性物の靴まで並んでいる。
これ以上入らない方がいいと、頭のどこかで警鐘が鳴っているのに、好奇心で身体が勝手に動いてしまった。
リビングには人の姿がなく、母の部屋の扉が微かに開いている。そして――
明らかに喋り声ではなく艶っぽい声が漏れている。
覗いてはダメだとわかっているのだ。
でも、思わず覗いてしまう。
久しぶりに見る母だけど、私の知る母ではなくて女と男、いやメスとオスと表現するのが相応しい野性的な男女の姿があった。
ショックだった――
あれだけセックスに興味があったはずが、見てしまったものにショックを受けて吐き気がしてくる。
口元を手で覆い、無我夢中で家を飛び出した。
キモチワルイ――
私が思い描いていたのは、漫画や小説の延長であんなのじゃない。しかも、恋多き女とわかっていても、受け入れられない女の顔の母。
家を飛び出して、気づけば知らない街まで来ていた。ふと見上げると、夕焼け空からまもなく夜になろうとしている。無性に孤独を感じた。
視線の先には古びたビルがあって、セキュリティなんて存在しないとばかりに誰でも入れる外階段が見えている。
何かに突き動かされるように、私はゆっくりと階段を上った。
――カンッカンッ
辺りには、私の足音だけが響いている。都会の喧騒から切り離されたような、寂しい空気が流れていて多少の恐怖もあった。
ショックを振り払うかのごとく無心に階段を上った先には……
都会の夜景が広がっていた。
腰の高さほどの柵は、簡単に乗り越えられる。柵の向こうには宝石箱のような夜景と、一歩間違うと死の世界への道が見えた。
このまま死の世界へ飛び込んだら、何もかもから解放されて楽になれるのかもしれない。今の私を引き止めるほどの未来は見えていないのだ。
柵にもたれて、ただただ光を見続ける。
今この瞬間、私と同じように死にたいと思っている仲間はどれくらいいるのだろうか。
次から次へと、負の感情が溢れだしてくる。
なんで私は生まれて来たのだろうか。生きる意味はあるのだろうか。
きっと、世の中には生きたくても生きられない人もいる。そんな人達に聞かれたら怒られそうだけど、何もかもに嫌気がさしているのだ。
「おい」
誰もいないはずなのに、突然低い男性の声が聞こえた。
「えっ……」
戸惑いながらも声のした方へと顔を向けると、低い声に似つかわしくない中性的な綺麗な人がいた。
「て、天使?」
「はあ? 大丈夫か?」
思わずそんな言葉が出るほど、綺麗な男性なのだ。色素が薄くて、冗談ではなく天使を連想させる。呆れた声からわかるように、完全に危ないヤツと思われていそうだ。
「どちら様ですか?」
「それはこっちのセリフだ。俺の空間に何の用だ?」
「えっ、ここの持ち主ですか?」
「持ち主ではないが、少なくても俺の知る限り先客がいたのは初めてだ」
持ち主でないのなら気にする必要はない。視線を元に戻して、彼の存在をなかったことにする。
一瞬何かを言いかけたように見えたけど、彼は何も言わなかった。
静かな空間に、遠くから車のクラクションやバイクのエンジン音が聞こえている。
彼の存在を忘れて夜景に見入っていたら、ふと先程の母の姿が脳裏をよぎり、それを打ち消すように強く目を閉じた。そして、身体から力が抜けて柵に乗り出すようにもたれかかってしまった瞬間――
「危ない! 自殺なら他所でやってくれ!」
怒りの声と共に、強く抱きしめられた。
中性的に見えていたけれど、明らかに男性とわかる逞しい腕に抱きしめられて驚いて固まる。
私の鼓動は高鳴り、彼の鼓動も早い。
「何があったか知らないが、生きていたらきっといい事もあるはずだ。一時の感情に流されて早まるんじゃない!」
「……」
完全に自殺志願者だと思われていた。一瞬闇へと引き込まれそうになったけど、あと一歩踏み出す勇気はない。
「俺で良ければ話を聞いてやる。特別だぞ」
まだ抱きしめられたままで、頭上から彼の言葉が聞こえてきた。
「……セックスって気持ちいいの?」
何の説明もせずに、突然核心に触れる質問をする。しかも、自殺志願者だと思われていた私から出た言葉があまりにも想定外だったのだろう、彼は大きく目を見開いて驚いていた。
「……。人が真剣に」
こいつ、突然何を言ってるんだ? という視線がひしひしと伝わってきた。
「真剣だもん。ねえ、どうなの?」
聞ける人がいなくて悶々としていた。今は死ぬことよりも興味がある。母を未だに女にしてしまうほどの行為。
「はぁー、変なやつに出会ってしまった……」
「私は真剣なの!」
「はいはい。で? どうしてそんなこと聞くんだ?」
「だって……」
どうせ、もう二度と会うことはないのだからと、私のモヤモヤな気持ちをさらけ出す。私よりも大人な彼なら、解決してくれるんじゃないかと期待して……
「母には、愛情を期待したこともないけど、あんな所を見ると気分が悪くて……」
「まあ、確かに親のは見たくないな」
「だよね……」
「よしよし」
頭を優しく撫でてもらうなんて、初めてかもしれない。それだけで、涙が出そうになった。そんな私の様子に彼が気づく。
「泣きたいなら思いっきり泣いたらいい。ここには俺以外いない」
言葉を聞いたと同時に意図せず涙が溢れてきた。私は、泣きたかったの? この涙は何?
――ウウッ
私の奥底から出てくる感情が、呻き声になって次から次へと溢れる。優しく抱きしめてくれた彼に甘えて、泣き続けた。
「どうした? 満足したか?」
泣き続けてさすがに私の涙もかれた頃、頭上から声が掛かる。
「うん……」
18年分を今日出会ったばかりの彼の腕の中で泣いた。彼の服がビショビショになるくらいに――
「俺が教えてやろうか?」
「え?」
「セックス」
「……うん」
一瞬の間は、彼の言葉の理解が追いつかなかったから。彼からの申し出を断る理由はない。
純粋に私は知りたい。母を豹変させる正体を……
彼に手を取られて降りる階段は、上がった時の気持ちと違い晴れやかだ。
自然に彼と手を繋いでいるけど、私にとっては男性と手を繋ぐ自体が初めての経験ではないか。ファーストキスどころか、手を繋ぐことすら経験がないのに、よくセックスなんて言ったものだと今さらながらに思った。
心臓はありえないくらい高鳴り、緊張が身体中を駆け巡る。恐怖ではなく、これから起こることへの期待。
無言で連れて来られたのは、学生の私が利用することのないリッチなシティホテル。彼が慣れた様子でチェックインしている姿を、ただ待ちながら見つめる。
カードキーを持って私の元へ来た彼が、最後の選択肢だとばかりに私へ言葉を放った。
「今ならまだ引き返せるぞ」
「教えてくれるんですよね?」
正面から目をしっかりと見つめて答えると、彼は頷いてエレベーターへと向かっていく。
そこからは、私の知ることのなかった大人の世界が始まった。
部屋に入るなり、彼の唇が私の唇へと重なり熱が溶け合う。ファーストキスは、本当に甘く感じた。
自然と私の口からは艶っぽい吐息が漏れる。
ベッドに寝かされて、彼の手が私の身体をあばいていく……
夢中に彼へしがみつき、めくるめく世界を味わった。甘い痛みと、人の温もりと、溶け合う身体。こうして私は、天使な彼と初体験を経験したのだ。
母のいう愛だの恋だのはまだ理解できないけど、彼とひとつになった時には、痛みよりも幸せな感情の方が大きかった。隣で眠る彼を見て満足感に浸る。
一晩で、今まで見えていた世界がガラッと変わった気がした。
これ以上、彼に迷惑を掛けるわけにはいかない。そっとベッドを抜け出して、ホテルを後にする。
『ありがとうございました』のメッセージを残して……
◇◇◇
自宅で母の女の姿を見てしまった日から、なぜか母が頻繁に自宅にいるようになった。しかもあの日以来、男性を連れ込むこともない。それどころか、男性の気配すら感じない。
何があったのか聞きたいような、でも知らない方がいいような……
顔を合わせても特に会話をする訳でもない。今まで母の不在が当たり前だったから違和感がある。
でもあの日、彼が私に大人の経験をさせてくれたことで、不思議と母への嫌悪感がなくなった。
自分の中で大きな変化を迎えた私に、更なる試練が襲いかかる。
「き、気持ち悪い……」
最近体調が優れないのだ。吐き気とダルさに見舞われている。学校から帰ってリビングのソファで動けなくなっていると、外出から帰ってきた母に声を掛けられた。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
「え……?」
母親らしい言葉を掛けられた記憶がほとんどないので、突然のことに戸惑う。
「熱は?」
「……」
今までの関係が嘘のように、違和感なくおでこに手を当てられた。
「なさそうね?」
「……うん。ずっと気持ちが悪くて」
「他に症状は?」
「ダルさと、食べ物の匂いが気持ち悪い」
「……ねえ、花。妊娠してる可能性は?」
「……え?」
妊娠のワードよりも、名前を呼ばれたことに驚いた。花って言った? 私の名前を知ってたんだ。それほどまでに、親子関係は成立していない。
そして、母の言葉がじわじわと私の中へと入っていく。すぐに天使の彼が浮かんだけれど、避妊してくれてた気がする。絶対に大丈夫なわけでないことはわかっているけど、それが自分の身に起こるとは夢にも思っていなかった。
「心当たりがないわけでも、なさそうね」
「……」
もし本当に妊娠してるなら産みたい。なんて、思う私を世間は許してくれるのだろうか。世間よりも先ずは目の前の母の反応が気になる。
「産みたい……」
無意識に言葉が溢れた。
「……いいんじゃない?」
「……え?」
「何驚いてるの? 産めばいいじゃない」
あっさりと肯定する母の顔を思わず凝視してしまう。
「何よ」
「だって……。お母さん、子供嫌いでしょ?」
「はあ? 別に?」
「ええ……」
話が噛み合っていない。育児放棄と言われるレベルまで、私を放ったらかしにしていたではないか。
「嫌いだと思ったことないわ」
「私のこと、嫌いでしょ?」
「何のこと?」
18年間生きてきて、こんなに会話するのは初めてだ。この際だから、正面から向き合ってみようと思う。
「いつも家にいなかったじゃない」
「仕事してるんだから当たり前でしょう?」
「仕事してても、普通は帰って来るでしょう」
「帰ってきてたでしょ」
「お金だけ置きにね」
「そんなつもりなかったわ。年頃だし、口出されるの嫌じゃないの?」
「そんな最近の話じゃなくて」
「母が生きてた頃は、勘当同然で帰ってくるなって言われてたから……」
「……」
そんな話は聞いたことがなかった。でも今思えば祖母は厳しい人だったから、私の知らないところで母と何かあったのかもしれないと、今だから思える。
「ねえ、私のことどう思ってる?」
とうとう、今まで避けていた質問が口を付いて出た。
「私の可愛い娘だけど」
「!?!?」
あまりの衝撃に、頭が真っ白になる。今まで私が見てきた世界は幻だったのか。全く予想だにしなかった展開が待っていた。
ずっと一方的に、嫌われていると思い込んでいた。よく考えたら、知ろうとしたこともない。母がどんな仕事をしているかさえ知らなかった。そんなはずないだろうと思われるかもしれないけど、それほどまでにすれ違っていたのだ。
「お母さんは何の仕事してるの?」
「はい?」
何を今さらという顔をされも、興味がなかったのだからしょうがない。
「看護師だけど……」
「……」
実は勝手に夜の仕事だと思っていた。まさかの看護師で夜勤をしていたのだとは想像すらしたことがなかった。
いつも母のせいにしてきたけど、私が子供だっただけだと、今さらながらに気づかされる。
私自身が母を知ろうとしていなかった。
こうして、私と母のすれ違いに突然幕を下ろした。
◇◇◇
「ママ~」
「遼!」
幼稚園バスから降りてくる天使。そう、あの時の子。
母に、娘と子供の面倒くらい見る甲斐性はあると宣言されて、母に甘えて出産した。
今はパートで働いていて、遼がもう少し大きくなったら、正社員では働くつもり。
妊娠が発覚して産むと決意した後、何度かあのビルを訪れた。彼に会えるかもしれないと……
でも、現実には会えることなく終わってしまった。
今でも、彼は実在しない天使だったんじゃないかと思ってしまう。
あの日彼と出会ったから、今私は生きている。
そして、遼というかけがえのない存在を授かったのだ。
一夜の奇跡が、私を大人にしてくれたのだ。
日増しに彼に似てくるわが子が、あの日の出来事が現実なんだと教えてくれる。
甘くも切ない思い出――
誰も聞いていないのに声を出してしまうのは、寂しさを紛らわせるため。「おかえり」と迎えられた記憶は、幼い頃に見た祖母の笑顔とセットだ。そんな祖母も、私が小学生の時に亡くなった。
現在18歳の私、森永花は人生の岐路に立っている。高校三年になって、この先の進路を決めなくてはならないのだ。勉強は嫌いでないし成績も上位だけど、進学できる家庭環境ではない。
私の母は、いわゆる恋多き女。一人の人と一生添い遂げるなんて考えはなく、物心ついた時には父親はいなかった。そして、恋人として何人紹介されたことか。
何も知らない幼い私は、紹介されるたびに父親ができるかもしれないと喜んだものだ。当時の私は、決して多くを望んだわけではない。
休日に公園でお父さんと遊んでいる子が羨ましかった。
ただ、肩車をしてもらいたかった―― それだけだ――
祖母が亡くなっても、母が変わることはなく私は常にひとりぼっち。
学校から帰ると、テーブルの上にお金が置いてあるだけ。私という存在を忘れたわけではないけど、だからといって気にしている素振りはない。
テレビではたびたび虐待されている子供のニュースを目にする。私はその子達よりはマシなのだと言い聞かせて今まで生きてきた。暴力を振るわれることも、餓死するようなこともなく、毎日学校へ行っている。自分よりも可哀想な子を見て心を保っている時点で、かなり病んでいるのだという自覚はあった。
だって同級生達の会話を聞いていたら、私の想像できない世界が広がっているのだから……
当たり前に掃除や洗濯をしてもらえて、温かいごはんが食卓に並んでいる。学校へは母の手作り弁当を持参して、文句を言いながらも美味しそうに食べていた。
彼女達の当たり前が、私にとっては憧れで……。羨んでもどうすることもできないから、『親ガチャ』のハズレを引いた私のくじ運が悪かったのだと思うしかない。
私からしたら恵まれている彼女達も、親や学校、友達関係など色々なことに不満を言っていた。彼女達からしたら恵まれた環境が普通で、私の世界は理解できないのだろう。理解してもらおうとも思わないけど、分かり合えるとも思えない。
人とのコミュニケーションがどちらかというと昔から苦手な私は、考えすぎてストレスを溜めてしまうのだ。
クラスの子達が恋愛話で盛り上がっていても、興味がないというよりも価値観が違いすぎて入れない。長年母を見ているだけに、恋愛なんて一時的なものだと思ってしまうのだ。そんな一時のことに、一喜一憂している姿をどうしても冷めた目で見てしまう。
でも、全く興味がないといえば嘘になる。
中学から生理が始まって、心と身体のバランスが崩れやすくなった。身体が怠かったり、イライラしたり、落ち込んだり……
これを思春期と言うのだろうか――
◇◇◇
高校生になるころには、初体験を済ませた子の話がチラホラと聞こえ出す。一歩先に大人になった子の話は、私にとって漫画や小説の中だけだったことが、現実味を帯びて感じたのだ。少女漫画では描かれていない、そのリアルな場面が気になって想像してしまう。
ホルモンバランスなのか興味本位なのか、身体の疼きを感じることがあった。
キスって気持ちいいの?
セックスって気持ちいいの?
人肌が恋しい……
妄想だけがどんどん膨らんで、興味の域を越えたくなる。
「昨日、彼氏とラブホに行っちゃった」
「マジで!? どうだった?」
「凄かった」
「何が?」
「何もかも!」
教室で恥ずかしげもなく会話している声が聞こえてくる。いや恥ずかしさよりも、友人達より先に大人の経験をしたことを自慢したいのだ。
そんな彼女達の会話に、聞き耳を立ててしまうのは許して欲しい。
「真奈美の彼って年上だよね?」
「うん、大学生。初体験は、絶対に経験豊富な人がいいよ!」
「えー、遊ばれそう」
「確かに」
「そんなことないもん!」
彼女が遊ばれようがどうでもいいから、詳しく話を聞きたい。素知らぬ顔で本を読んでいる振りをしているけど、しっかりと耳を傾けていた。
「でもさぁ、痛いんでしょ?」
「まあ……」
「痛いのやだなぁ」
「私も」
「でも、最初は痛いもんなんだよ」
「真奈美、なんか大人の発言」
「で? で?」
「愛されてるって感じたよ」
「「いいなぁ」」
愛されてるの言葉を聞いた途端に、興味が失せていく……
母の口から何度聞いた言葉か……
愛してる――
言葉だけなら簡単に言える。だって、毎回違う恋人を愛してるって言っていた。
愛だの恋だの、目に見えない不確かなものは信じない。これは、長年の経験から培われた感情だ。
恋人はいらない。でも、身体を繋げることには興味があるのだ。いっそ、知らない人と経験してみる? なんて考えてしまう。
でも、さすがに初めてでおじさんだと嫌だなぁなんて、考えてみたり。きっと女子高生ってだけで相手には困らなそうだ。
学校では目立たない私が、そんな不純なことを考えているなんて誰も想像すらしないだろう。
◇◇◇
「ただいま……って、えっ……」
いつもはいない母の派手なハイヒールが玄関にあった。しかも、男性物の靴まで並んでいる。
これ以上入らない方がいいと、頭のどこかで警鐘が鳴っているのに、好奇心で身体が勝手に動いてしまった。
リビングには人の姿がなく、母の部屋の扉が微かに開いている。そして――
明らかに喋り声ではなく艶っぽい声が漏れている。
覗いてはダメだとわかっているのだ。
でも、思わず覗いてしまう。
久しぶりに見る母だけど、私の知る母ではなくて女と男、いやメスとオスと表現するのが相応しい野性的な男女の姿があった。
ショックだった――
あれだけセックスに興味があったはずが、見てしまったものにショックを受けて吐き気がしてくる。
口元を手で覆い、無我夢中で家を飛び出した。
キモチワルイ――
私が思い描いていたのは、漫画や小説の延長であんなのじゃない。しかも、恋多き女とわかっていても、受け入れられない女の顔の母。
家を飛び出して、気づけば知らない街まで来ていた。ふと見上げると、夕焼け空からまもなく夜になろうとしている。無性に孤独を感じた。
視線の先には古びたビルがあって、セキュリティなんて存在しないとばかりに誰でも入れる外階段が見えている。
何かに突き動かされるように、私はゆっくりと階段を上った。
――カンッカンッ
辺りには、私の足音だけが響いている。都会の喧騒から切り離されたような、寂しい空気が流れていて多少の恐怖もあった。
ショックを振り払うかのごとく無心に階段を上った先には……
都会の夜景が広がっていた。
腰の高さほどの柵は、簡単に乗り越えられる。柵の向こうには宝石箱のような夜景と、一歩間違うと死の世界への道が見えた。
このまま死の世界へ飛び込んだら、何もかもから解放されて楽になれるのかもしれない。今の私を引き止めるほどの未来は見えていないのだ。
柵にもたれて、ただただ光を見続ける。
今この瞬間、私と同じように死にたいと思っている仲間はどれくらいいるのだろうか。
次から次へと、負の感情が溢れだしてくる。
なんで私は生まれて来たのだろうか。生きる意味はあるのだろうか。
きっと、世の中には生きたくても生きられない人もいる。そんな人達に聞かれたら怒られそうだけど、何もかもに嫌気がさしているのだ。
「おい」
誰もいないはずなのに、突然低い男性の声が聞こえた。
「えっ……」
戸惑いながらも声のした方へと顔を向けると、低い声に似つかわしくない中性的な綺麗な人がいた。
「て、天使?」
「はあ? 大丈夫か?」
思わずそんな言葉が出るほど、綺麗な男性なのだ。色素が薄くて、冗談ではなく天使を連想させる。呆れた声からわかるように、完全に危ないヤツと思われていそうだ。
「どちら様ですか?」
「それはこっちのセリフだ。俺の空間に何の用だ?」
「えっ、ここの持ち主ですか?」
「持ち主ではないが、少なくても俺の知る限り先客がいたのは初めてだ」
持ち主でないのなら気にする必要はない。視線を元に戻して、彼の存在をなかったことにする。
一瞬何かを言いかけたように見えたけど、彼は何も言わなかった。
静かな空間に、遠くから車のクラクションやバイクのエンジン音が聞こえている。
彼の存在を忘れて夜景に見入っていたら、ふと先程の母の姿が脳裏をよぎり、それを打ち消すように強く目を閉じた。そして、身体から力が抜けて柵に乗り出すようにもたれかかってしまった瞬間――
「危ない! 自殺なら他所でやってくれ!」
怒りの声と共に、強く抱きしめられた。
中性的に見えていたけれど、明らかに男性とわかる逞しい腕に抱きしめられて驚いて固まる。
私の鼓動は高鳴り、彼の鼓動も早い。
「何があったか知らないが、生きていたらきっといい事もあるはずだ。一時の感情に流されて早まるんじゃない!」
「……」
完全に自殺志願者だと思われていた。一瞬闇へと引き込まれそうになったけど、あと一歩踏み出す勇気はない。
「俺で良ければ話を聞いてやる。特別だぞ」
まだ抱きしめられたままで、頭上から彼の言葉が聞こえてきた。
「……セックスって気持ちいいの?」
何の説明もせずに、突然核心に触れる質問をする。しかも、自殺志願者だと思われていた私から出た言葉があまりにも想定外だったのだろう、彼は大きく目を見開いて驚いていた。
「……。人が真剣に」
こいつ、突然何を言ってるんだ? という視線がひしひしと伝わってきた。
「真剣だもん。ねえ、どうなの?」
聞ける人がいなくて悶々としていた。今は死ぬことよりも興味がある。母を未だに女にしてしまうほどの行為。
「はぁー、変なやつに出会ってしまった……」
「私は真剣なの!」
「はいはい。で? どうしてそんなこと聞くんだ?」
「だって……」
どうせ、もう二度と会うことはないのだからと、私のモヤモヤな気持ちをさらけ出す。私よりも大人な彼なら、解決してくれるんじゃないかと期待して……
「母には、愛情を期待したこともないけど、あんな所を見ると気分が悪くて……」
「まあ、確かに親のは見たくないな」
「だよね……」
「よしよし」
頭を優しく撫でてもらうなんて、初めてかもしれない。それだけで、涙が出そうになった。そんな私の様子に彼が気づく。
「泣きたいなら思いっきり泣いたらいい。ここには俺以外いない」
言葉を聞いたと同時に意図せず涙が溢れてきた。私は、泣きたかったの? この涙は何?
――ウウッ
私の奥底から出てくる感情が、呻き声になって次から次へと溢れる。優しく抱きしめてくれた彼に甘えて、泣き続けた。
「どうした? 満足したか?」
泣き続けてさすがに私の涙もかれた頃、頭上から声が掛かる。
「うん……」
18年分を今日出会ったばかりの彼の腕の中で泣いた。彼の服がビショビショになるくらいに――
「俺が教えてやろうか?」
「え?」
「セックス」
「……うん」
一瞬の間は、彼の言葉の理解が追いつかなかったから。彼からの申し出を断る理由はない。
純粋に私は知りたい。母を豹変させる正体を……
彼に手を取られて降りる階段は、上がった時の気持ちと違い晴れやかだ。
自然に彼と手を繋いでいるけど、私にとっては男性と手を繋ぐ自体が初めての経験ではないか。ファーストキスどころか、手を繋ぐことすら経験がないのに、よくセックスなんて言ったものだと今さらながらに思った。
心臓はありえないくらい高鳴り、緊張が身体中を駆け巡る。恐怖ではなく、これから起こることへの期待。
無言で連れて来られたのは、学生の私が利用することのないリッチなシティホテル。彼が慣れた様子でチェックインしている姿を、ただ待ちながら見つめる。
カードキーを持って私の元へ来た彼が、最後の選択肢だとばかりに私へ言葉を放った。
「今ならまだ引き返せるぞ」
「教えてくれるんですよね?」
正面から目をしっかりと見つめて答えると、彼は頷いてエレベーターへと向かっていく。
そこからは、私の知ることのなかった大人の世界が始まった。
部屋に入るなり、彼の唇が私の唇へと重なり熱が溶け合う。ファーストキスは、本当に甘く感じた。
自然と私の口からは艶っぽい吐息が漏れる。
ベッドに寝かされて、彼の手が私の身体をあばいていく……
夢中に彼へしがみつき、めくるめく世界を味わった。甘い痛みと、人の温もりと、溶け合う身体。こうして私は、天使な彼と初体験を経験したのだ。
母のいう愛だの恋だのはまだ理解できないけど、彼とひとつになった時には、痛みよりも幸せな感情の方が大きかった。隣で眠る彼を見て満足感に浸る。
一晩で、今まで見えていた世界がガラッと変わった気がした。
これ以上、彼に迷惑を掛けるわけにはいかない。そっとベッドを抜け出して、ホテルを後にする。
『ありがとうございました』のメッセージを残して……
◇◇◇
自宅で母の女の姿を見てしまった日から、なぜか母が頻繁に自宅にいるようになった。しかもあの日以来、男性を連れ込むこともない。それどころか、男性の気配すら感じない。
何があったのか聞きたいような、でも知らない方がいいような……
顔を合わせても特に会話をする訳でもない。今まで母の不在が当たり前だったから違和感がある。
でもあの日、彼が私に大人の経験をさせてくれたことで、不思議と母への嫌悪感がなくなった。
自分の中で大きな変化を迎えた私に、更なる試練が襲いかかる。
「き、気持ち悪い……」
最近体調が優れないのだ。吐き気とダルさに見舞われている。学校から帰ってリビングのソファで動けなくなっていると、外出から帰ってきた母に声を掛けられた。
「どうしたの? 顔色が悪いわよ」
「え……?」
母親らしい言葉を掛けられた記憶がほとんどないので、突然のことに戸惑う。
「熱は?」
「……」
今までの関係が嘘のように、違和感なくおでこに手を当てられた。
「なさそうね?」
「……うん。ずっと気持ちが悪くて」
「他に症状は?」
「ダルさと、食べ物の匂いが気持ち悪い」
「……ねえ、花。妊娠してる可能性は?」
「……え?」
妊娠のワードよりも、名前を呼ばれたことに驚いた。花って言った? 私の名前を知ってたんだ。それほどまでに、親子関係は成立していない。
そして、母の言葉がじわじわと私の中へと入っていく。すぐに天使の彼が浮かんだけれど、避妊してくれてた気がする。絶対に大丈夫なわけでないことはわかっているけど、それが自分の身に起こるとは夢にも思っていなかった。
「心当たりがないわけでも、なさそうね」
「……」
もし本当に妊娠してるなら産みたい。なんて、思う私を世間は許してくれるのだろうか。世間よりも先ずは目の前の母の反応が気になる。
「産みたい……」
無意識に言葉が溢れた。
「……いいんじゃない?」
「……え?」
「何驚いてるの? 産めばいいじゃない」
あっさりと肯定する母の顔を思わず凝視してしまう。
「何よ」
「だって……。お母さん、子供嫌いでしょ?」
「はあ? 別に?」
「ええ……」
話が噛み合っていない。育児放棄と言われるレベルまで、私を放ったらかしにしていたではないか。
「嫌いだと思ったことないわ」
「私のこと、嫌いでしょ?」
「何のこと?」
18年間生きてきて、こんなに会話するのは初めてだ。この際だから、正面から向き合ってみようと思う。
「いつも家にいなかったじゃない」
「仕事してるんだから当たり前でしょう?」
「仕事してても、普通は帰って来るでしょう」
「帰ってきてたでしょ」
「お金だけ置きにね」
「そんなつもりなかったわ。年頃だし、口出されるの嫌じゃないの?」
「そんな最近の話じゃなくて」
「母が生きてた頃は、勘当同然で帰ってくるなって言われてたから……」
「……」
そんな話は聞いたことがなかった。でも今思えば祖母は厳しい人だったから、私の知らないところで母と何かあったのかもしれないと、今だから思える。
「ねえ、私のことどう思ってる?」
とうとう、今まで避けていた質問が口を付いて出た。
「私の可愛い娘だけど」
「!?!?」
あまりの衝撃に、頭が真っ白になる。今まで私が見てきた世界は幻だったのか。全く予想だにしなかった展開が待っていた。
ずっと一方的に、嫌われていると思い込んでいた。よく考えたら、知ろうとしたこともない。母がどんな仕事をしているかさえ知らなかった。そんなはずないだろうと思われるかもしれないけど、それほどまでにすれ違っていたのだ。
「お母さんは何の仕事してるの?」
「はい?」
何を今さらという顔をされも、興味がなかったのだからしょうがない。
「看護師だけど……」
「……」
実は勝手に夜の仕事だと思っていた。まさかの看護師で夜勤をしていたのだとは想像すらしたことがなかった。
いつも母のせいにしてきたけど、私が子供だっただけだと、今さらながらに気づかされる。
私自身が母を知ろうとしていなかった。
こうして、私と母のすれ違いに突然幕を下ろした。
◇◇◇
「ママ~」
「遼!」
幼稚園バスから降りてくる天使。そう、あの時の子。
母に、娘と子供の面倒くらい見る甲斐性はあると宣言されて、母に甘えて出産した。
今はパートで働いていて、遼がもう少し大きくなったら、正社員では働くつもり。
妊娠が発覚して産むと決意した後、何度かあのビルを訪れた。彼に会えるかもしれないと……
でも、現実には会えることなく終わってしまった。
今でも、彼は実在しない天使だったんじゃないかと思ってしまう。
あの日彼と出会ったから、今私は生きている。
そして、遼というかけがえのない存在を授かったのだ。
一夜の奇跡が、私を大人にしてくれたのだ。
日増しに彼に似てくるわが子が、あの日の出来事が現実なんだと教えてくれる。
甘くも切ない思い出――